日比 嘉高
『京都教育大学紀要』第109号, 2006年9月, pp.33-45
文化が伝播するとき、そこには一見、オリジナルとコピーの関係が生まれるように見える。たとえば、西洋の絵画を「洋画」として受容した明治の画家たちの場合、彼らの学んだヨーロッパの絵画が本物でありオリジナルであり、彼らの描いた作品は模倣であり、多くの場合不格好なコピーである、というように。
ただしもちろん、こうした発想は、「オリジナル」というものがそもそも「コピー」という概念を前提として事後的に構築される概念である──つまり「コピー」がなければ「オリジナル」もない──という着想に立てば、「オリジナル」と「コピー」の間に成立しているかに見えた上/下関係や本物/偽物の関係はくずれさる。
「オリジナル」と「コピー」のヒエラルキーは、文化や流行が伝播してゆくさまざまな場面において、幅広く観察される。人々は「オリジナル」への幻想が、実のところ自分たちの身のまわりの粗悪な「コピー」の蔓延という事態を踏み台にして成立しているという事態を省みることなく、「オリジナル」から「コピー」へという伝播の図式を想定し、本物であり正統である「オリジナル」の幻想を消費する。
宗主国/植民地という空間においても、もちろんこの図式は広く成立した。宗主国の美術は本物であり、宗主国の文学は精妙であり、宗主国の思想は深遠であり、そして宗主国の人々こそがそれらの正統な担い手だ。それに対し植民地の美術はその複製品で、植民地の文学はその模造品で、植民地の思想は誤解に満ちた受け売りで、つまるところ植民地人は本国の文化の不完全な追随者にとどまらざるをえない──などというように。
私がここで検討しようとしている日系アメリカ移民たちの世界においても、こうした幻想はたしかに存在していた。移民地で刊行されていた新聞を読めば、内地との落差にもとづいた渇望や落胆の言葉は、探すまでもないほどの紋切り型であることがすぐにわかる。そうした彼らの幻想を、脱構築の論理操作を援用しながら、根拠の不確かな俗説として批判することはあまりにも簡単だ。だが、その批判に、はたして何ほどの意味があるというのか。彼らの幻想は、単に「幻想」と名指して呼びさるにはしのびない、自分たちへの批評意識に根ざした、故国文化への渇望のかたちそのものである。まずはその彼らの置かれていた状況と、そこからもたらされる感情や思考を理解しなければ、論理操作はまさに机上の空論としてむなしく空転するだけだろう。
ただし、かといって理解するという作業が、彼らの言葉、彼らの歴史の後追いになるだけでは、問題はそれ以上に広がらず、議論は好事家的な発掘作業の域を出ていくことはないだろうし、悪くすればそれは既成の歴史を無批判に追認するだけの保守的な作業ともなりかねない。
文化が拡がり伝わるときに何が起こるのか。オリジナル/コピー関係の脱構築でなく、オリジナル幻想の追認もしくは批判でもなく、その構図の成立と社会内における展開の実際をきちんと見極め、その上で「オリジナル」と「コピー」──と呼べるとすれば──の間の関係の再考察にむかう。それが現時点で私が取りうる最良の選択肢に思える。
本論文では、日本近代文学と日系アメリカ移民の日本語文学の間に生起していた「影響関係」の再考を行う。取り上げるのは、二つの「並木」──島崎藤村によって書かれた「並木」(一九〇七年)と、サンフランシスコの移民文士、岡蘆丘によって書かれた「並木」(一九一〇年)──である。
北米日系アメリカ人一世の日本語文学の歴史は、非常に大雑把にまとめれば、内地の文学の模倣や無断転載、あるいは内地文壇の強い影響下において追随作を産出していた状況から、移民地固有の作品の創作を目指す方向へ向かう道をたどったといえる。この要約そのものは、大筋では間違いないはずである。実際この後みてゆくように、「並木」発表の同時代には、内地の自然主義文学の理念や創作方法を強く意識した作品が、少なからず制作されている。
だが、それだけで彼らの文学史のすべてを一括して語ってしまうわけにはいかない。模倣・転載・追随作からオリジナルの追求へという概略を提示するとしても、その把握が塗りつぶしてしまう個々の場面の複雑さを見逃したくはない。それは単なる細部へのこだわりの問題だけではない。細部において複雑なふるまいが起こっており、時にそれが全体つまり歴史の大筋に矛盾する動きをするということは、ありえないことではない。部分の総和は、必ずしも全体の姿と等しくはならないし、また部分は全体の縮小された写像でもない(1)。「文学」というシステムの歴史叙述に対してこうした発想を導入すれば、大枠として〈内地〉の文学の影響が強く表れていた時代においても、日系移民の日本語文学は、その細部において「本物/複製」の対立や「影響関係」「伝播」などといったナイーヴな把握では捉えきれない複雑なふるまいをしていたことが見えてくるだろう。
太平洋を挟んで創作された二つの「並木」を平行させて考えながら、「オリジナル」/「コピー」関係の再考を行い、そこから日系アメリカ移民文学史と日本の近代文学史の絡みあった交差ぶりの考察につなげていきたい。
日本の文壇で自然主義が隆盛を極めたのは、一九〇六〜〇九(明39─42)年ごろのことである。もちろん、小杉天外らの初期自然主義を視野に入れ、『白樺』や『スバル』同人たちの登場と平行する『早稲田文学』周辺の文学者たちの活動の継続を考えれば、その期間はもっと前後に伸びる。が、「自然主義」の語がほとんど全文壇に行き渡り、広範な影響力を誇ったのはこの時期、三年ほどのことである。
自然主義は、文学思潮として、見たままの社会の実相を飾らずに描くという理念で文壇の構成員を魅了しただけでなく、ある種の現代思潮として、閉塞感と自意識に苦しんでいた青年たちの心情をも代弁した思想だった。その浸透ぶりはすさまじく、多かれ少なかれ、そして是であれ非であれ、ほとんどすべての文学者が自然主義に対する反応を余儀なくされた。そうした文壇の動向は『早稲田文学』などの文芸雑誌や『文章世界』のような若年層向け投書雑誌にとどまらず、『太陽』『中央公論』といった総合誌、新聞の文芸欄などを通じて、文学に関心を寄せる全国の読者たちに届けられていった。
この時ならぬ熱狂の波は、海を渡って北米太平洋岸の日系移民たちのもとへも届いた。
別稿で考察しているため重複は避けるが、日本国内で出版された書籍・雑誌を売りさばく販売網は、国内の各地方を網羅しつつあっただけにとどまらず、すでに明治期から各移民地/植民地へもその網の目を拡げつつあった。たとえばサンフランシスコの場合、一九〇九年の時点で、日本語の書籍を売る専門書店だけでも九軒が存在し、内地で出版された新聞・書籍・雑誌の取次販売、通信販売を行っていた。この時代、太平洋を渡るのに汽船で約三週間。つまりほとんど月遅れにも満たない時差で、移民たちは望めば日本の最新刊を手に入れることができた。
ちょうどこの自然主義の時代、富山から海を渡り、シアトル近辺で缶詰工場や農園での労働、スクールボーイなどを行って過ごしていた若き翁久允は、次のように回想している(2)。
読み耽った雑誌類は、太陽、中央公論、新潮、早稲田文学、文芸倶楽部、文章世界といったようなもので、これは本屋から送ってもらうことにしていた。これら雑誌に現われた日本の思想界は明けてもくれても自然主義の論議であった。長谷川天渓、島村抱月、田山花袋、岩野泡鳴などと言った論客の一字一句が新鮮味をもって味われた。島崎藤村の「春」が読売新聞に出た。竹島君の妻君が一か月分ずつそれを竹島君に送って来たのを借りてきて読むのが何よりの楽しみであった。真山青果という新人の作に驚き、正宗白鳥の「何処へ」とか「泥人形」などを読みつつ祖国のはげしい変遷を思いに浮かべた。国木田独歩の「欺かざるの記」の簡潔な文章もよかった。そして、紅葉、露伴、芦花、鏡花、漱石といった時代が古色を帯びようとしていることが感じられた。
太平洋をまたいだ流通網によって次々と届けられる新刊の書籍から、久允が貪欲に故国の文壇の流行思想を追いかけていたことがわかる。後年の回想ゆえ、少し差し引いて考える必要はあるだろうが、彼の描き出す文壇の新旧交代の見取り図は、驚くほど正確である。引用は、隔てられたからこそかき立てられるのかもしれない欲望と、自分を埒外に置いたまま激しく変遷する「祖国」への憧憬を雄弁に物語る。
時期としては自然主義の勃興期になるが、永井荷風もまた在米時代、友人に次のような書簡を送っていた。「花袋子は戦地へ行つたさうな。僕は太陽で氏の「露骨なる描写」と云ふものを読んだ。君はどう思ふね」(3)。移民たちは、現代の我々が想像する以上に、ほとんどリアルタイムといっていい僅かな時差で内地の動向を察知し、敏感に反応していたのである。
こうした反応は、個人的なレベルに留まることなく、やがて移民地のメディア上にもその姿を見せはじめる。早いものとしては、樋口秀雄「自然主義の文壇」が一九〇八年六月二一日に、サンフランシスコを中心として刊行されていた日本語紙『新世界』に掲載される。これは出歯亀事件が引きあいに出され、「肉欲主義」などとも呼ばれた文壇の自然主義の現状を、樋口の考える理念的な自然主義のあり方と照らしあわせつつ批判したものである。筆者は樋口龍峡、当時文壇主流派の自然主義批評家たちに対し距離をおいた立場に立った批評家である(4)。一九〇八年の時点では『新世界』をみる限り、ほかに主立った反応は見られない。
『新世界』に自然主義の影響下にある評論、小説が目立ちはじめるのは、一九一〇年に入ってからのことである。評論としては大和久生「自然主義を論ず」が上下二回に分けて、一九〇五年五月二二、二三日に発表される。これは転載ではなくオリジナルの評論である。自然主義を五種類に分類しつつ、その特徴と現状をレッシングやテーヌなどに言及しながら美学的に論じたものだ。内地の文壇への言及は行われず、テーマの選定として当代的なものを選びつつも、日本の議論の主流とは距離をおいた論旨になっている。
これに対し、むしろ小説の創作がより直接的な言及を見せた。たとえば、梅本露花による「日曜日」という作品がある。これは『新世界』の新年の懸賞小説に一等当選した作品で、一九一〇年一月一日に掲載された短篇である。主人公の「私」はサンフランシスコに住む日本人の若者で、仕事の合間に小説を書く人物として造形されている。友人との対話の中で、彼は「文学は人生そのものなんだ、美は真だ、人生の事実を真に紙上に写したのが文学なんだ」と自身の文学観を吐露する。これは自然主義文学が掲げた、ありのままの人生の真実を描くという理念を受けたものだといってよいだろう。労働に追われる日々の生活に寂しさを覚えた彼は、休日の夕方、サンフランシスコ湾に面した遊歩地へ出かけ、故郷──島根の「孤島」とされる──に思いをはせ、暗鬱な気分のまま、そこでふと出会った女と自死する想像をする。
また平井桜川「そのまゝ」(『新世界』全六回、一九一〇年三月一二─一六、一八日)は、サンフランシスコ近郊の田舎で家内労働をする日本人の若者が、聞き手の小説家にみずからの経験を語る物語である。冒頭、「僕」は聞き手に対し、「この頃は変な小説が流行するんで僕の様な男までそれに煽動をだてられてこの様な事件になつちまつた様な訳だ」、「考へて観ると自然主義なんて碌な主義ぢやないな」(一)と語り起こす。「この様な事件」というのは同じ家で下女として働くフランス人の女性と主人公との間の恋愛を指している。ただしそれは恋愛というよりは、彼女に対して抱き始めた性欲とそれを抑える心的な葛藤と呼ぶべきもので、しかも物語は結末でその性欲が成就するという結構をもつため、テクストは性欲およびその主体たる「僕」の描出を批判的に行うというスタンスを示さない。性的な欲望の惹起と成就の物語は、主人公「僕」の語りの磊落であっけらかんとした調子と相まって、確信犯的に書かれた、「肉欲主義」の異名に相応しい「自然主義」小説──という印象を与える。「そのまゝ」という題名に、ある種の距離感もしくは逃げ道を読み込むにしても、大方のこの評価は変わるまい。
太平洋岸の日本人移民コミュニティに現れた故国の自然主義文学に対するこうした応答は、表面的に一括すれば、「自然主義の影響」の一言ですませられるかもしれない。だが、個々のテクストの抱えもつ細部は、それを手がかりとしつつたぐってゆけば、必ずしも「影響」の一語だけでは片づけられない広がりをもっているはずである。「日曜日」の主人公「私」の心情は、移民地という、内地とは置換不可能な場所において生きる固有の困難さ抜きには分析できないし、「そのまゝ」における性欲の構成も、白人家庭で日本人男性が異人種の女性とペアになって家事労働──当時の内地の感覚からすれば「下女の仕事」である──をするという状況と切り離しては考察できない。次節では、こうした細部において観察される齟齬と複雑さの一例を、より詳細に検証してみたい。扱うのは、『新世界』に一九一〇年二月二二〜二六日に全五回にわたって掲載された、岡蘆丘の「並木」というテクストである。
岡蘆丘の「並木」は、ロサンゼルスの日本人町に生きる青年たちの一夜を描いた物語である。物語の現在時は明記されていないが、内容から判断するに、同時代の、おそらくは作者の身のまわりを描いた物語であると考えられる。ストーリーは、主人公岡本を中心に、彼と友人たちが下宿や料理屋(「酌婦」が酒を出した)において議論を繰り広げたり、相互にさまざまな洞察や批評を行いあうようすをつづっていく。
まず注目したいのは、主人公の岡本の人物造形である。
岡本万次郎は、肥前屋の一号室で、花袋の小説『田舎教師』を、熱心に読んでゐる。彼は久しく、自然派の小説を、愛読してゐる。そして彼の言行は、頗る、自然主義的の、傾向かたむきがある。多くの彼の友達の内には、眉を顰めて、彼の主義、主張を、聴く者もある。併しまた、彼の男らしい、自己告白を冷汗の出る様な、懺悔の、寧ろ、大胆さに、驚かされてゐる手合も尠なくはない。岡本に、言はせると人間は、多くの場合に、理想とか職業とかいふ、仮面を被つて歩いてゐる。この、仮面を被つて歩く事を、岡本自身は、如何どうしても敢てする、勇気がないと言つてゐる。而して、彼は、彼の鋭い眼が所謂、理想とか、虚栄とか、いふ仮面を通して、本来の、人間を見ておると言つてゐる。若しも、彼に向つて、理想的、虚栄的に、論戦を、挑もうものなら、それこそ彼は、合手あいての仮面を、引き払つて親から貰つた、そのまゝの裸にして、本来の人間は、こうした者だと、曝出すのだ。恁ういふ遣り方をするのが、岡本の主義で、同時に快事と思つてゐる。 (一)
作品の冒頭である。岡本の手には、田山花袋の『田舎教師』がある。これは佐久良書房から一九〇九年の一〇月、つまり岡の「並木」掲載の四ヶ月ほど前に出たばかりの新刊だ。さらにこの後の描写で、彼の本棚には「モオパサン、ツルゲーネーフ、ユーゴー」の横に「日本自然派諸作家の小説」が並んでいることが語られ、また、「机の上には、新版の雑誌が、四五冊」(一)あるとも記されるなど、故国の出版物──とりわけ自然主義文芸の成果を積極的に手にし、読みこんでいた人物として造形されていることがわかる。
彼のいだく思想として紹介される内容の原型もまた、完全に自然主義の文学者・批評家たちが唱道していたものといえそうだ。「仮面」や「理想」「虚栄」への攻撃は、たとえば長谷川天渓の「論理的遊戯を排す(所謂自然主義の立脚地を論ず)」(『太陽』一九〇七年一〇月)、「現実暴露の悲哀」(『太陽』一九〇八年一月)などで論じられているものであり、その活動は一九〇八年七月に評論集『自然主義』(博文館)としてまとめられている。「自己告白」もやはり、田山花袋の「蒲団」(『新小説』一九〇七年九月)に対する批評や島村抱月「懐疑と告白」(『早稲田文学』一九〇九年九月)などをメルクマールとし、この時期の自然主義の創作と評論が点火した流行の身ぶりである。
しかも面白いことに、主人公岡本は、そうした書物からえた知識を単に机上のものとしてとどめず、彼自身の思想や言行をそれらに従わせて生を送っている青年として登場する。これは些細なようだが、実は重要な問題をはらむ。自然主義の思想を「文芸上」の問題にとどめるか、「実行上」の問題にまで広げて考えるかは、それをめぐって〈文芸と人生〉論議が起こるほどに、自然主義論壇にとって緊要な課題であった(5)。天渓や花袋、抱月など主要な自然主義の理論的主柱たちは文芸と人生(実行)を切り離す「観照派」に立ち、岩野泡鳴ら一部の文学者と多くの若い世代の自然主義青年たちは、これに対しその一致を説く「実行派」の立場に立った。つまりは〈文芸と人生〉をめぐる対立において、ある種の世代間ギャップが露呈していたのである。そしてすでに明らかなように、ロサンゼルスの自然主義青年である岡本は、その自然主義思想の受容の仕方において、同時代の日本に生きた自然主義青年たちとほとんど完全な相似形をなしていたのである。
こう考えてくると、岡本は日本の自然主義の著名文学者たちの思想を忠実になぞる人物であり、海こそ越えているものの日本の地方在住の青年たちのと同じような構図の中にいた青年だと見えるかもしれない。あたかもオリジナルな思想の発信者たちである天渓や花袋らの模倣をした内地の青年たちの、さらにそのコピーである岡本──。もしこの構図が正しいのだとすれば、ロサンゼルスの下宿の机上で『田舎教師』を読む岡本の姿には、文学に憧れ、友人たちのように上級の学校へ進む希望を持ちながらも果たせず、北関東の片田舎で二一歳の生涯を病で閉じざるをえなかった若き小学校教師、小林清三の姿を重ねてみることができるのかもしれない。
だがはたして本当にそうだろうか。「並木」には次のような箇所がある。
亜米利加に来て居る日本人の内には随分頭脳あたまの善い人も居る〔。〕相当の職業しごとを営やつて居る人もゐる〔。〕押しなべて言ふと外国の移民に比べて教育のある者が多い〔。〕いゝかねそれを知らずに彼等が日本人とさへ言へば皿洗や窓拭と同類にしてしもう〔。〕詰り並木にされてゐるのだ (四)
この「詰り並木にされてゐるのだ」が作品のタイトルになっているのはいうまでもないが、実はこの主人公の発言には、前提として踏まえている文学的な知識がある。島崎藤村による同名の小説、「並木」の存在である。
藤村の「並木」は『文芸倶楽部』に一九〇七年六月に掲載され、のち短編集『藤村集』(博文館)に収められた。この『藤村集』は、一九〇九年一二月の刊行、すなわち岡の「並木」の三ヶ月前であり、こちらの方が入手が容易だったと思われるが、著者の岡がどちらを参照していたのかは不明である(6)。
藤村の「並木」は、壮年の二人の(元)文学者が感じた、若い世代との間のギャップと時の流れの速さなどを描いた作品である。東京で会社勤めをする相川のもとへ、かつての文学活動上の友人、原が八年ぶりに訪ねてくる。金沢から東京へ居を戻そうという彼と旧交を温めながら、相川は時の流れをあらためて感じ、老け込んだと自身でいう原にいらだちをみせる。散歩の途中、二人は知人、青木と布施に会う。自分たちを「先生達が産んで下すつた子供」だという彼らの若々しさは、二人にいっそう時の早さを自覚させる。原と別れた翌日、相川は「腰弁街道」と名付けた官庁街にさしかかる。頭を垂れて歩く人々は、彼に枝葉を切りそろえられた並木を想起させる。「もつと頭を挙げて歩け」。相川は言った。
発表直後の評価をみる限り、藤村の「並木」に対する評価はかなり高かったようである。
右の様な一種の悲観を懐て藤村の「並木」を読んだら、何となく胸を抉られる様な感がした、此作中の人物にモデルがあるとか無いとかいふ穿鑿を措くとしても、「社会の為めに尽さうといふ熱い烈しい希望」を抱いて居たが実行の力が之に添はず、又生活難に圧せられて、煩悶して居る中に時勢は容赦無く移つて、自分等はとり残され、知らぬ間に老ひ込んで行くやうな気がする〔。〕社会の為めに枝葉を切られて「並木」になつて仕舞うのではあるまいか、かういふ感を抱く者は相川一人ではあるまい(「新刊」『帝国文学』一九〇七年七月)
×藤村氏の『並木』の勢力は恐ろしいものだ。生活の苦悩を知り、初めた青年の間には、「並木に成る」と云ふ言葉が流行してゐる、並木と云ふ言葉が、生活の為めに精力を消耗して新思潮の圏外に掃き出された人々に定名を下したのである。(「緩調急調」『新声』一九〇七年八月)
「何となく胸を抉られる様な感がした」といいながら、『帝国文学』の批評者は、藤村の「並木」が登場人物の相川一人だけにとどまらない、多くの人々に当てはまる問題を捉ええたことを評価する。『新声』の評者はより進んで、「並木と云ふ言葉が、生活の為めに精力を消耗して新思潮の圏外に掃き出された人々に定名を下した」とまで断案する。しかも面白いことに、「生活の苦悩を知り、初めた青年たちの間には「並木に成る」と云ふ言葉が流行してゐる」ことを報告する。真偽のほどは不明であるにせよ、どちらの評も、藤村のテクストが、同時代のある種の人々の気分を非常によく代弁していたことを評価していると言えるだろう。
主人公に「詰り並木にされてゐるのだ」と怒りの言葉を吐かせ、作品のタイトルに「並木」の一語を選んだ岡蘆丘もまた、この藤村の提示した「並木」という言葉の批評性に反応した者の一人だった。アメリカに生きる岡もやはり、日本に住む藤村「並木」の読者たちと同じ地平に生きていたのである。
だが、見逃すべきでないのは、同じ「並木」という言葉を用い、双方のテクストが「社会の為めに枝葉を切られて「並木」になつて仕舞う」(前掲『帝国文学』)ことへの嘆きと異議を述べているにしても、そのテクストが参照している「社会」は、かなり違ったものであったということである。
かたや日露戦後の東京、かたや排日運動の高まりつつある北米ロサンゼルス──。同じであるはずがないではないか。
それを検証するために、藤村の「並木」(初出形)から、ロサンゼルス版「並木」の岡本が踏まえている箇所を確かめておこう。
『相川先生。』と青木は突如だしぬけに新しいことを持出すのが癖で、『此頃から私は並木といふことを考へて居ますが──』『並木?』と相川は不思議さうに。
『あの御堀端なぞに柳の木が並んでるのを見ますと、斯う同じやうな高さに揃へられて、枝も何も切られて了つて、各自の特色を出すことも出来ないで居るところは──丁度今の社会に出て働く人のやうでは有ますまいか。個人が特色を出したくても、社会が出させない。皆な同じやうに切られて、風情も何も無い人間に成つて了ふ。実は今朝散歩に出て左様さう思ひました、あ、吾儕われ/\も今に斯の並木のやうに成るのかなあ、と。』
相川の知人で、大学に通う青木が自説を展開する場面である。青木が言及しているのは皇居の掘端に並んでいた柳の並木である。彼はこれを当時の「社会に出て働く人」の似姿として提示する。作品の末尾で、相川はこの青木の説を踏まえて次のような感慨を漏らす。
和田倉橋から一つ橋の方へ、堀を左に見ながら歩いて行くと、日頃相川が『腰弁街道』と名を付けたところへ出た。方々の官省やくしよもひける頃と見えて、風呂敷包を小脇に擁えた連中が、柳の並木の蔭をぞろ/\通る。何等の遠い 慮 おもんばかりもなく、何等の準備したくもなく、たゞ/\身の行末を思ひ煩ふやうな有様をして、今にも地に沈むかと疑はれるばかりの不規則な、力の無い歩みを運び乍ら、あるひは洋服で腕組みしたり、あるひは頭を垂れたり、あるい〔ママ〕は薄荷パイプを\口卸{}へたりして、熱い砂を踏んで行く人の群を眺めると、恰も長い戦争に疲れて了つて、肩で息をし乍ら歩いて行く兵卒を見るやうな気がする。『あゝ、並木だ。』と相川は大学生の青木が言つたことを胸に浮べた。原も、高瀬も、それから又た自分も、すべてこの堀端の並木のやうに、片輪の人に成つて行くやうな心地がしたのである。
暗い、悲しい思想が、憤慨の情に交つて、相川の胸を衝くばかりに湧き上つた。彼は廃兵を叱咤する若い士官のやうに、塵埃ほこりだらけに成つた腰弁の群を眺め乍ら、
『もつと頭を挙げて歩け。』
斯う言つた。冷い涙は彼の頬を伝つて流れた。
藤村の「並木」が描き出しているのは、日露戦争後の東京に生きる人々が抱えていたある種の閉塞感だろう。それは「今の社会に出て働く人」が、「個人が特色を出したくても、社会が出させない。皆な同じやうに切られて、風情も何も無い人間に成つて了ふ」というように表現される。個人のもつ固有性を活かせず、社会に適応していくためには画一化されて生きていかざるをえない、という感覚を一部の人は抱いていたようだ。藤村はこの同時代感覚を、皇居の堀の横、丸の内・大手町あたりの道筋を夕刻に退社・退庁していく「腰弁」──すなわちサラリーマンたちの姿に対する相川の感懐を通じて描出する。相川は彼らの姿の上に、「長い戦争に疲れて了つ」た「兵卒」という、まさに日露戦争後らしい想像力を重ねてみせる。
「並木」という比喩は、ここでは掘端の刈り揃えられた柳の並木が、「頭を垂れ」、「身の行末を思ひ煩ふやうな有様をして、今にも地に沈むかと疑はれるばかりの」ありさまで歩く「腰弁」の姿に投射されることで機能している。友人の原や高瀬、そして自分もこうした疲れ切った兵士たちのように、刈り揃えられ、自己の本来的なあり方を失っていくのかもしれない──。藤村のテクストは、後に石川啄木が「時代閉塞の現状」(一九一〇年八月稿)によって深化させて分析した二〇世紀初頭の日本社会の状況の一部を、時の流れの中でもがく相川の怯えと悲憤を通じて描きだしていたといえるかもしれない。
一方、岡蘆丘の「並木」はどうだろうか。再度引用すれば、主人公岡本の憤りとは、次のようなものであった。
「亜米利加に来て居る日本人の内には随分頭脳あたまの善い人も居る〔。〕相当の職業しごとを営やつて居る人もゐる〔。〕押しなべて言ふと外国の移民に比べて教育のある者が多い〔。〕いゝかねそれを知らずに彼等が日本人とさへ言へば皿洗や窓拭と同類にしてしもう〔。〕詰り並木にされてゐるのだ〔。〕今少し平たく言ふと松の樹は、松の樹、杉の樹は、杉の樹〔、〕ガムツリーはガムツリーに見ないで同じ松の樹にしてしもう」 (四)
ここで岡本が批判しているのは、十把一絡げに「日本人とさへ言へば皿洗や窓拭と同類に」してしまうというアメリカ社会の状況である。岡本が言うように、実際には日系アメリカ移民といっても、その内実は多様であった。主にもっぱら労働に専念する出稼ぎ労働者もいれば、働きながらアメリカでの修学をめざすスクールボーイたちもいる。商店主やジャーナリスト、会社員、あるいは宣教師、医師、教師などさまざまな専門職。経済事情も故国で受けた教育も、実に多様な構成員が、日系社会を形作っていた。そうした多様性を、アメリカ社会の住人はまったく視界に入れない、というわけである。
つまり、岡のテクストにおいて「並木」の比喩は、現実にはさまざまな階層や個性によってなりたっている日系移民が、アメリカ社会に存在した民族的なステレオタイプによってその個々の固有性が塗りつぶされ、「同類」にされてしまう状況を指すべく使われている。
同じ「並木」の比喩を援用しながら、岡は藤村の行った社会批評を、二〇世紀初頭のアメリカ社会で日系移民が直面する困難への怒りとして奪用した。時期やアイデアの出自の側面を重視すれば、たしかに岡蘆丘の「並木」は島崎藤村の「並木」の発表後に、その「影響」を受けて構想され、発表されたものである。その意味で岡のテクストは藤村のテクストの追随作であり、藤村作品をオリジナルとすれば、その想像力の圏域のなかで創作されたコピーもしくは異本・翻案 バージョン だと言えるかもしれない。だが、そうした「伝播」や「影響」の枠組みを外して考えてみれば、その種の把握は、事態の一面のみをとらえたものに過ぎないことがすぐに判明するだろう。
藤村のテクストは、「破戒」(一九〇六年)発表後にその盛名を確立した自然主義の代表作家が、『文芸倶楽部』という当時の著名雑誌の臨時増刊号に発表した作品だ。増刊号の特集名は「ふた昔」、藤村版「並木」の読者たちは『若菜集』などの抒情詩人として出発した著者が自然主義の小説家として転身するその姿を作中に登場する高瀬──藤村がモデルである──に重ねて読んだことだろう。しかも注(6)においても少し触れたように、この作品はモデル問題という思わぬ余波を文壇に引き起こし、自然主義のリアリズムと創作活動の倫理性の問題の渦中へと投げ込まれていく。
一方の岡のテクストは、『新世界』というサンフランシスコを拠点として周辺の日系コミュニティに配布されていた日本語新聞に掲載された。残されている資料から見るかぎり、この作品がなんらかの反響を引き起こしたという事実は確認できない。実際、句読点もたどたどしいアマチュア作家の短篇が、どれだけの注目をえることができたか怪しいだろう。編集の方針としても、紙面上では岡の「並木」の本文途中に伊原青々園「新桂川」の後篇の予告が差し挟まれているように、内地の職業作家によるやや大衆向けの長篇小説の方に、より商品価値が見いだされていたらしい。
とはいえ、岡の「並木」が、移民たちにとって我々の声とでもいうべきものを発していたことは間違いないはずだ。遠く東京のことではなく、自分たちの街──自分たちが働き、食べ、飲み、生きる街で、自分たちの等身大の人物が唄い、苦しみ、憤る小説を、共感をもって読んだ読者たちは必ずいただろう。サンフランシスコで日本人学童が公立学校から閉め出され、その地位回復の交換として結ばれた日米紳士協約が、日本政府の労働移民への旅券発給を停止させる。一九〇八年のことである。アメリカ太平洋岸諸都市での日本人排斥の機運は、この後も徐々にエスカレートしていく。岡の「並木」は、こうした状況の中で発せられた一人の移民の声を、その短いテクストのなかに確かに織りこんでいるのである。
ただ、本論を閉じるにあたり指摘しておきたいのは、現在の我々は、岡のテクストをポジティヴにのみ評価してすませることはできないということである。岡本はアメリカ社会の日本人差別への抗議を述べるに際し、こう言っている。
「君も知る様に彼等は文明国民と威張て居る〔。〕文明国民と威張つてるなら何故文明国民的の態度を吾々に取らんのだ〔。〕吾々日本人は顔こそ黄色だが頑迷な伊太利人やメキシカンとは其間に甚だしひ〔ママ〕径庭があるからね」 (四)
岡本の怒りは、民族的ステレオタイプにもとづいた差別そのものに対して向けられたものではなかった。彼の論理は、ここへ至って突如矛盾の色を見せはじめる。アメリカ人により十把一絡げに「並木」にされて憤る彼は、まったく同じことを「伊太利人やメキシカン」に対して自身が行っていることに、完全に無自覚である。自分たちが受ける処遇によって自覚されたはずの民族差別の現状は、そのシステムの構造そのものへの批判の契機として生かされることはなく、むしろ岡本自身の内部にすらその差別の構造が内面化されてしまっていることが明らかになってしまうのである。
日本の近代文学に関する深い関心と最新の知識。岡はその自然主義文学に関する知識に基づいて、「並木」という発想をアメリカ社会にもあてはめて用いた。その際「並木」という発想の枠組みは変容をこうむり、新しい射程をもって移民のコミュニティの中に放たれた。二つのテクストの比較分析からは、オリジナル/コピーの枠組みでは捉えきれない、現実の中に差し出され受けとめられたテクストが遂行的に振る舞う複雑な様相がみえてくる。藤村の追随作であるかのようにみえた岡の作品は、当時のアメリカの日本人移民たちが苦しんでいた人種的偏見とそれに対する怒り、そして差別に反発しつつもその〈偏見のヒエラルキー〉を身につけていってしまっていた日本人移民たちの姿が刻み込まれていた。交差し、絡みあう「並木」の変貌ぶりを記述するためには、単なる伝播や移し替えの比喩では足りない。移植後の、根を張り、繁茂するテクストの複雑な展開こそが、単純な理解の枠取りを食い破っていくだろう。
(1)中村量空『複雑系の意匠 自然は単純さを好むか』(中公新書、一九九八年一〇月)の複雑系に関する議論にアイデアをえている。
(2)翁久允「わが一生 海のかなた」(『翁久允全集』第二巻、翁久允全集刊行会、一九七二年二月)、39頁。
(3)永井荷風「断腸亭尺牘」其七、一九〇四年四月二六日、生田葵山宛。
(4)記事は樋口の「偽自然主義と文壇」(『中央新聞』一九〇八年五月)の転載である。
(5)日比嘉高「〈文芸と人生〉論議と青年層の動向」(『自己表象の文学史』翰林書房、二〇〇二年五月)所収。
(6)藤村の「並木」は初出と単行本形で相当の変化があるため、どちらを参照したのかが問題になる。ここには藤村「並木」が引き起こしたモデル問題が影を落としている。藤村の「並木」は、その登場する人物のことごとくにモデルがあり、発表前からそれが話題となり、発表後にはモデルにされた藤村の友人たち、馬場孤蝶や戸川秋骨らによる藤村の作品および彼の創作法への論難が行われたという経緯があった。藤村の「並木」は、文学的な評価以外においても当時名高かった作品だった。岡蘆丘が藤村の「並木」に注目した理由には、このモデル問題の存在も関わっていたかもしれない。藤村のテキスト中の「並木」云々の場面は初出形の方が多く、岡の言及のあり方から考えると、彼は初出形を参照していた可能性の方が高いと考えられる。
◇この研究は科学研究費助成金(平成15─17年度、課題番号15720031「20世紀前半期における〈文学青年〉の社会的形成過程とその表象」)およびそれを発展的に引き継ぐ科学研究費助成金(平成18─20年度、課題番号18720043「北米日系移民の日本語文学に関する総合的研究 1868-1945」)の助成を受けて行われた。
また引用文中に、差別的表現と受け取られる可能性のある表現があるが、原文の歴史性を尊重し、そのまま使用していることをおことわりする。
Yoshitaka HIBI
This paper will examine the early literature of first-generation Japanese immigrants (issei), paying particular attention to its relationship with the "homeland." Japanese immigrants established an active network to circulate various printed materials across the Pacific and a linguistic environment where people could easily access the latest information both from Japan and within their local communities. This enabled early issei writers to create a very unique literature. For example, OKA Rokyu, an immigrant writer in San Francisco, wrote a short story entitled "Namiki" (Row of Trees) in 1910. The title was taken from a novel of the same name published in 1907 by SHIMAZAKI Toson, a Japanese Naturalist writer. OKA's text was not simply written under the influence of SHIMAZAKI Toson. Toson's use of the metaphor of trees cut to the very same size and displayed along the roadside to represent people's lives in 20th century Tokyo was appropriated by Oka three years later to represent the Japanese immigrant in the United States who experienced the racial discrimination.