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秋聲と青果の「ちよつと切つても切れない」関係


日比 嘉高
『秋聲全集』八木書店、月報40号、2004年5月


 真山青果は参っていた。彼自身としては熱意をもって尽くしたと思っていた国木田独歩への看病や葬儀の手伝いが、かえって田山花袋ら独歩の友人たちの反感を買い、擯斥されるという目にあっていたからだ。青果は一九〇八(明治41)年の五月から茅ヶ崎の独歩のもとへ行き、「国木田独歩氏の病状を報ずるの書」を『読売新聞』に連載し、『病床録』のノートも取っていた。しかしそうしたさまざまの彼の苦労は、最終的に通夜の席で彼に反感を持つ者たちと衝突するという結果を生んで終わったのである。

 この文壇史的に有名な騒動については、中村星湖「彼等は踊る」(『太陽』一九一六・九)、田山花袋『東京の三十年』(博文館、一九一七)、斎藤弔花『国木田独歩と其周囲』(小学館、一九四三)、中村武羅夫『明治大正の文学者』(留女書店、一九四九)など、さまざまな角度から記述があるが、野村喬『評傳眞山果』(リブロポート、一九九四)もまとめるとおり正確なところはわかっていない。いずれにせよ青果は、この出来事に傷ついた上に、これが原因となって師の小栗風葉に何度目かになる絶交も言い渡される羽目に陥る。

 この傷心の真山青果をなぐさめ、自らの羽根のばしついでに湯河原まで一緒に出かけたのが、徳田秋聲であった。

 秋聲と青果は、青果の師である風葉と秋聲が親しく友達づきあいをしていたことをきっかけに出会った。秋聲は「牛込の風葉の書斎で初めて其の風貌に接した時から、非凡な存在であることを窃かに感じ」ていた(秋聲「新芸術院会員真山氏【上】」『読売新聞』一九三二・五・一五)。青果もまた、自身とその周囲を描いた小説「枝」(『中央公論』一九〇九・四)に秋聲を登場させ、次のように書いていた。「岸田〔青果〕は初めてこの人〔清水=秋聲〕にその才能を知られたのだ。世間にも認められず、木沢〔風葉〕にも唯酒の面白い剛情な男ぐらゐに知られて、房州に放浪落魄して居る当時、初めて力強い自信を心に吹込んでくれた人はこの人である」。

 風葉に師事し、秋聲の知遇を得ながら、青果は文学的出発を遂げていく──知られているとおり、そこでは風葉の代作者という評判も、尾ひれを付けながらついてきていた。「真山青果はえらいもの、三十面して代作す、今日も代作料が七十円、風葉と秋聲のつかひわけ。トコトツトツト」。こんな歌が「専ら牛込辺で流行して居る」とからかったのは一九〇七年五月の『新声』「緩調急調」だが、彼らは雑誌『新潮』に寄りながら、外からは「戸塚党」とも呼ばれたりする仲間づきあいを始めていく。

 さて一九〇八年の九月、秋聲と青果は湯河原へと旅立った。この場所を選んだ理由は、やはり独歩に関連しており、彼の「湯ケ原ゆき」(『日本』一九〇七・七・一七─三〇)の跡をたどるためでもあったようだ。宿も、独歩と同じ中西屋と決めた。この湯河原行きについては、双方の文学者がそれぞれの視線からいくつかのテキストを残している。分担執筆した「湯河原日記」(『新潮』一九〇八・一一)、青果の小説「温泉の宿」(『趣味』一九〇八・一〇)および「枝」、そして秋聲の小説「檻」(『早稲田文学』一九一〇・四)。これらを読んでいくと、二人の不思議な交友がよくわかり、また、秋聲という人物の文壇における人付き合いの仕方の一端も見えてくる。

 真山青果という、筆力は認められながらも素行・創作態度の面で悪評嘖々たる問題児の傷心を、なんとか慰めてやろうとせっかく同行した秋聲であったが、その結果はといえば結局見事な失敗であった。我が強いくせに寂しがりやで、しかも少々酒癖が悪かった青果は、当時ほとんど最後の同情者といってよかった秋聲とも悶着を起こしてしまったのである。

「どうしても帰るんですか。」
「帰ろうよ」
「帰れるなら帰つてごらんなさい。」
「どうしてだ。」
「貴方が僕の面皮をかくやうなことをするなら、僕も貴方の面を圧潰さなけアおかないんだ。」
〔・・・〕岡辺の顔は恐ろしく嶮しくなつて来た。蛇のやうな目が涙に曇んで、口が引釣つたやうになつた。堅く腕を組んで、肩を聳かしながら、俯いてゐた。故意に演てゐるやうな芝居が、何時か全身の血を狂立たせて、自分にも苦悩に堪えないほど暴れて来た。深い線が、口元や鼻の左右に幾筋となく蒼い、肉を刻んで、見るだけでも、慄然とするやうであつた。
 二人の調子は、段々荒くなつて行つた。林はこの悪魔に附絡はれては、一歩も此処を出ることが出来ないやうに思はれた。

 愛想を尽かして帰ろうとする林(秋聲)に、岡辺(青果)が激しい異常な権幕で詰め寄る。当初「伊豆の山相模の山や秋晴るゝ  秋聲」、「湯あたりの枕つめたき秋の雨  青果」(「湯河原日記」)などと仲良く句を並べていた二人だったが、仕事もはかどらず、湯河原もさほど気に入らず、結局仲違いをして帰っていく。「真山青果氏新年怱々小説「枝」を書くべく水戸方面とやらへ旅行する相だ。それは昨年徳田秋聲の湯ケ原へ遊びに行きたる折、秋聲と不和を醸した事がある。それを材にして書き上げるのだといふ話だ」(「文壇はなしだね」『読売新聞』一九〇九・一・一)。文芸メディアの噂話はこう報じたが、面白いことに、実際にその「不和」を書いたのはむしろ秋聲の方だった。先の引用は、実は秋聲の「檻」からのものである。自分自身の放埒な生活を書き、周囲の人々をも遠慮なく書くことで知られていた青果は、噂となった「枝」でも、また「温泉の宿」でも、秋聲とのいざこざは書かなかったのだ。

湯の色がオパールに光つた。清水はその中へヅブリと頸まで湯に漬けて、手足を浮かせてウツトリと何時までも入つて居るのだ。何か考へて居るのかと云ふに、必ずしも然うでも無い。細かい顫えのある声で、小さく義太夫なぞ唄つて居る時もあつた。湯の中の手足は恐しく美しく見える。〔・・・〕
「あゝあ、斯うして居ると、国の母が恋しくなる。好く馬に乗せられて春湯治に行つたのを覚えて居る」と時々清水はシンミリした調子でこれを云つた。
 雨の日なぞは聞く岸田の胸がこの言葉に鋭く痛ませられた。岸田の母も始終湯治にあこがれて居た。 (「枝」)

 独歩の死にまつわる出来事以降の経験を、自身に向けられた悪評と、新しい境地を目指してもがく自分の姿とを織り交ぜて描いた青果「枝」は、秋聲と二人で出かけた湯河原での場面で終わっている。物語は、心機を一転して執筆をはじめるべく行ったその地でも、結局ろくに仕事にならなかった、という結末を用意しているのだが、それまで執拗にみずからのトラブルを語ってきながら、ついに秋聲との間の感情のもつれについては触れることはないのである。もう一つの青果の作品「温泉の宿」においても、やはりこれは同じである。描き出される秋聲の人物像は物静かで、落ち着きのある先輩としてある。

 これと比べれば、「檻」における秋聲の筆致がかなりの手厳しさであることは一目瞭然である。小説のモチーフは青果との確執そのものであり、タイトルも「檻」である。檻=真山青果。ほとんど湯河原の滞在を青果による軟禁だったとでもいわんばかりの命名だ。

 ここから我々は、秋聲を敬愛し続けた青果と、湯河原での事件をきっかけに気持ちが離れていった秋聲とを見てとるべきなのだろうか。二人の中には亀裂が走り、青果が文壇を去って新劇の脚本作家へと身を沈めていくにしたがい、秋聲はだんだんと遠ざかっていった──。といった軌跡を描いたのであれば話はむしろ分かりやすいはずなのだが、実際のところは、まったくそうではなかった。一九二五年二月になっても、秋聲は依然「真山青果君とも、またちよつと切つても切れないやうな友情関係がある」(「交友の広狭」『中央公論』)と述べる。徳田一穂「青果と秋聲」(『真山青果全集』月報21、一九七七)の述べるとおり、秋聲と青果の付き合いは晩年まで続いたのである。無類の観劇好きでもあった秋聲は、脚本作家となって以降の青果とも細くも長い交流を続け、そういった二人の関係のなかから、秋聲作・青果脚本の戯曲が生まれてもくる。

 こうした息の長い交際を見ていると、徳田秋聲という人物が交友関係についてもっていた独特の淡泊さのようなものを感じずにはいられない。青果についても、「檻」で辛辣な描写を浴びせたかと思えば、翌年二月の『新潮』の真山青果論では擁護の弁を述べるなど、親友風葉の弟子筋で近しい仲間であったにもかかわらず、特別な扱いをしてやっている痕跡はみられない。おそらくこうした付き合いの流儀には、秋聲が他の作家の作品を批評する際のスタンスのあり方もかかわっているだろう。秋聲の青果作品への評価をたどっていて気づくのは、そのあっけないほどの距離感である。特別に称揚するわけでもなければ、とくに含みの有りそうな低評価を示すこともない。あえていえば非常に当たり障りのない凡庸な評価が多い。しかもその評価が、当時流通していた青果に対する評言──誇張が多い、筆に勢いがある、など──をなぞっていることが多い。このようなよく言えばこだわりのなさが、秋聲という作家の批評意識であり、またひいては交友関係の特質でもあったのだろう。そしてこの距離感こそが、真山青果のような一筋縄ではいかない難物と息の長い交際を続けてゆける秘密でもあったのである。

 一九一四(大3)年のある初秋の一日、秋聲は「真山青果氏の「母」と云ふ一篇をよんで、ひどくセンチメンタルな心持にな」ったという。彼はいう。「「母」を読むと、青果氏のあの頃の生活が、あり/\と私の目に浮かんで来る。私は此作を読んでゐるうちに、何だか気が滅入つて為方がなかつた。作がまづいとか、好いとか言ふのではない。旧い友達に逢ひたいやうな気分が、沸々と胸に湧いて来たのである。氏などは自分の性格から作出された色々の生活上の煩累──負債が嵩張つて来てゐながら、始終其の上塗をしながら、実生活上の危険へ身を陥れてしまつたのである。此作をよんで、そんな事が善くわかる」(「寝ながら」『読売新聞』一九一四・八・一四)。度重なる周囲との衝突、原稿の二重売り事件、度外れた金銭感覚、青果が自から引き寄せたこれらすべての災いと苦労を、秋聲はつかず離れずの関係で見守っていた。いつにない秋聲の「センチメンタルな心持」を読むと、彼ら二人の「ちよつと切つても切れない」関係に思いをいたして、こちらにも「センチメンタルな心持」がうつってきそうでなくもないのだが、果たしてそうもいかないのがこの二人の面白さである。

 湯河原でのいざこざから優に三〇年以上が過ぎた一九四二年、青果はこれまでの業績を認められ、日本芸術院の会員となった。これに際し青果を紹介した秋聲の文章がある。むろん、祝いと顕彰のそれではあるのだが、次のような一節が挟み込まれているのを読むとき、二人の長く不思議な交友関係を見てきた者は、思わず微苦笑せずにはいられないだろう。

氏は自身のみならず、人が晏如として其のところに落着いて満足してゐるのを見てさへ、何か熾烈な苛々したものを感ずるものと見え、酒に酔ふと執拗に突かゝつて来たり、絡みついて来たりして、私も一度一緒に湯河原に滞在して、その手を喰ひ困つたことがあつた。その性格は作品の到るところに見られるかと思ふが、そのために氏はまた非常な損をして居る事も否定できない。
(前掲「新芸術院会員真山氏【上】」)

 湯河原は、いまだ秋聲にとって思い出の去らぬ土地だったようである。