100題 - No71 |
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初めて会い、その名を聞いた時、俺は我が耳を疑った。 思わず聞き返した程だ。 しかしそれは聞き間違いではなかった。 目の前に立つ男は、柔和な笑顔を浮かべて、静かに拱手し、こう名乗った。 「趙子龍と申します」 と―――。 最初はその外見の柔らかさと、武人としては非常に細身の体躯に驚いた。 にこにこと柔和な笑顔を称えた男が、かの長坂の英雄だとは信じがたかった。 もっと厳しく、猛々しい男だとばかり思っていたからだ。 とても英雄どころか、武人にも見えない。 そんな正直な感想を俺が述べれば、彼は怒るどころかおかしそうに笑った。 良くそう言われるのだと。 それが最初の出会いだった―――。 血塗れた夢は、今宵もまた俺を苛む。 父や弟達、妻と子。 幸せだったあの時の情景が、突然朱色に染まる。 立っているのは自分だけで、みな地に伏し倒れている。 俺の全身は赤く、手には同じ色に塗れた剣を手にしていた。 肉を断つ、生々しい感覚がそこには残っている。 ―――俺が殺した…? 心の内に問い掛けると、どこからともなく声が響くのだ。 ―――そうだ、お前が殺したのだ。 と。 何度も繰り返される。 低く暗い、恨みの篭った俺を苛む声。 声にならぬ叫びを上げて、俺は現実に引き戻される―――。 目を覚ますと同時に、反射的に俺は身を起こす。 嫌な汗が全身を濡らしていて、酷く気持ち悪い。 昂ぶる神経を落ち着かせようと、何度も大きく呼吸を繰り返した。 「大丈夫か……?」 気遣わしげに掛けられる声と同時に、そっと背中を撫でられる。 労わるように優しく。 傍らへと視線をずらせば、薄闇の中、月明かりに照らされた趙雲の眼差しとぶつかる。 漆黒の瞳は心配そうにじっと俺を見つめていた。 俺が跳ね起きた理由が何たるかを趙雲は分かっているのだ。 俺は何も答えることなく、趙雲を引き寄せる。 趙雲は抗うことなく、俺の背に腕を廻し、先程同様にそこをあやす様に撫でる。 互いに何も身に纏ってはいない分、彼の温もりをより直接的に感じられる。 最初見たときは武人らしからぬ痩せた男だと思ったが、その全身は細身ながらしっかりと筋肉に覆われている。 女のように柔らかな肌でもない。 だが、こうして趙雲を抱きしめていると、何故だか落ち着くのだ。 とても安らげる。 しかし、それを口に出したことは一度もない。 身体を重ねるまでの関係になった今でも、趙雲に俺の気持ちを伝えたことはなかった。 それは俺自身が答えを出せずにいたからだ。 ただ欲を散らせるだけの、戯れのようなものなのか。 それとも特別に想っているのか。 未だに趙雲に対する感情について深く考えることを避けていた。 俺は趙雲のことを―――。 そこまで考えて、俺は微かに首を振った。 やはり心の奥にある趙雲への気持ちをはっきりと自覚したくない。 特別で大切な存在をもう二度と作りたくはなかった。 それは失ってしまうのが怖いから。 一族を失った時のような悲しみや憤り、そして虚しさ―――あのやり場のない想いを再び繰り返すのは御免だ。 今なお過去は俺を捕えて離さないというに。 これ以上、傷を広げたくはないのだ。 それが俺の心に塀を廻らせ、本心に踏み込ませないとする。 にも係らず、俺は趙雲を手放せない。 安らぎを与え、寂しさを埋めてくれる彼を。 己の心を突き詰めてみれば、趙雲との関係は単なる戯れだという結論に達するかもしれぬのに。 曖昧なまま、俺は趙雲との関係を続けていた。 卑怯で臆病だという自覚はある。 趙雲を傷付けているだろうことも。 だが趙雲は何も言わない。 俺が自分のことをどう思っているのかと聞いてくることも今まで一度もなかった。 ただいつも優しく俺を見守り、抱き締めてくれる。 趙雲は常に柔らかな笑顔を絶やさない。 普段の物腰も荒々しさとは無縁で、とても穏やかだ。 それらが武人らしからぬ彼の雰囲気に拍車を掛けているのは明白だった。 趙雲が怒ったり、声を荒げている所など俺は今まで見たことがなかった。 それは付き合いの長い張飛も同じなのだと、何かの席で聞いたことがある。 そんな趙雲から想いを告げられるとはまさか思ってもみなかった―――。 あれは、ある日の昼下がりだった。 執務室に篭って諸々の書簡に目を通していたが、それに気詰まりを感じて外へと抜け出した。 岱からは後程盛大にお説教を喰らうことになるだろうが、元々内務的なことは好きではない。 ましてこのように気持ちの良い晴天の午後は。 俺は馬を走らせ、森を抜けた先にある小高い丘へと登った。 蜀に降って間もなくたった頃、見つけた場所だった。 城からも離れ、鬱蒼とした森の先にあるせいか、人気はない。 だからこそ俺はその場所が気に入ったのだ。 一人でぼんやりと時に身を浸すには最適だ。 ここを見付けて以来、俺は今日のようにふらりとここまでやって来ることが多々あった。 ごろりと俺は大きな木の根元で横になる。 そのまま手を頭の後ろで組み、それを枕に俺は目を閉じた。 時折拭く風と柔らかな日差しが心地良い。 今この時だけは過去の柵も、現在の立場も―――何もかもを忘れられる気がする。 どれくらいの時間、そうしていただろうか。 ふと人の気配を感じて、俺は目を開く。 寝転んだ俺を、上から覗き込む男がいた。 柔和な笑顔を湛えたその男は―――。 「趙雲……」 俺はその男の名を呟くと、ゆっくりと身を起こす。 蜀に降って以来、なにかれとなく俺や岱のことを気に掛けてくれたのは、この趙雲だった。 無駄に誰かと衝突するようなこともなかったが、積極的に他人と係り合おうとしない俺の元へ、趙雲はよく足を運んできた。 彼の持つ柔らかな雰囲気故か、不思議と押し付けがましさはまるで感じない。 だからか鬱陶しいとか余計なお節介だというような反発心を、彼に抱くことはなかった。 「馬岱殿が貴殿の事を探しておられたよ」 趙雲はそう言って俺の隣に腰を降ろす。 俺を連れ戻して来て欲しいとでも岱に頼まれたのだろうか。 執務を放り出してきたのだ。 流石に趙雲も俺に説教の一つでもするのだとうと、俺は軽く溜息を吐く。 だが趙雲はそうはしなかった。 そのまま先程まで俺がしていたように、その場で横になったのだ。 予想外の行動に驚く俺を尻目に、 「ずるいなぁ……」 そう趙雲は呟きを漏らすのだ。 一体何がずるいというのだろう。 意味も分からず口を噤んだままの俺を、趙雲は横目で見遣ってくすりと笑う。 「こんなに良い場所を独り占めにするとは、ずるいじゃないか、馬超殿。 風や陽の光、草の匂いがとても気持ち良いな。 昼寝するには最適だ」 大きく深呼吸を繰り返しながら、趙雲は目を瞑る。 「俺を探しに来たんじゃないか? 城を抜け出して来たこと、岱から聞いたんだろう?」 「あぁ、聞いたよ。 でも我々が少々執務をさぼった所で、この国が立ち行かなくなる訳ではないだろう。 こうして偶には息抜きするのも悪くない……後でお小言を喰らうのさえ我慢すればな。 馬超殿さえ構わなければ、私も少しここで休ませて貰っても構わないだろうか?」 変わった男だと思う。 だが嫌ではない。 趙雲が傍に居てもごく自然体で居られるのだ。 俺は膝を立てて、風に揺れる木の葉音にぼんやりと耳を傾ける。 しばらくして、ふと視線を感じた。 隣で横たわり目を閉じていた趙雲が、いつの間にか目を開き、俺の方をじっと見つめていたのだ。 「どうした?」 いつになく真剣な眼差しに、俺は首を傾げる。 すると趙雲はふっと微笑んだ。 「好きなんだよ」 さらりと、けれど唐突に発せられた言葉に、俺は目を瞠る。 それはどういう意味だろう。 俺の心の内を読み取ったのか、趙雲は続けた。 「貴殿のことを特別な意味合いで好きなんだ。 いつの間にか目が離せなくなっていた……馬超殿の傍にいたいと思った。 とても好きになってしまっていた」 俺は呆然と趙雲を見る。 そんな人の心を試すような冗談を言う男でないことは知っている。 まさか趙雲が俺に想いを寄せていたなど考えてもみなかった。 突然のことに俺は口を開けずにいた。 趙雲もまた何も言わないまま、しばしの沈黙が流れた。 先にそれを破ったのは趙雲だった。 「いきなりで驚かせてしまったな……すまない」 照れたように笑って、再び趙雲は目を閉じた。 俺はただそんな趙雲を見つめることしか出来なかった―――。 <「鮮やかに」に続く> written by y.tatibana 2005.11.06 |
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