〈翻訳〉を必ずしも単なる異言語間の言葉の移し替えの意味に限定する必要はない。それを、レイ・チョウの言うように「ある特定の言語もしくは表象の型には統合不可能であるような様々な記号システムを展開する多様な社会グループ間の共時的な交流と闘争として理解し直」すとしたら、どうだろう(1)。〈翻訳〉概念を拡張することにより、我々はあるテクストや言説が生成するときに起こるさまざまな文化的枠組みの流入と変容のありさまを、反映論的に短絡して理解することなく、より精緻に追究できるようになるし、さらにはその枠取りからテクスト/言説が離脱していく瞬間をも目にすることができるだろう。
ここでは文化的な〈翻訳〉の具体的稼働のようすを、明治後半期の〈人格〉をめぐる言説の展開と、漱石「野分」(明40・1)との間で検証してみたい。
佐古純一郎『漱石論究』(朝文社、一九九〇年五月)は、「野分」の主人公白井道也の『人格論』について次のように述べたことがある。「今日誰かが「人格論」と題する論文を書き、書物を書いても、べつだん珍らしいことではないだろう。しかし、『野分』が書かれた明治三十九年にさかのぼって考えるなら、それは画期的といっていいようなことがらなのである」(200頁)。筆者はこの評価に疑問をもつ。たとえば、「野分」発表の三ヶ月前に出た雑誌『実業之日本』の臨時増刊号(明39・10)を紐解いてみるとどうだろうか。「人格の修養」と総題されたその特集は、「大国民の人格」「人格修養論」「人格を高むる法」「泰西名家 人格観」などといった目次が並ぶ。道也がさかんに説く人格の価値を、この特集もまた強調すべく組まれているのである。
次に掲げた表は『国立国会図書館 明治期刊行図書目録』、同CD-ROM目録(J-BISC)、NACSIS-Webcat、筑波大学・早稲田大学など各大学図書館の蔵書検索サービスを利用して筆者が作成したものである。
出版年 | 明33 | 〜 | 明39 | 明40 | 明41 | 明42 | 明43 | 明44 | 明45/大1 |
点数 | 1 | 〜 | 4 | 6 | 4 | 4 | 2 | 4 | 4 |
【表1】 「人格」をタイトルに含む明治期書籍数 (中略部分は0(未発見))
明治三九年以降になって、年四点を前後して続々と人格論関係書籍が刊行され始めていることがわかる。主要なタイトルを紹介すれば、明治三九年には 紀平正美『人格の力──修養の方法──』(同文館)、 田村逆水『成功と人格』(博文館)、 鳥居〓[金+帝]次郎『人格修養論 男操論』(東北評論社)、 以下、加藤咄堂『人格之養成』(東亜堂、明40)、江口岳東『人格の光輝』(実業之日本社、明40)、浮田和民『人格と品位』(広文堂書店、明41)、赤司繁太郎『青年と人格』(千代田書房、明42)、四五年にはその名も『人格論』(渡辺徹著、精美堂)という書物が出ている。こうした状況を踏まえて『人格の鍛錬』(実業之日本社、明42)の著者蘆川忠雄は、「人格といふ問題が、近頃大分世人の口頭に上るやうになつたのは、誠に心嬉しいことである」とその序文を書き出している。すでに明らかなように、道也の『人格論』は「画期的」どころか、むしろ流行りものとすら言ってよいようなタイミングでの著述だったのである。
実は佐古氏自身、前掲『漱石論究』の後『近代日本思想史における人格観念の成立』(朝文社、一九九五年一〇月)へと進み、倫理学・哲学を中心に明治二〇年代からの「人格観念」成立の様相を追究している。この佐古研究が詳らかにしたように、「人格」という言葉は、明治二〇年代にperson, personalityの訳語として成立した和製漢語である。当初主に学術用語であったが、明治三四年にはすでに「此頃、新聞雑誌等にて、屡々人格といふ語を散見し、此語は殆んど通俗語とならんとする程になれるが、〔・・・〕」(中島力造「◎人格とは何ぞや」『教育学術界』明34・7)と言われている。
それゆえここで確認すべきなのは、道也の『人格論』は作品発表時においてすでに「画期的」ではなかったということと、しかし同時にそれは日露戦後の何らかのうねりと同調して出現したものだ、ということである。
この「うねり」については後述することとし、まずはいま少し人格をめぐる言説について見渡しておく。明治三〇年代に入って人格は「通俗語」化し始めるとともに、学術用語としても展開と精緻化を進め、倫理学、哲学、心理学、法律学、宗教・神学、教育、さらには芸術、修養論など膨大な領域を覆っていく。そのいくつかから用例を引いてみよう。引用一点目が辞典、二点目が心理学、次が芸術である。
@独立して思考し行動し得る個体。A〔倫〕精神の統一を持続して意識的行動をなし、道徳上の責任をも受け得らるゝ資格ある個体。B〔法〕自己の生存発達を営み得る能力を有する権利の主体。(2)
予が専攻せる心理学は夙に這般〔人格〕の研究に向ひ、殊に主意論がその根柢として採用せらるゝに及び、人格研究の傾向を強め、心理学をもって人格の学なりとなすものすらあるに至れり。(渡辺徹『人格論』精美堂、明45・1、序3頁)
ゲーテは人格は芸術と詩とに於ける凡てのものであるとまで云つた。作者の人格を離れては、到底真の芸術はあり得ない。(「文芸講話 芸術と人格」『新潮』明43・2)
この他、文部省訓令第三号「中学校教授要目」(明35・2・6)中の修身科においても、第三学年及び第四学年の課題「道徳の要領 自己ニ対スル責務」として「人格」が数えられていることが確認でき、公的な教育プログラムにおいてもまたこの概念の浸透が図られていたことがわかる。
さまざまな領域で、個人を理解し表現し構成するテクノロジーとしての〈人格〉が機能を始める。〈人格〉概念を適用されることにより、個人は道徳的主体として、権利義務の主体として、次世代を感化する主体として、さらには作品を統べる主体として表象され、その学的枠組みの中に埋め込まれて統御されていく。
〈人格〉概念はアカデミックな領域で鍛え上げられていく一方で、「品格」「品性」などと互換性を獲得しながら日常語としても浸透していく。そして、白井道也が『人格論』を発表しようとしていた日露戦後には、「人格」を冠した書物が次々に刊行される状況が訪れるのである。
ではこうしたなか現れた道也の『人格論』は、いかなるタイプのものだったのだろうか。簡単に整理してみよう(3)。
特徴として挙げられるのは、人格の価値づけ、人格修養としての学問、学問と金の背離論、人格による教育、趣味の強調と文学者の役割というあたりだろう。後の論旨と関わる点のみ見ておけば、学問と金については、「学問即ち物の理がわかると云ふ事と生活の自由即ち金があると云ふ事は独立して関係のないのみならず、反つて反対のものである」(「野分」十一、道也の演説、436頁、漱石テクストの引用は以下すべて平成版『漱石全集』岩波書店)という背離論が出されている。また人格による教育については「道也は人格に於て流俗より高いと自信して居る。流俗より高ければ高い程、低いものゝ手を引いて、高い方へ導いてやるのが責任である」(「野分」一、266頁)という責務感が抱かれていることを押さえておきたい。
人格を他の何よりも貴いものとみなし、その修養・維持の必要性を説く。高い人格への尊敬を求め、高い人格をもつものには低いものを導く責任があるとする。こうした道也の『人格論』の展開を整理すると、同時代に拡がっていた人格論諸言説のある領域に近似していることが見えてくる。ある領域とは、先に少し触れた「うねり」を現出させたものである。この動きを視野に入れると、道也の『人格論』が明治四〇年に現れたことの意味が見えてくる。
「うねり」とは修養論ブーム、領域は修養論である。
明治三〇年代前半の「成功」ブームが冷却し、より内向きな「修養」へと思潮は変化する。ここで言う修養論系人格論は、こうした修養論の体系に接続されるかたちで編成された人格論である。
この修養論系人格論と道也の『人格論』は共通する点が多い。「人格の修養」を強調するところは当然としても、学問の意義づけ、趣味の涵養、教育における人格の重視など、非常に多くの枠組みの共有が確かめられるのである。
たとえば人格修養としての学問については英国ジヨン、ラボツク述「人格修養論」(前掲『実業之日本』臨時増刊)が次のように言う。「夫れ学問は手段なり、目的にはあらざるなり〔・・・〕学問によりて判断を正確にし、品性を陶冶し、人格を高尚にするこそ賢者の道なれ」(48頁)。
教育と感化についても、道也の前提と同じく「知らず識らずの間に教師の人格の力が生徒の上に影響する所は甚だ多いので、如何なる学校の教師でありましても、人格といふことに注意しなければならぬのであります」(中島力造『教育者の人格修養』目黒書店、明44・11、18頁)と説かれていることが確認できる。
道也の『人格論』はその内容において、ほとんど同時代の修養論系の人格論とパラダイムを共有していることが指摘できる。白井道也もまた、日露戦後の修養論者の一人だったのである。
もちろん、すべてが同じであったというわけではない。そこには道也なりの〈翻訳〉が加えられている。
まず特徴的と見られるのは、道也の論が教育者側の視点に立った論であることである。しかもその「教育」は、「学者」「文学者」の「筆」や「舌」による啓蒙の形態をとっていることが注目される。
「金」に対する態度も興味深い。水谷修「修養論の構造」(『教育学研究集録』筑波大学、第6集、一九八三年)は、修養論の類型を四つに分類し、そのうち「世俗的利益」を肯定するか、「精神的満足」を選択するかの観点から、前者を「「成功」志向の修養論」、後者を「「内省」志向の修養論」として分類している。筆者の見るところ、人格論の文脈においてもこの分類は有効である。修養論系の人格論を見渡しても、拝金主義そのものを肯定する論は存在せず、富と人格の一致を説くか(「成功」志向(4))、富の獲得を度外視するか(「内省」志向(5))におおむね二分されるようだ。では道也の『人格論』はどうか。金と人格とを「反つて反対のもの」とみる彼の論理は、一見「内省」志向に近いかのように見えるが、「金」を度外視するどころか強烈に否定しようとしており、かえって「金」にこだわっているものである。修養論系人格論の中にはこうしたタイプは見当たらない。
教育と文学、「金」の扱いなど、道也の人格論の論理のもつ特徴・相違点が確認できただろう。しかし真に考えねばならないのは、こうした内実面での細かな差異ではない。人格論が、小説として発表されたこと。「野分」における最大の〈翻訳〉は、この点にこそ存するだろう(6)。
小説へと〈翻訳〉された人格論の意味と機能を考える際にポイントになるのは、「教育」とそれにまつわる人格論的キーワード、「感化」である。
前提として、先行論者による次の二点の指摘を参照しておきたい。ひとつは、「野分」に漱石の日露戦後の「新しい世代」への期待と危惧をみる石崎等「漱石と「新しい世代」覚書」(『文芸と批評』一九六七年六月)、もうひとつは「白井道也とその読者の関係を作品内に顕在化した作品」として読む村瀬士朗「流通する「文学」、「文学者」の自立」(『文学』一九九一年一月)である。青年たちへの「教育」の視点を導入したこと、道也と読者の関係の変化が書き込まれたテクストと指摘したことの二点を押さえ、まずはここから〈青年教育のプロセスを描いた作品〉という本論の出発点を導いておく。この出発点に立って、人格論をいかに〈翻訳〉してテクストが生成しているのか見てみたい。
道也の言葉や筆の働きかけによって、高柳が影響を受けて変化し、演説「現代の青年に告ぐ」の聴衆たちも喝采へと導かれるのは村瀬論の指摘する通りである。しかし、こうした読者聴衆たちの変化は、単なる慫慂や説得によってもたらされたものではない。テクストは彼らの変化を裏づける論理を用意しているのである。
此物質的に何等の功能もない述作的労力の裡には彼の生命がある。彼の気魄が滴々の墨汁と化して、一字一劃に満腔の精神が飛動して居る。此断篇が読者の目に映じた時、瞳裏に一道の電流を呼び起して、全身の骨肉が刹那に震へかしと念じて、道也は筆を執る。〔・・・〕白紙が人格と化して、淋漓として飛騰する文章があるとすれば道也の文章は正に是である。(「野分」三、311-312頁)
多勢が朝に晩に、此一人を突つき廻はして、幾年の後此一人の人格を堕落せしめて、下劣なる趣味に誘ひ去りたる時、彼等は殺人より重い罪を犯したのである。〔・・・〕趣味の堕落したものは依然として現存する。現存する以上は堕落した趣味を伝染せねばやまぬ。彼はペストである。(「野分」五、解脱と拘泥、336-337頁)
前者は「白紙が人格と化」すと評される道也の述作のようすと、その読者への伝播の具体的描写。後者はこの伝播の悪しき局面の例示である。語られているのは、堕落させられた人格の発揮する趣味が周囲に「伝染」していくことへの危惧である。
こうした伝播と「伝染」の描写の背後には、明らかに同時代の人格論の言うところの「感化」の概念が前提されていると筆者は考えている。「感化」は教育・修養系の人格論において、生徒や自分自身を啓発し変化させるための論理を提供する概念である。修養論が読者を「感化」することを目指して偉人の徳目を挙げるのは珍しくないし(たとえば『実業之日本』臨時増刊の「人格の感化力」)、少し後には「感化」のシステムを心理学的に追究する佐藤繁彦『人格の感化』(実業之日本社、大2・11)という著述も出ている。むろん漱石も、この概念を知っていた。「〔・・・〕えらい人が此種の〔「情操」重視の〕文学をかいて、えらい人の人格に感化を受けたいと云ふ人が出て来て、双方がぴたり合へば、深厚博大の趣味が波動的に伝つて行つて、一篇の著書も大いなる影響を与へる事が出来ます」(「創作家の態度」第一回朝日講演会、明41・2・15、231頁)。「人格」「感化」「趣味」がきれいに出そろっていることが確認できる。
明治後半期の言説空間に幅広く浸透していっていた人格を論じる知の枠組み、なかでも修養論の文脈におけるそれに修正を加えながら取り込んで、「野分」は成立している。しかも、この人格の「感化」という思想は、青年教育のプロセスを描くテクストのさまざまなレベルにおいて機能していることが見い出せるのである(7)。人格論の小説への〈翻訳〉が、まずはここに展開されていると見てよいだろう。
さらに考えを進めてみる。では、「野分」とは「感化」による青年教育のプロセスを描いたテクストであると言いきってしまってよいだろうか。
たしかにプロットとして高柳は道也に「感化」され、『人格論』を手にして中野のところへ向かう。しかしこうした結末にも関わらず、作中あまりにもその「感化」を及ぼす「先生」たる道也が相対化されていはしないか。同時代評も早くから「作者自から現実を茶化して観てゐるやうに思はれ」るため、道也が「左程豪い人とは思はれぬ」と言っていた(銀漢子「漱石氏の『野分』」『早稲田文学』明40・2)。「野分」は単純に人格による「感化」を説いて終わっているわけではないようである。
とすれば、こうした道也の相対化によって効果される、彼の頑なさあるいは盲目性に注意する必要があるだろう。テクストは、「一人坊っちは崇高なもの」といい、「芸者や車引に理会される様な人格なら低いに極つてます」(「野分」八、387-388頁)と主張する道也を、一方で異なったまなざしのもとに置き、人格で「感化」するはずの生徒に排斥され、出版を断られ、妻に「自分丈はあれで中々えらい積りで居りますから」(「野分」十、414頁)と言われる場面をも提示するのである。人格論は、テクストの一部として小説内部に置かれることによって、他の複数の視点・声により必然的に相対化を蒙る。人格論の〈外〉が併置されるのである。
次の引用は「学問」を相対化する視点の提示である。
なまじいに美学抔を聴いた因果で、男はすぐ女に同意する丈の勇気を失つてゐる。学問は己れを欺くとは心付かぬと見える。自から学問に欺かれながら、欺かれぬ女の判断を、いたづらに誤まれりとのみ見る。(「野分」七、359頁)
これは中野に向けられた語り手の評だが、「男」「女」と一般化されてもいるように、全く同じ論理が道也にも当てはまりうる。道也の場合では、学問とは人格論ということになる。「学問は己れを欺く」、すなわち人格論が「己れを欺く」可能性の示唆である。
ただテクストは、人格論そのものの陥穽を語ることはせず、人格修養論者である道也の頑なさを示すにとどまった。それが作品の限界であったのかもしれない。しかし、人格論を〈翻訳〉しつつ援用した小説「野分」が、その内部において放った「学問は己れを欺く」という言葉を、現在の我々がもう一度〈翻訳〉し投げ返すことは可能であるはずだ。
明治から大正へと移りゆくなか、〈人格〉は自己の陶冶のビジョンを示すと同時に、社会システム内における個々の分限をも内面化させていく。人々の自由と制約、明視と盲目とが、〈人格〉の名のもとに生起していく過程──「学問が己れを欺」いていく過程の考察が、この問い返しの先には開かれるはずである。
(1)レイ・チョウ『プリミティヴへの情熱』(青土社、一九九九年七月、292頁)。ただし、〈翻訳〉の拡張はチョウの言うような「文化の同時代性」が認められた中でのみ適用されるべきものではないと筆者は考えている。
(2)『辞林』新版(三省堂書店、明44・4)の「人格」の項。引用は『明治のことば辞典』(東京堂出版、一九八六年一二月)による。
(3)『人格論』は作中では内容が直接明らかにされないが、ここでは語り手「作者」による道也の信条の叙述、論文「解脱と拘泥」、演説「現代の青年に告ぐ」をその内容と同質のものとみなして論じる。
(4)「正直に儲けたる金銭を所有するは、或る程度までは其所有者に品性あり力量あるの証拠なり」(江口岳東『人格の光輝』実業之日本社、明40・10、202頁)。
(5)大原里靖『人格と教養』(参文舎、明40・10、10-11頁)は「成功の基礎を人格その物の力に帰せざる可からず」と述べ、「空虚なる名誉」「不義の財宝」などによる成功を否定する。
(6)本論は作家漱石を参照する方向を採らないが、よく引かれるように漱石は高浜虚子宛書簡(明39・10・17付)で「近々「現代の青年に告ぐ」と云ふ文章をかくか又は其主意を小説にしたいと思ひます」と述べ、構想のゆれを示していた。
(7)四つの形の組み込みが考えられる。理論の提示として(道也の『人格論』)、具体的な「感化」プロセスの描写として、プロットの展開として(高柳への「感化」)、三点目をメタレベルに転化した「野分」読者への「感化」として、である。
[付記]本論執筆に先立ち、二〇〇〇年度金沢大学国語国文学会において発表を行い教唆を得た。