博文館は、日清戦争のさなか一八九五(明28)年一月、『太陽』を創刊した。同誌は、これまで博文館が出版していた『日本大家論集』『日本商業雑誌』『日本農業雑誌』『日本之法律』『婦女雑誌』の五誌を統合したもので、収録分野、発行部数、執筆陣どの点においても既存の雑誌を上回る、まさに日本初の巨大な総合雑誌として誕生した。部数は一〇万部超を誇り、時の著名論客を執筆陣に迎え、二〇〇頁を超える紙数を擁する。永嶺重敏「明治期『太陽』の受容構造」(1)は、このようなあり方を指して「『太陽』は旧来からの「小冊子」的雑誌の概念を根底から覆し、それに代わる全く新しい雑誌モデルを提示した」と評価する。
『太陽』が採用したこの総合雑誌という体裁は、別の角度から言えば、『太陽』の「商業」雑誌性の表れでもある。鹿野政直「『太陽』――主として明治期における――」はいう。「『明六雑誌』『六合雑誌』『国民之友』『日本人』などが、思想上の一つの目標をもって創刊されたのとことなり」「『太陽』は、商品であることを至上の課題とした」(2)。それも、ある特定の集団をターゲットとした商品ではなく、「新たに形成されつつある国民全体」を相手取った「総花的で、通俗的な巨大雑誌」(鈴木貞美「創刊期『太陽』論説欄をめぐって」『日本研究』第13集、一九九六年三月、65頁)としてあったのである。
斬新な百科事典的体裁を持ち、かつ俗向きな商品性をも持つ、というこの『太陽』の特徴を、象徴的に体現したのが、写真版の採用である。折しも雑誌メディアに初めて本格的に写真が掲載されはじめ、対外戦争に煽られた民衆の情報への渇望によく応えうるこの新しい「伝達媒体」の力が、商業的に証明されつつあった。博文館が日清戦争中に刊行した『日清戦争実記』の圧倒的な成功はそれを物語る。『太陽』はこの経験に学び、積極的にビジュアル面に力を注いだ。
本論は、この日清戦争期に雑誌メディアへ本格登場した写真に注目する。なかんずく検討課題とするのが、創刊期三年間(第一巻〜三巻、一八九五〜九七年)の『太陽』における風景挿画写真である。対外戦争のまっただ中に創刊された巨大雑誌が、新しい迫真的な報道媒体として注目を集めていた写真を用い、なにを映し出し、なにを伝えたのか。みずからが所属する日本という国家が、清という外国を相手取って戦いを行っている。必然的に「外」を向いたであろう人々の視線の先に、『太陽』はどのような外国像を提示したのか。また「外国」と戦うことによりその輪郭を際だたせることになる「内=ウチ」、すなわち「日本」という国家を、『太陽』はどのように表象したのか。そして戦時期の昂揚が過ぎ去った後、「太陽」はどのような風景をもってその空隙を埋めようとしたのか。写真はその迫真性と複製可能性によって強力な可視感を人々に与え、視覚的な情報の増大に大きく寄与する。しかしその一方で、迫真性ゆえに、その画像を切り取っている枠取りフレーミングの効果には目がいきにくく、複製可能性ゆえに、枠取りフレーミングによる偏向が流布しやすくもなる。写真の「透明感」のもつ政治的な力を、『太陽』がどう利用したのかが本論のひとつの焦点となる。
簡単に論証の筋道を紹介しておく。「二」では『太陽』の挿画写真の意味を印刷史的な角度から確認する。その上で創刊期『太陽』の挿画写真の全体を概観し(「三」)、そのうち風景写真に論点を絞って、外国風景(「四」)、日本風景(「五」)とそれぞれ検討し、最終的に風景挿画写真の機能と効果について考察を試みる(「六」)。イメージはそれ単独で誌上にあったわけではない。直接、間接に連関する記事の言葉と組み合わされ、読者の前に提示された。挿画写真と記事の言葉との相互関係の様相も視野に入れる必要があるだろう。
日本に最初期の写真ダゲレオタイプ(銀板写真)が渡来したのは一八四八(嘉永元)年とされる。以後時代が下るとともに、進歩した技術が次々に流入し、銀板から湿板、そして乾板写真へと移ってゆく。容易に、廉価に写真が撮れるようなってゆくのである。『太陽』発刊時における写真の位置づけは、写真史的な視点からすれば、乾板写真の普及が進みつつあった時代、と表現できる。技術的に難しく、したがって写真師の数も少なかった湿板写真から、撮影も現像もより容易で、しかも比較的器機の値段が安くなった乾板写真へと、写真界の流れは明治二〇年代から動いていた。むろん安くなったとはいえ、上層階級でなければ買えない値段ではあったが、それでも使用者の裾野は確実に広がり、アマチュア写真家たちが育とうとしていた。技術面でも、撮影に数秒から数十秒の露光を要し、撮影現場に暗室を持ち運ぶ必要のあった湿板写真に対して、乾板写真は瞬間的な撮影が可能となり、さらに嵩張る暗室からも解放された。
『太陽』編集者の大橋乙羽も、こうしたテクノロジーの進歩の恩恵に与った一人であった。坪内祐三「編集者大橋乙羽」が述べるように、雑誌のビジュアル面での充実とそれに寄与する写真の力の大きさに敏感であった乙羽は、『太陽』に挿画写真を掲載するに際し、寄せられてくる写真の数だけでは満足できず、写真術を学び自身の手で種板を撮りためていったのである(3)。
享受の側面からいっても、写真の利用法として一般的であった肖像写真撮影の値段は、一般の庶民にも手の届くところまで下りてきていた(4)。小沢健志「記念写真の庶民たち」(前掲『日本写真全集1 写真の幕あけ』101頁)は次のように言う。「乾板写真の時代となると、早取り写真と呼ばれて大衆化がすすみ、写されると寿命が縮むというような迷信も消えはじめ、写真は大衆の日常性のなかに、ようやく定着をしてゆくのである」。もちろん『太陽』創刊時の一八九五年には、都市部における写真の享受は日常的なものとなっていたと考えてよいだろう(5)。
印刷史における写真を見ておこう。写真を活字メディアへと導入するため、その最初期には写真を直接貼付するという方法が採られていたようだ(6)。最も早く写真版印刷を取り入れたのは美術雑誌の領域であった。岡倉天心らが一八八九(明22)年に創刊した『国華』に、小川一真のコロタイプによる美術品の複製図版が掲載された。ただ同誌は美術雑誌であり、読者層が美術趣味を持つ集団に限定されていたため、広く人々の目に触れたとは考えにくい。それゆえ写真版を導入した印刷物が一般の読者の目に触れだしたのは、『日清戦争実記』以降と考えてよいだろう。『日清戦争実記』の売れ行きと、それに与った写真版の力については、次の坪谷善四郎『博文館五十年史』(博文館、一九三七年)がよく語っている。
当初館主の海外視察を了て帰朝せらるゝや、最新の技術を応用して出版に試みんと期せしに、偶々此時写真師小川一真氏は、其頃諸外国に行はるゝ写真銅販の技術を我国にも利用せんと欲して来り勧めた。是まで我国雑誌の人物肖像は、専ら石版のみを用ひたが、「日清戦争実記」は始〔ママ〕めて写真銅版を採用し、〔中略〕記事と写真と相待ち、従来比類無き雑誌を発行したれば、当時敵愾心の最高潮に達したる全国民の要求に適合し、本誌一たび出でて忽ち雑誌界を風靡し、〔一八九四年〕九月九日第二編の出るまでに、第一編は既に数版を重ねた。其頃は他に同種類の雑誌を発行する者稀なりし故、販路の盛んなること、真に雑誌界に未曾有であつた。(88頁)
この点に関しては、川田久長『活版印刷史』(印刷学会出版部、一九八一年、158頁)も「その好評を博した原因のいろいろあった中で、最も与って力があったと思われるのは、陸海軍の出征将校や戦死者の肖像、或はわが内閣の諸公及び清国の人物、ならびに戦地の写真などを、始〔ママ〕めて網目写真版に複製して挿入したことである」と認めている。
この『日清戦争実記』の成功をきっかけにして、博文館は写真版の雑誌への本格的な導入を試み、一八九五年の『太陽』創刊もこの路線を踏襲したのである。印刷史の面からいえば、写真版が日本に導入されてから、四、五年がたつ時期である。二〇年代半ばまでは技術的な理由からあまり写真版は普及を見せないが、それ以前から、直接写真を貼付した雑誌、新聞が好評であったこと、貴族階級や著名な政治家、芸妓などのブロマイド写真を売る商売が盛況を見せていたことなどを考えあわせれば、この種の写真入り雑誌の成功は充分に想像できよう。
[図1]『太陽』表紙1-12、1895/12/5
とすれば、『太陽』の誌面を飾った挿画写真は、写真入り雑誌の大衆化の幕開けを告げるものであったと言えるだろう。そして、このことを押さえないと、なぜ雑誌の顔ともいうべき表紙がその号に掲載されている挿画写真のリストによって占められているのか、ということの意味が理解できない[図1]。雑誌を手に取り、また購入する際に最も重要な要素のひとつとなるであろう表紙を、『太陽』は、重要記事や著名執筆者を強調するのでなく、挿画写真のリストをもって飾ったのである。
個別の検討に入るまえに、まず一冊の『太陽』がどのような挿画写真の構成を持っていたのか、また創刊期三年を総体としてみたときどのような傾向がうかがわれるのか、概観しておこう。
『太陽』一冊には、第一巻でほぼ毎号八頁前後の挿画写真の頁があり、以後例外もあるが第二、三巻では一三頁前後と増加を見せる。一頁には通常複数葉の写真が掲載されている。構成としては、第一巻の場合人物関係が三、四頁、風景二、三頁、美術一頁、その他一、二頁といったところが標準的で、二、三巻ではこれにそれぞれ一頁ずつ足したかたちになる。たとえば第一巻第九号(一八九五・九・五)の挿画写真の構成は、「瀑布六景の奇観」「華頂宮故博経親王/同妃」「枢密院副議長及顧問官」「旅順及横須賀の鎮遠号」「日本名勝十二景」「以太利名勝六景」「西比利亜土人風俗」「シカゴ大博覧会優等画山水の図橋本雅邦筆」(表記は目次に従う)となっている。
第一巻第二号までは、これら挿画写真に対する解説記事は存在せず、その分記事と連動させて写真を載せているようだ。第一巻第三号からは、写真版を用いた頁(紙が厚く硬く上質である)の裏に解説記事が入るようになる。そのため本文記事との連動率は下がる。再び第二巻からは裏の解説がなくなり、かわりに「地理」欄、「雑録」欄などを中心に、適宜解説が付されてゆくことになる。
全体としての傾向も確認しておこう。掲載される挿画写真のジャンルは、多岐に渡っているようにも見えるが、実際の『太陽』の目次と見比べた場合、やはり偏りがあることがわかる。特に多いのが、肖像写真であり、数量的に圧倒的な多数を占める。もともと明治の人々は「貴顕」の肖像が好きであり、名所風景、役者、芸者などと並んで明治初期から土産写真の販売店でも売られていた(7)。博文館『日清戦争実記』もこの嗜好を踏まえ、高官・将校・戦死者たちの肖像写真を掲載していた。これは明治二〇年代から引きつづく伝記や人物評論の流行とも関係があるだろう(8)。内訳としては、政治家と外国人の肖像がとくに多い。また内外を含めて、王族関係の肖像が多いのも特徴的である。軍人も多い。需要はあったと思われる芸妓の写真は皆無であり(この種の写真は同じ博文館の『文芸倶楽部』に掲載された)、役者の写真も第三巻第二四号(一八九七・一二・五)になってようやく市川団十郎、女寅が一度登場するにすぎない。
風景写真も多い。著名な建築物を含め、内外の名勝・奇観は人気が高かったようだ。次節から詳しく検討するが、西欧・米国の風景写真は、建築・街並を取り上げることが多いのに対し、その他の地域を映す写真は、そこに住む民族の生活や衣装・住居などとともに提示され、「○○風俗」という形でよく掲載されるという傾向もある。日本風景も、「名所」の風景写真から、北海道・小笠原・隠岐などといった「辺境」の写真、竣工した近代建築、四季折々の風景など幅広く採られている。
そのほかに特徴的なことは、戦中戦後ということもあってか、軍事関連の写真が多いこと、毎号ほぼ必ず美術作品の写真が掲載されていることなどが目につく。美術作品では、絵画共進会の展覧会出品作が、『太陽』一冊の挿画写真すべてを費やして数度に渡り特集されていることも注目されよう。また第一巻では開催中の京都博覧会にちなんだものも多くなっている。多くの国民に読まれることをめざした『太陽』が、〈国家〉の輪郭を描き出してゆくのに大きな役割を果たした戦争と美術――ここに博覧会を加えてもよいだろう――を、積極的に掲載・提示していったことは、当然といえば当然だろう(9)。また巻を追うに従い、時事種を取りあげる報道写真的なものに価値が見出されてゆくようすもうかがわれ、興味深い。
創刊期『太陽』の挿画写真の構成は、人物・風景・軍事など表面的にはほぼ当時人気のあったジャンルをそのままなぞっていると考えてよい。また、需要があったことは確実である役者や芸妓の写真がほとんど収録されていないことは、全国の家庭で読まれることを想定し、健全かつ趣味の高い内容を伝えようという編集意図のあったことが窺われる。これはほぼ毎号に美術作品の写真が掲載されていることとも符合するだろう。
だが、このように一見一般読者たちの嗜好に合わせて選択したかのように見える挿画写真も、単純な迎合の産物であったとは言い切れない。たとえ編集部の意図がそのような迎合的なものであったとして、実際それが紙面上で果たしてしまった役割は、無色無害の中立的なものではありえなかった。次節からは、風景写真に絞ってこの点を詳しく検討する。
『太陽』の挿画写真が対象とした外国風景は多岐に渡り、様々な国・土地の名勝・旧跡・奇観が登場する。その掲載の判断基準となっているのは基本的に珍しさ、美しさであり、それに適うものならば種板が手に入り次第構わず載せる、といったありさまのようだ。ただしその中でも、やや方向性に固定した傾向が見られる二種類がある。第一巻第九号(一八九五・九・五)を例にとれば、「以太利六景」と「西比利亜土人并風俗」とが、その二種に相当する[図2A、B]。[図2A]「以太利六景」『太陽』1-9、1895/9/5
一方においては「欧州文化の淵源」としてイタリアを位置づけ、その「文明国」の余香を留めるものとして風景を提示する。対する一方では、「露国の某博士が探検の際自ら撮影したるもの」と写真を説明し、「研究」の対象として読者の前に提示される。
ではこのような二種類の外国風景は、どのような企図のもと掲載されていたのだろうか。いくつか記事がそのヒントを与えてくれる。まずは「地理」欄の欄枠のなかの文言が目を引く。「地文地質風俗土宜より名境勝区古蹟遺墟に至るまで、紀行あり論評あり話説記事あり探検実記あり、明暢雅健の文章に参するに精緻美妙の図画を以てし、坐して万里に遊ばしむ」(『太陽』第一巻第一号、一八九五・一・五。以下巻号は1-1と表記)。風景写真には、「地理」欄と連動するものが多い。とすれば、「地理」欄の持つ傾向は、写真を取り上げる際の方向性とも重なる部分があるはずである。引用した「地理」欄の趣意の要点は、「坐して万里に遊ばしむ」の部分にある。この欄は、その記事と写真とによって、その読み手を「坐して」読むままに、旅行へと連れ出すという役割を担っている。つまり読者たちの前に提示される写真は、旅行者の眼前に広がる光景として演出されているのである。イタリアにせよ、シベリアにせよ、サンフランシスコにせよ、読者たちは写真を眺め、記事を読んで、居ながらにしてそれらの風景を目の当たりにしているような錯覚を得ることができるのだとされた。重森弘淹コウエン「「横浜写真」にみる風俗」(前掲『日本写真全集1 写真の幕あけ』所収、85頁)は次のようにいう。「洋の東西を問わず、写真術の誕生は、大衆の〈見る〉欲望を刺激し、一挙に拡大させた。交通の発達が未知の国や土地への冒険旅行をうながし、その際、カメラも必ず同伴したのである」。これは「横浜写真」についてのものだが、日本人が海外へ向ける視線にも同様のことが言えよう。この時代、海外へ出る機会を持つ日本人はほんの一握りの存在に過ぎない。風景写真のまなざしには、そういう機会を持ちえなかった大多数の日本人たちの見る欲望が重ねられていたことだろう。
とすると問題になるのは、述べてきたような二種の外国表象が、「地理」の名のもとに一括し並列的に提示されてしまうことである。読者の前に提示される外国のイメージは、写真という「真景」(当時よく用いられた表現)を〈写す〉ことを標榜するメディアと、『太陽』という大雑誌への掲載という事実とによって権威づけされ、「真実らしさ」を身に纏う。いいかえれば、それらの挿画写真の透明度が高くなるわけである。挿絵写真は、そこに提示される諸外国のイメージを固定化してゆく。
「文明」化された町や建物の景色が強調する西欧・米国の「先進性」のイメージの繰り返しも見逃すべきではないが、一層注意を払うべきなのは、その他のアジア・中東・東欧などの「風俗」の写真である。なぜなら、固定化されてゆくそれらのイメージには、人類学的な縁取りが介在していたからである。「西比利亜土人并風俗」は、明瞭にその様式を踏襲している。[図2B]「西比利亜土人并風俗」『太陽』1-9、1895/9/5
飯沢耕太郎「人類学者のカメラ・アイ 鳥居龍蔵」(前掲『日本写真史を歩く』所収)も指摘するように、[図2B]両下端に見られる、人を正面と側面から捉える構図は、人類学がフィールドワークの記録で用いた様式である。読者たちは、知らぬ間に人類学的なまなざしを内面化し、シベリアや南洋、エジプト、アラビアなどを偏向した視線で眺めるよう馴らされてゆく。飯沢同論は次のようにいう。
これらの人類学調査特有のポートレイトを見るたびにいつも感じるのは、写真撮影につきまとう"視線の権力"とでもいうべきものである。つまり、カメラを持つ側(この場合は人類学者)は、被写体となった男女を一方的に見つめている。撮影者は調査対象を一種の"モノ"として眺め、計測し、分類することができる。反対に見られる側は見つめ返す自由を奪われている。〔中略〕 "視線の権力"という問題は、おそらく人類学という学問そのものに常につきまとってくるものだろう。十九世紀に近代的な人類学が成立してくる過程は、帝国主義列強の植民地拡大とぴったり重なりあっている。"未開"の人々をヨーロッパ人の視線で見つめ、標本箱のなかにきちんと分類しておさめていく――そんな欲求が人類学者たちの意識を支配していたのは間違いないだろう。見る側は常に優位に立ち、見られる側を強化し、導いていく。そんな権力関係を固定するのに、写真が重要な役目を果たしたのは否定できない。(101頁)
人類学の出自と西欧の植民地主義的なまなざしとを、分離することはできない。奇異なるもの・人に出会い、集め、分類し、系統立てる。そこでは常に観察者は、基準点であるゼロ地点に温存され、そこから高下・善悪などの価値判断を伴いつつ、階層構造が構築される。スペンサー流の社会進化論的思考が導入されるのも、この地点である。『太陽』第一巻第一号に寄せられた、日本の「人類学」の草分け的存在である坪井正五郎「事物変遷の研究に対する人類学的方法」の述べるところは、正にこの論理の中にある。
全世界の人民は決して同一様の開化の度に達して居るのではござりません。諸人種悉く一定の状況に存在して居るのではござりません。全世界諸人種を通覧すれば、様々の階級を知ることが出来ます、恰も一人民が数千年間若くは数万年間に経過したものと同じ様な諸種の階級を一時に知る事が出来ます。甲の人民が最下級の位置に居り、乙の人民が其上に居り、丙の人民が其上に居るとすれば、是等人民に就いての或る事物の比較研究は、丁度一人民が甲の状態より乙の状態に移り、夫より丙の状態に移るに連れて、現はれる所の或る事物の変遷を調査するのと同様でござります。故に人類学的方法は歴史的経過を一時代に引き寄せて示すものと申しても宜しい。
最新の「学」の衣装を身に纏って、世界の「人民」の「開化の度」が測られ、上下の序列を伴う「階級」付けがなされてゆく。「事物の変遷を調査する」という「学」的な作業は、日本の外にする様々な国や地域の人々を、「開化」の尺度のもとに格付けする。創刊期『太陽』には、坪井や鳥居といった人類学者の論説・報告がしばしば寄せられる。もちろんそれらの記事のすべてがこうした人種間の序列化を図るものであったというのではなく、むしろ彼らの文章には人類学に対する熱意や学問的誠実さを感じさせるものの方が多いほどである。しかしながら当時の人類学がフィールドとし、また自らの存在価値を認めたのが、たとえば新しい日本の領土であった台湾であり、そこに住む人々についての「知識」をもたらしうる、ということだった。こうした領域を自らの学的場のひとつとして選択した人類学が、植民地主義的な傾向をまとってしまうのは避けがたい。『太陽』第一巻第一号に載ったこの坪井の論説を読んだ読者たちは、「以太利六景」と「西比利亜土人并風俗」とを見て、前者を「上」、後者を「下」と位置づけ、自らの所属する日本を、その単線的階層のどこかに位置づける、という思考を体得してしまいはしなかったろうか。
写真は、誕生と同時にこの序列化するまなざしの構築作業のなかへと巻き込まれた。交通機関の発達と旅行の流行、撮影技術の進歩と、印刷技術の発展、これらテクノロジーの進歩に後押しされて、写真という「透明な」媒介に身を潜ませた植民地主義的なまなざしは、爆発的に広がってゆく。『太陽』の挿絵図版が機能していたシステムも、まさしくこの中にあった。ただし日本の場合、観察者のゼロ地点の「上」に、つねに欧米の列強が想定された。日本においてまなざす者たちは、西欧の創り上げた体系に身を寄せ、その序列のなかで上昇を試み、同時に他の地域の文化を自らの下位に位置づけていった。居ながらに楽しめる旅行を提供しようという、一見無邪気な企図を有した「地理」欄は、それを享受する人々へ、知らず知らずのうちにこのような偏向した階層構造を刷り込んでいったのである。
『太陽』はさまざまな形で日本風景を取り上げていたが、大きく言ってその主要なものは三種類を数えることができる。必ずしも読者自身の実際的な参加を求めない机上旅行的なものと、読者自身の行動に誘いかける形で提示される旅行案内的なもの、そして災害などの時事的な出来事の光景を伝える報道的なものである。
先にも触れたが、『太陽』「地理」欄の趣旨は「坐して天下万国の勝景奇蹟を探る」(10)というものであった。『太陽』「地理」欄を読む読者は、座ったままにして全ての国の名勝を訪ねることができるという主旨だ。そして挿画写真はこの「地理」欄と密接に連動し、読者の眼前にリアルな名所風景を示してみせる。これが本論の言う机上旅行である(11)。
この机上旅行タイプは、さらにいくつか下位分類できる。まず、「日本名勝十二景」(『太陽』1-9、一八九五・九・五)など、著名な景勝地の数々をひとつのセットとし日本を代表する風景として提示するというものがある。これにはほかに「日本新三景」(1-10、一八九五・一〇・五)、「瀑布六景の奇観」(1-9、一八九五・九・五)などがある。また、「芸州厳島の全景」(1-4、一八九五・四・五)や「大和名所」(2-6、一八九六・三・二〇)、「函山三勝」(3-19、一八九七・九・二〇)など、個々の地方の名所を取りあげるものも多い。第一巻には比較的前者が多く、以降個別地域のものが増えてゆく。ここに戦時・戦後のナショナリズムの昂揚を見ることもできようが、単に対象となる材料の豊富さの違いによるものでもあるだろう。
この種の挿画写真の場合、それに付される記事やコメントは、名所図絵的な類型に収まっていることが多い。例えば、「芸州厳島の全景」[図3]に付された解説を見てみる。「芸州厳島の全景」[図3]『太陽』1-4、1895/4/5
位置的な概略を述べ、周囲の眺望を語り、それについての詩的な感興を漏らす。また、その場にちなむ古歌、漢詩、俳諧を紹介する。おおよそ他の記事もこの形式は外れない。また表現の特徴として、類型的で紋切り型の表現が多いことが挙げられる。たとえば「東都四季風景真図」(『太陽』1-6、一八九五・六・五)として挙げるものが、「芝浦の汐干、龍眼寺の蓮、瀧の川の紅葉、上野の雪」であるといった具合である。またこういったセットにする形式では、写真のレイアウトやページのデザインに凝るものが多いのも特徴である。
そこで語られる風景は、非常に文辞的なものである。風景はそのままの姿ではなく、先立つ文学的な知識や、修辞的な枠組みを通してしか見られない。そして面白いことに、そこで示される風景、すなわち挿画写真の名所風景もまた、きっちりとその枠内に収まってしまうものなのである。自ら写真を撮った経験をもつ者ならば誰でも知るように、写真はレンズの前にあるそのままの光景を複写するため、元来非常に雑多な夾雑物を含んだノイズの多いイメージを映し出してしまう。また対象としたい物象をいかに切り取るかによって、強調されたものにも散漫なものにもなる。『太陽』の名所風景の写真は、この点から見て、あからさまに行儀がよいのである。紋切り型であった語られる風景と同じく、読者の前に示される風景もまた、フレーミングによって巧妙に取捨され脱臭化された名所絵そのものの風景である。そこでは実際に訪れた者のみが得る生きられた経験は跡形もなく抹消されている。そして写真という新しいテクノロジーが持ちうるはずの暴露的な力もまた、飼い慣らされてしまっているのである。
机上旅行タイプの記事として、興味深いものがもう一種ある。探検記の類がそれである。具体的なものとして、例えば渡辺千吉郎「利根水源探検紀行」(『太陽』1-1、一八九五・一・五)を見ておく。「芸州厳島の全景」が周知の名所を紋切り型の麗句で飾るものであったのに対し、こちらは未踏の地についての報告記である。探検の目的にも、水源の確定、国境の画定、地質調査、開拓地の有無、山林・動植物の調査、さらには鬼婆、神憑り的暴風雨、水源としての文殊菩薩などの「迷霧」を晴らすこと等々、学術的なものが掲げられている。表現レベルでは、漢詩文脈の定型的表現を用い、感慨を俳諧や和歌に託すなど、既存の文脈に依ることもままあるが、名所図絵的枠組みとは大きくかけ離れていることは明白である。
この探検記が、地理学という学術的な形を借りながら(あるいは借りることによって)領土拡張的な言説と相同的な構図を保持しているところに、注目したいと思う(12)。水源の確定、国境の画定、開拓地の有無の調査などを目的とした渡辺千吉郎らの「探検」は、群馬県知事の命を受けたものであり、つまり未だ行政システムの及ばない地域を、その版図へと取り込もうとする種類のものである。この図式を海外へとずらせば、そのまま植民地主義的なものになることは見易い。台湾の先住民の村を訪ね、住民たちに「台湾は日本の領土に帰し、〓〔人+爾〕等も日本の臣民となりたれば、能く志を傾けて日本に服従せざるべからず」と託宣する行政官を伝えた中島竹窩「生蕃地探検記」(13)は、その典型的なものである。こうした探検記には直接関連する挿画写真が掲載されることはないが、代わりに挿絵や別の号に載る風俗写真(台湾の「生蕃」はこの時期頻繁に誌面に登場する)がその代用をしたであろう。[図1]の『太陽』第一号第一二巻表紙の文言「図南の大志を抱ける人に非ざるも南洋風土の真景を観よ(人類学者も!好奇の士も!)」も想起される。
以上見てきたように、『太陽』に見られる机上旅行的な風景叙述には、主に名所図絵的な枠組みを受け継ぐものと領土拡張主義的な探検記との、おおよそ二種に分けられ(14)、叙述対象の取り上げ方から、その表象法に至るまで、全く異なった方向性を持っていた。また推定される読者層の面からも、両者の差異は補足できる(15)。それぞれの読者層は、互いに排他的なものではなかったろうが、風景を紋切り型の枠組みの下で享受しようとする層と、領土拡張的なイデオロギーを内在した学術的まなざしで風景を眺めつつあった層とが存在していたことは、心に留めておくべきだろう。
「坐して天下万国の勝景奇蹟を探る」という机上旅行タイプに対し、『太陽』には実際に読者を旅行へと誘う種類の記事・挿画写真も存在した。実際に読者を旅行に誘うような記事とは、たとえば『太陽』第一巻第七号(一八九五・七・五)所載の羽峰外史「日光」などをさす。
客は日光下駄の土産を携へ来りて天工人為の美観を説き。 〔ママ〕主は汽車時間表を開きつゝ日光見ぬ内結構といふなの語を繰返す。此くの如きものは此夏の避暑旅行を何くに定めんなど考へつゝある人の家に往々見るところなり。今や満山の新緑漸く老いて炎威人界を圧せんとす。いさゝか初めての人の為めに路案内をなして結構といはるゝ人たらしめんとするも強ち無用のことならざるべし。
夏の避暑旅行に出かけようとする人たちのため「路案内」をしてみようという記事である。原文には総ルビに近いほど振り仮名が振られ、想定する読者層を広くとっていることが窺われる。記事は続いて「汽車線路」、汽車の時刻・距離・料金などをまとめた表、「日光町」、という具合に、準備から出発、見て回るべき名所名物に至るまで、懇切丁寧に説明を加えてゆく。この記事が机上旅行的な風景叙述と明らかに異なるのは、対象となる土地へたどり着くための方法や道筋、料金、時間などが非常に実用的なレベルで具体的に書き込まれていることである。「坐して…探る」という机上旅行とは、本当に読者を連れ出そうとする意図をを持つという意味において、記事の方向性がまったく異なっている。
そして、実際に読者をして旅行へ赴かせようというこの案内に、強力な援軍として採用されているのが、「日光勝景」の挿画写真である[図4]。[図4]「日光勝景」『太陽』1-7、1895/7/5
実際の誌面では、この挿画写真は「地理」欄の記事「日光」と見開きで並んで掲載されている。「陽明門」「華厳の瀑」などといった名所風景が、案内記事と並列されることによって、より強力に読者たちを誘ったことであろう。
羽峰外史「日光」を見てもわかるように、このような旅行案内記は鉄道網の発達と密接に連関している。全国の各地へと鉄道網が網目のように伸び始め、それにともなって旅行の姿も変容を遂げてゆく。無署名「青山白水と旅行」(『太陽』1-6、一八九五・六・五)は、このあたりの事情をよく語る汽車旅行の初心者向け手引き記事である。
編笠一蓋草鞋一足の旅の空、もとより趣味ある者なれども、虚弱の人の為しうべき処にあらず。〔中略〕故に身体虚弱の人は、よろしくその処を撰びて可なり。」 〔ママ〕あはれ幾多の俗件を放念し、万事快活なる旅行には、或は汽車にてし或は汽船腕車にてすべし。〔中略〕まづ汽車行よりせんか、日光車窓を射て暑く、流汗衣を潤す折は、日影てらさぬ片窓を開け放ちて、空気を流通せしむる事を怠るべからず。されどいと長き隧道中は、堅くその戸を閉ぢ、黒烟の入るをふせぐべし。尤隧道を出でたらんには、黒烟の入ると入らざるとに論なく、いち早くその戸を開くべきなり。
羽南外史「汽車旅行」(『太陽』1-4、一八九五・四・五)も同様に「今春は京都大博覧会の開かるゝありて之が初乗を為す人も多かるべければ。先づ之より始めて沿道の謂ゆる天然と人とを案内せんとす」と、汽車旅行に慣れない人々に対する解説を試みる。どちらの記事も座席の位置や窓の開け閉めから、乗車時刻の選定、休憩の取り方に至るまで、事細かに解説を加える。記事の頻度、内容のレベルからみて、これまでには利用していなかった人々にまで汽車を用いての旅行が浸透しつつあり、そうした汽車旅行の初心者達に向けてこれらの記事はあっただろう。汽車旅行は、以前とは比較にならないほど遠い距離を短時間に移動することを可能にした。また壮健な人々だけでなく、体力的に劣る人々も旅行することが出来るようになった。これまでは名所図絵や、雑誌新聞記事、挿絵などで眺めるだけであった遠くの土地へ、時間と資金さえ許せば、多くの人たちが出かけられるようになったのである。
そして、『太陽』第一巻(一八九五年)という時期においてみれば、汽車旅行の広がりを押し進めている大きな要因として、この年の四月から開催されていた京都博覧会の存在が挙げられる。これは、先の羽南外史の「今春は京都大博覧会の開かるゝありて之が初乗を為す人も多かるべければ」という言葉の示すとおりである。『太陽』第一巻にはこれについての関連記事が多く(挿画写真は計二度)、その注目度の高さが窺われる(16)。
日清戦争という対外的な「巨大イベント」が巻き起こった直後、今度は京都で博覧会という国内的な大イベントが開催された。人々はかつてない規模で博覧会へと吸い寄せられてゆき、そこでの経験を共有した。そして戦争と博覧会という二つの大きな出来事への参画に人々を駆り立てていき、またその出来事の経験を、個人的なものでなく同胞と分かち合う協同的なものへと変質させるのに与ったのも、雑誌記事・写真・鉄道といった明治の新しいメディアだったのである。
戦時の昂揚が去り、巻が進むに従って目につくようになるのが報道写真である。もともと『太陽』への写真版導入を準備した『日清戦争実記』の成功が写真の報道性によっていたのだから、こうした方向の開発は当然といえば言えよう。だが、新聞紙面にいまだ写真が登場しない時代において、報道写真を積極的に雑誌の機能のひとつとして採用していった『太陽』のジャーナリスティックなセンスと、その先見性はやはり見逃されるべきではない。
第二巻第七号「土佐丸欧州開航式」(一八九六・四・五)をはじめ、「信濃水害」(2-18、一八九六・九・五)、「神戸水害」(2-19、一八九六・九・二〇)など、月二回刊行の速報性と写真の視覚的精細さを生かした誌面を構成してゆくが、何と言っても特筆すべきなのは、第二巻第一四〜六号(一八九六・七・五〜八・五)において連載した「三陸大海嘯」と、第三巻第四号(一八九七・二・二〇)の「孝明天皇御式年祭紀事/英照皇太后大葬紀事」である。
一八九六(明29)年六月一五日に起こった「三陸大海嘯」は、その被害の大きさが明らかになるにつれ、人々の関心を強く引きつけていった。博文館はこれに対応するため、大橋乙羽を現地に派遣する。彼を派遣した理由は、彼が他ならぬ写真術を身に付けていたためであるという(乙羽「嘯害実況桑田碧海録」)。もちろんこれは、より早くそして詳細に津波のようすを知りたいという読者の欲求に応えるためであったことは言うまでもないが、それだけにとどまらず、『太陽』は写真という伝達媒体のもつ視覚的情報量の抱負さを、よりジャーナリスティックで俗向きな方向へと振り向けたのである。人々の視覚的好奇心を狙う〈災害報道〉がここに誕生した[図5]。
[図5]「三陸大海嘯」『太陽』2-14、1896/7/5
水浸しになった村景や、倒壊した家屋、転がる死体、「孤児路傍に啼泣する光景」。現代の我々にも充分に刺激的なこれらの光景の有する、衝撃力と人々の好奇の目を吸い寄せる力とを、『太陽』はよく知悉しフルに利用した。このことは詳細な見聞記であり、被災地紀行文でもある特派員乙羽の「嘯害実況桑田碧海録」が雄弁に語る。往路の汽車が出くわした、災害とは何の関係もない轢死の細密な死体描写をもって幕明けるその文章は、同情のまなざしと被害状況を伝達しようとする誠実な意図とを感じさせはするものの、ややもすれば破壊の巨大さと、被災者の悲惨さ、死者の数え上げと死体の描写といった、興味本位の喚起的情報とグロテスクな描写に流れてゆく。汽車であり編集者でもある乙羽は、明らかにこれを自覚的に行っている(傍点による強調の仕方からもそれはうかがわれる)。
事件・ニュースを知りたい、見たい、という人々の欲望を、戦争報道で成功した博文館編集部は十分すぎるほど学んでいたはずである。対外戦争というニュースとして破格の大きさをもつ出来事が過ぎ去った後、彼らは『太陽』へと場を移し、より細かな社会的な事件の視覚的報道へと、道を切り開いていったのである。
一八九七年、孝明天皇の没後三〇年の記念と英照皇太后の逝去とに際して執り行われた一連の出来事の報道にもまた『太陽』は力を尽くした。この二つの国家的な祭礼を、『太陽』は誌上で〈再現〉しようと目論んだかのようだ。両者の年譜や性行、徳などを紹介・追慕する記事をはじめ、その死を悼む声や詩歌などを集めて、故人についての知識の共有と喪失感の伝播を図る。と同時に、大橋乙羽と坪谷善四郎による祭礼の体験・見聞記である「三十年御式年祭」(乙羽)、「大葬拝観記」(坪谷)により実況を語ってゆく。そしてここに挿画写真が加わる。冒頭に孝明天皇、英照皇太后の肖像写真を掲げ、参列者した華族・高官たちの顔をずらりと並べる。その中に「御代拝御参拝之図」「英照皇太后御霊柩京都七条着御」などといったスナップショットが、おそらくは継起順に配置される。式次第を追うことによって誌面上に浮かび上がる儀式の行程は、それを読み進める読者をして否応なくその式典へと参加させ追体験させる。
面白いのは、挿画として写真だけではなく、画家たちによる絵画も数多く掲載されていることである。写真は、参加者の肖像に比べ式の情景を写したものの方が少ないことを見ると、この絵画の役割がおそらくは写真の不足を補うためのものであっただろうことが想像される。写真の撮影には許可が必要な場面も多かったろうし、すべての行事を追えるものでもない。掲載された絵画を見ると、行列や人物を描く際の伝統的類型を踏襲する一、二の例外を除いて、他は全てスケッチ風の画面である。乙羽生「挿絵の説明」が、これらの絵画の「実地」に「直写精模」されたことを強調していることを見ても、美術品として誌面に掲載されたというよりは報道写真的な機能を果たすべく要請されていたと考えるほうがよいだろう。
絵画作品の「美術的」な効果はいったん押し止められ、写真の与える臨場感と迫真性が挿絵に求められる。写真と絵画の二つの挿画は、出来事の誌上における再構成のために奉仕する。そして、挿画のフレームによって切り取られ、記事による整理を経たその出来事は、読者間の視覚的、情報的な知識の共有を可能にする。事件は均され、咀嚼しやすい共通理解へと誌面で変換されてゆくのである。
以上『太陽』の風景挿画写真を、外国・日本それぞれ取りあげるものにわたって検討してきた。一見無邪気に、外国の建築物、風俗、日本の名所風景など映し出していた挿画写真も、それが連動する「地理」欄他の諸記事との関係のもとに読んでいけば、それぞれさまざまな枠取りがあらかじめ施されていたことがわかる。外国の写真は、「文明」を担い体現する西欧・米国の建築・風景と、「奇異」「未開」の徴を身に纏ったそれ以外の地域の人々の住居・風俗、というステレオタイプをなぞり、人類学の記述がそれを「学」的に補強していた。もちろん実際にそれらの国々を旅行することができ先入観に縛られずに見てみれば、西洋の「文明国」に「野蛮」を見いだし、「未開」の国々に「文化」をみてとることは、あるいは可能であったはずである。しかし大多数の『太陽』読者たちはその機会に恵まれることなく、あらかじめ取捨された外国イメージを、写真という「透明な」媒体により与えられた。「坐して天下万国の勝景奇蹟を探る」という触れ込みのもと、固定化し植民地主義的色彩を帯びたイメージのフィルタを通して、人々は外国を「知った」のである。
日本風景は、挿画写真という面に限ってみれば、圧倒的に名所名跡を取り上げたものが多かった。それらの写真は、夾雑物をフレームの外に追いやることによって成り立った行儀のよい固定的な景勝イメージのみを示しており、その多くには庶民レベルの読者にも馴染みが深かったと思われる名所図絵的な形式を踏襲した解説記事が付されていた。そこで立ち現れる風景は、実際に訪れることによって獲得できる生きた経験を抑圧して成立する抽象的な構成物である。そしておそらく「日本」風景というのは、そうした抽象性の上にしか現れえない。「坐して」その風景を見るしかない読者たちが、その抽象性のいかがわしさに気づくのは難しい。
またもうひとつ目を向けておきたいのは、映し出され解説される日本の風景は、同じ号のなかに掲載された外国の写真や記事と併存していたという点である。読者はページを繰ると現れる外国の風景と、日本の風景とを、比べてみるように促されていたと言ってよい。ここにおいて挿画写真は、単なる風景の「写真」であることをやめ、日本という国の輪郭を形成する作業に参与することになる。読者たちは、外国と日本と両方の風景を見比べることにより、なにが日本に特徴的であり、なにが外国と日本とを分けているのかということを考えさせられるだろう。「日本三景」などといった、セット化し要所をまとめ上げる手法は、ここで力を発揮する。
挿画写真を伴うことは少ないにせよ、探検記にあらわれるのは、より露骨な領土拡張的まなざしである。日本の国土は、探検家の前に開発・開拓さるべき沃野として横たわる。名所風景が「日本風景」の頂点を構成しようとするものとすれば、こうした探検記は、その底辺を明確化し、あわよくば押し広げようとするものといえよう。日本国内に向けられたこのような視線は、周囲の国々への転化を準備しただろう。実際『太陽』は、樺太や台湾・南方へ、その視線を延ばしていっている。
また、一方で『太陽』の挿画写真は、「坐して万里に遊ばしむ」という机上旅行の楽しみを与えただけでなく、実際の旅行へと読者を誘う役割も果たしていた。それは名勝地であったり、博覧会であったりした。発行部数一〇万部超を誇った大雑誌『太陽』は、鉄道、写真といった新しいテクノロジーと連動し、その読者をして、誌面の提供するさまざまな経験を共有させる。国家行事や災害などの報道写真も、この点からすれば〈体験〉の共有と言うこともできるだろう。かつてない規模で、人々が体験を共有しはじめ、仲間意識を育ててゆく。「日本人」という集団の内実が、こうして形成されてゆく。
もちろんこれは、『太陽』の執筆者、編集者がすべて自覚的に行っていたことではないだろう。誌面に写真を取り込んだのも、人類学的な知見に基づく記事・写真を掲載したのも、災害を取り上げたのも、購読者数増加のためであったということも可能である。しかしながら現在の目から見て、そのなかのある部分の記事や写真が一定の方向づけや価値づけを帯びており、知らず知らずのうちに読者へ刷り込まれていたこともまた事実であろうし、伝えられた情報の共有が知識的均質性を生み出したのも確かだろう。こうした情報とイメージの流通の現場で、写真は〈真〉を〈写す〉透明な媒体として強力な役割を果たした。迫真性の高い画像が実際には撮影・編集段階で経てきた取捨選択を、素朴な読者たちは知るべくもない。ノイズの消去と抽象化、強調、隠蔽、といったカメラの枠取りフレーミングには、焼き付けられた画像のみを見る彼らは気づきにくい。
過去においても現在においても、ともすれば透明に見えてしまうメディアの偏りに目を凝らすことを忘れてはならない。レンズから目を離し、フレームの外にあるものを見、そこにあるフレームが何を切り取り、切り捨てているのか、常に意識することが求められている。
- 注(1) 永嶺重敏「明治期『太陽』の受容構造」『雑誌と読者の近代』日本エディタースクール出版部、一九九七年、107頁。初出は『出版研究』21号、一九九一年三月。
(2) 鹿野政直「『太陽』――主として明治期における――」『思想』450、一九六一年一二月、137頁。前掲永嶺論文にも以下の指摘がある。「そして、この文章家的伝統の『国民之友』から「単に商売的に文章を収集する」大冊・百科スタイルの『太陽』への移行は、新聞界で既に進行していた、政論を主とする大新聞から報道重視の商業新聞への変化と軌を一にするものであった」(113頁)。
(3) 坪内祐三「編集者大橋乙羽」(前掲『日本研究』第13集)がこのあたりの事情に詳しい。
(4) たとえば一八九五(明28)年の東京木挽き町鹿島清兵衛経営の写真館「玄鹿館」の広告には「手札六枚一組一円五十銭、カビネ三円、四切八円」とある(松本徳彦「文明開化のなかの写真」『日本写真全集1 写真の幕あけ』小学館、一九八五年、所収)。また北海道地区では、一八八四(明17)年で七五銭〜三円、一九〇五(明38)年で七〇銭〜一円二〇銭という(週刊朝日編『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社、一九八八年)。(一八九五年の小学校教員の初任給は三円である。『値段史年表』)。
(5) 写真史についてのここまでの記述は、以下を参考にした。日本写真家協会編『日本写真史 1840-1945』平凡社、一九七一年、前掲『日本写真全集1 写真の幕あけ』、飯沢耕太郎『日本写真史を歩く』新潮社、一九九二年、木下直之『岩波近代日本の美術4 写真画論 写真と絵画の結婚』岩波書店、一九九六年。
(6) 前掲『日本写真史 1840-1945』358頁。
(7) 小沢健志『幕末・明治の写真』ちくま学芸文庫、一九九七年、227頁参照。同書228頁には土産写真「有名高官」(明治中期)が紹介されている。
(8) 樹下石上人〔横山源之助〕「人物評家の変遷」『文章世界』第二巻第一三号、一九〇七年一一月、木村毅「解題」『明治文学全集92 明治人物論集』筑摩書房、一九六〇年などを参照。
(9) 戦争・美術と写真については、次の木下直之『写真画論』(前掲)の指摘が鋭い。「日清戦争の写真は、市販された写真集という形式で、あるいは創刊が相次いだ写真雑誌(たとえば『日清戦争実記』や『戦国写真画報』)という形式で、はじめて戦争の全体像を構成した。写真集は、おおむね出陣に始まり、戦場となった朝鮮半島や中国大陸の広大な風景、行軍の様子、ほんのわずかな戦闘場面、陣地内での暮らしぶりなどを伝えたあと、日本への凱旋で終わる。そうしたメディアの中でしか、戦争は全体像を現さなかった。同時にまた、戦争を遂行した国家の姿を、写真はようやく映し出せたともいえるだろう」(105―6頁)。「〔論者注 岡倉天心の日本美術史を作り上げる仕事について〕その一連の仕事は、日清戦争写真集の編集作業に似ている。写真集の中に国家の姿が見えたように、作品図版の集積の中にこそ、日本美術は姿を現した」(107頁)。
(10) 『太陽』第一巻第一二号(一八九五・一二・五)所載の「『太陽』増刊並に大改良趣旨」にある「地理」欄の趣意。
(11) 机上旅行については、藤森清「明治三十五年・ツーリズムの想像力」『メディア・表象・イデオロギー』小沢書店、一九九七年、所収のアームチェアー・トラベルの論述に示唆を受けた。
(12) 当時の地理学は、地理的知識の衆知とともに、植民地主義的な欲望に資するための知識を提供することもまた目的としていたようだ。佐藤能丸「国粋主義地理学の一考察」『史観』一九七三年三月を参照。また地理学はその啓蒙的使命のひとつに「愛国心を養ふ」(神保小虎「地理学教授略論」『太陽』2-3、一八九六・二・五)ことを数えていたことも付け加えておく。学術的な知見を武器としながら、欧米・朝鮮・中国と比較対照して、「江山洵美是我郷」と日本の風土の素晴らしさを賞揚した志賀重昂『日本風景論』と、その後の志賀の帝国主義的なありようは典型的と言ってよいかも知れない。志賀と『日本風景論』については、山本教彦・上田誉志美『風景の成立――志賀重昂と『日本風景論』――』海風社、一九九七年が参考になる。
(13) 中島竹窩「生蕃地探検記」は『太陽』第二巻二一号(一八九六・一〇・二〇)から二五号(同年一二・二〇)まで連載。引用は二四号(同年一二・五)。
(14) 細かなもので他に興味深いものとしては、紀行文と挿画写真との連携を『太陽』が生み出したことである。幸田露伴文・大橋乙羽写真の「東京百景」(2-8,9、一八九六・四・二〇、五・五)、「東北七州奇勝」(3-23、一八九七・一一・二〇、表紙は六州)などは、いま読んでも楽しい、その優れた達成である。また後に取りあげる乙羽の三陸大海嘯の写真付きルポルタージュは、このバリエーションとも考えられよう。
(15) 一見してわかるように、伝統的修辞によりかかることの多い記事は活字も大きく、総ルビであることが多い。挿画写真と連動していることが多いことも述べたとおりである。それに対し、探検記は活字も小さく、ルビも少ない。挿画写真も直接連動することは少ない。この扱いの差は、想定する読者の質の違いを物語っていると見てよいだろう。
(16) この京都博覧会には、一一三万七〇〇〇人の入場者があったという(吉見俊哉『博覧会の政治学』中公新書、一九九二年)。読者を旅行へと誘う記事群の中で、大きな位置を占めていたのがこの博覧会見物の記事であった。たとえば大和田建樹「汽車旅行」(『太陽』1-5、一八九五・五・五)は、こぞって博覧会へ出かける人々の様子を描く。また関連する記事のなかには、博覧会そのものを取り上げるのではなく、博覧会見物のついでに京都を見物してゆこうする人々のための記事も混ざっていた(紫明楼主人「京都の新案内記」1-1、一八九五・一・五)。