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紅野謙介著『投機としての文学──活字・懸賞・メディア──』


日比 嘉高
書評、東京大学国語国文学会、『国語と国文学』2004年3月号、pp.68-72


 現在の近代文学研究をリードする研究者の一人、紅野謙介氏の二冊目の単著である。文学を、それを成立させていた諸システムの姿とあわせて記述する方向性──「文化研究」と呼ばれることもある──の、現時点における到達点を示す成果といってよいだろう。近代文学研究の一つの前線がどこにあり、目指されそして乗りこえられるべき水準がどこにあるのか、その代表例として、私はこの『投機としての文学』を挙げるのに躊躇しない。

 三部一五章からなる本書の論述は、おおよそ次のような展開となっている。

 第一部は、懸賞、投書、文芸メディア、教育制度、新聞報道などに着目した、文学とそれを支えた諸システムの分析である。たとえば「中等教育の再編と「国語」教科の成立」の章において、著者は教育制度の整備にともなう未成年層のブロック化を背景に見据えながら、切り分けられた青年たちめがけてなされた教科教育と商業雑誌による顧客化の動きを指摘する。前章「懸賞小説の時代」で論じた投書の機運とこの時期整備されつつあった国語教育、さらには活字メディアの普及という三者の交点に現れた校友会誌という媒体がそこでの主たる検討課題となっている。

 第二部は各論の色彩をもつものであるが、徳田(近松)秋江や夏目漱石、与謝野晶子、内田百閧轤フ活動を、「印象批評」論、史論、雑誌新聞メディアや活字、代作といった角度から鋭く読み直す読み応えのある論文が続く。文学を、作家や作品本文だけでなく、その周囲にあった装置群との関係のもとで読み解こうという著者の態度はここでも生きている。「与謝野晶子における「文学の社会化」」においては、「生活の全部」を取り込もうとする晶子の方針が、菊池寛とは別のコースをたどる「文学の社会化」の可能性であったと評価される。彼女の批評の言説と、第二次『明星』の編集方針、西村伊作らの「生活」の向上を目指す〈文化主義〉的活動への賛助など、彼女の活動を再評価する視点が追跡されていく。

 第三部も各論といってよいが、ここに収められた緒論は、テクストの言葉と向き合う作品論的な傾向をもつものが多い。「物」と「名」との相互的な関係をテキストの緻密な読解から解きほぐした「森鴎外『サフラン』」、レトリックを読み解きながら「慣用句に封じ込められた「体」を多義化して生き返らせること」(338頁)を試みた「徳田秋聲『爛』」などが収められている。

 さて、本書については現時点ですでに七本の書評が出、紹介はつくされている(本論末の書評一覧参照)。屋上屋を架しても仕方がないので、これ以上詳しい内容紹介を行うことは慎み、ここからは拙いながら本書とその周囲の動向をめぐる私の感想めいたものを書くことにさせてもらおう。

 

 最近、近代文学研究では、日付から書き起こされる論文をよく目にするようになった気がする。私自身そうした出だしの論文を書いたことがあるので、ことさらそう感じるのかもしれないが、どうもそれだけではないようにも思う。

 『投機としての文学』を読みはじめたとき、私はこうした印象を新たにせずにはいられなかった。「はじめに」の書き出しは、「第二次大戦下の一九四二(昭和一七)年四月、雑誌『文化組織』に〔…〕」。第一部一章目は「一九一九年(大正八)年五月、雑誌『文章倶楽部』は、〔…〕」。二章目は「一八九〇年代、公立私立の中等学校は〔…〕」。三章目「一九〇六(明治三九)年三月十五日に博文館から創刊された〔…〕」。四章目第一節のタイトルが「一九〇四年の懸賞小説募集」。冒頭から読み進めるかぎり、まさに日付が、この書の書き出しを規定しているといってよいほどだ。

 紅野氏の論にかぎらず、最近のある種の論文がこうした形での書き出しを採用しているのには、それを後押しする志向のようなものが存在していると思う。一つには、そこで語ろうとしている出来事を、歴史的な一点──しかも象徴的一点として語り出そうという志向。もう一つには、なんらかのストーリーとしてそれを語ろうとする志向である。

 もちろん、すぐさまこうした概括には反論が飛んでくるだろう。自分が行おうとしているのは、物語としての大文字の〈歴史〉を解体する作業であり、一つの出来事をことさらに取り上げてみせるのは、むしろそうした流れやストーリーとしての〈歴史〉に亀裂を走らせようとしているからなのだ、と。

 そういった差異化の指向については、私も理解していないわけではない。しかし、それならば〈歴史〉を解体しようとして紡ぎだされるいくつもの小さな歴史が、やはりストーリーを保持したままであるということを、いったいどう考えればよいのだろうか?

 ポストモダニズムの洗礼を受けて以降の近代文学研究は、基本的に合致よりは逸脱を、物語よりは断章を、統合よりは分割を指向してきた。文学および文学史は正典(化)が批判され、単線的な文学史が再審され、統合的な国民国家の文学が見つけだされては解体されてきた。一枚岩のように見られてきた文学は、ジェンダー、セクシュアリティ、民族、階級、読者(層)、世代、出身地、その他あらゆる差異を顕在化させようとする動きによって亀裂を入れられつづけてきたのである。

 ところが一方で、私が関心を持っている明治後半期の領域にかぎってみても、飯田祐子氏による文学空間のジェンダー構成論、和田敦彦氏の読者論など、良質な研究は大文字の〈歴史〉に分割線を入れて再審しつつも、限定的な局面での歴史を構成し直し、語り直してきたように思う。そしてこの紅野氏の『投機としての文学』もまた、大文字の〈文学史〉を検討に付しつつ、局所的には着実な歴史叙述を行っていると言えるのである。

 日付から書き出される論文の増加現象は、こうした流れが勢いを得てきている現れであると見て間違いないだろう。我々はいま、非常な勢いで量産されつつある小さな文学史の渦中にいるわけである。紅野氏の著書を読みながら考えるのは、こうした現在進行形で生産されつつある小さな文学史の数々は、はたして解体なり差異化なりだけを目指して終わりとなるべきものなのだろうか、ということである。カルチュラル・スタディーズとの関連のもとでこの傾向を考えるならば、答えは肯定となるだろう。小さな文学史たちは、どこまでも解体と細分化を目指しつづけるに違いない。しかしもし、小さな文学史といえどやはり歴史でありストーリーであると考えてよいならば、それが語りうるもの、もちうる可能性というものを、もう少し追求してみる必要はないのだろうか。

 一九××年×月──と語り出された論文は、どの論も幅広い資料収集と綿密な分析を重ねて、文学空間の変化を叙述する。この時、論は当然時系列的な整理と変容の追跡をめざす。ストーリーはそこで不可避的に織り込まれる。少し考えてみればわかるように、ストーリーとして以外に、歴史を語る方法が私たちの前にいくらもあるわけではない。たとえば互いに継起性を欠いた断章の連鎖という形式、物語化を注意深く排除した構造の記述、あるいは年表。こうした形式もあるにはある。だが、歴史を認識する方法として、それらが私たち人間の認知形式に適当かどうかは疑問である。年表が有用な場面もあるし、断章の連鎖として歴史を書いてみせることが批評性をもつ場面も当然ある。しかし、事件の継起としてストーリーを物語のように認識することが、私たちの歴史認知の基本形であることは動かないはずだ。とすれば、重要なのは、どのようなストーリーをどのように語るのかということである。

 第T部に議論を限定するが、紅野氏が選んだのは、自立的なものとして考えられる文学空間の誕生というストーリーを、諸装置の登場と駆動、言説の再配置の分析といった角度から物語るという方法である。本書が卓越しているのは、この、装置そのもの(学校、雑誌、懸賞)の記述、装置が作動した時の効果・役割(ブロック化、卓越化、画一化)の記述、そして文学を含む言説の規制力(文学史認識、名をめぐる圧力、言説の日常的実践のレッスン)の記述、の三つを連関させる手腕である。取り上げる課題の適切さ面白さといい、資料への目配りの広さといい、論理の緻密さといい、見事であるというほかない。その点私は高く評価し、学びたいと思っているものである。

 だが、この第T部が、ありえたはずの章相互の有機的なつながりを十分に展開しているかといえば、そうはなっていない、あるいはそうは書かれていないと言えるのではないだろうか。。懸賞、投書、読者→書き手という生産機構、功名心と成功をめざす投機的欲望の形成──第T部を貫く主題群はもちろん容易に読みとれる。しかし私には、紅野氏がこうした主題群を貫いて織りなしうるストーリー=物語を、実はあえて意識的に抑制しているように思えてならない。

 もちろん、一つには本書がもつ論文集という性格もある。個別に発表した論文を、つなげて書き直すことが容易でないことも事実だろう。だがそれだけではなく、氏はみずからのストーリーが連続的に配置されたときにより大きな物語を紡ぎ出し、解体に向かった大文字の〈文学史〉を代替してしまうような大きな歴史を語ってしまうことを、注意深く抑制しているようにもみえるのである。

 これは私の恣意的にすぎる読みかもしれない。しかし前著『書物の近代』、そして本書の各論文の斬新さと面白さを読めば、紅野氏の語る文学の歴史の魅力は明らかだ。言い訳だらけでいたずらに差異だけを言い立てる論文の金太郎飴的話型には、正直言って少々食傷気味である。歴史というストーリーを構成する行為はもっと豊饒な可能性をもっているはずだ。氏の歴史の語り手としての魅力が、より大規模な形で展開された作品を読みたいと思うのはきっと私だけはあるまい。

 小さな歴史たちは、もう少し大きめになってみようと試みてよいのではないか。所詮、歴史は物語であるほかないし、かごを含まざるをえない。しかしそれは紅野氏のいうように「まさに過誤においてたえず再審に付されながら、さまざまな問いと結びつけられて」(18頁)いけばよい。解体するために解体しつづけるよりも、過誤を修正しながら創りあげていく方が面白いと思うのだが、どうだろう。

 

『投機としての文学』書評リスト
坪内稔典 『朝日新聞』二〇〇三年五月四日読書欄
上野昂志 『琉球新報』二〇〇三年五月一一日読書欄
菅 聡子 『週刊読書人』二〇〇三年五月一六日号
鈴木貞美 『日本経済新聞』二〇〇三年六月一日読書欄
石原千秋 『図書新聞』二〇〇三年六月七日号
永嶺重敏 『学鐙』二〇〇三年七月号
五味渕典嗣『國文學』二〇〇三年九月号
一柳廣孝 『文学』二〇〇三年九・一〇月号
関  肇 『日本近代文学』二〇〇三年一〇月