文芸用語としての「モデル」・小考――新声社と无声会――


※ コンピュータの環境の制約で、この論文のhtml版に含まれるフランス語の表記が正確ではありません。アクサンテギュなどが省略されております。正確な表記は雑誌でご確認ください。

日比 嘉高

はじめに

 「春」の登場人物青木のモデルは北村透谷である、という言い方を、われわれはよくする。通常これは著者島崎藤村が、北村透谷を、作品の登場人物を造形する際に参考にした、あるいはより直接的に、その境遇や人となりを題材としたということを意味している。

 ところがどうやらこの言い回しは、たとえば英語圏においては、さほど一般的に用いられていないらしい。木村毅『文芸東西南北』(新潮社、一九二六年四月)は、次のようにいう。

 これ〔モデル〕は勿論、オールド・ミスなどゝ云ふのも同じ一種の和製英語で、日本のやうな意味に於ては、決して外国ではこの語が使用せられて居らぬやうである。外国で小説のモデルと言へば、衆作家の模範ともなるべき名作の意味のやうである。古代羅馬の名作『ダフニスとクロエ』が後世の田園文学、牧歌文芸のモデルをなしたといふやうな意味で用ゐられて居るらしい。 (p.4)

実際、英語の場合 Oxford English Dictionary (second edition)をはじめ、文芸用語事(辞)典の類を一〇種ほど引いてみても、model の語は、冒頭のような意味では用いられていない。それどころか、文芸用語事典には、ほとんどこの語は姿を現さない。

 ところがこれに対し、フランス語の場合、たとえば Tresor de la Langue Francaise (Gallimard,Paris,1985.)には、「作家に、登場人物を創造する着想を得させた人物」という解釈をもつ項目が存在している。冒頭述べた〈「春」のモデル〉といったような用い方は、フランス語では珍しい用法ではないようだ(1)

 むろん、日本の場合はここにとりたてて言うまでもなかろう。日本で出版された文芸用語事典や文学史事典の多くが「モデル小説」という項目をもち、『近代名作モデル事典』(至文堂、一九六〇年一月)なるものまでが出版されている(2)

 外来語である「モデル」が英語・フランス語のどちらの言語がもとになっているか、いま詳らかでないが、両者の差異は興味深いものであると思う。もちろん、これは英語圏の文学において、実在の人物を題材として作品が書かれたことがなく、フランス語圏の文学においてはあった、ということを指しているわけではない。そのような事態は両者の文学史に存在したはずだが、それを“model”“modele”という語を用いて指し示す表現習慣があるか、ないかということである。また見落としてはならないが、その場合、ここでいう「モデル」の用語法が、いつ頃から現れたのかということも問題となろう。前掲の Tresor de la Langue Francaise の用例は、一九五六年のものであるが、一九世紀、あるいはより以前の時期のフランス語にそのような用例がまったくなかったのかどうか。同様のことが、日本についても言える。現在では特に珍しくないこの言い回しは、いつ頃から流通するようになったのか。

 また、フランスの場合は措くとしても、日・英両文学における差異は、単にその用語法があるかないかという、微細な違いに過ぎないというわけでもないようだ。実際の人物・事件を材料として小説を作るという方法が双方にあるとはいえ、それに対する関心の持ち方が、かなり異なっているように見受けられるからである。このことは本稿で紹介した日本語と英語、双方の事典類のありようの違いからも理解されよう。日本の小説の読書においては、小説の材料に興味の向けられる程度が、より強いようだ。これは「モデル」に対する注目度が高いと言いかえることもできるだろう。

 本稿の問題意識は、この文芸用語としての「モデル」という日本語の言い回しが、どのように現れてきたのかを検討することにある。あらかじめ断っておかねばならないが、これはこの用例の初出を突き止める試みではない。この点に関しては、木村同書が明治四〇年の丸山晩霞の使用(3)を最初と推定し、臼井吉見「モデル問題論争――近代文学論争(四)――」(『文学界』一九五四年四月)はより早い、『新声』明治三五年九月号掲載の田口掬汀きくてい「もでる養成論」を挙げるなどしている。補足的に言っておけば、すでに三〇年八月『新著月刊』の「作家苦心談」(4)で幸田露伴が「私の『五重塔』は此の話をして呉れた倉と云ふ男を全然ではないが、幾分かモデルに使」ったと用いていることは指摘できる(5)

 ただしくりかえすが稿者の意図は、語のたんなる初出探しにあるのではない。問題は、その語がいつから現れたのかということよりも、どのようなコンテクストのなかで現れ、用いられたのか、それは何を意味していたのかということにある。とりあえず現段階において、その語が「絵画上の用語の転化」(木村)したものであること、「この和製英語の出現が、明治自然主義文学の勃興と密接な関連をもつている」(臼井)ことが指摘されている。モデルという言葉は、ある事物をじっくりと見、それを忠実に書き写そうという〈写実〉の意識・概念の登場と密接に関連している。そして、そのような意識をともなった語の出自に、文学と美術との交渉が介在しているとされるのである。

 このような指摘をふまえ本稿で注目してみたいのは、臼井論文も言及する田口掬汀「もでる養成論」である。明治三五年という文芸用語としての「モデル」の出現期に書かれた、おそらくは最初の「モデル論」であり、同時に論中で美術ジャンルへの目配りがなされていることからも、まずはこの掬汀論を考察せねばならないと考える。先にも述べたように、この掬汀論が文芸用語としての「モデル」の初出だというわけではないが、ある言葉がいまだ固定的でない時期に、その言葉の意味が生成してくる現場のひとつのケースとして、「もでる養成論」には検討する価値がある。前掲の臼井論文は、この掬汀論に触れはするものの、正面から取り上げてはいない。論中における掬汀の「もでる」の用語法が、「仏の国家」から「伊太利の田舎」の「若き女」にまであてはめられる、広い意味内容をもったものとなっており、臼井論は、この「もでる」の使い方を「漠然たる用法」とみなし、深入りしていない。しかしそのように安易に、この掬汀の評論を切り捨ててしまってはならない。

 そもそも田口掬汀という人物自体、それほど一筋縄でいく人物ではない。通常彼は「伯爵夫人」などの大衆向け家庭小説の作者として、また明治末期に川上音二郎などのために一連の脚本を描いた人物として、考えられることが多い。しかし彼は、この後大正期から、美術雑誌『中央美術』を創刊し、鏑木清方らと日本画の研究団体金鈴社を結成、また帝国美術館設置のために奔走した人物でもある。彼は優秀な美術評論家であり、企画者でもあった。そしてその彼の評論は、新声社の社員時代からスタートしている。

 さらに、この掬汀の当時所属していた新声社という出版社兼文学結社には、平福百穂という日本画家が挿絵作家として入社していたことにも注意を払わねばならない。この画家は、社長である橘香佐藤儀助と田口掬汀と同郷の秋田県角館出身で、掬汀とは生涯親友であった人物であることも押さえておく必要があるが、なにより百穂は、明治三〇年代の初頭から岡倉天心率いる日本美術院に対抗し、〈自然主義〉を唱えて日本画に写実を導入しようとした美術家集団、无声会むせいかいの主要メンバーであった。

 掬汀の評論の背後には、このような知的な交渉の存在を透かし見ることができる。これらの事実を考慮に入れたとき、掬汀のモデル論を「漠然たる用法」として捨て去ってしまうことは、新声社の周囲で行われていた活発な文化の交流にたいし、目を閉ざしてしまう結果となるだろう。「もでる養成論」における掬汀の用語法はたしかに幅広い。しかしそれは、言葉の誕生期のもつ豊饒さであり、文学と美術とが親密に触れあう地点から、その言葉が生まれたということを刻み込んでいるがためと考えるべきではなかろうか。

 掬汀「もでる養成論」を入り口に、「モデル」という言葉の周囲でなされた文学と美術との文化的交渉のありさまを通じて、その言葉のたどった変遷を描いてみたい。

一、田口掬汀「もでる養成論」

 まずは掬汀「もでる養成論」を概観しておこう。その趣旨をまとめれば、掬汀の「もでる養成論」の議論は複雑ではない。彼の主張は次の点に集約されている。

完全なる美術としての詩歌小説を産せんことを望まば、作家をして大にもでるを尊重せしめ、而してこれと同時に、もでるを養成することを奨励せざる可からず。現実描写の技に熟して後主義信仰の現顕に努む。悠久なる天地の理法人生の帰結楮表画幀に閃きて、観者をして自ら作者の理想に合一せしむること、甚だ易々たるものにあらずや。

 彼がこの評論でいわんとしていることは、現在の日本には「不朽に伝ふ可き価値あるもの」がないこと、そのような作品を創るためには作家の「主義信仰」が「宏遠」であることはもちろん、「其作物が能く対象の真に迫るを得るに至」ることが大切なこと、そしてそのためには、「もでるを尊重」することのみならず、「もでるを養成すること」が必要であること、といったところにある。

 「養成する」という点に多少の違和感を覚えなくもないが、主張そのものは現在のわれわれから見て、さほど奇妙なものではない。むしろ、明治三五年という発表時期をかんがみて、天外や荷風などの「前期自然主義」や、子規一派の写生文との時期的な重なりから、写実への気運の高まりのなかでの主張として、素直に納得できるものとされるかもしれない。

 しかし、主張の妥当さとわかりやすさにもかかわらず、この掬汀論の射程は意外に幅広い。より広い視野からの議論は後にくわしくすることとして、とりあえず細かな特徴を二つほど挙げておきたい。まずそもそも、この明治三五年にモデルという言葉を用いたこと自体、かなり奇抜なことだったといってよい。管見の限りではあるが、モデルという言葉が文学の文脈内で現れるのは、先節でも触れた三〇年八月の『新著月刊』「作家苦心談」における幸田露伴が、いまのところ最初である。ただし、この『新著月刊』のシリーズ企画「作家苦心談」では、今でいう「モデル」の穿鑿と同種のことがなされているにもかかわらず、この語が現れるのはこの一度のみであり、作品の題材となった事件・人物に対しては、「由来」や「材料」「事実」「雛形」などという言葉が多くあてられていた。「もでる養成論」が掲載された『新声』に関しても、三三年一〇月に「文壇風聞記」が「柳浪の作中の人物、多くはモデルあり」と述べており、さらに三四年一一月の「甘言苦語」でも、掬汀らしき人物が黒田清輝の裸体画騒動に触れて「模型モデルは慥に巴里女」(ルビ原文)というように言及していることが確認できるだけであり、その数は少ない。とくに後者「甘言苦語」は絵画についての議論であるにもかかわらず、モデルという語をそのまま用いず、「模型」という語を立てた上で、そのルビとして使っている点が目をひく。

 『明治のことば辞典』(6)に収録されている辞典類を見ても、日本語としてモデルの語が現れるのは、明治三八年になってからに過ぎない。それも「ひながた」「てほん」などの言葉があてられており、美術用語あるいは文芸用語としての側面は取りあげられていない。写生・模写の雛形という、美術・文芸用語としての意味が反映されるのは、大正元年刊の芳賀矢一著『新式辞典』(大倉書店)がはじめてである(7)。もちろん美術用語としてのモデルは、専門領域の中でよりはやくから流通していただろうが、青年向け投書雑誌『新声』の巻頭論文として描かれた掬汀の評論が、当時かなり新奇な響きをもったタイトルを掲げていたことは間違いない。

 このような新しい言葉をキーワードとしてなされる議論の方が、論旨としてさほど目新しいものではなかったことはすでに述べたが、一方でその議論の細部がすこし奇妙であったことにも目を向けておきたい。まず「もでるを尊重」することの必要性を強調した後、掬汀はいかに西洋の作家・画家たちがモデルを用いたかという具体例を示す。ダ・ヴィンチ、ラファエロに関してなされるモデル使用の話は、通常の画家の用法の域を越えていないが、その前に示されたユゴー、トルストイなど文学者の例が、現在のわれわれには不思議な印象を与える。彼は次のように論ずる。「然り路易拿破崙〔ルイ・ナポレオン〕の暴逆無道なる仏の国家は、ユーゴー氏のもでるなりき。迫害の縄と横暴の剣を持ちたる闇鬼は彼が描きたるもでるなりき。トルストイ伯の筆に載りて、永く後世に伝へらるゝものは何ぞ、専制ズアールの国家即ち之れにあらずや。伯青春の活気に駈られし時代、高加索〔コーカサス〕山下の陣営に見たる戦野の事物は、名作「哥索克〔コサック〕兵」のもでるにして、ナポレオン入寇前後の露国社会の大パノラマは「戦争と平和」のもでるなりき。〔中略〕詩人の目に映ずる現実界の事々物々、一としてもでるならざる者なき也」。先の画家の例が、人間に限定されているのに反し、「迫害の縄と横暴の剣を持ちたる闇鬼」という部分もあるにはあるが、文学者の場合において示されるのは、「国家」「社会」などの非人間的なものに対する「もでる」の語用例である。

 現在のわれわれから見て、そしておそらくは当時の用語法から見ても、掬汀のこの「もでる」の用い方は逸脱的である。『新著月刊』の「作家苦心談」に登場した諸作家が、作品の題材となった事件を指して、「由来」「材料」などの言葉を用いていることを考えれば、掬汀もまた、トルストイらが描いたロシアの社会などを、作品の「材料」と呼んでもよかったはずである。しかし、掬汀はそれらのよく知られた語彙を用いず、あえて「もでる」を使用した。なぜか。彼はどこからこの新奇な用語を手に入れたのか。

 そこで、掬汀が参加していた「モデル」をめぐる知的な交流に焦点が当てられることになる。

二、百穂・新声社・无声会

 先に引いた木村論文が指摘していたように、モデルという文芸用語は、絵画用語の転用であると考えられる。掬汀の用語法の突飛さは、文芸用語としてはほとんど流通していなかったモデルという語を、強引に文学の描写論の文脈にねじ込んだ点にあると、ひとまずいえよう。では掬汀は、この転用をどのようにしてなしえたのか。

 それはまず『新声』誌上、ひいては新声社内における掬汀の位置からも、うかがうことができる。『新声』の雑報欄「甘言苦語」(明治三三年二月創設)を中心として、美術関係の話題を主に論じる役割にあたっていた黒眼(黒眼生、黒眼子などとも)は、実は掬汀の別号である。三四年の入社以来(8)、『新声』における美術担当とでもいうべき役目を負っていたのが掬汀だった。この掬汀の興味や知識がどこに源を発していたのかを考えるとき、彼の同郷(秋田県角館)の幼なじみ、日本画家平福百穂が視野に入ってくる。

 平福百穂は、本名を貞蔵といい、明治一〇年に日本画家・平福穂庵の四男として、秋田県仙北郡角館横町に生まれている。明治二七年、一七歳の時に上京し、写実的な作風で知られる円山派の川端玉章に入門、三〇年には東京美術学校日本画科に入学している。実のところ、掬汀が新声社に入社する形で上京したのも、この百穂の影響が大きい。「三十二年に幼な友達の百穂が東京美術学校を卒業して帰郷。百穂の写生画の清新さや新しい画論に魅了され、新声社を興した同郷の佐藤義亮の活躍ぶりなど東京の話に大いに刺戟されて上京の気持が高められていった」(9)ようである。明治三三年に佐藤・百穂の刺激を受け、掬汀が上京すると、東京美術学校卒業後、郷里の後援者らの意向でいったん角館に帰っていた百穂も、三四年、掬汀と結城素明(日本画家)の誘いで、再度上京する。「自活しなければならない」(10)という百穂を、佐藤の新声社が挿絵画家として迎えることで経済的に支えた。

 モデルという語をめぐる情報の交流は、この新声社内に形成されていた角館出身の小集団においてなされていたと見て、ほぼ間違いないだろう。そしてこの知の運び手となったのが百穂だった。彼は『新声』に挿絵やスケッチを発表する一方で、革新的な若い日本画家たちの小集団无声会に積極的に参画し、そこで得た知見を掬汀らに次々ともたらしていった。

 掬汀が、写実を訴えるに際し「もでる」という言葉を援用した背景を考えるとき、无声会の主張・活動はこの意味で決定的に重要である。では一体、この无声会とはいかなる集団であったのだろうか。

 无声会は明治三三年初頭に、川端玉章門下の結城素明・福井江亭ら数人(角館にいた百穂も名を連ねている)によって結成された「当時としては珍しい同志的日本画集団」(11)であり、その綱領に〈自然主義〉を掲げた点に特色があった。庄司淳一「平福百穂の芸術」(前掲)は次のように評している。

同会が綱領として高く掲げた「自然主義」は、岡倉天心率いる日本美術院の「理想主義」に真っ向から挑戦するもので、美術院が主に題材を和漢の歴史にとり、手法的には綿密重厚な着彩、表現の上では、華麗・崇高・幽玄・厳粛といった一種「もったいぶった」境地を求め、非常な大作主義を推し進めていたのに対し、无声会はというと、題材を卑近の風景・風俗にとって写実をモットーとし、手法は軽快な線描と筆触にあっさりとした色彩、表現としては、質素・簡淡・平明・快活を旨として、小品を数点出品するという風であり、なにからなにまで好対照であった。

 无声会の活動は、「西洋画の写実主義の感化をいちじるしく受けた日本画」(12)の運動とひとまずまとめられる。ただし、西洋画の影響という点については、対置されている日本美術院派に関しても同様である。前掲小高根「无声会の自然主義運動」は、日本美術院派が洋画から「空気、光線の処理を学」んだのに対し、无声会は「日本画の線条を近代化することに努めた」と述べている。つまり无声会も日本美術院派も、ともに洋画からの刺激を受けた日本画界の革新運動であり、両者はその方向性において異なりをみせているのである。とはいっても、実際のところこの時期勢力をもっていたのは日本美術院派であり、无声会は注目されはするものの、駆け出しの若手画家たちの小集団であったにすぎない。そしてこの力関係の傾斜から、无声会の運動は、単なる技術改革にとどまらない、反美術院派としての政治的な色彩を纏うことになる。庄司論文が指摘する、理想主義に対する自然主義、着彩重視に対する線描重視、大作主義に対する小品主義といった、「なにからなにまで好対照」なありさまは、无声会のこのような立場と無縁ではない。

 掬汀の「もでる養成論」を可能ならしめたのは、この平福百穂・无声会との交流であった(13)。掬汀の写実の訴えは、无声会の掲げる〈自然主義〉の議論を受けているものと理解できる。では、「もでる」はどうか。この新奇な言葉をめぐる知見もまた、百穂のもたらしたものであるとわれわれは知ることができる。というのも、掬汀が「もでる養成論」を発表するすこしまえ、百穂ら无声会の会員たちは、次のような状況にあったからである。

 明治三五年四月、无声会は第五回展を上野で開催する。この回の展覧会で、会員たちは人物画を多く発表している。これは、无声会の理論的後ろ盾となっていた美術評論家大村西崖の示唆である。西崖はいう。「无声会の徒初めより自然の研究を以て標榜となせりといへども〔中略〕未だ人物に向ひて毫もその新成績を公にせず新貢献を出さゞるは吾人の頗る遺憾とするところにして常にこれを以て同会の作者に責めたりき」(14)。西崖は、このように人物画が敬遠されてきた理由を、同じ評論で次のように指摘している。「人物画に至りては日本画の典型千古確立してこれを動かすこと甚だ容易ならず〔。中略〕油彩水彩画の材料手法乃至作風も取りてこの中に融和し消化すること山水花鳥に比して頗る難し加ふるにこれを研究するや生人のモデルを要し景色の写生の試み易く成り易きが如くなること能はず」。日本画の人物の描き方には頑強な伝統があり、なかなかそこから抜け出すことができない。洋画的方法による作画の導入も、山水花鳥の場合と比べて難しく、さらにそのためには、生きたモデルを写生するという困難な作業が必要とされる。しり込みする无声会の会員たちに、西崖は発破をかけたようだ。庄司淳一「作品解説」(前掲『生誕百二十年 平福百穂展』)によれば、「会員たちはそのため、モデルを雇って写生会を開いて、洋画的な人物把握の研究に打ち込み、百穂に至っては明治三十五年、たぶん二月と思われるが、東京美術学校洋画科に入学し直した」という。

 この无声会のモデルを雇っての写生会、そして百穂の西洋画科再入学の時期である明治三五年に発表されたのが、掬汀の「もでる養成論」(九月)なのである。新声社社友であり、同郷の幼なじみである百穂から、掬汀は、ほぼまちがいなくこの写生会や西洋画科(百穂はまた太平洋画会の夜学にも通っていた)での知識を聞いていた。掬汀「もでる養成論」は、これらの動向を敏感に取り入れた上で、構想されていたのである。

三、西崖と掬汀

 モデルという言葉の流通の経路が確認できたところで、次はいかなる文脈に取り囲まれて、この語が用いられたのかを見てみることにしたい。

 无声会会員たちが掲げた「自然主義」というのものの明確な輪郭は、諸論者も言うように実はあまりはっきりしない。当事者たちの証言がさほど残されていないのである。そこで問題となってくるのが、先にも触れた、无声会の理論的後ろ盾となっていた美術評論家大村西崖の存在である。

 西崖は東京美術学校を卒業後、明治二八年から同校に戻り教鞭を執っていたが、三〇年に校長の岡倉天心と意見が衝突、辞職している。彼はこれを契機に反岡倉派の旗幟を鮮明にしてゆく。天心が東京美術学校を去り日本美術院を旗揚げすると、「西崖は自分の自然主義理論の実践者である无声会、彫塑会の作家たちを強力に支援する一方、日本美術院作家の画風を「朦朧体」「縹緲体」と呼んで非難し、盛んに筆を揮った」(吉田千鶴子「大村西崖の美術批評」『東京芸術大学美術学部紀要』第26号、一九九一年三月)。この支援のために書かれた評論が、无声会の掲げた理念を知る手がかりとなる(15)

 西崖の「自然」思想そのものについては、吉田論文を始め、庄司淳一「美術と自然――大村西崖の「自然」思想」(『日本の美学』10号、一九八七年五月)などにおいて詳細な研究がなされており、そちらを参照されたい。ここでは主に无声会との関連の面から確認しておくことにする。

○画の一番土台になるものは写生の巧みで、どんな風の面白味でも写生の上に築かれるものと云ふことは争はれない。〔中略〕この写生の不充分ながらも一番旨く行くのは、是迄の諸流派の中、円山派に及ぶものはない。今の世に此派の独り生存して居るも何の不思議はないことだ。/○だが洋画の盛になるにつれて、それと拮抗して生存するに足りる日本画の画風は、とても天明振の写生其儘では覚束ない。何とか一番新機軸を出さねばならぬのだが、その新流派は恐らくは兎に角円山派の中から産まれるだらう。〔中略〕/○無声会の素明、江亭などの画には、日本画の将来生存するに堪へる新機軸の芽が確に認められるやうだが、此一派の連中は、みな現今円山派の泰斗川端玉章の門に出たものばかりだ〔後略。/は原文改行を示す〕 
無名子〔西崖〕「◎美術断片(一)」『東京日日新聞』M33.4.28

 まず西崖の考えとして、写生をすべての画の根本におくという発想が認められる。この認識は、流入する西洋の写実主義の勢いに押されて、とりわけ切実なものとなる。そこで現時点において写実を尊重する一派円山派に注目し、その流派から出た无声会の会員たちの活動を賞揚する。これは別の評論だが、西崖は「日本画で自然主義をやるとて打つて出たのは、実にこの小さな無声会が始めてゞ、その中の結城素明の作などに至つては、将来日本画の命ともいふべき所のほの見えて居る」(16)とまで激賞している。「具象芸術の極致は精緻な自然観察によって「個物美」をとらえ、鍛錬した技芸によってそれを表現すること」(前掲吉田論文)だと考えた西崖は、この要件を満たす自然主義、実際主義を支持し、積極的にそれを提唱したのである。

 個々の方向性は異なっていたとはいえ、无声会の画法は基本的にこの「自然観察」と、それによる「個物美」の表現を目指す方向にあったと言ってよいだろう。「唐人物を画いたり、天人や、仙人を描いたり、また屈原といふやうなものが出来たりした時代」にあって、戸外へとスケッチに出かけ、「工夫や馬車の車掌を捉へ」(17)るなど、日本画家としての新しいまなざしを獲得していった百穂の活動は、西崖の提唱に導かれている。

 そしてまた、掬汀の「もでるを尊重」するという主張も、この西崖の論説と響きあう。内容的なものを検討する前に、まずは西崖と掬汀の立場、すなわち反日本美術院というスタンスが、共通していたことから確認しておく。

 掬汀は『新声』誌上で、この時期三回に渡って日本美術院の展覧会評を発表している。A「日本美術院展覧会を観る」(M34.12)、B「日本美術院派の絵画に対する吾人の所感(上)」(M35.5)、C「同(下)」(M35.6)である。日本美術院派に対する掬汀の態度は、このうちAの一節がよく語っている。

 日本美術院は我絵画界一方の雄鎮である。此派に属する知名?の〔ママ〕美術家は、本院同志の主義は理想派であると言つて居る。其名目の堂々たる、其主張の高遠らしげなる、一代の民心を煙に捲いて、自儘勝手な絵を作つて、独よがりをして居る美術家の団体である。彼等は現下の写実主義なるものを眼下に見縊つて、自ら高く留る独創の高慢面を有して居る者である。極言すれば、厳密に理想と云はる可きものは、現実界に就いての研究を成遂げて、而して其滓渣を棄て其粋を収め、渾然として一体を成したる時に於て唱ふ可きものであるのに、彼等は強ひて自然の現象を放れ〔ママ〕、否寧ろ之を故意に破壊して、畸形の怪物を描出して、夫こそ理想の発顕だなどゝ云ふ、不具の思想を有して居る者である。

激越な調子といってよいだろうが、掬汀の同派に対する態度とは、このようにかなり強く敵対的なものだった。実際この評論において掬汀は、「今回の作物は、其様な真面目な論評をする価値のあるものは一ツもないから、只席順にあらを探すのみに止めて置かう」(傍点原文)と、展覧会評を銘打っておきながら、その任を放棄する態度まで表明する。まずこの点で西崖と掬汀とは同じ立場に立つ。

 ただ実際には、この次の評論Bに、「観山、大観、春草氏等は、彼の『アンプレシヨン』派の真髄を捉へて、之を日本画に現出せんとするの難事業に成功せんとし」と評価する箇所が見られるなど、掬汀には日本美術院派を全否定しようという気はなかったようにも見受けられる。掬汀の態度は、個人的なものというよりもむしろ、『新声』という集団の姿勢により強く由来する。

 庄司淳一「――浪漫派の不和な兄弟――无声会と美術院」(『日本美術院百年史』二巻上、日本美術院、一九九〇年一一月)も指摘するように、无声会と『新声』は互いに支持しあう親密な関係を見せていた。『新声』誌上には、无声会展覧会の予告や評判が掲載されるのはもちろん、同人たちの消息や、百穂の挿絵、无声会の画家たちの作品が誌面を飾った。无声会展覧会の合評も二度ほど試みられている。掬汀の反日本美術院という姿勢は、『新声』そのものの姿勢と同調しているものであった。石井柏亭の次の回想からは、そのあたりの消息を読み取ることができる。

美術院の理想主義に対して自然主義の无声会が挑戦的の態度を取つて居たからでもあるが、其頃の平福君は可なり強烈な闘士ぶりを発揮して、よく我々が集まる時には口を極めて美術院の諸作を罵倒したものである。「新声」の六巻六号に君は「滑稽な某院絵画展覧会」と題して美術院の出品画数点を漫画化した。雅邦の「謝安」「双鷺」観山の「いそつぷ古話」大観の「山間行旅」など皆其槍玉にあげられて居る。鷺の一羽はマントを羽織つて居るやうに、又他の一羽は手拭を肩に「やぞう」をきめ込んで居るやうに漫画化されて居る。  
石井柏亭「无声会時代の百穂君」(18)

柏亭の言及する漫画は「滑稽なる某院絵画展覧会」と題されている(図1)。滑稽なる某院絵画展覧会この回想だけではわからないが、『新声』六編六号というのは、実は掬汀「日本美術院展覧会を観る」(A)が掲載されたのと同じ号であり、それもこの百穂の漫画は掬汀の展覧会評のすぐ前の頁に掲載されている。つまり百穂の漫画と掬汀の展覧会評とは、そろって日本美術院派を貶すという目的をもって『新声』から読者へと発信されていたと見てとれる。「口を極めて美術院の諸作を罵倒」したという百穂の調子は、掬汀の受けるところとなり、また无声会を支持する『新声』のスタンスともなった。

 以上掬汀・『新声』の姿勢と、西崖のそれとの重なりを見てきたが、つぎは掬汀の論説の内容について検討してみたい。

 反美術院という掬汀の立場からも理解できるとおり、写実を排した理想の追求は、彼の支持するところではない。「もでる養成論」においても、「其作物が能く対象の真に迫るを得るに至りて後、始めて理想信仰の発現を窺ふ可きものと信ず」と彼は表明している。これは、先に引いた西崖の「画の一番土台になるものは写生の巧みで、どんな風の面白味でも写生の上に築かれるものと云ふことは争はれない」という態度と重なる。写実の重視は、掬汀が絵画を論じる際にとりわけ強調される傾向があり、无声会(百穂)や西崖の議論を意識していたことは十分に想定できる。

 ただし補足しておかねばならないが、文学を論の対象とするとき、掬汀は絵画の時ほどに写実の重視を強調するわけではない。明治三四年一〇月に『新声』に発表された「新時代の予想」(19)では、「写実派の流行」に言及し、「これ慥かに一面に於て喜ふへき傾向なりと雖も、〔中略〕全然写実の奴隷たるが如き観を呈するに至りては、これ小説の原質を無視し、合せて美の約束を忘却したるものにあらざる乎」と、写実のみに偏することに異議を唱えているし、『新声』三五年二月の「新刊短評」では、小杉天外の「はやり唄」を評するなかで「此写実主義と云ふ奴は僕の最も疑つて居るところのもの」とすら言明している。

 この点を西崖との対比からみてみれば、「写実の奴隷たる」ことを非難する掬汀の論は、「写実は目的に非ずしてたゞその方便のみ」(20)という西崖の写生観と見合っているともいえる。ただし西崖の論旨は、「〔自然の中の〕この恰好なる限劃に応ずべき因果の一団を具したる、自然の中の個物のさま」である「自然美」を描くためにこそ、写実が必要であるというものだった。つまり写実は、「写真撮影の術」のようにただ描写すればよいというのではなく、「個物のさま」を、その背後にある「因果」――これによって「個物」は他のさまざまな事物に結びついているとされる――をも含めて描くべきもの、とされる。

 しかし掬汀のいうのはこのような意味ではない。すでに「もでる養成論」を検討した箇所でも確認したとおり、掬汀の場合は、写実と理想との双方が必要であり、そのどちらかに偏するべきではないとの主張だった。庄司「无声会と美術院」(前掲)は、掬汀の写実と理想について次のように指摘している。

掬汀のいう「理想」は「具象的」なものである。これは、森鴎外を始め、当時の芸術界に絶大な影響を与えていた、ハルトマンの美学説を踏まえたものである。単純にいうと「具象理想」とは、自然界のあらゆる事物に”個別”の性格を付与するところの超越的存在で、「具象理想の現顕をなす」とは、それぞれの事物に宿る個別性を、眼に見える形に如実に表現することを意味している。この説によると「理想」と「写実」とは必ずしも矛盾しないことになる。

これは掬汀「日本美術院派の絵画に対する吾人の所感(下)」(前掲C)中の「満足せる具象理想の現顕をなすに於て、以て千古に冠たる可」しという発言を踏まえてのものだが、同様のことが「もでる養成論」にも当てはまるものと考えてよいだろう。「それぞれの事物に宿る個別性を、眼に見える形に如実に表現する」という庄司論文の指摘するハルトマンの方向は、「悲痛を描かんと欲する時には自ら悲痛の動作を為し得可く、憤怒の相貌を写さんとする時には直に作者と同一程度の感動を発し得可き者を造らんとする」という、掬汀の「もでる養成」の主張の方向とも重なるものだろう。(掬汀とハルトマンの美学との関わりは、西崖のハルトマンとの関わり(前掲吉田論文参照)とも相まって興味深いが、この点については本稿の論旨を越えている)。

 掬汀の「もでる養成論」は、冒頭紹介した臼井論の評価に反して、その射程はかなり広いといってよい。一読して看取できる写実への志向に加えて、同時代の革新的日本画グループとの交流の成果を背景に折り込み、美術ジャンルでの議論の方向を押さえたうえで、文芸評論へとその知見を振り向けている。用語や論の運びは決して緻密とはいえないものの、「もでる養成論」は、この時代の知的な関心のひとつのありようを、見事にその内に刻み込んでいるといえるだろう。

四、「モデル」のその後

 最後に「モデル」という言葉をめぐる文学空間のその後を、概観しておこう。表だった文芸理論・思潮の面から見れば、この掬汀の評論は反響を巻き起こすこともなく、したがってモデルをめぐる議論も現れることはなかった。おそらく写実を訴える論旨の大筋が妥当なものであった一方で、モデルを「養成する」という主張が、少々非現実的なものであったためであろう。

 反応は、そのような専門化した議論としてではなく、別の形で二方面に現れた。ひとつは、日本美術院批判を含むここで論じた掬汀の一連の評論により、新声読者たちの写実に対する意識が尖鋭になったことである。これは『新声』第七編第六号(M35.6)あたりから、読者の声を拾う「八面鋒」欄で挿絵批評が行われるようになることからうかがわれる。読者たちは『新声』に掲載される挿絵に対し、本物らしい、本物らしくないといった批評を下してゆく。これは掬汀の写実の重視をキーワードとした日本美術院批判の論説を、読者たちが体得していった軌跡を示すものといえよう。写実意識の裾野の広がりは、中央文壇の高度で先端的な議論のみではなく、掬汀のような、咀嚼し、時に俗化する人々の活動を視野に入れねばならない。

 もうひとつは、さらに興味深い。「もでる養成論」を書いた後、掬汀のもとへは、これを読んだ読者たちから次のような感想・質問が寄せられるようになっていた。

掬汀氏の近作小説「魔詩人」は某○人と大○○子との関係を直写したものだとの評判があるが、事実に候乎(21)


ヒロイン美世子、御転婆令嬢菊妓、〔枝カ〕遊蕩子溝渕、人物の性格個々に活動し、一々現実界にモデルを有するものにあらずやと疑はしむ。殊に魔詩人詩星に至りては、如何にしても作家脳中の産物なる仮空の人と信ずること能はず、片言雙語の微、一挙一投足の細も、凡て或者の特色を表現せざるはなく、冷刺皮肉を穿ち、沈痛骨髄に徹す(22)


掬汀氏の「モデル養成論」を読んだ僕は、「魔詩人」を読むに及んで成程と首肯した(23)

このような読者からの反応だけでなく、新声社側も、〈田口掬汀が「人の罪」の後編を書くうわさが広まると、方面の囚人が続々と押し掛け、材料を与えんとする〉という「三十六年文壇未来記」(『新声』9-1、M36.1)を掲載してみたり、彼の著作『少年探偵』(新声社刊)広告に「少年探偵の実事譚」という宣伝文をつけたりしている(『新声』9-2、M36.2)。

 「モデル」を尊重せよ、「養成」せよと訴えた掬汀に対する読者たちの反応には、ひとつの傾向が見てとれる。描写論として書かれた彼の評論は、掬汀自身の創作の「モデル」使用の問題へと、興味の焦点がずらされて受けとめられてしまったのである。「如何に」を問題としようとした掬汀に対し、ある種の読者たちは「何を」という好奇心で応えてしまっていた。小説に書かれた内容の向こうに〈事実〉を読み込もうとする欲求を、『新声』の読者たちがすでに保持していることが見てとれる(この欲求の形成については別稿を用意している)。描写論の文脈でクローズアップされて登場したはずの「モデル」という言葉は、その流通の端緒からすでに、「モデル」である人物そのものへの好奇のまなざしによって縁取られてゆく運命にあった。

 『新声』の読者たちにみられるようなモデルの穿鑿や暴露情報に伝達価値を見出す傾向は、この四、五年の後、雑誌・新聞メディアなどにより、積極的にその声を増幅させられてゆき、全文芸メディア規模にまで拡大してゆく。掬汀「もでる養成論」の時代において、まだ目新しい言葉であった「モデル」は、「事実」の描写をうたう自然主義の席捲に巻き込まれるかのようにその使用頻度を増し、ある種キーワードのような存在にまでなってゆくのである。ただし、その用いられ方は、掬汀が考えたような描写論の文脈よりもむしろ、彼の読者たちの嗜好に予告されていたようなゴシップの文脈において、より多く使われたのではあったが。

(1) ただし、Demougin, Jacques, Dictionnaire Historique, Thematique et Technique des Litteratures, Litteratures Francaise et Etrangeres, Anciennes et Modernes,eds. Librairie Larousse, 1986. には本稿の言う意味での“modele”は反映されていない。
(2) 稿者が参照した事(辞)典類は以下の通り。
Beckson, Karl and Arthur Ganz, Literary Terms:A Dictionary, Farrar Straus and Giroux, New York, 1960
Scott, A.F., Current Literary Terms: A Concise Dictionary of Their Origin and Use, The MacMillian Press ltd, London, 1965.
Shidley, Joseph T. ed.,Dictionary of World Literary Terms: Forms・Technique・Criticism: Completely Revised and Enlarged Edition, The Writer inc, Boston, 1970
Shaw, Harry, Dictionary of Literary Terms, MacGraw-Hill Book Company, U.S.A., 1972.
Cuddon, J.A., A Dictionary of Literary Terms, Andre Deutsch, Great Britain, 1977.
Grambs, Dabid, Literary Companion Dictionary: Words about Words, Routlege & Kegan Paul plc, London, 1985.
Baldick, Chris, The Concise Oxford Dictionary of Literary Terms, Oxford University Press, New York, 1990.
Dupriez, Bernard, A Dictionary of Literary Devices, Union generale d'editions, in French, 1984, translated and adapted by Albert W. Halsall, Unibersity of Toronto Press, Canada, 1991.
Morner, Kathleen and Ralph Rausch, NTC's Dictionary of Literary Terms, National Textbook Company, Cicago, 1991.
Encyclopedia of Literature, Merriam-Webster, Massachusetts, 1995. には次のような記述があった。“model, archaic, An abstract or summary of a written work, See also EPITOME.”/“epitome, 1.A summary or an abridgment of a written work. 2.A brief presentation of a broad topic, or a compendium. 3.A brief statement expressing the essense of something.”「概略」というニュアンスであり、本稿のいう意味内容ではない。
 また日本の事典で「モデル小説」を項目としてもつものには、たとえば次のものがある。
『日本現代文学大事典』人名事項篇(明治書院、一九九四年六月)、『用例にみる 近代文学史用語事典』(『解釈と鑑賞』一九七〇年七月、臨時増刊号)、『増補改訂版 文芸用語の基礎知識』(『解釈と鑑賞』一九七九年五月、臨時増刊号)。また、『日本国語大辞典』(小学館、一九七六年一月)の「モデル」の項は、「文芸作品の素材とした実在の人物や事件。」という説明をもつ。『広辞苑』第四版も同様に「小説・戯曲などの題材とされた実在の人物。「―小説」」の記述をもつ。
(3) 丸山晩霞「島崎藤村著『水彩画家』主人公に就て」(『中央公論』M40.10)を指す。
(4) 「作家苦心談(其九)露伴氏が『風流仏』『一口剣』『五重塔』等の由来及之れに関する逸話」『新著月刊』第五巻、M30.8。
(5) 言葉の出現に限定せず、モデルを取るという状況自体に目を向ければ、瀬沼茂樹「『並木』をめぐるモデル問題」(『明治文学研究』法政大学出版局、一九七四年五月、所収)の指摘するように、事態は「当世書生気質」の時代にまで遡る。
(6) 惣郷正明、飛田良文編『明治のことば辞典』東京堂出版、一九八六年一二月。
(7) 1「かた。手本。」、2「特に絵又は文章などで、写生をする時見て手本とするもの。」としている。引用は前掲『明治のことば辞典』による。
(8) 「編輯たより」(『新声』5-1、M34.1)による。ただし『新声』への寄稿自体は、よりはやく『新声』最初期から行っている。
(9) 槍田良枝「田口掬汀 生涯」(『近代文学研究叢書』51、昭和女子大学近代文学研究所、一九八〇年一一月、所収)から引用。田口掬汀、平福百穂についての記述は、同書のほか、平福一郎「父百穂のことども」(カタログ『生誕百二十年 平福百穂展』朝日新聞社文化企画局大阪企画部、一九九七年一月、所収)、庄司淳一「平福百穂の芸術」(同前)、小池賢博「結城素明について」(カタログ『結城素明――その人と芸術――』山種美術館、一九八五年)、小高根太郎「无声会の自然主義運動」(『美術研究』184、一九五六年三月)、結城素明「无声会の思ひ出」(『文章世界』11-7、一九一六年七月)、佐藤義亮「出版おもひ出話」(新潮社出版部編『新潮社四十年』新潮社、一九三六年一一月、所収)を参考にした。
(10) 前掲、佐藤義亮「出版おもひ出話」。百穂と新声社社主佐藤儀助(義亮)もまた同郷人であり、「小学校時代は大して親しくなかつた」が、「お互に上京してからはよく往復」(同書による)する仲だったようだ。
(11) 前掲、庄司淳一「平福百穂の芸術」。ちなみに无声会の結成について、秋冬生「文界雑駁」(『明星』第二号、M33.4.1)でも報じられている。
(12) 河北倫明「明治美術と自然主義――无声会の運動――」『明治大正文学研究』四号、一九五〇年一〇月。
(13) この交流は、掬汀と百穂との個人的な交流にはとどまらない。百穂が入社した三四年一月には、『新声』「甘言苦語」が、早速かなりの分量で无声会の援護射撃を行っているし、その後も无声会の展覧会の宣伝が頻々と掲載されている(たとえば「甘言苦語」M34.10、「同」M34.11)。无声会展覧会の合評(M34.12)も開かれており、『新声』の誌友会に无声会のメンバーが参加しているのも報告されている(「上毛新声誌友会の記」(M35.12)、ちなみにこの時萩原朔太郎が、兄栄次と参加している)。
(14) 無署名〔大村西崖〕「无声会絵画展覧会(一)」『東京日日新聞』M35.4.17。
(15) 无声会側の証言としては、結城素明の「大村氏が読売紙上で何事かの評論の末が岡倉氏の理想派に及び大に反対の気焔を上げた」、「当時の思潮に理想派に満足せざるものがあつたのは事実で、我々同人の企も、当時漂つて居た夫等の思想の或物との共鳴した点があつたものと思ふ」という証言がある。結城素明「无声会の思ひ出」『文章世界』11-7、一九一六年七月。
(16) 無名子〔西崖〕「◎美術展覧会を評す」『東京日日新聞』M33.4.10。
(17) 結城素明「平福百穂君の追憶」『双杉』2-2、一九三三年一二月。
(18) 特集「平福百穂の記念」『中央美術』(復興五号、一九三三年一二月)に寄せられたもの。
(19) 無署名だが、論旨が前後に発表されている掬汀の主張と合致するところから、掬汀の論と判断する。
(20) 無署名〔大村西崖〕「自然美」『美術評論』15号、M31.10.27。
(21) 「八面鋒(牛込、好小説家)」『新声』8-4、M35.10。記者の答は「これ事実か、仮構か、知らず」。
(22) 銀月「掬汀兄に与ふ」『新声』8-5、M35.11。
(23) 「八面鋒(美濃、鶏二)」『新声』9-1、M36.1。


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