日比 嘉高
『大衆文学の領域』大衆文化研究会編集・発行、2005年6月,pp.197-213
近代日本の文学史をふりかえる者はモデル小説のひきおこした騒動を数え上げるのに苦労することはないだろう。内田魯庵「破垣」(明治三十二(一八九九))をはじめ、島崎藤村の「旧主人」「並木」「新生」(明治三十五─大正八(一九一九))などの一連の小説、田山花袋の「蒲団」(明治四十)、久米正雄の失恋もの(大正九年前後)、戦後に入っても三島由紀夫の「宴のあと」(昭和三十五(一九六〇))や柳美里「石に泳ぐ魚」(平成六(一九九四))など、明治から平成までめんめんと続くその系譜をたどることはたやすい。私がここで取り上げるのも、そうしたモデル小説の一つであるが、以上のような〈純文学〉寄りの顔ぶれから比べれば、少々特異な風貌をもつテクストたちだといえなくもない。昭和五(一九三〇)年ごろに大衆雑誌『講談倶楽部』に掲載されたそれら一連の作品は、文士でも政治家でも作家の知り合いでもなく、どういうわけか、スポーツ選手をモデルとしていた。
問題のモデル小説いよ/\発表!
▲傷きづつける人魚(近藤経一)
世界的に有名な某スポーツ選手と、東京一のダンサー姉妹と、魔の様な魅力をもつ有閑婦人をめぐる哀しく悩ましき愛の葛藤を描いた長篇大傑作
引用は『講談倶楽部』昭和五年十月号の広告である(1)。発表する以前から「問題の」と謳いあげるあたりからも、スキャンダリズムの匂いが濃厚に漂う。「傷ける人魚」は、発表以前から騒動を予告されたモデル小説としてあるらしい。そしてその「問題」性を支えているのは、「世界的に有名な某スポーツ選手」「東京一のダンサー姉妹」「魔の様な魅力をもつ有閑婦人」という登場人物たちの属性の取り合わせなのであろう。
『講談倶楽部』のスポーツ選手モデル小説は、「傷ける人魚」のほかにもこの時期に数作掲載されている。登場人物の属性によって主に読者に訴えようとするかに見えるこれらの作品は、冒頭言及したような〈純文学〉寄りのモデル小説たちとまったく異なるものなのだろうか。また異なるにせよ、通底するにせよ、〈純文学〉とは遠いところにあったはずの『講談倶楽部』が、いったいなぜこうした企画を連続して打ち出したのだろうか。そこに登場した──正確にはさせられた、というべきだろう──「スポーツ選手」たちは、なにゆえに誌面に呼び出され、どのように描かれたのだろうか。そしてこのモデル小説を取り巻く状況の分析から、我々はいかなる昭和五年前後の大衆文化のあり方をうかがい知ることができるだろうか。
昭和戦前期を代表する大衆誌の「異色」企画を検討することで、以上のような問いに答えてみたい。
近藤経一作の「傷ける人魚」は『講談倶楽部』に昭和五年十月から十二月にかけて連載された。あらすじは次の通りである。
世界的な水泳選手三村龍彦は、プールで美しい姉妹、西田明子はるこ、陽子に会う。当初、姉明子に魅かれ交際を始めた三村だったが、ふとした会話の行き違いから明子と疎遠になり、妹陽子と接近していく。明子は別の男性と結婚の話が進み、陽子は三村と婚約するまでにいたる。パリ・オリンピックでも800メートル自由形で優勝した三村だったが、その帰朝の祝賀会をきっかけに、彼は一人の妖艶な女性から強烈なアプローチを受ける。「美しき毒蛇コブラ」・結城志摩子の魅力から逃れられず密会を続けた三村は、陽子に避けられ、ついに新聞にまでもそのゴシップを報道されてしまう。絶望した三村は志摩子に誘われるまま上海へと逃げ落ちる。しかし上海では、別の男性へと向かった志摩子にも捨てられ、三村はどん底の生活を送る。そこへ水泳部の親友、延原が日本から窮状を救うべく現れ、その説得にほだされて三村は再起を決意する。一方、西田姉妹も実父の会社が破産し、双方の縁談も破れて零落した生活を送っていたが、二人は自立した新生活を営むべく「東京屈指の大舞踏場メトロポリタン」のダンサーになる。
広告に予告された「世界的に有名な某スポーツ選手」とは、この水泳選手「三村龍彦」をさしていた。作中の描写から、より詳細な彼のプロフィールをたどってみよう。
中学五年の時、彼が得意の八百でつくつた記録は、世界の水泳界の檜舞台にもち出してもさほど恥ずかしくないものだと云はれた。/だから卒業と同時に、殆ど迎へられるやうにしてX──大学の予科に入学した。そしてその水泳部員として、否日本の持つ、既に世界的になり掛りつゝある水泳選手として彼の名声は日を経るに従つて、益〃嘖々たるものがあるのだつた。(第一回、三二頁、/は原文改行、以下同)
彼は、濠洲で二年来の怨敵チンメルマンを得意の八百米で、鎧袖一触に撃破した。(第一回、四〇頁)
八百米自由形に、世界の巨豪を一蹴して美事最初の日章旗を、巴里オリムピツク・スタヂウムの竿頭高く初夏の朝風に翻へしたのは彼だつた。(第二回、二二七頁)
現在この描写から人物を特定できたとすれば、その読者は相当日本の水泳史にくわしいといえるが、当時のスポーツに関心のある読者たちにとっては、その作業はさほど難しいものではなかった。「三村龍彦」は明らかに高石勝男を指していた。
高石勝男は、第二次大戦前の日本を代表する自由形の選手で、戦後には日本水泳連盟の会長や東京オリンピックの水泳選手団総監督も務めた人物である。小説発表当時はパリ、アムステルダム両オリンピックを経、まさに彼の競技人生の絶頂を迎えようとしている時期であり、「紹介の要なき程有名なる水泳界の権威者」と呼ばれるほどの存在だった(2)。「傷ける人魚」は、出身地、戦歴、外見(図1、2参照)などさまざまな面において、この高石を参照していたのだ(3)。
(図1) 高石勝男(『早稲田大学水泳部史』稲泳会発行、一九九一年九月、63頁より)
(図2) 『傷ける人魚』挿絵(第一回掲載、部分)
ただ、もちろんすべてが高石そのままというわけではない。たとえば「巴里オリムピツク」で優勝云々は、過去の事実を踏まえたフィクションであり、高石は大正十三年のパリ・オリンピックの800mリレーで4位、100m自由形および1500m自由形で5位、昭和三年のアムステルダムにおいて、800mリレーで銀、100m自由形で銅メダルであった。
しかしなんといっても最大のフィクションはもちろん、その小説の筋立てだろう。記録も恋も順風満帆の選手が、「魔の様な魅力をもつ有閑婦人」に誘惑され、水泳部員としての行事を放棄した上、上海にまで逃げ落ちる。かと思いきや、親友の説得にほだされて唐突に再起を誓う。こうしたストーリーの荒唐無稽さからは現実感を追求しようという意志はみじんも感じられない。
モデル小説がモデル小説である以上かならず行う「現実世界」への着実な参照と、まったく本当らしさを放棄したかのような奔放な物語的興味の追求。その双方が、「傷ける人魚」には同居しているようにみえる。いったいこれは何なのだろうか。
その理由の一端は、『講談倶楽部』という雑誌の当時の誌面作りからうかがえる、ある傾向を指摘することによってひとまずは説明が可能だろう。
『講談倶楽部』は明治四十四(一九一一)年に創刊された大衆雑誌で、講釈師の速記ではない、作家の執筆した「新講談」を売り物にして部数を伸ばした。大正末より次第に大衆小説に重心を移し、昭和期には相撲や映画、そして各種スポーツ関連の特集も積極的に組んでいた。第二次大戦前の大衆文化を牽引した代表的雑誌の一つと言っていいだろう。この雑誌が当時どんなイメージで捉えられていたかは、編集者として働いていた萱原宏一の次の回想が雄弁に物語っている。「当時菊池寛が書いていたのは「キング」だけで、「キング」以外は絶対に書かないのです。ブスッと出てきてね、一つ先生に書いていただきたいといったら、「『講談倶楽部』に書くほど僕は堕落しないよ」といって、その後は黙っている」(4)。通俗小説にも筆を染め、大衆文化にも幅広い関心を示していた菊池をしてこの発言をさせるほど、メディアとしての「格下」に見られていたのがこの時期の『講談倶楽部』だったのだ。
この『講談倶楽部』が当時積極的に採用していたのが、「事実」重視路線とも呼ぶべき企画の数々である。昭和五年あたりの目次をながめれば、 「桂公爵夫人零落の姪 霰降る夜」(昭和四年六月)、 「女可愛さからこの犯罪 空き家の怪死体」(昭和四年十月、警視庁刑事部 梅野幾松の署名)、 「愛と涙の事実美談集」計四話(昭和四年十二月)、 「悲壮!日露戦争の大犠牲 佐渡丸遭難実記」「米国全土を震撼させた犯罪実話 少女誘拐惨殺事件」(昭和五年三月)、 「愛と涙の事実物語」計三話(昭和五年四月)、 「愛と涙の事実物語」計三話(昭和六年五月)、 などという記事、特集が次々に掲載されいるのがわかる。いずれも読んで字のごとくの内容だが、「事実」「実記」「実話」が謳いあげられ、「桂公爵」「警視庁刑事部」などの現実の固有名や肩書きがその真実性を保証すべく書き込まれている。
しかも注意しておきたいのは、特集を構成する各エピソードは物語形式を取ることが非常に多かったという点である。たとえば「愛と涙の事実美談集」中の渡部種義「蟹となつて愛兒を誘ふ──涙ぐましい名巡査殉職物語──」。博徒が賭場を開帳しているところに踏み込んだ巡査が、返り討ちにあい殉職する。博徒は逃げおおせるが、偶然巡査の息子が拾った父の巡査手帳に博徒の名前が記録してあったため捕捉することができた。息子は川で遊んでいたとき、蟹に誘われるようにしてその手帳を見つけていた。蟹はきっと死んだ巡査だったに違いない──という話だ。このストーリーは次のような文体で語られる。
戸を開けると寒い風がさつと顔を叩いた。/門田巡査は振り返つて細君に云つた。/『子供をあたゝかくしてやれよ』/『ハイ』/やがて門田巡査の樵姿は木枯吹く村道をだんだん小さく遠のいて行つた。サヨ子さんは、今日に限つていつまでもいつまでもそれを見送つた。なぜか気がかりで、残り惜しかつた。(二一二頁)
事実を物語の形で語り直し、平易に、しかし臨場感あふれる語り口で伝える。これがこの時期の『講談倶楽部』の特徴の一つであった。
スポーツ選手モデル小説を考える上で、もう一つ当時の『講談倶楽部』の編集方針から注目しておきたいことがある。スターへの注目である。読者たちを誌面にひきつける魅力的な材料として、『講談倶楽部』は映画俳優・女優、著名なスポーツ選手を写真入りで積極的に登場させていた。
映画関連では「スター打明け話」(昭和五年五月)、 「映画ロマンス画報」(昭和六年五月)やゴシップ欄「芝居と映画面白帖」、物語調で各回一名を取りあげた「映画女優情艶史」の連載など、多数記事があり、 スポーツでも 「スポーツ大画報」「スポーツの花」「名選手出世物語」(昭和五年五月)、 「競技界優勝ロマンス」(昭和五年八月)、 「世界に輝く名選手」(昭和六年五月) などで陸上、野球、水泳、柔道など各種スポーツの花形選手をさかんに取りあげていた。このスポーツ関連の記事については、後にもう一度ふれることにする。
昭和五年前後の『講談倶楽部』の編集を特徴づけていたのは、「事実」重視とスターの登用であると言えそうである。ひるがえって、同誌に掲載されたスポーツ選手モデル小説を考えてみれば、どうやらそれが「事実」とスターという二つの機軸をちょうど縒りあわせた交点に位置していたらしいということが見えてくる。一方にあくまで「事実」であることの衝撃を利用する流れがあり、一方に多くの人々が関心を寄せる社会的スターの価値を十全に援用しようという企図があった。花形選手たちのモデル小説という異色の企画は、こうした方向性のそれぞれによく沿うものであったわけである(5)。
異色企画──しかし果たしてそれは本当に異色というべきなのだろうか。もしかしたら、〈純文学〉の領域を見慣れてしまった者の目にそうみえるだけではないのか。
近代文学におけるモデル小説の歴史は古い。明治三十年代前半には、政治家や著名人物などに取材したモデル小説を内田魯庵がさかんに書いている。新聞種の事件を利用した続き物などを含めれば、時期としてはもっとさかのぼることも可能だ。文学者をモデルとする──作者自身も含むが──モデル小説の登場はもう少し後、写実を重視する文芸思潮が実在の事件・人物に取材する小説作法を生み、その描写の忠実さが評価の尺度となるような風潮をもたらしてからのことだ。これを受け、明治四十年代から田山花袋「蒲団」、島崎藤村「春」、森田草平「煤煙」、そして大正はじめの文壇交友録小説など数多くのモデル小説──通常こう呼ばれることはないが、明らかにこれらはモデル小説の一種である──が書かれていく。こうしてモデル小説という小説の形態は、大正期には完全に定着していた。
そして大正末以降、こうした純文学系の文壇で練り上げられてきたモデル小説という形式とそれを支えるメディアと読書の仕組みが、大衆文化へと移植されはじめる。本論の課題を越えるため詳述はできないが、その一つの模範例ともいうべきあり方を示して見せたのがおそらくは久米正雄である。第四次新思潮派の仲間と相互に書きあった文壇交遊録小説の作法を利用し、文豪漱石の盛名と自ら煽り立てた失恋ゴシップを存分に活用して書き上げた大衆小説が、彼の「破船」である(6)。
一方、いま昭和五年前後の『講談倶楽部』に我々が見い出しているスポーツ選手モデル小説も、やはり先行する枠組みが大衆文化へと移入された例の一つと考えて間違いないだろう。(図3参照)
情報の参照、総合のあり方はほとんどそれ以前と同じまま、各項目に「スター」や「ラジオ」などといった大衆文化時代の要素が取って代わり、総体としてモデル小説という〈装置〉が機能を続けていたと考えられるのである(7)。
このような文壇文化から大衆文化への枠組みの流用がいかにして起こったのか、近藤経一というこの忘れられた作家のプロフィールをたどると、その経路の一つが見えてくるように思われる。『白樺』に寄稿し、『白樺の園』『白樺の林』(8)などのアンソロジーに名を連ねていることから白樺派に数えられる一人であったらしいこの人物は、大正文壇に盛行した文壇交遊録小説の空気を存分に吸っていたことだろう。しかし一時は新潮社から名前を冠した戯曲集のシリーズまで出していた近藤も、昭和に入る頃から純文学系の著作は目立たなくなってくる。かわって彼が手を染め始めたのが、大衆文化系の仕事だった。文芸春秋社の『文芸創作講座』で「映画脚本精義」を担当し(昭和四年)、平凡社から昭和四─五年に刊行された『映画スター全集』では編者を担当している。彼は大正末から昭和初期にかけてしばしば見られたような、より高額の原稿料を求めて大衆誌へとその活躍の場を移した作家の一人でもあったのだ。大正文壇のモデル小説作法と、成長しつつあった映画産業のスターシステムの双方を知っていたこの作家にとって、この時代もう一つのスター、スポーツ選手に取材したモデル小説を書くことは、それほど難しいことではなかったのかもしれない。
『講談倶楽部』が読者獲得のために「実話」重視と、スターへの注目という路線を採用したことはすでに述べた。この二つの路線の交わる地点に文壇が創り上げてきたモデル小説の骨法を移殖することによって、近藤は実在するスポーツ選手たちのありえない物語を創出したのだ。
『講談倶楽部』にスポーツ選手モデル小説が現れた理由を書き手の側からたどってみれば以上のようにいうことができるだろう。だが、むろんこのアプローチによっても先の課題──あからさまな実在の人物への参照とまったく本当らしさを放棄したかのような奔放な物語的興味の追求がどうして共存しているのか──に完全に答えることはできない。作品が抱えた過剰なまでの〈物語〉への欲望の意味を、近藤経一の別の作品からさらに検討してみよう。
水泳の他に近藤が目をつけたスポーツ。それが、急激にファン層を拡大していた六大学野球であった(9)。
明治初年代に外国人教師や渡米帰国者によって広められた野球は、大正期途中からその普及を商機と捉えた『大阪毎日新聞』などのメディアの参入もあり、社会的な大規模イベントと化していく。中学野球の全国大会(後の「甲子園」、大正四(一九一五)年から)や東京六大学リーグ戦(大正十四年から)が開始され、大人気をえる。大正十三年には甲子園球場、昭和元(一九二六)年には明治神宮野球場と、数万人を収容する規模の球場が相次いで建設され、昭和元年には六大学リーグ戦に東宮杯が授与されるなど、国家的な行事としての認証も進む。ラジオ放送の登場も、人々の熱狂を加速させた。坂上康博によれば、ラジオ放送の開始が大正十四年、夏の甲子園と東京六大学野球の実況放送が始まったのは昭和二年である(10)。人気アナウンサーも登場し、松内則三の早慶戦実況のレコードが十五万枚を売り上げたのもこの時代のことだ。
昭和六年の六大学野球春季リーグ戦の最終節(六月一三、一四、一五日)は、早慶戦。全国の「好球家」が注目した当時最高の対戦カードである。入場券発売日の前日から女性も含むファンが列をなし、夜を明かす人々を目当てに周囲のカフェや飲食店は終夜営業を決め、ムシロ屋、おでん屋、大道易者までもが群がった。五万をゆうに超える入場者をさばくため、試合当日は球場の周囲の交通が制限されたが、午前八時には入場を待つ人々の列が青山三丁目の電車通りまで四、五町続いた。
三連戦初日は敵のエラーと走塁ミスに乗じて慶應が獲った。二戦目は早稲田がエース伊達正男の投打にわたる活躍と、連日の失策を一気に挽回する三原脩のホームスチールの余勢をかって勝利した。決勝戦──『東京朝日新聞』(昭和六年六月十六日夕刊)はファンたちの興奮をこう伝えている。
これは一つの熱病時代だ。狂気じみた興奮の嵐だ。全部の神経はこの西南の一隅に吸ひつけられた。ラヂオのスイツチはひねられた。全国を挙げて耳と目の総動員令下る! たぎるやうな真夏の烈日のもと、けふ早慶の決勝戦が神宮外苑球場で戦はれるのだ。
試合は伊達の三連投にかけた早稲田が、一点を争う好ゲームをものにして、このカードの勝利を決めた。
言うまでもなく、野球狂時代は新聞、雑誌に格好の題材を与えた。試合の日程や結果、戦績はもちろん、詳細な戦評や球場内外のファンたちの狂態が熱心に伝えられていく。大衆誌『講談倶楽部』がここに目をつけないわけはなかった。昭和五年前後の誌面から拾ってみても、 「早慶台頭の日 向ヶ岡の大決戦」(昭和四年二月)、 「好敵手好取組物語」(昭和五年九月)、 「本塁打物語」(昭和六年一月)、 「強打者銘々伝」(昭和六年五月)、 松内則三「壮烈鬼神も哭く 早慶大決勝戦」(昭和六年八月)、 とずらりと記事が並ぶ。いずれも写真入りであり、巻頭のグラビア特集になっていることも多い。
『講談倶楽部』に固有の傾向というわけではないが、速報性に重きをおかない雑誌メディアは、付加情報の提示とそれを総合しての物語化に力を注いだ。たとえば『講談倶楽部』には、先の早慶三連戦の模様を伝える記事が載っている。題して「壮烈鬼神も哭く 早慶大決勝戦」。先にも紹介した当時の人気アナウンサー松内則三によるこの文章は、試合の経過と勝敗の行方にも増して、選手たちの舞台裏の物語を熱を込めて語る。
而かもこの夜、慶軍切つての強打者たる名捕手小川年安君は、図らずも、その父君の訃報を郷里の友からの悼み状によつてはじめて知つたが、それは、父君が去月十五日の臨終に、『早慶戦が済むまでは、ゆめ、年安にわが死を知らすな』と云つた健気にもまた涙ぐましき遺言を重んじて、一家親戚みなこれを年安君に知らせなかつたのだと云ふ。突如父君の訃報を知る悲しみを胸に秘めて、尚且つ明日の早慶決勝戦に出場しなければならなかつた小川君の胸中! 慟哭せんもなほ足りぬ父君の死にいたき胸に、虚実の策戦を描かねばならなかつた悲壮の心境! 戦士として、戦士の父として余儀なき犠牲とは云へ、それは余りにも痛く大きな犠牲ではなからうか! (二二九頁)
読者たちの多くはおそらくラジオやレコードで馴染んだ松内の名調子を耳に響かせながら、この語りを読んだことだろう。単なる大学対抗のリーグ戦の一コマにすぎない野球試合に、自らの死を伏せよという親心と、それを忠実に守った親戚たち、そして図らずもその事実を連戦のただ中に知ってしまった選手、という新たな舞台裏の情報が付け加えられ、滅私と忠節と奮闘の物語にまとめ上げられていく。飽くことなく生産され消費されていく逸話や伝説の数々は、スポーツをもはや単にスポーツの枠内にはとどめておかないだろう。
この種の記事から「野球界モデル小説」(11)までの距離は、もうすぐそこだ。近藤経一が描いた「青春の天地」「青春涙多し」という二つの小説は、野球とその選手たちをめぐって絶え間なく産出されていた物語群の、一つの変異形でもあったのだ。
二作をそれぞれ分析する余裕はないため、より長い分量をもつ「青春涙多し」に紙幅をさき、第一作目「青春の天地」(昭和五年五月)については簡単にあらすじなどを注に紹介する(12)。 第二作目「青春涙多し」は、昭和六年の十〜十二月に『講談倶楽部』に連載された。明らかに六大学秋季リーグ戦開催(九〜十月)の盛り上がりを当てこんだものと見ていいだろう。
将来を嘱望される香川中学の野球選手三沢進二は、城北大に進むか城南大に進むか迷っていた。彼にその決断をさせたのは、恩師の夫人である敬子の一言だった。彼女にしたがって城北大へ入学することにした進二だったが、その上京の旅程は偶然その夫人とともにすることになった。その途上、夫人は箱根に一泊することを主張し、進二を誘惑する。進二はからくもそれを逃れる。(以上、第一回) 進二の親友三木本は死の床にあった。見舞いに訪れた進二は、病床に付き添っていた三木本の恋人幸子が、啓子に似ていることに驚く。幸子は敬子の妹だったのだ。しかし彼らは互いにそのことを知らない。そのころ、敬子は夫にすべてを話し、離縁を申し出ていた。「自由女性」となった彼女は、進二にあらためて接近する。一方、進二は死ぬ間際の三木本に、幸子をよろしく頼むと言い残されていた。(第二回) 春のリーグ戦、進二は自分の失策から敗戦する。原因は、「敬子との浮華な交際、幸子との恋愛」で練習が不十分だったからであった。進二は敬子に別れを告げるが、それを機にもう一人の彼の恋人、幸子が啓子の妹であることが発覚する。幸子も進二のもとを去る。すべては悪夢のようなものだった、と思いながら、進二の心は意外にも晴れやかだった。彼はすべての事情と自分の非を監督の前に告白し、ともに宿敵城南の打倒を誓う。二人の目には熱い「男の涙」があった。(第三回)
進二と恩師とその妻、そして進二と美人姉妹、という二つの三角関係への興味で読者を引きつけつつ、物語は熱い涙を伴った再起の誓いで結ばれる。主人公には、もちろんモデルがあった。彼は「香川中学の野球選手」(第一回、二九頁)とされ、お坊ちゃん大学「城南」(言うまでもなく慶應を指す)と対比される「城北」(早稲田)に入った人物だ。選手としての特徴は次のように語られる。
入学したばかりの進二は、勿論すぐに正選手レギユラアの九人ナインに加へらるべくはなかつたが、それでも危機打者ピンチ・ヒツタアとしては屡々起用された。大物打ちスラツガアではなかったが、確実シユーアな当りを持つ彼は、若い割には危機ピンチに強かつたのである。 (第一回、四二頁)
「球狂ファン」たちは、語り手が誰をほのめかしているのかすぐに気づいたらしい。「野球戦に於て敵チームの最大脅威となるものは、謂ふところの長打型打者ロング・スラツガーにあらずして、早大軍の花形三原君の如き、走力の秀でた、ピンチに強い、確実シユアな打者である」(「強打者銘々伝」『キング』昭和六年五月、一八頁)。このように主人公・三沢進二のプロフィールをそのままなぞったような選手が存在したからである。早稲田大野球部の三原脩。半年前、春の早慶戦でミスを重ねながらも、第二戦で勝利を呼ぶ劇的なホームスチールを決めた選手だ。三原は高松中から早稲田大学へ進み、昭和九年には初のプロ野球契約選手として大日本東京野球倶楽部(巨人の前身)に入団する。戦後には、ジャイアンツ、ライオンズ、ホエールズ、バファローズ、スワローズで采配をふるい、名監督と呼ばれた球史上の人物だ(13)。
ファンたちがこれに気づいた──あたりまえだが──ことは、この連載中に起こったちょっとしたエピソードから確認できる。連載第二回の末尾(二四〇頁)に、次のような作者近藤の釈明が載ったのだ。
坊間、本篇の主人公を早稲田大学の三原君なりと伝ふる浮説あれど、こは事実無根にして、本篇は全部作者の空想の所産なり。近藤経一
第一回目の連載開始時に、麗々しく「野球界モデル小説」と掲げられた「青春涙多し」は、こうしてあっさりとその看板を下ろし、第二回以降「モデル小説」の語はタイトルから消える。「浮説」の流布を原因に「モデル小説」の語を取り下げれば、「浮説」を認める効果をもってしまうと編集部は考えなかったのだろうか──。
それはともかく、この小事件は『講談倶楽部』のスポーツ選手モデル小説の事実喚起力の強さと、底の浅さ、作者および編集部の気構えのなさを、存分に露呈しているだろう。著名なスター選手をただ読者の注意を喚起するためだけ利用し、まったく事実無根の恋愛物語の登場人物として使用する(14)。その作業に取り立てて主張も思い入れもないために、面倒が起こりそうになれば「全部作者の空想」として逃げを打つ。モデルにされた選手の災難こそ、思いやられるというものだろう。
モデル小説の要件である現実世界への参照と、事実の裏付けを完全に欠いたまま行われる物語的興味の追求。『講談倶楽部』のスポーツ選手モデル小説には、この両者が同居している。いったいこれをどう考えればよいだろうか。
モデル小説という側面に目を向ければ、明治期からつらなる純文学系のモデル小説の系譜が目に入る。近代以降、小説という散文の形態は、書かれた内容が虚構であるというジャンル的前提を形成しつつも、一方で現実の出来事をあたかも活字の背後に読みうるかのような錯覚をもたらす力を蓄えてきた。『講談倶楽部』のモデル小説が、この読書慣習を利用していることは間違いない。
そしてモデル小説において参照される「モデル」が、『講談倶楽部』においては、作家たちや彼らの身辺の人々ではなく、より広範な一般読者たちの興味を容易に引きつけうるスター──映画俳優・女優やスポーツ選手たち──から選ばれていたことも、その大衆誌としての性格上、当然のことというべきだろう。
ではなぜ、近藤経一や岸白汀らが描いたモデル小説は、「現実のありのまま」のスポーツ選手たちを描かなかったのだろうか? 些細な日常の一コマを一篇の小説に仕立て上げることは、この時期の心境小説の作法を知る作家ならさほど難しい作業とも思えない。まして近藤経一は、白樺派として出発し短編集や戯曲集も出版しているほどの作家だ。また細かく報道される有名選手たちのプロフィールを見てみれば、スターについての些末な情報さえもが伝達価値を持つ状況はとうにできあがってもいたはずだ。しかし、『講談倶楽部』はそうはしなかった。実際に掲載されたのは、現実を無視してまで過剰にストーリーの面白さを追求する物語である。ここに何を見てとることができるのだろうか。
その答えを探すためには、ここでいったん『講談倶楽部』以外の雑誌に掲載されたスポーツ小説に目を向けておくのがよいだろう。実は昭和五年には、中村三春が「スポーツ小説の年」と名付けるほどの小ブームが訪れている(15)。乱暴を承知でこれらモダニズム・スポーツ文芸の特徴をまとめれば、「スポーツ小説」を自から謳いながらも、競技や競技者そのものを描くことはまれで、むしろスポーツをめぐる風俗や、スポーツの提供した概念や発想を新しい修辞の型として援用する──たとえば恋愛をラグビーにたとえる──ところに特色があったと言える。
これらのスポーツ文芸と比較すれば、『講談倶楽部』のスポーツ選手モデル小説の特徴がよりはっきりする。「傷ける人魚」にしても「青春の天地」「青春涙多し」にしても、いずれも基本となる物語の型は同じだ。周囲から嘱望される優秀なスポーツ選手が、恋愛事件を引き起こして選手としての危機に陥いるが、改心して立ち直る。このうち、スポーツ選手としての活躍や最後の改心の場面は、手短に、唐突に語られるにすぎない。つまり全篇を支えている屋台骨は、選手の陥る恋愛と堕落の物語である。
もちろん、モダニズム・スポーツ小説にも恋愛は登場する。というよりも、むしろそれは付きものと言うべきほどだった。しかしそれらの小説に登場する恋愛事件の主要人物は、「スタジアム・フラッパー」などと呼ばれる、恋多き軽やかなモダンガールたちであった。一方近藤のそれは、妖艶で淫らで陰謀をたくらむ「毒蛇コブラ」たちである。そう、彼女たちはむしろ大正期の通俗小説が創造した〈娼婦型〉(16)の系譜に連なる女性たちなのだ。
しかも二つの「スポーツ小説」の違いを際だたせるのは、近藤がスポーツ・ヒーローたちに用意した堕落の物語である。モダニズム・スポーツ文芸に登場する失恋モダンボーイたちのあっけらかんとしたようすに比べ、近藤のヒーローたちは徹底的に苦悩し、墜ち尽くす陰性の男たちだ。重ねて確認すれば、彼らはそもそも「実在」の人物として作品内に呼び出されているのである。実在の選手とされる人物が、性的な誘惑に打ち負かされて堕落してゆく。しかも付け加えねばならないのは、『講談倶楽部』は堕落の姿のみを一方的に描いていたのではないということである。むしろ、この雑誌が誌面全体の傾向として積極的に掲載していたのは、スポーツ選手たちの晴れやかな勇姿である。すでにいくつかの記事で紹介したように、『講談倶楽部』は選手たちのオリンピックでの好成績やリーグ戦での活躍を写真入りで大きく紹介し、ヒーローとして顕彰し祭り上げていた。堕落は、実はこうした顕彰と同時に行われていたのである。ここにこそ、おそらく本論が追求してきたスポーツ選手モデル小説の秘密があり、〈純文学〉系の枠組みの流用などといった説明だけでは理解しきれない、大衆文化に固有の要素がある。
ヒーローが墜ちるということ。ヒーローはむろん優れた存在であるからこそ祭られる。このことを裏側からみれば、祭る人間は、ほとんど例外なくヒーローよりも劣った存在だということになる。祭り上げ、墜とす。優れたものが墜落する瞬間を見ようという隠微で残酷な快楽が、そこになかったろうか? 『講談倶楽部』のモデル小説は、スポーツ・ヒーローたちが堕落し零落する仮想の物語を「劣敗者」たちの前に差し出していはしなかっただろうか? 物語の結末に付け足りのように書き込まれる再起の決意は、読者たちの一抹のやましさに、弁明の逃げ道を与えるためにのみ存在していたのではないのか?
現実への確かな参照と、奔放な物語的興味の追求という一見相反するかのような二つが結びつけられていたのは、一つには作品が〈恋愛〉と〈堕落〉についてのステレオタイプ的な物語類型をそのまま利用し、受け継いでいたからであり、もう一つにはそこに昭和五年ごろの大衆の屈折した願望がすくい取られ描き出されていたからであった。
『講談倶楽部』のスポーツ選手モデル小説は、この時代の大衆がこっそりとのぞき窓から思い描いた、少々意地悪な他人の悪夢だったのである。
(1)『キング』昭和五年十月掲載。
(2)引用は山田養古編『昭和八年版 日本スポーツ人名辞典』(日本スポーツ協会 昭和八年十二月)の高石の項。高石については他に『高石さんを憶う』(日本水泳連盟関西支部編集発行 昭和四十二年九月)などを参照している。
(3)しかも、当時それほど知られていたとは思えないが、高石はこのとき後に結婚することになる女性の水泳のコーチをしていたらしい(「凱旋選手の結婚オリンピック」『報知新聞』昭和七年八月二七日による)。「傷ける人魚」はなかなか周到な調査もみせている。
(4)『講談社の歩んだ五十年 昭和編』昭和三十四年十月 講談社、一四四頁。『講談倶楽部』については、尾崎秀樹「講談倶楽部」(『書物の運命──近代の図書文化の変遷──』出版ニュース社 平成三年十月)なども参照。
(5)事実、著名スターを取り上げたモデル小説は、スポーツ選手のみにとどまらない。もっとも早く『講談倶楽部』誌面に登場した小説は岸白汀「嘆きの胡蝶夫人」(昭和五年三月)で、これは「マダム・バタフライ」のプリマドンナとして海外公演を重ねた歌手・三浦環をモデルとしたものである。
(6)久米正雄の問題については別稿を準備している。
(7)言うまでもないが、従来の文壇内部者をターゲットにしたモデル小説も依然平行して存在していた。
(8)白樺同人『白樺の園』(春陽堂 大正八年三月)、白樺同人著『白樺の林』(聚英閣 大正八年十二月)
(9)六大学野球については、庄野義信編『六大学野球全集』(改造社 昭和六年十二月)、坂上康博『にっぽん野球の系譜学』(青弓社 平成十三年七月)、坂上康博『権力装置としてのスポーツ』(講談社選書メチエ 平成十年十月)を参照。
(10)昭和四年のスポーツ関係の放送は三八一回、うち実況中継が約八〇回で、その七割が野球だったという。実況放送の日数は昭和四年に五〇日を超え、昭和八年には一〇〇日を超えた。坂上『権力装置としてのスポーツ』第一章の記述による。
(11)「青春涙多し」第一回目の本文タイトルに掲げられた惹句である。
(12)K大学の新進投手宮地公一は、信州沓掛での合宿のある朝、ハンカチを拾う。それは有名人気女優の水島小百合子のものであった。これを縁として二人は交際を始める。二人の仲は部の主将森岡の知るところとなり、宮地は釘を刺されるが、功を奏さない。S大との決戦の日、宮地の体調は良くなかった。期待を受けながらも彼は踏ん張ることができず、あえなく敗戦する。宮地の不調の原因は、小百合子が彼に飲ませた薬のためだった。宮地は、女優との交際のために調子を落とした、とチームメイトからなじられ、袋だたきに合う。一方、小百合子は試合を見守りながら、自分のしたことを激しく後悔していた。仲間に打ちのめされた公一を看病しながら小百合子は、自分の罪を告白する。しかしその謝罪もむろん公一の許すところではなかった。小百合子は公一の部屋で服毒する。公一は、彼女が真に自分を愛していたことを悟る。二人の恋愛事件は新聞各紙のかき立てるところとなったが、それもすぐにおさまる。小百合子は舞台を退き、二人は結婚する。公一は先輩たちに許され、来シーズンの雪辱を期する。
『キング』昭和五年五月号に掲載された同作の広告は、「名選手と名女優の紅涙潸々たる悲恋哀話」と紹介し、「これが暗示する事実的興味」を予告してはばからない。作品の描写から考えて、主人公宮地公一がモデルとしていたのは、高松商業出身の慶応の名投手、宮武三郎とみていいだろう。
(13)三原については三原脩『風雲の軌跡』(ベースボール・マガジン社 昭和五十八年七月)ほかを参照。
(14)三原はこの翌年、学生結婚をして大学野球部を引退しているが、これはこの事件と無関係であり、妻も小説の登場人物の女性とはまったく関係はない。
(15)中村三春「モダニズム文芸とスポーツ──「日独対抗競技」の文化史的コンテクスト──」(『山形大学紀要 人文科学』第一二巻第二号 平成三年一月)。モダニズム・スポーツ文芸について大きな教唆を得ている。
(16)ここでは前田愛「大正後期通俗小説の展開」(『近代読者の成立』有精堂 昭和四十八年十一月)をふまえている。