日比 嘉高
書評、東京大学国語国文学会、『国語と国文学』2004年3月号、pp.68-72
書評の依頼があったとき、引き受けるべきかどうか正直迷った。朝鮮やアイヌの問題について専門的な知識のない私のような人間がこの本に対して行う書評に、なにほどの意味があるのか疑問だったからである。ただ、『帝国と暗殺』は面白く読んだし、それをきっかけに考えてみたいこともあったので、いまこの文章がある。考えてみたいこと、それは内藤さんと論点が共有できそうな「言説分析」とポストコロニアル批評についてだったのであるが、書いてみると、どうも投げかける批評の言葉がどれもこれも自分の研究に向かって跳ね返ってきてしまうのにはまいった。何だか自己処罰的な書評になりそうである。
内藤さんの単著『帝国と暗殺』は、女性、アイヌ、朝鮮の人々が近代日本の国家編成の過程でいかなる修辞のもとにマイノリティ化され収奪されていったかを、新聞記事、論説、文学作品の言説を収集・分析しながら明らかにしたものである。第一章から第五章まで順に「病と血」「女たち」「植民地」「王妃と朝鮮」「使者たち」「天皇と暗殺」の目次が立っている。大量の資料をさばく手際はめざましく、立ち眩み──座り眩みか──を起こしながらマイクロリーダーに立ち向かったみずからの経験に照らし合わせて考えて、いかほどの時間を著者が費やしたか、そしてにもかかわらず、涙をのんで捨てられねばならなかった資料がどれほど出たろうか、ということを想像し、嘆息した。金玉均、閔妃、英照皇太后、伊藤博文、安重根、厳妃、幸徳秋水、管野須賀子、明治天皇──とたどられる死と暗殺の系譜の記述は、それ自体一つの物語であるかのようだ。内藤さんの流麗な文章と言葉への感度があって成り立つ、力業である。
本来ここで植民地朝鮮やアイヌ研究の文脈における内藤さんの達成を評価するのが書評の責任というものだろう。ただ、先にも述べたように私にはその知識はない。付け焼き刃で生半可のことを言うよりは、すぐさま本題に入ったほうがいいだろう。
1 「言説空間」とはそもそもどこか? 「言説分析」は文学研究の対象領域を、作家・作品の周囲から飛躍的に拡大し、刺激的な研究成果を産み出してきた。しかし時に、その拡大は用語や対象規定の曖昧さをともなっているようにも思われる。内藤さんも使っている「言説空間」「文字空間」「メディア」「物語」──これらの用語は分析の視野と対象を広げてくれる有効なツールであると同時に、いずれも融通無碍に使い回せてしまう諸刃の剣だ。たとえば「言説」という言葉一つをとっても、フーコーの用いた意味合いを保って使うなら、その編成の規則やディシプリンの構築や権力や主体の形成などといった分析課題と不可分なはずだが、昨今使われる「言説空間」という言葉には漠然とした言論の集合体(の作り出す範囲)といった程度のニュアンスしかないようにも見える。しかも、その「空間」に歴史学的あるいは社会学的な実定性も求められていないとするならば、「言説空間」とはいったいどこなのだろうか?
2 物語批判の定型あるいは構造と主体 内藤さんの物語批判には定型がある。156頁〜の整理にあるように、〈紋切り型の物語の発見と追跡〉─〈物語の皮膜の緻密な分析〉─〈異和の触知=細部の亀裂の発見〉という型をたどる。この定型のことを考えている過程で、おや、と思ったのは、内藤さんのこの本の論理構成のなかには、そういえば主体がいないということである。柳瀬善治さんが注意喚起しているように、構造としての言説(の編成力)と主体の自由(積極的には抵抗)との間の関係性の分析や両者間の優位性の認定に関しては難しい問題が横たわる。この本の課題は個々のテクストや作家の分析ではなく、言説の構造レベルの大きな分析あるのだから、主体はいなくてもいいのかもしれない。ただ欲を言えば、内藤さんが構造(ここでは≒物語)と主体のあいだの抗争関係をどのように分析するのか、読んでみたかったように思う。
日本文学研究の植民地主義? 現在の日本における日本文学研究(特に大学院)の体制は、事実上、留学生の研究人口によって支えられている。一方、ポストコロニアル批評は植民地主義体制の分析を進めてきたが、意地の悪い言い方をすれば、その進展は新しい研究資源の発見と開発の過程に他ならない。南富鎭さんは言っている。「日本文学のアジア的なグローバル化とそれを支える植民地文学の隆盛の背景には、もしかすると、日本文学研究の新たな〈拠点〉確保の戦略性があるかもしれない。日本文学を学んだ留学生はいずれ帰国し、自国でさらなる日本文学の底辺拡張をはかる役割が担わされるのである」281頁)。痛い。「そんなつもりはない」と善意の構成員は言うし、それは本当だろうけれど、つもりはなくてもやってしまうのが構造である。どうしたらいいだろう。一切合切手を引くか。それは知的な怠慢で退行だろう。批判を続けるか。でもそれは花田俊典さんが言ったように、「西洋中心主義批判による西洋中心主義の補強、あるいは批判的克服でしかない」かもしれない(204頁、「西洋」は日本とか学会とか男性とか適当に置換のこと)。「もうこれ以上、沖縄を日本に取り込まないでくれという悲鳴に似た抗議と、あと一つは、沖縄も沖縄文学もそんなものはありはしない」という批判もある(214頁、「沖縄」は朝鮮とかアイヌとか女性とか日系アメリカ移民とか(以下略))。どうしたらいいだろう。わからない。花田さんの真似にしかならないが、わからない。批評意識と史資料への誠実な正対と絶えざる相対化と…? そんなお題目は、正しいにしてもそれそのものには何の意味もなかろう。
書き終えて、気が重い。天に唾する…という、あまり上品でない喩えが脳裏をよぎる。
(参考)柳瀬善治「武久康高『枕草子の言説研究』(笠間書院)の読後感を起点として〈言説分析〉について考える」『Probl【'e】matique』W、二〇〇五年一〇月。南富鎭『文学の植民地主義──近代朝鮮の風景と記憶』世界思想社、二〇〇六年一月。花田俊典「大きな物語と小さな物語」『日本近代文学』第71集、二〇〇四年一〇月。