100題 - No61 注:この小説は100題「たわむれ」の続きです。 |
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身体の関係を持ちながら、趙雲のことを恋人ではないと言い切った馬超。 そして涙を流す趙雲。 姜維の中でそれはひとつの線となって繋がった。 恐らく趙雲は馬超のその言葉を聞いてしまったのだ。 趙雲にとってそれは酷く衝撃的だったのだろう。 馬超のことを真剣に想っていたのは自分だけだったのかと。 馬超にとってはただ欲を散らす為だけの存在だったと知って。 趙雲の気持ちを思うと、姜維は胸が痛む。 と同時に、馬超に対する怒りが沸々と湧き上がる。 「……見損ないましたよ、馬将軍! 確かに横柄で口は悪いし、職務もすぐさぼるとんでもない方だとは思っていましたが、まさかそこまでどうしようもない人間だったとは……。 最低です!!」 そのまま姜維はその怒りを馬超へと叩き付けた。 文字通り、己の平手でもって。 ―――ばちーんっ! と乾いた音が回廊に響き渡った。 怒りで顔を紅潮させた姜維の瞳がみるみる潤んでいき、それがとうとう堰を切った時、姜維は泣き顔を見られまいとして慌ててその場から走り去った。 後に残されたのは、呆然と姜維に殴られた頬を押さえる馬超と、そして馬超同様酷く驚いた様子の趙雲だった。 「……俺…あいつに何かしたか?」 ようやく我を取り戻したらしい、馬超が呟く。 もちろん涙を流す趙雲に向けて。 趙雲は何度か目を擦るが、それでも涙は止まらない。 「……お前と伯約との会話、最後の方しか聞こえはしなかったが―――そこから察するに、恐らく激しく勘違いしているようだな」 流す涙とは裏腹に、趙雲は至って普通の口調である。 嗚咽を漏らすでもなく、涙さえなければ平素と何一つ変わらない。 その趙雲の涙を見て、馬超もようやく合点がいった。 先程までは姜維の影になっていて、趙雲の顔がよく見えなかったのだ。 「そういうことか……。 お前、間が悪過ぎ。 何で泣いてるんだよ?まさか本当に俺の言葉に……」 「そんな訳あるか。 目に砂が入ったみたいで、なかなか痛みが取れんのだ。 で、裏の井戸に目を漱ぎに行こうとしたら、お前達がここに立ちふさがってたんだろうが」 それを聞いて馬超はそんなことだと思ったと溜息をつく。 姜維に平手打ちされた頬は熱を帯びてきて、じんじんと痛む。 さぞや赤く腫れているのであろう己の顔を想像し、馬超はまた溜息を落とすのだった。 「殴られた上に、さり気に酷いこと言われたような気もするんだが……」 「横柄で口が悪くて…云々ってやつか。 別に間違ってないだろう」 おかしそうに笑いながら、趙雲はしきりに目を擦る。 馬超は趙雲の手を取りそれを遮ると、趙雲の目を見てやる。 「あまり手で擦るなよ、酷くなっても知らんぞ。 ……って、あぁ、だいぶ赤くなっている。 目元も腫れてるし」 事情を知らぬ人間が見たら本当に泣き腫らしている様にしか見えないだろう。 そして傍には頬を赤く腫らした別の男。 まるで派手な痴話喧嘩の最中のようだ。 趙雲も同様のことを思ったのだろうか。 互いに顔を見合わせ、苦笑する。 「これ以上在らぬ誤解を受けぬうちに、退散するか。 裏の井戸に行くんだろう? 俺も頬を冷やしたい」 「本当に思い切り殴られてたな。 ものすごい音がしたぞ」 「笑い事じゃない、殴られた俺の身にもなってみろ……まったく」 ぶつぶつと不平を漏らしながら歩き出した馬超に、趙雲も追従する。 「あの真っ直ぐな所が伯約の良い所なのだが、もう少し的確に状況を判断するということを覚えてくれればな」 「全くだ。 師匠の教育が悪いんじゃないのか」 と、馬超がぼやいた所で、 「私が何か?」 そう静かな声が割り込んできた。 ぎょっとした風に馬超が顔を歪める。 脇の部屋から機を計ったかのように諸葛亮が出てきたのだ。 諸葛亮は涼しげな表情で馬超と趙雲を交互に見比べると、小さく笑った。 「派手な痴話喧嘩をなされたようですね」 「違う! これは……」 馬超の言葉を、諸葛亮は「冗談ですよ」と遮る。 「先ほど伯約と会いましたら。 酷く憤慨して泣いておりましたし、彼もはっきりと原因を話してくれた訳でもないのですが……凡その検討はつきます。 伯約がご迷惑をお掛けしたようで申し訳ありませんでした」 とは言うものの、申し訳ないと思っているようには全く見えないのが諸葛亮なのであるが。 「次の戦、あなた方に出陣をお願いする予定なのですが、伯約も共に連れて行って下さい。 そこからきっと自分にとってこれから何が必要かを彼自身が感じ取ってくれると思うのです。 あなた方の関係のこともね。 身をもって知ることが一番ですから」 そして―――。 その言葉通り、賊の討伐に向かうことになった馬超と趙雲に付き従うよう姜維が命じられたのは、それからすぐのことだった。 行軍の中、将として兵を率いる趙雲の傍らに姜維はいた。 あの出来事があってから、まともに趙雲とも馬超とも話していない。 あの後すぐに出陣するようにとの命令が下り、その準備に追われていたせいでもあったし、またただ気まずかったというのもある。 趙雲の気持ちを踏みにじった馬超のことは許せない。 対する趙雲にもどういう言葉を掛ければ良いのか見つからないのだ。 ちらちらと盗み見るように趙雲の様子を伺うが、その姿は威風堂堂としていて、何ら気落ちしているようではない。 周りに悟られまいとして随分無理をしているのだろうか。 けれどそれを根掘り葉掘り聞くわけにもいかず、姜維は悶々と頭を悩ませていた。 「どうした、伯約? 言いたい事があるのなら声に出さねば分からんぞ」 姜維がこちらを気にしていることに趙雲は気付いていたようだ。 視線を姜維へと投げ掛けてくる。 「あっ……いえ、何でも」 慌てて姜維は首を振る。 「嘘を吐くな。 先ほどから私の様子を何度も伺っていただろう?」 「!! ……すみません。 趙将軍のお気持ちを考えますと、えーと……なんと申し上げればよいのか…」 口篭る姜維に、趙雲はくくっ……と堪えきれないように笑い出す。 姜維は予想外の反応に目を瞠る。 自分は何か可笑しなことを言ったのだろうか。 それとも自分如き青二才に慰められるなど、馬鹿馬鹿しくて笑っているのだろうか。 姜維の戸惑いを察した趙雲は笑いを収めた。 「あぁ…いや悪い。 私のことを気遣ってくれるのは大変嬉しいのだが、どうにもお前は誤解しているようなんでな。 あの日の孟起の言葉に私が酷く傷付いたと思っているんだろう?」 「勿論です! 想い人にあんな台詞を言われて、傷付かない人間なんていないでしょう? どこをどう誤解するというのです? あんな酷い人のことはさっさとお忘れになった方が趙将軍のためです!」 姜維の槍玉に上っている馬超はここにはいない。 別働隊として少人数だけを率いて、趙雲達よりさらに険しい山の道のりを進んでいる。 高が盗賊とあなどることなかれ。 討伐に向かっている賊は短期間の間で大きく人数を膨れ上がらせてきた。 ただのならず者の集まりというのではなく、見事に統制がとれており、辺境に配備された兵達では太刀打ちできなかったのだ。 余程頭の切れる者が上に立っているのだろうというのが諸葛亮始め諸将の考えだった。 そこで討伐の任を受けたのが馬超と趙雲である。 今回の作戦では馬超率いる小隊が、盗賊達の根城の背後に気付かれぬように回り込む。 そして盗賊の頭目を討つ。 そうすれば混乱した賊達はただの烏合の衆に成り果てるだろうと。 そうなってしまえば後は馬超や趙雲にとっては易いことだ。 だがそうは簡単に頭領の首は取れぬだろう。 多くの人間が根城の周りに集結しているのだ。 そこでその守りを薄くする為に、趙雲率いる部隊が正面から挑み、敵をおびき寄せるのだ。 趙雲たちが本隊であると思わせ、馬超が背後に控えることを決して悟られてはならない。 狭い桟道での戦いになる。 地の利がある分、敵の方が有利だ。 だが趙雲は持ち堪えねばならないのだ。 出来る限り敵の注意を引き付け、そして馬超が首領の首を挙げるまでは。 もし馬超が失敗したり、もしくは逃げ出したりでもすれば、趙雲の命もそこで尽きる。 逆に、趙雲が持ち堪えられなければ、敵は大群でもって根城に踵を返し、そうなれば小隊の馬超はひとたまりもないだろう。 互いにそれぞれの命運を握っているのだ。 「それなのに、今回のような作戦を馬超殿となされるとは…。 また裏切られるのかもしれないのですよ! そうなれば今度は涙を流す所の問題ではない。 ―――私には信じられません!」 姜維はそう言って馬超への不信を露にする。 だが趙雲はやれやれとばかりに軽く息を吐く。 「だからそれはお前の勘違いだ。 確かに私が孟起のことを恋人だと想っていたのなら、お前の言うことも尤もなのだろうが……。 私はあいつのことを一度も愛しいなどと想ったことはないぞ」 「えっ!?」 思ってもみなかった趙雲の言葉。 姜維はただただ驚愕する。 「私もまた孟起のことを恋人だと思ってはいないということだ。 恋人にするならあのような傍若無人な男より、穏やかで優しい女人の方が良いに決まっている。 あいつが恋人などと勘弁してくれ」 心底嫌そうに言う趙雲に姜維は目を白黒させる。 ますますもって意味が分からない。 「で…ですが、趙将軍、泣いていらしたではないですか……!?」 「あー、あれな。 ただ目に砂が入っていただけだったのだが、説明する暇もなくお前があいつを派手に殴りつけて走り去ってしまったんだろ」 「えぇーっ!?」 一瞬趙雲が自分を気遣って本心を隠しているのではという考えが頭を過ぎる。 だが傍らの趙雲は実にさばさばとしていて、とても嘘を言っているようには見えない。 つまり―――全ては自分の勘違いだったというのか。 「では一体、趙将軍は馬将軍のことを別段何とも想っていらっしゃらないと……」 するときっぱり趙雲が首を振った。 「それは違う。 私は孟起のことを大切に想っている。 何者にも代え難い、私にとって一番に信頼の置ける友として。 そこに愛だとか恋だとかそういった感情は一切ないがな。 あいつだから安心して命を預けられる。 孟起のような男を友に持てたことは私にとっての誇りだ」 それを聞いても姜維にはまだ釈然としないものがある。 趙雲の邸で酔いつぶれた夜、確かに見たのだ。 馬超と趙雲が身体を重ねている所を。 それに対して返ってきた趙雲の答えは、至極あっさりしたものだった。 「あんなのは、一緒に酒を飲んだり、会話をしたりするのと何ら変わらんことだ。 特別な意味などない。 女人相手ではないのだ―――何も気遣うことなく互いに欲を散らせるのだからな。 特に酒を飲んだ後はどうにもああなることが多くてな」 呆気に取られる姜維を他所に、趙雲の視線がさっと前方へと向けられた。 砂埃を上げて、こちらに向かってくる一団がある。 その表情が途端に真剣みを帯びる。 厳しいその横顔は姜維が見慣れた穏やかさは微塵もなく、正に武将としての趙雲の顔だった。 「お喋りはここまでだ、伯約。 どうやら、敵がお出でなさったらしい。 何としてでも孟起が敵の頭を潰すまで持ち堪えるぞ」 槍を持つ手に力を込め、趙雲はいち早く馬を駆けだした。 それに部隊の兵達が続いていく。 姜維もその後を慌てて追った。 敵は姜維の予想を遥かに越え、強かった。 山での戦いに長けた賊達は巧みにこちらを翻弄してくる。 押されていることは火を見るより明らかだった。 だが一向に敵の首領が討たれたという知らせはない。 姜維の焦りは強くなる。 まだ馬超は作戦を遂行できずにいるのかと。 それとも―――もしかして逆に敵に討たれてしまったのではないだろうかと……最悪の考えも頭を過ぎる。 副将にと選んだ人物に裏切られ、敗走したこの前の戦のことが同時に思い出される。 またあの繰り返しになるのではないかと。 そんな中でも趙雲はさして焦る様子も、追い詰められたようでもなく、向かってくる敵を槍で凪ぐ。 瞳にも強い光が宿ったままだ。 「趙将軍! これ以上ここに留まるのは危険です。 残念ですが馬将軍は失敗されたのでは―――」 姜維と同じことを考えた兵が居たようで、趙雲にそう進言する。 「ふざけるな!! あいつは絶対に負けはせん! 私が今退いて如何する!? 余計なことを考える暇があるのなら、敵を一人でも多く倒せ!」 力強いその言葉。 ただの一片も馬超がしくじる事など考えてはいない。 そこにあるのは揺るぎのない馬超への信頼。 馬超のことを自分の「誇り」だと言い切った趙雲の言葉に嘘はないのだろう。 恐らくそれは馬超の方も同じなのだろうと自然と思える。 ふと姜維の頭に戦に立つ前に諸葛亮が告げた言葉が甦る。 「あなたにとってこれから何が必要なのかを、見つけてきて下さい」 と。 その時は意味などさっぱり分からなかった。 しかし今ならば分かる気がする。 命を預け、そして預けられるようなそんな関係。 何があろうとも信じあえる―――そんな存在が傍らにあったなら……。 もっともっと強くなれる。 振り返ることなく進んでいけるだろう。 趙雲の揺ぎ無い瞳を見ていると、自然とそう思える。 今の自分に足りないもの。 それは冷静さであったり、経験であったり……様々あるだろう。 けれど一番足りないのは、心の底から信じることの出来る存在。 心の奥底ではずっと信じられるのは自分しかいないと思っていた。 先の戦で副将だった男の裏切りを招いたのは、そんな自分の本心が隠していたつもりでも相手に伝わっていたからなのかもしれない。 自分のことを心底信じてはくれぬ相手のことをどうして信じることができるだろう。 まずは自分が信じることから始めなければだめなのだ。 「見ろ、伯約!」 趙雲が見上げるその視線の先。 山の頂近くからもくもくと煙が立ち昇っている。 そこは馬超が向かった山賊の根城の辺りだ。 馬超が頭目を討ったのなら、趙雲達への合図としてそこを燃やす算段になっていた。 「お前達の頭は死んだ。 今燃えているのはお前達の根城だ」 趙雲の言葉に賊達は一気に浮き足立った。 煙が上っている位置からして、趙雲の言った通りそこは自分達の根城としか考えられなかったのだ。 自棄になり向かってくる者もあれば、我先にと逃走する者もいる。 敵方は混乱を極めていた。 こうなってしまえばあとは容易いものだった。 そうして、無事に戦いは終わった。 その後の酒宴の席で、ようやく姜維は馬超に詫びることが叶った。 馬超の元に足を進めた姜維は、深々と頭を下げる。 「本当に申し訳ありませんでした! その……勝手に誤解して、思い切り殴ってしまいまして」 「もう構わんさ。 過ぎたことだ」 姜維は最悪殴られることを覚悟していたのだが、随分あっさりと馬超は姜維の謝罪を受け入れた。 恐る恐る顔を上げるが、そこにはいつも通り人の悪い笑みを浮かべた馬超がいる。 怒っている様子など全く感じ取れない。 それを見て、今度こそ姜維はほっと胸を撫で下ろすのだった。 ―――なんと懐の広い人だろう。 馬超に対する認識を改めなければならないと姜維は感じ入る。 本当に如何しようもない人かと思っていたのだが、人を上辺だけで決して判断してはいけないのだ。 「さ、あのことはもう良いから、お前も一杯飲め」 馬超は姜維へと杯を差し出す。 それを姜維が受け取ると、そこに馬超が酒を注いでくれる。 「いただきます」 姜維がそれを口元に運ぶのと同時に、馬超は隣に座る趙雲へと視線を移す。 「そう言えば、子龍。 伯約が是非ともお前のことを抱きたいらしいぞ」 「―――っ!?」 口に含んでいた酒を、その瞬間姜維はぶっと盛大に吐き出した。 咽て思い切り咳き込む姜維を、馬超は笑いを噛み殺して見ている。 「な……な……なんてことをおっしゃるのですかー!!」 「何ってお前が俺に言ったことだろ。 趙将軍を抱くってな」 回廊で馬超に出会ったあの日。 確かに姜維はそのようなことを言った。 だが、あれは売り言葉に買い言葉だったのだ。 馬超に挑発されているような気になって、つい口をついて出たのだ。 そんなことは馬超にも分かりきっている筈だ。 だが姜維ははっとした。 これこそが馬超の仕返しなのだと。 「そうか、ならばお相手願おうか、伯約。 宴の後、私の邸に来ると良い。 お手柔らかに頼むよ」 趙雲までそんなことを言い出すものだから、姜維は顔といわず、全身がもう赤く染まっていく。 「良かったな、伯約。 そういうことも覚えておいて損はないと思うぞ。 しっかり子龍に教えて貰うと良い。 流石に丞相から学ぶ訳にもいかんだろう」 更に追い討ちを掛けられ、姜維の思考は停止寸前だ。 ぱくぱくと魚の様に口を動かすだけで、言葉にならない。 そんな姜維を見て、二人は盛大に笑い声を上げた。 そこで自分がまたからかわれているのだと知り、姜維の羞恥は怒りに変わった。 だが自分が何を言ったところで、この二人はびくともしないのだろう。 だから……。 ―――前言撤回! やはり馬将軍はろくでなしのどうしようもない人だー! そんな人と対等に渡り合っている趙将軍も同類だー!! 己の胸の中で悔しさをぶつけるように叫ぶ姜維なのだった。 written by y.tatibana 2005.01.30 |
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