[戻る]

日系アメリカ移民一世の新聞と文学


日比 嘉高
『日本文学』第53巻第11号(No.617), 2004年11月,pp.23-34


はじめに

 「文学」が可能になるためには、いったいどのような環境が必要だろうか?

 その答えは、「文学」という言葉の指す内容いかんによるだろうし、時代にもより、地域によっても変わるはずで、簡単に導き出せる種類のものではないだろう。現実的にはさまざまな角度からのあらゆる答えが可能だろうから、そもそもこうした問いそのものが意味をなさない、というのがあるいは良識的な判断かもしれない。しかし、それでもメディアや出版、読者などこれまでなら必ずしも「文学研究」の範囲内とはみなされなかった領域の研究が進展しつつあるいま、こうした問いを考えてみたくなる研究者は多いのではなかろうか。

 もちろん、「文学」が可能になるためにはどのような環境が必要かという問いに、日本の現実の社会を例にして考えるのは困難な作業である。そこでは「文学」にまつわる領域が、時間軸の方向でも、空間軸の方向でも、あまりに深く複雑に広がっているからだ。

 しかしこの複雑さを、ある程度縮減できる例があったとしたらどうだろう?私の念頭にあるのは、移民文学である。移民とは、人々がみずから生まれた土地を離れて異境に移り住む行為である。完全に現地のコミュニティに溶け込んで行く場合をのぞいて、集団的継続的に行われる移民は、多くの場合母国の文化を強く引きずった小社会=移民地の形成を伴う。面白いのは、この移民地という空間である。なにもなかった異国の土地に、母国の文化を持ち込み、それを模しつつ小さな社会を作っていく。このゼロから建設される〈母国のレプリカ〉の姿を観察することは、母国の社会の形成要素を何もないところからたどり直すという、本来なら不可能な観察のあり方を可能にする。文学の場合でいえば、移民地では人々がゼロから「文学」を作り出そうと試みる、というわけである。むろんゼロからというのはやや誇張した比喩であり、実際には、それは故国にあった「文学」という文化を、手に入る在り合わせのものを用いながら異郷の土地に移植するという作業となる。母国で享受していたのと同じように新しい土地でも「文学」を楽しみたいと考えたとき、移民たちはそこにいったい何を建設していくだろうか。この視点をもって眺めたとき、〈母国のレプリカ〉である移民地という空間は、「文学」を可能にする環境を検証するための小さな、しかし限りなく興味深い実験場となる。

 この論文では移民地に立ち上がる文学空間を考えるためのひとつの足がかりとして、新聞という媒体を取り上げてみたい。具体的には明治期のアメリカ移民たちが発行した日本語新聞──とりわけサンフランシスコで発行された一紙を扱う。後に述べるように、単行図書や雑誌がさほど発展しなかった北米の日本人移民地においては、継続的に刊行され、かつ廉価で手に入った新聞の役割が大きい。日本内地の日刊紙をモデルにして作られた移民新聞は、短篇小説の単独掲載、長篇小説の連載、詩歌・小説の投稿、批評や読者の声の反映など、およそ思いつくすべての方法を備えていた。この新聞とそこに掲載された文学作品の姿を追うことにより、移民地における文学の誕生と維持に、新聞という媒体がどのようにかかわり、いかなる場を提供していたかを考えることができるだろう。本特集の課題である〈連載〉の機能を考えることも、こうした〈場〉の形成を分析するためには資するところが大きいと思われる。

1.日系アメリカ移民と日本語新聞

 まずは簡単に日系アメリカ移民と彼らの日本語新聞の歴史について整理しておこう。

 日本人がアメリカ合州国へ移民しはじめたのは、一九世紀末である。当初は私費留学生など働きながら勉強する苦学生の割合が多かったが、その後次第に労働者が増えていく。彼らが従事したのは、農園の下働き、鉄道敷設、鉱山労働、林業、漁業などだった。米国国勢調査(U. S. Census)の数字では、日系アメリカ人の人口は一九〇〇年で八五、四三七人、一九一〇年で一五一、八三二人、一九二〇年で二二〇、二八四人となっている(1)

 本論が主として扱う移民の第一世代、すなわち一世たちの特徴としては、まず定住を目指したものたちが少なく、多くの者が一時的な出稼ぎのつもりで滞在していたことが挙げられる。一九一〇年代以降、故国から妻を迎え、定住を目指す人々が増加する。南米や満州など、のちに日本人移民たちが数多く渡ることになった地域と異なり、勉学を志すものが少なくなかったことも北米移民の特徴である。このため、書生たちの文化が早い時期から開花することになる。

 田村紀雄『アメリカの日本語新聞』(新潮社、一九九一年一〇月)が強調したように、移民のコミュニティには彼らの母語で書かれた移民新聞エスニック・プレスが不可欠である。社会慣習、言語、出身地への関心などさまざまな面で故国の文化を引き継ぐ移民たちは、アイデンティティの保持という積極面、また言語的不自由さという消極面の双方において、彼らの第一言語でコミュニティの情報を伝達し共有する装置がどうしても必要となる。

 もちろん、日本人移民たちもこの例に漏れない。在米日本人会著作・発行の『在米日本人史』(一九四〇年)は、移民たちの新聞に接触する割合の高さを指摘しながら、その原因を次のように推定している。

即ち在米邦人は米人社会に介在しつゝも、英語力の不十分その他の理由よりその通信界より隔絶された特殊立場にあり、且つ居住地は各地に散在し、新聞を除いては依るべき報道機関甚だ乏しく、また在米同胞は故国の事情を知らんとする念頗る強く、〔・・・〕生活は概ね余裕あつて新聞購読の如きは介意せざる経済力を持つにも起因している。 (506頁)

 このまとめは一九四〇年時点のものだが、英語力や居住地域、メディアへの接触状況、望郷の念など、そのほとんどが一九〇〇年代、一九一〇年代にも当てはまるものと考えてよい。

 しかも北米における日本語新聞の歴史には、以上のような一般的な移民コミュニティの傾向に加えて、固有の事情があった。北米の邦字紙は、最初期の移民到着とほとんど同時──一八八〇年代に誕生している。最初の新聞『東雲しののめ新聞』の創刊は一八八六年である。これは、そのはじめの移民たちが、明治政府により弾圧され一時的に米国に身を寄せた自由民権運動の活動家たちだったためである。彼らはサンフランシスコに滞在しながら、日本に向けて政治的メッセージを送る目的で新聞を発行した。北米の日本語新聞の出発は、政治的亡命者たちが亡命地より故国へ発した言論機関としてあったのである(2)

 これを第一段階とすれば、日本語新聞の第二段階はこの後に来る商業新聞の時代である。自由民権運動の行き詰まりと、日本人の移民コミュニティの拡大とがあいまって、故国日本へではなく、移民地の住人たちに向けた日本語新聞が創刊される。サンフランシスコでいえば、初期のいくつかの統廃合のあと、メジャー二紙体制として確立した『新世界』と『日米』がそれである。

 ここに、一部の政治的結社による指向性の限定された言論空間から、一般の移民たちの生活上に展開されるより幅広い言説空間が誕生した。内地の新聞と規模こそ大きく違え、社説からコミュニティのニュース、故国日本のニュース、国際情勢、彙報、文芸欄、広告などを兼ね備えた、体裁として遜色のない新聞が流通を始める。紙面に載せられた数々の情報は、新しい知らせや日々の読み物を読者に運ぶとともに、同じ言説空間に生きるという一体感をももたらすだろう。コミュニティの拡大が新聞の需要を高め、新聞の提示する言説空間がコミュニティの共通認識と連帯性を醸成していくというサイクルが始まる。

2.移民地の「国内刊行物」

 さて、こうした言説空間の誕生にともなって、移民地における文学が本格的にスタートするわけだが、その前に以降の展開の前提となる事実を補足しておかねばならない。それは、移民地において流通していた新聞は、実のところ移民地で出されていたものだけではなかったということである。移民ジャーナリズムに関する研究は比較的進んでいるが、この面に関してはこれまで不思議と顧みられていない。資料1をごらんいただきたい。

小野五車堂広告(部分)
資料1 小野五車堂広告(部分)『日米』一九一三年一一月一二日、二面

 これは小野五車堂というサンフランシスコの日本書店の広告である。北海道から宮崎、鹿児島さらには朝鮮、満州、台湾の新聞名をずらりと並べたリストを提示しながら、小野五車堂はそれを無料で顧客の縦覧に供すると言う。しかもそれだけではない。「猶遠方の顧客や入用の方には三ヶ月以上のご注文ならばお望みの新聞紙取次ぎいたします」。つまりそれを望めば、小野五車堂の顧客たちは植民地帝国日本の各地域で刊行されていた代表紙を定期購読できたということである。さらに付け加えるなら、移民地では太平洋を結んで形成された流通網を利用して大量の日本の書籍や雑誌もまた輸送され販売されていた(3)。一世の文学を考えるためには、こうした環境を考慮に入れることが非常に重要である(4)。新聞の例もそうだが、日本語の情報に飢えた移民たちは、雑誌や単行本、はては新聞の切り抜きまで、貪欲に輸入を続けていたのである。

 読み耽った雑誌類は、太陽、中央公論、新潮、早稲田文学、文芸倶楽部、文章世界といったようなもので、これは本屋から送ってもらうことにしていた。これら雑誌に現れた日本の思想界は明けてもくれても自然主義の論議であった。長谷川天渓、島村抱月、田山花袋、岩野泡鳴などと言った論客の一字一句が新鮮味をもって味われた。島崎藤村の「春」が読売新聞に出た。竹島君の妻君が一か月分ずつそれを竹島君に送って来たのを借りてきて読むのが何よりの楽しみであった。真山青果という新人の作に驚き、正宗白鳥の「何処へ」とか「泥人形」などを読みつつ祖国のはげしい変遷を思いに浮かべた。 
(翁久允「わが一生 海のかなた」(5)

 引用は、太平洋岸の移民コミュニティで積極的な文学活動を行い、帰国後も『週刊朝日』の編集者などとして活躍した翁久允の自伝小説の一節からである。文中に現れる作家名や作品名からもわかるとおり、翁が振り返っているのは明治末のようすである。

 ここから読み取ることができるのは、ふたつの事柄である。ひとつは、彼が大量の「日本文学」を取り寄せて読んでいたこと。もうひとつは、「祖国」とその文学に対して抱いていた彼の渇望である。異郷の文学青年たちは、取り寄せた雑誌などの情報をもとに、海の彼方の故国の文壇に思いをはせていた。一世の文学は、隔たりと欠乏とによってかき立てられるふるさとの文化への欲望と、それを癒すべく大量に運び込まれる日本の文物、そして身をもって経験しつつある異国の社会との葛藤とから生まれてくる。

3.移民新聞と日本語文学──『新世界』の場合

 本論文で言及できる一世の文学には限りがあるため、ここでは新聞掲載作品を中心に分析を限定しておきたい。取り上げるのは『新世界』という邦字紙である。『新世界』は『日米』と並ぶ第二次大戦前のサンフランシスコの有力紙である。創刊は一八九四年、最初の活字新聞であった。以後一時的な廃刊や合併を経ながら、現在まで続くサンフランシスコの日本語日刊紙二紙体制の基礎を作った。サンフランシスコという日系移民社会の中心地のひとつで刊行された有力紙であり、比較的初期から継続的に原紙が残されているという点から、十分に検討する価値があるといってよいだろう。ただし、サンフランシスコ大震災(一九〇六年)や第二次大戦下の強制収容という厳しい経験を経た結果、やはり欠号も多い。残存している部分でしかも現在調査が終了した範囲(一八九六─一九一〇)という限定的な報告とならざるをえないが、それでも日系一世の文学の出発期のようすの幾分かは見えてくるだろう。以下、詩歌と小説に分けて概観する。

詩歌

 日本国内の新聞と同様に、『新世界』にも数多くの詩歌が掲載された。編集側からすれば欄の大きさも小さくてすみ、作者たちの側からいっても、小説よりは気軽に作れ、また歌会、句会といった仲間が集まる楽しみとも結びついた詩作は、もっとも身近な文芸だった。これまでの研究においても、一世たちの文学といえば詩作が挙げられることが多い(6)

 ジャンルの交代も近代詩史のそれとほぼ相似形であり、ほとんど初期にのみ掲載がみられる漢文、一九〇〇年代に流行しその後次第に衰えていく新体詩、継続的に欄を確保している和歌、俳句といった構成だ。

 そのいちいちについて取り上げていく余裕はないが、移民文学という観点から興味深いと思われるところを数点見ておきたい。まずは、内容的な変遷である。古典的なジャンルであるほど、創作の際、内容面・形式面での制約が大きい。近代の和歌や俳句が、それ以前の伝習や固定化した修辞からいかに離陸するかを課題としていたことは改めて確認するまでもないだろう。移民たちの詩作においてもこの傾向は同様だった。初期の作品は形骸化した紋切り型の表現をそのまま援用した作品が多い。このため、サンフランシスコに身を置きながら、幻想の日本──しかも古典的な──を詠むという事態が発生している。(以下『新世界』からの引用は日付のみ記す。/は原文改行)

 春雨や曙近う桜ちる        村井非物  (一九〇〇・四・三)
 あけはなつ座敷匂ふや土用干    葡軒    (一九〇〇・九・八)

 むろんサンフランシスコに座敷はない。こうした傾向から徐々に当地詠が増えていく。

 テキサスの大平原や稲光り     背味丸
 なそもかく淋しさまさる/かりの宿/カリホルニアの/秋の夕暮れ
                  桑港 なかむら (以上 一九〇六・一一・三)

 伊藤一男『北米百年桜』『続・北米百年桜』(7)が数多く紹介し、今日一世文学の代表のひとつとして考えられる──普通の生活者であった人々の生の声を伝えるとされる──和歌・俳句は、この変化が起こって以降のものを指している。だがそれよりも前、異郷において日本の風物を、あたかもそれがいまだ眼前にあるかのように詠む数多くの作品が存在していたのである。

 詩歌が身軽に反応してみせる時事的な出来事も興味深い。たとえば「天長節の払暁金門公園の苺が岡に登り晴天を遙拝して」の詞書を持つ藤原正之の歌(一八九六・一一・五)。

 大君のましますかたをふし拝み/御世なか〃れと祈る今日かな
 うちよりて声かる〃まで君か代を/うたひことふ〔ママ〕くけふそうれしき

 いずれも、大日本帝国国民の重要な祝日であった天長節(天皇誕生日)に四千浬先の天皇の治世を言祝いだ歌である。また公的な歴史には登場しない移民たちの生活の裏面や、感情などが残されているのも面白い。

御主人のひかる頭におされてか/行燈くらき翠月の軒
喰に行く料理はよしやまずくとも/おちさの世辞を菊水の客
排斥をやるなら今のうちですぞ/やがては国を貰ひますから

 前者二首は一九〇〇年八月一一日の投書欄に寄せられた「桑港の五料理店」と題する狂歌。署名は珍々亭とある。五首からなり、ここに紹介した二首のようにそれぞれの店名(翠月、菊水など)を読み込んでいる。後者は松嶺子「狂歌七首 排斥問題」(一九〇八・二・一一)。太平洋沿岸で徐々に高まりつつあった日本人排斥運動に対する、感情的な反発の歌である。こうした直截的な反応やナショナリズムの表現は、アメリカ社会のなかで協調して生きる道を選択していったこのあとの日系アメリカ人の歴史からは消されがちである。

小説

 別頁資料2は『新世界』掲載の小説リストである。まず指摘したいことは、サンフランシスコ大地震直後のしばらくをのぞき、現存する号からうかがうかぎり、紙面にはかならず何らかの小説か講談、あるいは落語が掲載されていたという事実である。しかも、掲載された作品の顔ぶれが興味深い。長短篇入り交じり、リストに記号で分けて表示したとおり、作者も日本国内の作家から北米在住の移民まで多岐にわたっている。

 移民地の日本語文学空間を構成したこうした複雑なありさまは、これまでの研究では十分に意識されてこなかったと言わねばならない。多くの論者が初期の新聞・雑誌に掲載された小説の存在を指摘はしてきたものの、その具体的なあり方まで取り上げる事はなく、一世の移民小説といえば、このあと一九一〇年前後に登場する翁久允らの活動に一足飛びに飛んでしまっていたからである(8)

 その特徴を整理すれば、第一に、日本語新聞に掲載された作品は、実際には(1)日本国内の作品の転載と、(2)一時的に滞在した内地の文学者の作品、および(3)移民によるオリジナル作品の掲載によって構成されていたという事実をまずは挙げておきたい。リストの例でいえば、(1)として江見水蔭、広津柳浪、松居松葉、真山青果、伊原青々園らの名前を見ることができる。(2)としては佐藤迷羊、田村松魚など主に日本で活動したが米国にも足跡を残した作家たちの名前が登場する。(3)の分類に出てくる名前は、ほとんどの日本文学研究者にはなじみのない名前ばかりだろう。

 第二に、これらの三区分に内容面を加味して考えると、大きく言って転載される日本の作品は通俗的なものが選ばれ、一時的滞在者とオリジナル作品はやや芸術指向のものが多いという点が指摘できる。『新世界』の一般読者たちに受けがよいのは内地の通俗小説や歴史小説、講談、落語であり、一方、自分たちで小説を書くほどに文学趣味を持っていた移民たちは、より高踏的な志向を保持していたといえよう。実際、「桑港書林通の談によれば、売行最も宜しきは絵画入りの人情小説」(9)だったと言われており、文学空間の構成員たちの質的な異なりに注意を払わねばならない。

 この点に関していえば、移民たちの手によるオリジナル作品(小説)の登場時期は一般に考えられていた以上に早く、かつ継続的であるということも第三に指摘しておきたい。リストにあるように、一九〇〇年前後にはすでに天外居士、せつけい生、浮沈木ら複数の作者たちがそれぞれに短篇を寄稿している。三〇回を超える連載も数本存在し、なこそ「ふみほご」などは九九回の連載でなおも未完に終わっている。これまで日系移民による最初の長篇小説は、翁久允の「悪の日影」(『日米』一九一五年六月三日〜九月一五日)とされてきたから(10)、この点にも修正を加えねばなるまい(11)

 以上のような特徴を、〈連載〉という観点から眺め直してみよう。連載小説の機能は、第一義的には物語のもつ魅力──続きを読みたい、という──を利用し、読者を継続的にその新聞につなぎ止めるところにある。この点においては移民新聞も変わらない。ただ、移民地において問題となるのは、適切な書き手がいないということだ。新聞連載、しかも長篇となればかなりの力量がなければ書き通せない。そこで移民新聞がとった戦略が日本内地の小説の転載──おそらくは無断の(12)──である。判明している初出および単行本の刊行時期をリストに注記したが、いずれもオリジナルの発表から転載までの時間差がほとんどないことにも注目したい。松居松葉の「山賊芸妓」にいたっては、『万朝報』の連載中にすでに『新世界』で「連載」が始まっている。松葉の原稿が北米まで回付されたことは想定しにくく、『万朝報』からそのまま転載したと考えるほうが自然だろう。

 田村松魚など(2)のタイプの作者や、(3)の移民地の作者の作品が手に入った場合、編集部は積極的にそれを掲載している印象がある。読者の反応があらかじめ読める通俗ものの転載と、より自分たちに身近な作者による身近な題材の作品との双方をそれぞれ評価して用いていたと考えられる。浮沈木が連載した「教育小説 只つた一文字」の冒頭には、「最もサンフランシスコ臭き小説との所望」によるという作者の弁がある(一八九九年一一月七日、3面)。移民地の読者により近い作品をという編集部のねらいは、移民地の作者たちに継続的な発表の〈場〉を提供するという結果をもたらした。北米の移民社会においては単行本や雑誌はさほど発達しなかったため、新聞が移民地の第一のメディアである(13)。一世文学の生成と維持に、新聞連載が果たした役割は大きいといわねばなるまい。

担い手たち

 文学の担い手たちについても考えておこう。先に移民地の文学空間を占めた作品を三種類に分類したが、これに従えば「書き手」にも三種類が存在したと言えるだろう。(1)日本国内の作家、(2)主として国内で活動したが移民地での生活体験も持つ作家、(3)移民文士たち、である。このうち、移民地の文学空間を創造し、維持していくための主体となったのは(3)の人々である。読者の側を考えたときにも、次の事が言える。(A)まったく文学になど興味をもたなかった層、(B)読むとしても軽いもの──講談や通俗小説程度だった層、(C)文学に深い関心を寄せていた層があったと想定すれば、最後の層こそが文学空間の核となった層である。そして(3)と(C)とはほとんど重なると見ていい。熱心な文学読者たちが、移民地の書き手たちでもあった。文学作品の書き手として、また熱心な読者として、批評家として、あるいは新聞雑誌社の編集者として、書店の店員として、彼ら異郷の文学青年たちが核となって移民地文壇を形成していったのである。

当時の青年達は、夢を抱いてアメリカにやってきたが、現実はあまりにもきびしい。〔・・・〕やはり、精神的なはけ口は文学にむけられた。といっても、誰か大家に師事して本格的に勉強した連中ではない。ヤキマの平原で藷掘りをしながら、あるいはレストランで皿洗いをしながら、満たされぬまま、日本の文学雑誌をよんで、当時、盛んだった、田山花袋、岩野泡鳴らによって唱道された自然主義文学運動に傾倒して、いわば独学で作品をつくりあげた人人だった。人によっては、与謝野晶子に、人によっては石川啄木に、あるいは吉井勇、若山牧水、北原白秋に傾倒した。だから、文学会といっても、特定のリーダーがいるわけではない。気の合った者同士が集まって、文学を論じ、互いの作品を批評しあった。(14)

 引用はシアトルで一九一〇年前後に「文学会」などを作って活動していた西方長平(更風)の回想である。彼らは留学や徴兵逃れなど理由はさまざまであれ、日本で相応の教育を受け、勉強するべくアメリカへやってきた書生たちだった。この回想を紹介した『続・北米百年桜』には、西方らの回顧にもとづく当時のシアトル文学青年たち二二人のプロフィールが紹介されている(101-103頁)。國學院大学卒、早稲田大学国文科卒、東京美術学校卒、早稲田大学哲学科卒、京都大学哲学科卒という日本での学歴、渡米以後のスタンフォード大学在学、ミシガン大薬学科卒業などの経歴が並ぶ。同書で富田清万(緑風)が振り返るように、アメリカで働きながら勉強を続けようとしてやってきた中学や高校の中途退学者も多かったようだ(89頁)。みな当時としてはかなりの高学歴である。文学に親しみのない出稼ぎの労働者から、通俗的読み物を好む読者、高いリテラシーをもつ移民文学の中核的支持層、日本から一時的に訪問する作家、そして作品のみが新聞紙上に現れる日本在住の作家──一口に移民の文学と言っても、その構成は複層的であった。

まとめ──移民新聞の役割

 こうした種々雑多な構成の作品を載せ、さまざまなレベルの読者の要求を引き受けながら日本語新聞は発行されつづけた。移民地で文学のための〈場〉を創りだし、それを維持した移民新聞の重要性はいくら強調しても足りない。手段の是非はともかく日本国内の小説を転載して移民地に最新の作品を届け、短中篇の掲載から百回近くの長篇連載までできうる限り移民地起源の作品も載せ続けた。また個人的な執筆や投稿だけでなく、短歌会や俳句会の成果も頻繁に掲載し、新聞はコミュニティーの文学サークルをつなぐ役割を果たしていたことも見逃せない。自分で創作を行うまでには至らないまでも、掲載される作品に関心をはらっていた読者たちにとっては、投書によるフィードバックの回路としてもあった。

 注目したいのは、移民新聞が果たした役割は単なる〈場〉の提供だけではなかったということである。日本語新聞は、「文学」を創出し、循環させていく積極的なアプローチをも行っていた。たとえば懸賞である。『じやぱんへらるど』(サンフランシスコ)をはじめ日本語新聞は、かなり早い時期からコミュニティの潜在的な作者に向けて、詩歌や小説などの「懸賞募集」を行っていた。「夏期懸賞募集」(『じやぱんへらるど』一八九七年四月一九日、1面)は、「一等賞 写真(キヤビネツト)一ダース」などを懸け、「狂詩、狂歌、狂句及び川柳桑港町名よみこみ都々逸」を募集している。一八九九年一〇月二八日号の『新世界』も「一等本紙一ヶ年」や当選作の掲載などをうたって「懸賞短篇小説募集」を行っている。紅野謙介によれば、『読売新聞』が懸賞小説・脚本募集を行ったのが一八九三年一〇月、『万朝報』が「毎週募集」の懸賞小説を募りはじめたのが一八九七年一月というから(15)、移民紙の試みもかなり早いといってよいだろう。

 日本の最新作の転載、文学愛好者への〈場〉の提供、創作を促進させる懸賞などさまざまな役割を日本語新聞は果たしていた。新聞社そのものが文士のたまり場でもあった。移民新聞は、移民地において「文学」を可能にした環境の、まさに一つの中核であったといえるだろう。

(1)北米日系移民一世の歴史については、たとえばユウジ・イチオカ『一世──黎明期アメリカ移民の物語り──』(刀水書房、一九九二年一〇月)や充実した辞典形式のBrian Niiya ed. Encyclopedia of Japanese American history : an A-to-Z reference from 1868 to the present. New York: Facts on File, Updated ed., 2001.がある。
(2)前掲田村『アメリカの日本語新聞』および田村紀雄・白水繁彦編『米国初期の日本語新聞』(勁草書房、一九八六年九月)所収の阪田安雄、新井勝紘、有山輝雄論文に詳しい。
(3)この点は日本書店論として別稿を用意する予定である。
(4)この点で藤沢全『日系文学の研究』(大学教育社、一九八五年四月)の示した次の立場は再検討されるべきと考える。「一世の文学は、こうした範疇の作品〔永井荷風、田村松魚、有島武郎、正宗白鳥〕を排除し、現にアメリカ側に存在する条件においてのみ把握しうる文学の世界であって、当然のことながら、日本人(一世)の移住史、彼等の生活史、精神史、文化史などと密着。むしろ現地でのマスメディアの発達に即応せずにはおかなかった」(46頁)。
(5)『翁久允全集』第二巻(翁久允全集刊行会、一九七二年二月)、39頁。
(6)たとえば植木照代、ゲイル・K・佐藤他著『日系アメリカ文学 三世代の軌跡を読む』(創元社、一九九七年五月)所収の植木「日系アメリカ人の歴史と文学」およびSato. "Issei Voices and Visions."など。
(7)伊藤一男『北米百年桜』(北米百年桜実行委員会、シアトル、一九六九年九月)、同『続・北米百年桜』(北米百年桜実行委員会、シアトル、一九七二年四月)。
(8)一世文学に関しては以下を参照。前掲藤沢『日系文学の研究』、前掲植木ほか『日系アメリカ文学 三世代の軌跡を読む』、エレイン・H・キム著、植木照代他訳『アジア系アメリカ文学──作品とその社会的枠組──』(世界思想社、二〇〇二年九月)、篠田左多江「解説 アメリカの日系日本語文学──文芸雑誌を中心に──」(篠田左多江・山本岩夫『日系アメリカ文学雑誌研究』不二出版、一九九八年一二月)。翁久允に関しては、中郷芙美子「「移民地文芸」の先駆者翁久允の創作活動──「文学会」の創設から『移植樹』まで」(『立命館言語文化研究』三巻六号、一九九二年三月)、同「翁久允移民地文芸の特徴──「生活」と「思想」について──」(『立命館言語文化研究』四巻六号、一九九三年三月)、山本岩夫「翁久允と『移民地文芸』論」ほかが収録された『立命館言語文化研究』(五巻五─六号、一九九四年二月)の「翁久允と移民地文芸」特集がある。
(9)肥峰「絵画と小説」(『新世界』一九〇七年一月二九日)、1面。
(10)前掲中郷「翁久允移民地文芸の特徴」は「日本語新聞史上初の長編小説「悪の日影」」(50頁)としている。
(11)移民地在住の作者による長篇小説としては、保坂帰一『吾輩の見たる亜米利加』(上編:有文堂、一九一三年一月、下編:日米出版協会、一九一四年四月)もある。夏目漱石「吾輩は猫である」の続編の形式で書かれている。日比「漱石の「猫」の見たアメリカ──日系移民一世の日本語文学──」(筑波大学文化批評研究会編集・刊行『〈翻訳〉の圏域』二〇〇四年二月)を参照。
(12)稗田菫平『筆魂・翁久允の生涯』(桂書房、一九九四年九月)も、一九一六年頃を指しつつ「当時の在米邦字新聞の文芸面の実情はというと、日本での知名な新聞が連載している小説を勝手に盗載しているといった結末〔ママ〕であったようだ」(87頁)としている。
(13)「今日〔一九四〇年ごろ〕に於ても在米邦人社会の刊行物は、その大半いなその殆んどは新聞と云つて差支へなく、他は寥々たる単行本、雑誌乃至団体に所属する機関誌的刊行物があるに過ぎない」(前掲『在米日本人史』505頁)
(14)前掲『続・北米百年桜』、88頁。
(15)紅野謙介「懸賞小説の時代」(『投機としての文学』新曜社、二〇〇三年三月)。

※ 本論文は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校において客員研究員(文部科学省在外研究員)として行った研究の一部である。また本研究は、明治期の文学青年に関する研究プロジェクトを構成する一部であり、これに関しては学術振興会科学研究費助成金(課題番号15720031)の助成をうけている。


[本文にもどる]

資料2 『新世界』掲載小説、講談、落語リスト

リストに掲載したのは1896.11.4〜1910.5.24に掲載されてすべての小説、講談、落語。ただし欠号も多く、特にサンフランシスコ大地震(1906.4.18)を挟む1900.12.29〜1906.5.6は大きく欠けている。参照したのはカリフォルニア大学ロサンゼルス校図書館および立命館大学図書館所蔵のマイクロフィルム版である。

無印 日本国内で発表された作品の転載、◎ 移民地在住者による作品、▲ 一時的に滞在した内地の文学者による作品、□ 翻訳、? 不明

 江見水蔭「泥水、清水 泥水之巻」二回分確認、1896.11.4 - 5        (*1)
 広津柳浪「非国民」(五)1897.2.10                    (*2)
?長田〓〔艸+恵〕香女史「初恋」(三)、1897.3.11
◎天外居士「短編小説 去年の今日」全一回1899.10.28  
 思軒居士訳「無名氏」(五)〜(九の三)、1899.10.28 - 11.20         (*3)
◎せつけい生「船長」全二回1899.11.1 - 2
◎エツチ、ユウ生「多作のうらみ」全二回1899.11.4, 6
◎浮沈木「教育小説 只つた一文字」全四回1899.11.7-11
◎田原豊水「懸賞小説 つり舟」全六回1899.11.14-21
 松居松葉「山賊芸妓」八四回未完1899.11.21〜1900.3.15 (*4)
◎川島天涯「短篇 色むすめ」全四回1899.11.22 - 27
 桃川燕林講談、速記法研究会々員速記「永井義勇伝」〈講談〉全九七回1899.11.28〜1900.4.2
◎幻夢庵「きりひと葉」全二回1899.12.6 - 7
◎浮沈生「鞍馬山騒動 未来の博士」全一回1900.1.4
◎尺魔「歌かるた」全一回1900.1.4
◎川上天涯「なみだ」全三三回1900.4.2 - 5.14
 無署名「探偵小説 軍人仇討 川上行義」全一〇八回1900.6.13 - 10.26
▲佐藤迷羊「日本士官」全二七回1900.10.27 - 28
◎かふろぎ「をんな下宿」全八回1900.11.30 - 12.8
▲田村松魚「罪の手」二五回未完1906.9.15 - 10.8
◎新作小説、霄洋生「有縁無縁」全一回1907.1.1
□翻訳小説、トルストイ原作、生重訳「小説 祈祷者」全七回1907.1.1 - 9
▲田村松魚「大成功」全六回1907.1.4?(欠号) - 9
▲田村松魚「新作 罪の手(後編)」七回未完1907.1.14 - 20
 講談、桃川実述「台湾彩票 当り運」1907.2.1 - 2.? (欠号)
◎石田月下「新作 身の運」 全八回1907.2.?(欠号) - 13
◎ひろ史「変わり者」全四回1907.2.14 - 17
□翻訳小説、呑宙生「鸚鵡の一声」全四回1907.2.18-21
□翻訳小説、プーシキン、明星訳「エカテリナ皇后とミロノフ将軍の娘」全七回1907.2.22 - 28
◎羅府 沈鷹「追憶」全二回1907.3.2 - 3
 講談、石川一口講演「侠骨 日本男子」全二三回1907.3.6 - 30
◎明星子「小説 鉄腸」全七回1907.3.18 - 25
 講談、島田一郎「梅雨日記」全三〇回1907.4.?(欠号) - 5.4
 探偵講談、山崎琴書講演「双児美人」全五四回1907.5.5 - 7.2
 落語、橘屋円喬口演「三軒長屋」全一〇回1907.7.3 - 12
 落語、橘屋円喬口演「強情」全四回1907.7.17.- 20
◎なこそ「ふみほご」九九回未完1907.7.21 - 11.26
 講談、桃川実講演「水戸光圀 犬の御意見」全六回1907.9.30 - 10.6
 講談、桃川実講演「平賀源内 知恵の袋」全一二回1907.10.26 - 11.7
▲在紐育 田村松魚「新作小説 出世間」全三〇回1907.11.27 - 12.26
◎懸賞小説一等賞、一瓢若人「待つ春」全一回1908.1.1
◎懸賞小説二等当選、白蘭子「光明」全二回1908.1.4 - 5
◎応募小説 賞外、渡辺渓月「卒業前」全二回1908.1.6 - 7
◎応募小説賞外 在羅府 吉田和水「新年の東京」全二回1908.1.8 - 9
 講談、神田伯龍講演「毒婦 野晒お駒」全五五回1908.1.10 - 3.4
◎菘村「弾下の夢」全二回1908.3.5 - 6
◎天風「片思ひ」全二回1908.3.7 - 9
◎社末象牙庵「みなは」全二回1908.3.10 - 11
 講談、喋喃齋嚶鳴講演「曽呂利奇談」全七回1908.3.12 - 18
 落語、禽語楼小さん口演「猫久」全七回1908.3.20 - 26
 講談、神田伯龍講演「檜山実記 伊達三次」全六三回1908.3.27 - 5.31
 史談、無署名「桶狭間」全二回1908.4.21 - 22
□翻訳小説、トルストイ、秋田明星訳「アイリヤフ村に於ける参謀会議」全五回1908.6.1 - 5
 一瓢若人「変人の行衛」全二七回1908.6.13 - 7.9
 講談、桃川如燕「侠客 腕の喜三郎」全五三回1908.7.10 - 8.31
 新講談、渡邊霞亭「悪美人」全四三回1908.9.1 - 10.13
 講談、柳々舍玉山講演「義士銘々伝」全九一回1908.10.14 - 1909.1.18
 講談、三遊亭円朝校閲、司馬龍生口演「義侠の惣七」全四九回1909.1.19 - 3.18
□流川訳「軍事小説 万歳」全一〇回1909.1.24 - 2.4
 新講談、省軒居士「探偵奇談 電信線」全三五回1909.3.24 - 4.28
◎早川水歩「恋の神」全三回1909.4.4 - 6
◎逢嬉楼「短編小説 文雄君」全三回1909.4.15 - 17
◎早川水歩「鬼あざみ」全二回1909.4.18 - 19
◎早川水歩「過壇龍草」(ルビ上下:くじゃくそう/ The Maiden Hair)全三一回1909.4.29 - 5.29
◎梅本露花「油谷の月」全一二回1909.5.30 - 6.10
◎逢喜楼「小鳶の喜六」全二回1909.6.11 - 12
 塚原澁柿「長篠合戦」1909.6.13 - 9.4 (*5)
◎帆里「不得要領」全四回1909.7.6 - 9
◎帆里「自覚」全二回1909.7.14 - 17
◎胡蝶子「火の車」全一回1909.7.15
◎帆里「波瀾」全二回1909.8.1 - 2
◎武村九華「写生 稲葉」全六回1909.9.5 - 10
◎帆里「過去」全四回1909.9.11 - 14
◎早川水歩「続 夢の女」全二回1909.915 - 16
◎鈴木北川「瞑想家」一七回未完1909.9.16 - 10.5
◎鈴木秀峯「野花」全一七回1909.10.8 - 25
 史談、愛山生「四十七士伝」全一三回1909.10.13 - 30 (*6)
◎早川水歩「堕落」全二回1909.11.5 - 6
◎早川水歩「落葉」全一回1909.11.21
◎武村九華「暮秋」全一〇回1909.11.22 - 12.11
◎早川水歩「雪代」全二回1909.12.6 - 7
 伊原青々園「新かつら川」1909.12.18 - 1910.2.19          (*7a)
◎千雲居士「我が友」全二回1909.12.23 - 24
◎鈴木北川「誕生日」全一回1909.12.24
◎懸賞小説 第一等当選、梅本露花「日曜日」全一回1910.1.1
◎早川水歩「泡雪」全一回1910.1.1
◎明石帆里「船」全三回1910.1.4 - 6
◎明石帆里「二人」全三回1910.2.19 - 21
◎岡蘆丘「並木」全五回1910.2.22 - 26
◎浅野露葉「離別」全五回1910.2.?(欠号) - 3.1
◎武骨浪人「双蝶」全一〇回1910.3.2 - 11
◎平井桜川「そのまゝ」全六回1910.3.12 - 18
 真山青果「幕」全二回1910.3.17 - 18                 (*8)
◎明石帆里「お菊」全三回1910.3.21 - 23
 伊原青々園「新桂川」後編1910.4.5 - 5.24              (*7b)

 判明している日本国内での初出、単行本
(*1)『文芸倶楽部』1896.4
(*2)『文芸倶楽部』1897.1
(*3)初出『国会新聞』1894.1-8、のち春陽堂1898.9
(*4)『万朝報』1899.10.16〜1900.2.2
(*5)初出『東京日日新聞』1894.10.1 - 12.27、のち佐久良書房1909.1.17(澁柿叢書巻第十)
(*6)『独立評論』1909.4.15, 6.1
(*7a, b)『都新聞』1909.4.20〜8.25、のち画報社より刊行、前編1909.7.24、後編1911.8.23
(*8)『大阪毎日新聞』1910年1月1日

[本文にもどる]


[戻る]