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ジェイ・デイヴィット・ボルター『ライティング スペース』


日比 嘉高
『国文学 解釈と教材の研究』第48巻10号、2003年8月号、pp.80-82


 みなさんは最近『国文学年鑑』を引いているだろうか? 私が『国文学年鑑』を使うことを覚えたのは学部生の時だった。作家名順に整理された冊子体の分厚い本を、うんざりしながらめくったものだ。大学院に入ってしばらくしてから、どうやらパソコンを使って検索できるらしいと聞きつけ、利用申請をした。当時は有料で、しかもインターフェースはTelnetという、コマンドを文字で打ち込んで通信する方式だった。その後、ようやく検索はWWWを使って行えるようになった。

 日本文学研究を取り囲む環境は、この一〇年である部分において劇的に変化している。大学図書館の蔵書および古書目録の全国規模での横断検索、CD−ROMなどで配布される新聞・雑誌のデジタル的な復刻、コピー機の大学図書館への普及、ワープロ、パソコンによる執筆・資料作成環境、そして最近衝撃的だった国会図書館の「近代デジタルライブラリー」の公開。素晴らしい利便性の向上だ。だが、果たしてそれだけだろうか。こうした変化は、もしかしたら知らず知らずのうちに、研究者のメンタリティや研究のあり方にまで影響を与えていないだろうか。本書、ジェイ・デイヴィット・ボルター『ライティング スペース──電子テキスト時代のエクリチュール──』は、こうしたテクノロジーの進歩と人間の心や社会の変化との関係を考えるためのヒントを与えてくれる。

 『ライティング スペース』は、テクノロジーとインターフェースの大きな転換期に書かれた、一つの代表的書物である。原著は一九九一年に出版され、一九九四年に日本語訳が出た。扱われる話題は、「新たなライティング・スペースとしてのコンピュータ」「電子書籍」「インタラクテイヴなフィクション」「人工知能」「精神を書く」「文化を書く」などといった章立てが並ぶことからもわかるように幅広い。全14章にわたる内容を簡単にまとめるならば、口承、パピルス、手書き写本、活字印刷などのライティング・スペースの歴史をたどりつつ、それとの比較をもとにデジタル化された書記空間の姿を捉え、未来を予見しようとしたもの、と言えるだろう。

 ボルターがコンピュータによるライティングに見い出した特徴は、その構造の「トポグラフィック」な側面であり、アルファベットで書かれたテキスト(抽象的な様式)と絵文字や図像(直観的な様式)とを混在させることができるという面であった。トポグラフィック・ライティングとは「テキストを一まとまりのトピックに分割し、そうしたユニットを相互に結合した構造に組織し」「このテキスト構造を言語的に把握するのと同じように空間的にも把握する」(42-43頁)といった形態を指している。ツリー状ではなく、文章と画像、引用などが網目状に複雑に入り組んだ構造をとっているウェブサイトなどをイメージするとわかりやすいかも知れない。後者の、テキストと図像の混在というのも、同じイメージで押さえられるだろう。

 ただし残念ながら、現在の目から見れば、ボルターの発想には限界があったことも事実だ。典型的な引用をしよう。「最も急進的な理論家たち(バルト、ド・マン、デリダとそのアメリカでの追随者)はびっくりするくらい電子的ライティングにぴったりの言葉を話している」(283頁)。つまりボルターは、デジタル・ライティングを説明するとき、ポストモダン批評理論を借り受けているのである。デジタル・ライティング・スペースを語る新しい言葉を編み出したわけではなかったのだ。

 いま、この本から我々が読みとるべきヒントは、別のところにある。この本は電子テキスト論としてではなく、タイトルどおり、コンピュータ時代の「ライティング・スペース」論、つまり書き読まれる空間のデジタル的な構成をいかに思考するか、という問題提起の書として読まれねばならない。人は書く時、書かれるものにいかに規定されるか。人は読む時、読むものにいかに規定されるか。その物質的な側面を考える必要性をボルターは説いているのである。だが、その具体的姿は十分には見えているとはいえない。ボルターの問題意識を引き継ぎながら、我々は何をどう考えていったらいいだろうか。

 本誌『國文學』に関係する領域で考えてみよう。たとえば、近代文学研究でいわゆる「テクスト論」の後に現れた一種の「資料派」ともいうべき大量の同時代資料を引用して論文を書く人々がいる。文化研究と呼ばれることもあるこの潮流は、M・フーコーやアナール派、新歴史主義、カルチュラル・スタディーズの影響と普通考えられている。だが、見逃すべきでないのは、こうした研究はここ十数年で飛躍的に進化した諸テクノロジーによって物質的に支えられているという点である。しかもテクノロジーはたぶんこの種の研究者の発想をも規定している面がある。コピー機もなく、検索システムもない時代に資料を読む作業は、ある資料から次の資料へという線的なものであったと考えられる。いま我々の(と自分も含めておこう)ハードディスクには、大量のメモやコピーがストックされており、論文を書く作業はそれを「貼っていく」作業に近い。自然、資料は羅列的になり、「面」として姿を現すことになる。

 創作に関してはどうだろうか。ライティング・スペースと人間との協働的な創作行為をいかにとらえるか。もちろん、これはデジタル時代に固有の問題ではない。たとえば明治に入って現れた新聞や雑誌という新しいライティング・スペースが、いかに文芸創作の姿を規定し直したかはこれまでの文学研究が追求してきたとおりである。研究は今後、同様の問題を電子テキストとコンピュータネットワークの時代における問題として引き継いでゆくだろう。ひとつ例を挙げれば、膨大な数が生みだされ続けているネット上の小説群──ウェブノベルがある。ウェブノベルは、ウェブページを作る能力さえあれば、だれでも公開できる。「作家」は、自分の好きな時に好きな文章を好きなだけ自分のページに掲載し、あとはウェブノベル用のリンクサイトに告知をするか、あるいは自動で登録すればよい。こうした形態のライテイング・スペースとはいったい何なのか。感覚や質としては同人誌に近い。が、むろんこれは雑誌ではない。現代の文学場の一部を構成する、新しい何かなのだ。

 さらにつけ加えるならば、デジタル技術は資本や権力による管理と、非常に親和的であることも考えに入れておくべきだろう。音楽や映画と同じように、電子メディアへの移行が進むにつれ、今後文学作品の著作権保護も厳格になっていくだろう。そのとき、おそらく我々が読む「テキスト」=ファイルには「本文」に重ねて複雑なコードが埋め込まれ、それが我々の読書を著しく規定するだろう。プリンタからの印刷は回数が制限され、電子メールへの添付も、WWWへのアップロードも、ファイル交換も不可能とされるだろう。さらにはその「テキスト」の購入に際して、ファイルには購入者である我々の個人情報へつながるコードが埋め込まれるかも知れない。万一ネット上に流出した場合、追跡できるように、である。しかも、その購入行動は売り手によって十全に追跡され、購入者がいつ何をどこで読み、その前に何を読み、次はこれを読むだろうということまで検証されるだろう(これらは部分的にすでにネット書店アマゾンなどが実現している)。電子テキストに関して言えば、我々はもう匿名の読者ではいられない可能性がある。読書が、史上もっとも管理される時代が来ようとしているのかもしれないのだ。

 デジタル時代のライティング・スペースは現代の文学場をどのように形成していくのか。興味深く、そして少々疑い深く、注視するべきだろう。



著者紹介 一九五一〜 。ジョージア工科大学教授。現在の関心は「言語的視覚的コミュニケーションの新しいメディアとしてのコンピュータ」という(http://www.lcc.gatech.edu/~bolter/)。近著にRichard Grusinとの共著Remediation: Understanding New Media(1999)。

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*(電子書籍・電子テキストに関わる最も充実したリンク集。書店、ウェブノベル、ウェブ日記、フォント・文字コード、雑誌記事の紹介など)

『CODE──インターネットの合法・違法・プライバシー』ローレンス・レッシグ、翔泳社、二〇〇一年三月
*(コードのアーキテクチャと法、自由、プライバシーの問題を考えるのに必読の一冊。あわせて東浩紀「情報自由論」(『中央公論』二〇〇二年七月〜 連載中)も)

『メディアの中の読書──読書論の現在──』和田敦彦、ひつじ書房、二〇〇二年五月
*(近代文学研究を足場にしながら、ビデオゲームなどデジタルメディアも含む広範囲の読者論を展開する。膨大な参照文献を含み、レファレンスとしても役に立つ一冊)