日比 嘉高
『日本近代文学』第74集, 2006年5月, pp.92-107
一九〇三(明36)年に渡米した永井荷風は、一九〇八年に帰国、その後没するまでの五一年を日本で過ごす。明治大正昭和と息の長い活動を続けた彼を、日本を代表する近代作家の一人であると述べても、さしたる異論は出ないだろう。
しかしながらこの論文で私が試みてみたいのは、永井荷風は場合によっては「日本」の文学者とは呼びえないかもしれない、という視点を設置してみる作業だ。それは、彼の滞米経験、およびそのあいだに書き継いだ『あめりか物語』の再規定に関わる論述となる。
問いを、次のような形ではじめてみよう。もし仮に、荷風が帰国しなかったとしたら、在米中に書きついだ彼の小説群『あめりか物語』はいったい「何文学」とされているだろうか?
もちろん現実には荷風は帰国している。だからこれは歴史の「もしも」に関わる無益な作業とみえるかもしれない。だが、なにも単なる思考実験というわけではない。永井壮吉は少なくとも滞米当時、短期滞在ではなく米国で長期生活を行う〈在米日本人〉であった。しかも、状況次第では定住移民になっていた可能性すらある。詳細は後述するが、二〇世紀前半の北米移民においては、出稼ぎ/定住/旅行の区分は現在考えるほど分明なものではなかった。出稼ぎ人が定住したり、旅行者が労働を始めたり、定住者が帰国したり、という変化は日常的に起こっていた。そして荷風の日記などをたどる限り、彼もまたいつ帰るとも知れぬ移民たちの群の一人となっていたかもしれない──こう想定してみることは、実は移民史的に見ても、個人史的にみても、さほど荒唐無稽ではないのだ。
こうした可能性を検討していくと、彼の短篇集『あめりか物語』に対する一つの疑念にも立ちいたる。『あめりか物語』は作者がその後日本に居住したから、「日本文学」であるとされているにすぎないのではないのか? 執筆時期を見れば気づくように、『あめりか物語』および関連作品──以後、『あめりか物語』作品群と呼称する(1)──は、荷風の滞米中に書かれている。もしも永井壮吉がアメリカに留まることを選んでいたら、それらの物語は現在おそらく〈日系アメリカ移民一世による日本語文学〉として理解されていることだろう。同時代の北米移民たちが我々の前に残した、多くの作品のように。『あめりか物語』は、帰国した荷風がいるからこそ、遡及的に「日本文学」と理解されているのに過ぎないのではないのか?
こうした眼で『あめりか物語』作品群を見直せば、実は物語に登場する人物の大半が「日本人」たちであったことにも気づかされる。ややもすれば荷風の米国観察の作品として理解されたりもする『あめりか物語』とは、正確には『あめりか〈日本人移民〉物語』とでもいうべき傾向性をもっているのである。
『あめりか物語』をどう規定するか。あるいは規定しないか。それは「日本文学」なのか、あるいは「日系アメリカ移民の日本語文学」なのか。あるいは複数の〈アメリカ〉文化を構成する「アメリカ文学」の一つなのか。この問いは、単に『あめりか物語』一編の問題にとどまらず、移民文学がもたらす一種の「混乱」と向き合うことをも要請するはずである。人・モノ・情報の〈移動〉および〈定着〉と、文化の産出との関係をいかに考察するか。この論考がその大きな課題へと向かう、足がかりの一つとなれば幸いである。
まずはアメリカ滞在中の永井壮吉を〈在米日本人〉として規定しなおすところからはじめよう。
『あめりか物語』に対してこれまでの研究がおこなってきた評価の特徴は、次のようなものだ。一つは、後年の荷風の評価から遡及して論じるという方向。これは大作家荷風の成功の源が、若い時代の経験・創作にあるとして考える種類のものだ。また、フランス文学や日清戦争前後の日本文学の影響から説明を試みるものも多い。比較文学的発想からゾラ、ゴンクール、モーパッサンなどとの関係が論じられ、あるいは深刻小説や初期自然主義的傾向の継承が見い出される。
本論の問題設定と交差する、〈在米日本人〉たちの表象の問題も論じられてきた。本研究もそれらに教えられたところは多いが、しかしながらこれまでの先行論の理解は、ある前提を共有していたように思う。「そこに生のアメリカ社会の切断面や在留邦人独特の生活感情や悩みが伺われるかと云えば、疑問なきを得ないのである」(坂上博一(2))。「荷風は在米日本人社会に背を向けていたし、彼等を客観視できる立場で「在米日本人物」が描かれていると予想できるのである」(板垣公一(3))。概括的に言って、荷風の日本人移民たちに対する姿勢を論じた先行研究では、まなざす主体である荷風を、在米日本人のコミュニティから切り離し、一種の観察者の立場において理解する傾向にあるといっていいだろう。
はたして本当にそうだろうか。あらためて整理すれば、本研究が試みる再評価の出発点は(1) 荷風を無名の一在米日本人作家志望者として見てみること、(2)〈在米日本人〉・日系移民を単一で均質な人々として考えないこと、にある。
(2)からはじめよう。米国の日系移民史は、大きくいって、〈出稼ぎ〉から〈定住〉へという流れをたどる。帰属意識も日本からアメリカへと徐々に移行し、〈在米日本人〉は〈日系アメリカ人〉への道をたどっていく。彼らの第一世代は、後には日系アメリカ人の一世と呼ばれるようになる。
先にも少し触れたように、この北米日系移民一世の世代においては、移民/出稼ぎ/留学/旅行の区別は現在考えるほどに明瞭なものではなかったというところが重要である。とりわけ荷風が滞在していた二〇世紀初頭においては、まだ〈定住〉への動きははっきりしておらず、ほとんどすべての「移民」たちが一時滞在者であったのがコミュニティの実状である。しかも、その内実は多様であった。労働をもっぱらの目的としていた出稼ぎ者たちもいれば、苦学生もいる。貿易商もいれば、コミュニティ内部の小売店主もいる。官員、商社駐在員、各種宗教の布教者たち、「酌婦」、彼女らを食い物にする女衒たち、そして得体の知れない流れ者──。さまざまな人々が日系コミュニティを構成していた。だが、初期の一世社会においては、その大多数の人々は、日本を捨て、アメリカに永住しようと望んでいたわけではないのである。出稼ぎにせよ、勉学にせよ、駐在にせよ、当初の目的や任期を達成すれば、いずれ故国に帰ろうと考えていた者たちがほとんどであった。ということは、これまでの研究が漠然と前提としていたようにみえる、〈一時的旅行者=荷風〉対〈アメリカ移民(もしくは在米日本人)=定着した人々〉という二項対立は、実は成り立たないのである。
そのように見えてしまう原因は、『あめりか物語』というテクストの内部にある。登場する語り手兼主人公兼視点人物が、そのまなざしの対象である在米日本人たちと距離を取った姿勢を示し続けていたのがその理由だ。もちろん、これらの人物は、あらためて言うまでもなく作者自身ではない。
二〇世紀初頭のアメリカ社会に生活を送った永井壮吉は、その経歴や日記、書簡などからたどるかぎり、居心地よくというほどでは決してなかったにせよ、ほどほどの程度において日系移民コミュニティに溶け込んでいたらしいことがうかがえる。タコマのハイスクールで英語を学び、カラマズー大学の聴講生となり、ワシントンの日本公使館の臨時雇いとなり、ニューヨークの横浜正金銀行の職員となる。職に困れば、他の多くの日系移民たちと同じように、「JAPANESE general houseworker wants position in small family. Nagai 17 Concord, Brooklyn」という求職広告を米国人向けの英字紙『ニューヨーク・ヘラルド』(一九〇五年七月九日)に掲載し、家事労働をも辞さない姿勢でのぞむ。
日系コミュニティからも、それほど疎遠だったとは思われない。次に掲げるのは中村春雨や田村松魚らが編集に加わり、ニューヨークを拠点に発行されていた日本語雑誌『大西洋』掲載の記事である(4)。
▲久しくニユーヨーク正金に在職中なりし永井荷風氏今回仏国里昴正金支店に栄転せらるを以て本社の中村春雨、朝井青葉主人役として生稲料理店にて盛なる送別会を開けり出席せられし者は大坂朝日の福富青尊氏、日米週報社の中村嘉寿氏田村松魚氏、紐育時報社の井上文学士に竹内三樹三郎氏なりき
▲正金の永井はんは仏国に、水津はんは布哇にゆきなはるさかいにな、随分を〔ママ〕お気をおつけやす(敷島の男)
短い記事ではあるが、『大西洋』という雑誌の周囲にいた新聞記者や文士たちのサークルのなかに荷風も出入りをしており、「盛なる送別会」を開いてもらえる程度には、仲間たちと交友があったということが指摘できるだろう。
別の方向からもアメリカ社会になじんでいた荷風の姿を確認しておこう。書簡、日記の言葉である(5)。
で、小生は目下の処充分に語学を勉強し、帰国の上(或は米国に永住するにしても)は適当な職業にありつき、文学はゆる/\と一生の研究にするつもり、乃ち小説で飯は食はず、生活だけは他の職業によつて此れを支へて行かうと云ふ心組である。
家庭の事情は遂に余の文学者たるべき事を許さゞるに似たり。余は再び家に帰らざるべし。旅館のボーイか然らずば料理屋の給仕人如何なるものにも姿を替へ異郷に放浪の一生を送らんかな。
一つめの今村次七宛書簡は、芸術の道を進むべきかどうかという今村の相談に答えたもので、相談に対する回答が主眼となっているため、少々脚色された感情表現となっている節もある。が、「永住するにしても」の一節は、軽々に見逃せない重みをもつ。二つめの「西遊日誌抄」も、公刊された日記であり、そのまま荷風の内面と信じるわけにいかないのはもちろんだ。しかしながら、父との不和の反動として「旅館のボーイか然らずば料理屋の給仕人如何なるものにも姿を替へ異郷に放浪の一生を送らんかな」という想像をし、また米国を離れることがいったん決まれば、「嗚呼余は到底米国を去る能はず」「米国の風土草木凡てのものは今余の身に取りてあまりに親愛となりたるを」(「西遊日誌抄」一九〇六年八月二日)となげく荷風の脳裏には、帰らない、という選択肢が可能性としてたしかに存在していたはずなのである。
帰らないかもしれないという自分の可能性。そして、周囲に目をやれば、やはり同じように、さまざまな事情により、出稼ぎ/留学/旅行/在留勤務をしていた人々が、思い描いていたコースとは別の道をたどりはじめていく状況が目に入ったはずである。私は、荷風がそうした自分自身の問題をも含めた状況を、想像以上に正確に認識していたと考えている。それを証拠立てるテクストが、他ならぬ荷風自身の『あめりか物語』中にある。「暁」(6)である。
紙幅と論旨の都合上、「暁」に関する詳細な検討は別稿にゆずることとし、ここでは簡単に重要な点を指摘するにとどめる(7)。「暁」は、転落する上層階級子弟の物語だ。視点人物兼語り手の「自分」は、渡米後「二年ばかり」になる日本人の若者で、ニューヨーク近郊の遊戯場の店員に身を投じている。注目したいのは、彼がこの仕事、「玉転し」店の同僚と交わす会話だ。この同僚は日本で相応の学歴を積んだ人物らしいが、学業を達成することがかなわずに渡米。さらに勉強を続ける予定であったが、やはりここでも挫折し、遊戯場の店員にまで身を落としている。
僕はやつとの事で入学した高等学校は退校されて、少し自暴やけになつた挙句、アメリカへ送られてからも矢張りさうだ・・・・・・折々父の手紙にでも接すると、父はこれほど深切に自分を励ましてくれるが、果して自分は学術に成功する才能があるのか知らと云ふやうな気がしてならない。やつて見れば訳なく出来る事でも僕は自分のイマジネーションで、何時も駄目だと諦めて了ふ。
かう云ふ絶望の最中、まア想像したまへ。僕はふいと送金が延引した為めに、云はゞ一時家との関係が中絶して了つたのだらう。故郷へ錦を着て帰るべき責任が失なくなつた──何と云ふ慰安だらう。〔・・・〕
さうだ。送金は程なく届いた。が、もう時已に晩おそしさ。僕は二週間ばかり奉公して食堂の後で皿を洗つて居る中うちに、すつかり堕落して了つた。
ここで語られているのは、送金の停止により、労働へと追いやられる留学生の姿である。みずからの労働に依存するにせよ、故郷からの仕送りを頼りにするにせよ、学資の供給が絶たれれば、労働へと向かわざるをえないのは当然だ。しかも、この小説で注目したいのは、主人公の「自分」と引用の書生双方の経歴が、作者である荷風自身の経歴と多くの点において重ねられているという点である。第一高等学校の受験失敗の経験、寄席や吉原で遊んだ経験、父親によってアメリカへ送られるという経験、さらに「欧洲ヨーロツパに渡る旅費を造る」云々、いずれも我々の知る荷風の経歴が透けて見える。つまり、「暁」において荷風が行った作業というのは、みずからの似姿を「自分」と書生という二人の登場人物に重ね、その軌跡と対話のうちに、在米日本人の一人である自分を待ち受けているかもしれない運命──帰国する日はもうこのままやってこないかもしれない──を描き出してみようというものだったのだ。荷風が結局フランスへ行き、日本へ帰ったということは、現在の我々であるから知りえているのであり、執筆当時の荷風は明日をも知れぬ一在米文士としての日々を送っていたということを忘れてはならない。とすれば「暁」とは、荷風がありうるかもしれない自分の近未来を、怖れを込めてシミュレートしてみた作品だったのだ。
こうした荷風の不安定な立場、つまり一在米日本人として視座から出発しているからこそ、「暁」という作品はその登場人物の語りのうちに希望を見失った在米日本人書生の悲哀を捉ええたし、コニーアイランドという新しく登場したアメリカの新興社会集団(都市中産階級と比較的余裕のある労働者階級)のための「祝祭と遊戯の町」(8)の裏面(一アジア系移民としての日本人移民の経験)を描きとどめることができたのである。単なる滞米スケッチとして「暁」を読んでしまっては、作品の結末に訪れる曙光にこめられた、祈りにも似た主人公の安堵の感情がもつ陰影を、我々は読み逃すことになるだろう。
荷風は〈在米日本人〉として、二〇世紀初頭のアメリカを生きていた。その滞在は一時的なものであり、できればフランスを見聞して、日本に帰りたい、そう望んでいたことはたしかだろう。しかしながら、そうはならないかもしれない、フランスへも行けず、もしかしたら帰国すらしないかもしれない、そういう可能性を彼自身は脳裏のうちにたしかに抱いていたらしい。先に引いた「西遊日誌抄」や書簡に現れる「永住」「放浪の一生」「親愛」という言葉の数々、それらから見え隠れするアメリカへの愛着、そして「暁」におけるシミュレート。『あめりか物語』には他にも「岡の上」や「長髪」など、日本での立場から逃げだし、米国にいつまでともなくとどまっている若い男性の姿が書きとどめられている。荷風が、在米日本人として生きる未来を、たとえ可能性としてであれ思い描いていたことは、以上からほぼ確実であると私には思える。であるならば『あめりか物語』読解の出発点は、帰国後の荷風の姿の延長線上にではなく、将来の行く末も定かではない一人のほぼ無名に近い在米文士志望者の、彷徨の軌跡にこそおくべきなのだ。
では〈在米日本人〉としての荷風の文学活動は、どのような環境の中で、いかにして行われていたか。この節ではこの問題を、周囲の日本人移民たちの文学活動と照らし合わせながら明らかにしていきたい。
まずは在米中、荷風は何を読むことができたか、つまりアメリカ移民地における日本語環境の問題を追いかけてみよう。この問題についてはすでに論じたことがあるので(日比「日系アメリカ移民一世の新聞と文学」(9))、簡略にのみ述べる。大きな日系移民コミュニティのある街──サンフランシスコ、シアトル、ロサンゼルス、ヴァンクーバーなど──には、かなり大規模の日本書店が複数存在しており、そうした書店を拠点として、大量の書籍、雑誌が流入していた。新聞も東京大阪の主要紙はもちろん各地の地方紙が継続的に輸入されていた。雑誌も、総合誌、文芸誌、婦人誌、商業誌など、ほとんどの主要誌がカバーされている。新刊書も話題書を中心に盛んに輸入されている。言ってみれば、日本の小さな地方都市よりもよほど充実した規模の流通と蓄積が存在したのだ。
荷風の書簡の次のような文面は、そうした移民地の状況を踏まえて読む必要がある(10)。
此の頃は寒いから外出禁止其れ故日本の雑誌新聞なぞは手当り次第に読むのです。
新聞や雑誌で、日本の文、劇、界の事も大抵は承知して居ます。まだ/\木曜会連中の天下と云ふ訳には行かぬ様ですね。
この種の記述は他の書簡にも散見され、荷風が『読売新聞』や『太陽』『新小説』など日本の国内紙誌を読んでいたことが窺える(11)。これらの新聞雑誌はこれまで荷風が依頼して日本の知人・家族から送ってもらっていたように受け取られていた節があるが、必ずしもそれだけではなく、『太陽』をはじめとする主要紙誌については、もちろん一ヶ月弱の遅れはあるにせよ、アメリカにいながら定期的に入手できたはずである。書物の物流の側面から見てみれば、北米の移民地は日本の言説空間と密接な連動性を保持していたのであり、荷風もまたその中に生きていたのである。
こうした〈在米日本人〉たちの日本語環境が、いわば「文学の生 産 基 盤インフラストラクチュア」となり、一世文学が育っていく。荷風のいた時代、太平洋岸を中心に数多くの文士志望者、愛好家が存在し、日本語新聞の文芸欄を主たる発表機関として活発な活動を行いはじめていた。続々と輸入されてくる日本の新刊を貪欲に消費しながら、それらが運ぶ日本の文化圏の引力と、移民地の新しい環境での経験とのあいだを調停しようとする彼らの文学的格闘が続けられていく。
ところが、永井荷風の文学活動は、こうした典型的な移民地の文学青年たちのふるまいと同じ軌跡を描いてはいないようだ。彼はたしかに創作活動に必須となる日本語環境の面においては同じ空間を生きていた。しかしながら、その発表の手段においては、明確な距離を置いていたようにみえるのである。
【表1】は『あめりか物語』作品群の成稿年月、初出、掲載欄などを整理した一覧である。注目したいのは初出誌である。そのほとんどが『文藝倶楽部』『太陽』といった日本の雑誌となっている。一方、確認されている『大西洋』掲載の「一月一日」をのぞいて、荷風は一篇も移民地ベースの媒体に発表していない。これは、日本語新聞の文芸欄という格好の発表媒体がすぐ傍にあったはずであることを考えれば、明かな彼の選択を示すものと見るほかない。荷風は移民地文壇とはっきり距離をとっていたのである。
これは、荷風よりやや後の時期に青年文士としてアメリカ太平洋岸に生きた翁久允(一九〇七年渡米─二四年帰国)の場合と比較すると、よりはっきりするだろう。富山中学を中退したあと渡米して苦学生をしていた久允は、東京の文壇での成功を夢見ながらも、それを実現するだけの十分な実績もコネクションももたない。わずかなつてをたどり、『帝国文学』に数篇の短篇を掲載してもらうが、彼の旺盛な筆力のほとんどは、『旭新聞』『大北日報』(以上シアトル)、『日米』(サンフランシスコ)などの日本語新聞に向けられていた。久允ほどの意欲と創作能力のない文士たちでも、状況はほとんど同じで、発表媒体は移民新聞の文学欄であった。
荷風のとったこの姿勢の理由はいくつか考えられようが、一つには木曜会とのつながりがあるだろう。故国における文学的な成功の野望をもつ青年文士であって、東京の文壇と直接のコネクションがあるならば、当然その成果は移民地のローカルペーパーにではなく『文芸倶楽部』『太陽』といった大雑誌に発表したいだろう。もう一つ、階層差の意識もあったかもしれない。〈在米日本人〉と一口に言っても、その内実は先にも述べたとおり多様だ。荷風が『あめりか物語』中の諸篇に繰り返し書き込んだとおり、経済的学歴的に優位にある少数の日本人たちは東海岸に集まり、労働移民や苦学生たちは西海岸に生活するという傾向にあった。いうまでもなく、荷風は前者の階層に入る。その区別──より正確には「差別」と言うべきだろう──の意識がそこには介在していたかもしれない。同じインフラを共有し、日本語への欲望に飢え、中央の文壇での成功を夢見ていた点において、荷風もやはり在米日本人の青年文士の一人だったといえる。だが、彼は出身社会階層とそれにともなう交友範囲という点において、他の文士たちと異なっていたのである。
なお、『あめりか物語』作品群のうちには、いまだ初出の確認されていないものも少なからず残されている。「一月一日」の場合のように、今後それが明らかになる可能性も十分にある。その場合には以上の記述に若干の修正が必要となってくるかもしれない。
では、〈在米日本人〉作家として荷風を見、〈在米日本人〉によるアメリカ表象としてその作品を見た場合、どのようなことが新たに見えてくるだろうか。
まず、『あめりか物語』はいったい何を描いていたのか、そこから確認してみよう。従来『あめりか物語』の内容は、荷風の外国見聞/体験の作品化として概括的に理解されるか、個別の作品ごとに細分化して分析され、全体的にみた題材の偏りについては指摘されてこなかったように思われる。
再度【表1】を用いる。下から三段目「主要登場人物」欄では、主たる登場人物が日本人であれば○、アメリカ人もしくは日本人以外の移民であれば■として区分してある。これをみれば、『あめりか物語』作品群中の、ほぼ半数が〈在米日本人〉を描いた作品であることが了解されるだろう。しかもこの分類は、主人公であることも多い話者兼視点人物である「私」「自分」を除外しているため、実際の読みとりの印象としてはもっと多くなるだろう。興味深いのは、網野義紘も指摘する『あめりか物語』初版目次の、アステリスクによる切り分けと、この〈在米日本人〉を描くか否かの区分が、おおよそにおいて一致しているという事実である(12)。この目次の切り分けは、小説的作品(アステリスクの前)か、あるいは見聞記的作品(後)かという、形式の区別を反映したものと考えられている。したがって、初版『あめりか物語』は、小説の体裁をとる〈在米日本人〉の表象と、見聞記に近い体裁を取るアメリカ(人)の表象と、というように異なった形式による、異なった対象を描いた作品群として捉えなおすことができるだろう。
しかも、【表2】によって示したように、『あめりか物語』作品群に描かれた〈在米日本人〉たちには、その階層に偏りがあったことも指摘できる。表は、縦軸が経済的観点から見た分布──つまり「お金を持っているか否か」──を、横軸が学歴の高低の分布を示している。網かけ領域の上に配置された数字は、【表1】の作品の番号に対応している。表からわかるのは、『あめりか物語』に登場する〈在米日本人〉たちの多くは、学歴も経済資本も豊富に有している人物たちが多いということである。描かれるのは、そうした人物の経験・交友か、あるいはそうした人物たちによる「下層社会」の見聞・探訪である。ほとんど唯一の例外は、先にも検討した「暁」一篇である。〈在米日本人〉の表象と一口に言っても、その内実には以上のような偏りがあるのだ。
では、『あめりか物語』は何を描かなかったのか、を考えてみよう。もちろん、無数の書かれなかったアメリカがある。それは当然だが、今回は日系移民に関連する点として、労働移民の表象と在米日本人書生の表象の二つに着目して考えてみたい。まずは、荷風の短篇から、「野路のかへり」(13)である。
彼等は人としてよりは寧ろ荷物の如くに取扱はれ、狭い、汚い、臭い、穴倉の中に満載せられ、天気の好い折を見計つては、船の底からもく/\甲板へ上つて来て、茫々たる空と水とを眺める、と云つて心弱い我等の如く、別に感慨に打るゝ様子もなく、三人四人、五人六人と一緒になつて、何やら高声に話し合つて居る中、日本から持つて来た煙管で煙草をのみ、吸殻を甲板へ捨て、通り過ぎる船員に叱責せられるかと思ふと、やがて月の夜なぞには、各自めい/\の生国を知らせる地方の流行唄を歌ひ出す。
描かれるのは「出稼ぎの労働者」たちの船中のようすである。まなざす「私」は晩秋の野に自転車でサイクリングに出かける余裕のある人物で、船中でも「上甲板」から彼等を見下ろす位置に立つ。注目したいのは、三等船室の労働者たちが「荷物」「穴倉」「満載」「もく/\」というおよそ非人間的な修辞によって語られ、太平洋の空と海に何等の感慨も抱かない存在として、内面をも奪われて表現されている点である。そうした彼らに対置されるのは「心弱い我等」である。「私」の視線は、船倉へも、労働移民たちの心の中へも、降りていくことは決してない。
別の作家による表象を見てみよう。一つめは赤羽巌穴の「乱雲驚濤」である。赤羽は一九〇二年渡米、片山潜らと「サンフランシスコ日本人社会主義協会」を組織した人物だ(〇五年帰国)(14)。
御承知の如く、亜米利加行外国船汽舩の三等客は貨物同様の取扱にて候。夫れ故に如何なる英雄豪傑も、ダウンスティアの臭き処に雌伏せねばならぬ次第に御座候。況んや英雄豪傑ならぬ我々に於てをや。〔・・・〕人格は無きものと御承知被下度候。 (349頁)
太平洋の景色は水天髣髴青一髪てふ、山陽の詩を其の儘実顕仕候、而してあらゆる雄大、豪蕩、崇高、魁偉、壮烈、厳粛の妙を極め申候。あゝ此の波濤掀翻怒号して万千の 〓[元+黽]龍を跳らし、洶湧旋回して山岳大の黒騎を駛らすの時、鉄艦何の処ぞ、帝王何物ぞ、美人何物ぞ、英雄将た何の顔色かある。 (350頁)
ここにこれ以上詳細に引用する余裕はないが、赤羽の「乱雲驚濤」は、みずからも客となった三等船室のありさまを丁寧にたどっている。乗船地も下船地も異なる船室の人々は、国籍も階層も多様性に富んでいた。東京法学院(現・中央大学)に学び、のちに社会主義者となる赤羽は、「人格は無きもの」とされる三等の待遇を嘆きつつも、非常に高度な文学リテラシー──たとえばこの前後で頼山陽とバイロンを引用する──を背景に、漢文脈の勇壮な文体で太平洋の船旅を描写する。
二つめは保坂帰一の『吾輩の見たるアメリカ』。北米の太平洋岸でスクールボーイや『新世界』(サンフランシスコの日本語新聞)の記者などをしていた人物だ(15)。保坂もまた、三等船室の目線からアメリカへの旅程を描いている。船室のようすを「隅から隅迄三尺位の通路を明けて、蚕棚のやうなものが五六十並んでゐる。〔・・・〕大半は空いてゐるが、其の上には毛布がある、ブリキの金盥がある、やかんがある、手拭がある、空気枕がある、読み掛けた本がふせてある」(33-34頁)と描写し、三等船客が「仲の良いのが不思議だ、随分時代思想の異つた人間や、境遇の等しからざる人々の寄合で、陸上に居たら、一寸口も利かぬと云ふ連中だが、争論と云ふものが嘗て起らない」(39頁)と観察する。実はこの小説の語り手は、猫である。夏目漱石「吾輩は猫である」の猫が死後に蘇生し、移民船に乗り込んだという設定のこのテクストは、三等船客のさらに下を這う猫の視点で、移民船最下層の人々のようすを詳細に語っていく。「人間」を相対化するための装置としてあった漱石の「吾輩」の目は、ここでは「移民」を観察し、説明するための迂回の仕掛けとして利用され直している。
赤羽のテクストも、保坂のテクストも、荷風のものとの差は歴然だろう。いずれも、視線のレベルは三等船室の水準にあり、船室の内部や、移民たちの感情、交情のようすが丁寧に描かれる。やや時代は下がるものの、同じ系列の作品としてサンフランシスコから日本へ戻る出稼ぎ移民たちを描いた前田河広一郎の「三等船客」(16)を加えることもできるだろう。一方の荷風の描写は、三等船客たちから「感慨に打るゝ」可能性を奪いとり、非西洋的振るまいによって叱責さえ受ける恥ずべき同胞として、その姿を冷徹に描き出す。同じ「ダウンスティア」の表象とはいっても、まったく異なったありようを示しているのである。
同様に在米日本人書生の表象も比較してみよう。次にあげるのは、都市部の在米書生たちにとって最もポピュラーだった仕事の一つ、スクールボーイに関するものである。スクールボーイとは、住み込みで調理や給仕、皿洗いなどの家内労働をおこないながら、日中は米国の学校へ行くという労働/勉学の形態だった。荷風は「舎路港の一夜」において、彼等の姿を描いている。
『さア一杯、日本酒の味は忘れられないなア。』
『女の味はどうだい。』
『うつかり為ると最う忘れる時分だ。今の中に復習おさらひが肝腎だ。』
『はゝはゝゝゝゝ。』と一同大声に笑ひ始めた。
『時にどうだい。君の家は? 相変らず急いそがしいのか。』
『お話にならないね。毎日々々毛唐の嬶に追使はれて台所仕事のお手伝ひ。スクールボーイも大抵ぢや無いや。』
『まアお互様だから仕方が無いさ。宜しく未来の成功を期すべしだ。』
この後、彼らはシアトルの日本人街近くの売娼街へ繰り出していく。作品は、シアトルに着いてまだ日の浅い、相応の体面を気にする「私」を視点人物兼語り手とし、シアトルの日本人街探訪記の体裁で語られる。彼の目に浮かぶ場末のシアトルは、煤煙と馬糞の臭気が立ちこめ、鉄道の架橋により光さえ遮られる暗黒の街だ。スクールボーイたちはその街の「生蕎麦」屋に現れる。口調からは相当の日本語リテラシーをもった人物たちであることがうかがわれるが、「私」が注目するのは、そうした彼らの今となっては役に立たない素養ではなく、彼らの英語修得の苦労と、性欲である。あくまでも、スクールボーイたちは、「私」にとっては悪場所の住人なのだ。
これと比較してみたいのは象牙庵の署名による詩「ちやーれーの述懐」である。一九〇八年三月二三日に日本語紙『新世界』に掲載された。「〔・・・〕塵の浮世にちり仕事/ごみよあくたといやしまれ/清和源氏の血すぢさへ/やよチヤーレーと呼ばるゝは/はしたせがみし報ひかや/七日目毎の休みさへ/半は宿にとめられて/あれのこれのと雑仕事/国を出し時や/やがて博士の肩書取りて/家つとにせん気なりしも/今ぢや学問余処になり/覚へしことはた〃二つ/シガーの味と酒の味/国に帰れば父母と/他に未来の妻あれど/たゞ気づかひが一ツあり/兵隊さんは厭はねど/玉にあたるがいやばかり/いつそ御国につくすなら/一の人とも身をなして/忠と栄花を五分/\に/担ふて立つも悪るからじ/とは云へマツシやポテトヲ□/なまでは喰へぬ世の中に/国の料理はつらからふ/まゝよクツクと身をかへて/肉の料理がして見たや」(□は一字不明、/は原文改行)。
「ちやーれー」とは、日本人家事労働者の「総称」かつ「固有名」である。斡旋を受けて白人家庭に入った若者たちは、みずからの名を呼ばれることなく「ちやーれー」として使用されていた。象牙庵の「ちやーれーの述懐」は、「清和源氏の血すじ」を誇り、家郷の期待を負って博士となるべく渡米した自分が、「ちやーれー」と呼ばれ、家内の雑用に使いまわされる悲哀を歌っている。詩本文から、語り手は荷風の「舎路港の一夜」の登場人物たちと同じく、勉学を志しつつも家事労働をして世過ぎをせねばならない若者であることがわかる。全般に滑稽めかした調子に貫かれているが、徴兵忌避の心情や、せめて「肉の料理」がしてみたい、と願う結末部など、在米書生の心象に等身大の目線でよりそった詩となっているといえるだろう。
勉学から逃避し性欲へと走る悪場所の住人としてスクールボーイを描いた荷風、冗談と風刺を織り交ぜつつも「ちやーれー」として生きることの不如意とやりきれなさを同じ目線からうたった象牙庵。三等船客の表象と同じく、在米日本人書生の描き方においてもまた大きなへだたりが存在している。
以上のようなまなざしの異なりを、荷風の階級性に着目しつつ、彼の移民表象に張り付いていた差別性という観点から批評することも可能であり、必要な作業であろう。だが一方で、当時の移民社会が階級社会であったこともまた確かである。ここに比重をおけば、荷風の作品は、上層階級の移民たちの下層階級の移民たちへの視線を記述したテクスト──言い換えれば、日系コミュニティの複層性の記録として評価することもできよう。
荷風の描いた移民を「本物」の移民でないと否定するのは間違いである。在米の日本人移民たちは多様であり、荷風たちの階層もまた北米の日系コミュニティの構成要素だったのであるから。
『あめりか物語』は、〈在米日本人〉による日系移民表象であるという点において、まぎれもなく「日系移民の日本語文学」であり、日系アメリカ人一世とそのコミュニティを描いたテクストだという意味において、「日系アメリカ文学」であり、「日本人」作家が日本の文壇をめがけて日本語で発表したことを重視すれば、「日本文学」である。
だがもちろん、そのいずれでもありうる、ということが『あめりか物語』というテクストのはらむ問題の核心であり、ひいては日系移民の日本語文学が必然的に引き寄せてしまう興味深い混乱の姿なのだ。この移民文学の検討がもちうる射程にふれて、本論を閉じよう。
一九世紀後半、日本から北米へ移動し居住しはじめた人々は、日本人でもあり、出稼ぎ移民でもあり、アメリカ合州国居住者でもあり、日系アメリカ人の一世でもあった。移民文学がもたらす「混乱」の主因は、一つには〈移民〉という行為/人々そのもののありかたに帰せられる。彼らは〈移動〉し、かつ同時に〈定着〉して文化を産み出した。文化の産出に介在したこの二つの局面の分析こそが、移民文学の研究に取り組む興味と課題の中心であると私は考える。もう一つは、論じる我々の側の問題だ。本来横断的であるはずの彼らの動態を、国境なり学問的境域によって囲い込み、切り分けてしまっていはしないか? 移民文学を考える作業は、ディシプリンの境界の再画定へと我々を導かずにはいないだろう。
ここにおいて移民文学研究の課題は、ひとり移民文学研究のみの課題ではなくなるはずである。
(1)『あめりか物語』は一九〇八年八月、博文館刊。本論では短篇集に収められなかった「舎路港の一夜」「夜の霧」も含めて『あめりか物語』作品群もしくは単に『あめりか物語』と呼ぶ。
(2)坂上博一「「あめりか物語」「ふらんす物語」について」(『永井荷風ノート』桜楓社、一九七八年一一月)、10頁。
(3)板垣公一「『あめりか物語』論──悪魔主義の形成について」(『名城大学人文紀要』一九九二年一二月)、3頁。
(4)荷風の短篇「一月一日」の初出誌(一九〇七年八月)。山本昌一氏の発見による。雑誌は未見であり、引用は『荷風全集』第四巻(岩波書店、一九九二年七月)、375頁より。引用後者は「ビックリ箱」欄掲載の旨注記がある。なお荷風の黒田湖山宛書簡(一九〇七年七月一一日)および西村恵次郎宛書簡(同年九月)に『大西洋』についての言及がある。
(5)引用前者は今村次七宛書簡、一九〇五年一月一一日〔年次推定〕。後者は「西遊日誌抄」一九〇六年六月二九日の条。
(6)初出不明。『あめりか物語』にはじめた収められたと考えられている。
(7)日比「転落の恐怖と慰安──永井荷風「暁」を読む──」(『京都教育大学 国文学会誌』第三三号、二〇〇六年刊行予定)。「暁」論の箇所では本論文と論点を一部共有していることをおことわりする。
(8)ジョン・F・ キャソン『コニー・アイランド──遊園地が語るアメリカ文化』(開文社出版、一九八七年五月)、62頁。
(9)日比「日系アメリカ移民一世の新聞と文学」(『日本文学』二〇〇四年一一月)。
(10)引用前者は「断腸亭尺牘」其六、一九〇四年某月、木曜会宛。後者は西村恵次郎宛書簡、一九〇五年四月一日。
(11)たとえば黒田直道宛書簡、一九〇四年二月二五日。「断腸亭尺牘」其七、一九〇四年四月二六日、生田葵山宛。「断腸亭尺牘」其八、一九〇五年四月一三日、生田葵山宛。
(12)網野義紘「『あめりか物語』の構造」(『荷風文学とその周辺』翰林書房、一九九三年一〇月)。
(13)初出では「強弱」、のち「牧場の道」と改題されている。
(14)「乱雲驚濤」は生前未発表の赤羽の遺稿。引用は『明治文学全集 明治社会主義文学集(二)』(筑摩書房、一九六五年一一月)によった。
(15)引用は保坂帰一『吾輩の見たるアメリカ』上(有文堂、一九一三年一月)による。保坂と『吾輩の見たるアメリカ』に関しては、次の拙論を参照。「漱石の「猫」の見たアメリカ──日系移民一世の日本語文学」(『〈翻訳〉の圏域』筑波大学文化批評研究会、二〇〇四年二月)。
(16)前田河広一郎「三等船客」(『中外』一九二一年八月、一九二二年一〇月)。
◇この研究は科学研究費助成金(平成15─17年度、課題番号15720031「20世紀前半期における〈文学青年〉の社会的形成過程とその表象」)の助成を受けている。