[目次](作成日比)
一口に文士といふけれど文士にだつてピンからキリまである。名声天下を圧する大家もある。誰に訊いて見ても、「そんな人がゐますかね」と小首をひねられるやうな無名なのもある。小説家もある。詩人もある。評論家もある。中には三つを兼業でやつてゐるすばらしく多芸な人もある。それらの人を悉(ことごと)く網羅したらそれは大変な数に上ることだらう。これらの人々は皆悉くとは言ひ難いが、大抵は東京に住んでゐる。詳しくは所謂下町を包囲して、山の手から郡部にかけて住んでゐる。政治の方面に於いても、実業の方面に於いても、乃至学芸の方面に於いても、総ての首脳が東都に集まるといふ現下の状態にあつては、それ固(もと)より自然の勢である。文科大学が京都に設けられて以来、多少その方面へも新智識の人々が吸収されたには違ひないが、それは殆(ほとんど)ど数へる程しかない。我国の有力なる文学者は依然として東京に集まつてゐる。
そこで妙なことを思ひついた人間がある。一体これらの文士は東京の何処に住んでゐるか。どんな場処にどういふ風にして住んでゐるか。どういふ人とどういふ人とが近くにゐるか。誰と誰とが離れてゐるか。重(おも)だつた人のだけでも検(しら)べて見たら一寸(ちょっと)お慰みになるだらうと思ひついた人間がある。それがLLDである。閑人には格好な思ひつきだ。丁度花は咲いてゐるし、てく/\歩きには持つて来いの好時節。こそで先づ市(当時は東京市)の東部から順々に北部、西部、中央と巡つて見ることにした。
先づ深川から始めるべき筈だが、この句には文士が一人も住んでゐない。深川と云へば今の処東京で最も多く江戸の面影の残つて居る所である。それだけ新らしい文明の空気には触れてゐない。文明の花とも称すべき文士が爰(ここ)にゐないのは無理もない。面白い区には違ひないが我々には用はない。
その北に接してゐる本所となるとゐる。たつた二人ゐる。伊藤左千夫氏と幸田露伴氏とだ。今一人饗庭篁村氏を挙げれば挙げるのだが、この人と現文壇との交渉はどの点から見ても考へ物だ。だから爰では二人だけにして置く。
左千夫氏は茅場町に住んでゐる。茅場町と聴くと直ぐあの取引所の傍らにある、石の銀行の多い、車馬の往来が耳を聾せんばかりに激しい、繁華な日本橋区のことを思はせるが、本所の茅場町はさうではない。本所といふ処が一体に陰気でパツとしない処へ持つて来て、その茅場町といふ処は、本所も奥の奥の、葛飾に近い方だから随分さびれた町である。錦糸堀の本所ステイシヨンの先の方で、けたゝましい汽笛の声が時々耳に入る。町は一体に田舎びて、店先に駄菓子の硝子箱を並べた荒物屋の檐(のき)には、草鞋(わらじ)が目白押しをしてぶら下がつてゐる。しみつたれた煎餅屋がある。団子屋がある。通りの隅の方へ寄せて、空の荷車が幾台も幾台も行列を造つてゐる。灰色の町、灰色の人、河岸には青物市場があつて、横鉢巻をした威勢のいゝ兄が、「えゝ一貫五百・・・・二百・・・・」と妙な節をつけて怒鳴つてゐる。
左千夫氏はかういふ中に住んでゐる。鉄道線路に近い空地に牛を飼つて牛乳搾取をやつてゐる。元は歌ばかり詠んでゐたが後にぼつ/\小説に筆を着けるやうになつた。併し最近ではその小説も余り拝見することが出来ない。商売の方が忙しくて筆を執つてゐる暇がないのかも知れない。氏の作とその頽廃(たいはい)した町とを結び付けて見ると、そこに何だが或る意味が潜んでゐるやうに思はれる。
茅場町から十町ばかりで亀戸天神がある。江戸名所の一つだつたが、近年は非常に開けて来て、小綺麗な飲食店だの、意気な御神燈の下つた宿などが近処に沢山出来た。古雅な大皷橋や、物寂びた随身門に対して面白いコントラストをなしてゐる。左千夫氏も時々は砂埃に埋められた灰色の巷から抜け出して、爰に懐かしい空気を呼吸することもあるだらう。
柳島の土手伝ひに妙見様の前を過ぎて、小梅から向島へ出る。この辺は江戸時代の戯作者が好んでその作物の舞台とした所であるが、近頃の文学者には殆ど全く捨てゝ顧られなくなつてしまつた。と云ふのは、今日でも都会的生活の中心動力と縁が薄くなつて、所謂モダアニズムなるものと交渉する所が少なくなつた故である。あつちにもこつちにもぞく/\と立つてゐる真黒な煙突や、その先からモク/\と渦を巻いて吹き出る煤煙に依つて僅かに「現代」と一糸の関係を保つてゐる位のものである。自然近時の作家は材をこの方に取らないことゝなつた。江戸時代の憧憬者永井荷風氏の手になつた二三の作に、この辺の紹介されたのは特別な例外と云はねばならぬ。
柳島から小梅の方へ掛けては町とは云へないやうな穢(きた)ない町や、路とは云へないやうな粗末な路が続いてゐる。どこを見ても気息奄々たるみじめな様である。それが向島となると大分変つて来る。新築の気の利いた二階家などもあつちこつちに見える。幸田露伴氏は爰に住んでゐる。大倉別邸の前を土堤の右へ降りると、雲水と称する精進料理がある。朽ちかゝつた門の前に「普茶割烹、雲水」とした菅笠が懸けてある。近処に藁家(わらのいえ?)があるが、この料理はそれらの藁家と別に区別のしようもないやうな古ぼけた建物である。その古家の少し先に露伴氏の新築した邸宅がある。
氏は今は筆も執らず、大学(京都大学)の教授も辞してしまつて頗る閑散の身の上らしい。その邸宅も却々(なかなか?)堂々たるもので、遉(さすが)は文壇の大家であるといふことを思はせる。邸の裏には小川が流れて、その先は寺島田圃になつてゐる。小川に架けられた石橋の上に彳(たたず)んでゐると、向の木立の中に建てられた小学校で、「電車の路は十文字・・・・・」と歌つてゐる生徒の声が聴えて来る。
川を越せば浅草の地に入る。この区には島崎藤村氏がたつた一人住んでゐる。氏の家は柳橋の近くで、向う三軒両隣、音楽と色彩との問屋である。東京でも有名な料理屋が軒を並べてある所だけに、一般にいふ浅草趣味とは余程其(そ)の趣を異にして所謂柳橋趣味といふものを形作つてゐる所だ。其の住家は、潜り戸を開けると、土間も玄関もなく座敷になるといふ建方でちょつと常磐津の師匠でも住みさうに思はれる。氏は其の両隣から押へ付けられたやうな家の二階の一間で落付いて筆を執られてゐるのだ。
浅草から下谷にはいると、この区には千葉掬香、河東碧梧桐、田村松魚、田中喜一、木下尚江の五氏が住んでゐる。都会の中央に近づいて来たゞけに大分数が殖ゑて来た。最も田中、木下の二氏は下谷区ではなくして郡部へ入つてゐるけれど、暫(しば)らく地勢上の便宜からこの一団のうちに加へて置く。
下谷区とは云ふものゝ五人が五人ずつと北の方へ寄つてゐる。精(くわ)しくは上野公園から奥の方に住んでゐる〔。〕それもその筈だ。上野以南となつたら混雑して落付がなくて、静思を尊ぶ文人の住まれさうな処はまあない。先づ田村松魚氏が谷中天王寺町で、淋しい墓地の横の方に住んでゐる。今の文壇は洋行帰りが大持ての時で此頃ではエクゾチシズムといふ言葉が流行語になつてゐる。永井荷風、高村光太郎両氏は云はずもあれ、中村吉蔵、関戸信次なぞといふ人も大いに活動してゐる〔。〕その中になつて新帰朝者(でもないかも知れないが)の一人たる松魚氏一人が甚だ振はない。はたから見てゐて歯掻ゆい位である。又何だかお気の毒なやうでもある。併しそれには満更理由がない訳ではないので、さう考へて見れば是非もない次第だ。
碧梧桐氏は上根岸、掬香氏は中根岸、王堂学人(田中喜一氏)は元金杉に住んでゐる。いづれも目と鼻の近処である。根岸と聴くと直ぐに別荘は思はせる。妾宅を思はせる。俳人を思はせる。骨董屋を思はせる。昔は向島と対峙して、江戸趣味の有力なる根元地であつた。前者が意気に於いて優つてゐたとすれば、後者は寂びに於いて優つてゐた。笹の雪、お行の松・・・・、それは通人とか粋士とか称する人の耳に特別な響を与へた言葉である。今は昔の風もなくなつてしまつたが、それでも何処かに古い面影が残つてゐる。穢ない駄菓子屋の隣りに、茶室めいた小意気な茅ぶき屋根が見えたりなぞする。爺さんの髭のやうな払子だの、目も鼻も一緒くたに煤(くすぶ)り返つた羅漢像なぞを、勿体振つて飾つた骨董屋もある。時とすると黒繻子の半襟の下から赤い襟を見せた白粉の目に付く小娘が、酸漿を鳴らしながら足早に行き過ぎることもある。
かういふ閑寂な、悪く云つたら気の抜けたやうな町に、碧梧桐氏の如き俳人や、「蘇生の日」「建築師」「ヘツダ、ガブラア」等の翻訳はやつたが、自分では飽迄も生粋の江戸ツ子を以て任じてゐる橘香氏なぞが住んでゐるのは、如何にも当を得てゐるけれども、王堂学人の如き勇気凛々たる論客の住所としては少しく不似合の感がある。尤も学人のゐる方は田圃を埋め立てたその跡へ家を建てたのだから、雨でも降り続かうものならそれは/\非常な泥濘となつて、大抵な豪傑でも閉口せざるを得ない。第一あつちにもこつちにもある古溷(ここん、古トイレ?)の臭気が耐らない。――すつかり忘れてゐたが、根岸といふ場所に伴ふ聯想(れんそう)の一つにはこの「溷(かわや)の臭気」といふこともあつたのだ。これだけはどう考へても意気でない。
何しろ上野から田端へかけての一体の高地の脇に、爰(ここ)だけが低くなつてゐるのだた(か)ら、何となくジメ/\して陰気臭い。血気な青年でも老人染みた考へになり易い。夏は蚊が非常だといふ。
金杉から北は三河島田圃だ。三河島の停車場を越せば三河島村。その先に一つ田圃を距(へだ)てゝ町屋と呼ばれる一村がある。そこに木下尚江氏の住居がある。氏の家はたつた二間だが土間は広い。廻りには百姓家が少しある。この辺へ云つて木下さんと訊ねると誰でも知つてゐる。
本郷区となると大変な人数である。何しろ赤門派といふ名称の依つて起つた帝国大学が、巍然として区の中央に胡座をかいてゐるのだから、その四方に文士の割拠してゐるのも無理はない。赤門派若しくは準赤門派が比較的多数なのも自然の勢いであらう。この区になると文士が必ずしも奥の方へばかり逃げてゐない。中央へも来てゐれば、ずつと南部の繁華な巷へも出てゐる。と云ふのは本郷といふ区が一体に学者的(寧ろ学生的)で、電車のチン/\と書けてゐる三丁目辺でも、やつぱり半山の手的な面影のあるせゐであらう。
先づ南の方から検(しら)べて行くと、菊坂方面には内藤鳴雪、木下杢太郎、平木白星の三氏がゐる。鳴雪翁の家は真砂町で高い岸縁に臨み、菊坂を距てゝ台町の高台と対してゐる。眺望は好いが、眼に入るのは下宿屋の三階か、さもなくば砲兵工廠の煤煙位なものである。場処が場処だから仕方がない。併し氏の近処は門構の静かな家ばかり多く、時々は高壮は(な?)ペンキ塗の病院などもある。俳人であると同時に、一方寄宿舎の監督をしてゐるといふやうな話を聴いた。何はともあれあの老体で、あの元気と精力とには敬服せざるを得ぬ。
菊坂の横の細い通の或る家には木下杢太郎氏が宿つてゐる。この人実の名を太田正雄と云ふ。新進の劇作者として最もよく知られてゐるが、詩も作る、小説も書く、評論もやる、時としては絵筆を執ることもある。何をやつても出来ないといふものはない。多彩多能必ずしも推奨するべきことではないが、かういふ人も少しはある方がいゝ。文壇の単調を破るには効果があるだらう。医科大学生ださうだ。愈々(いよいよ)面白い。
平木白星氏もつひ近処にゐるが近頃はとんと振はない様子である。
少し北へ寄つて赤門附近に又一群の文人が住む。先づ森川町に徳田秋声、三井甲之、小宮豊隆の三氏がゐる。三人とも同じ番地なのも不思議だ。尤も秋声氏を除いた他の二人は下宿住居である。品のいい町だけれど家は随分建て込んでゐる。下宿の二階から秋声氏の庭が眼の下に見える。
森川町に接した東片町西片町は学者町として聞こえてゐる。森川町よりも奥になつてゐる丈あつて大分閑静で、何処へ行つても生垣だらけである。この辺一帯は番地の附け方が拙いので、馴れない者はどの位困難するか分らない。一時小説壇の檜舞台たる観があつた。(。はママ)『中央公論』を発行する反省社はこの中にある。高安月郊、黒柳芥舟、笹川臨風の三氏が住む。月郊氏は長く京都にあつて、近頃東上した来たのは大分抱負があつてのことだと聞き及んでゐるが、未だその片鱗にも接し得ないのは残念である。芥舟氏は十年一日の如く悟つたやうな悟らないやうな態度を持してゐる。臨風氏はもとの上田敏氏の旧宅に入つて、辞書を拵(あつら)へたり、学校へ教へに行つたり、文芸の革新を呼号したりしてゐる。
更に奥へ進めば駒込附近の一群がある。人数も多い代りには場処も広い。端と端とでは土地の様子も大分違つてゐる。先づ一番入口の千駄木に森鴎外氏がゐる(。)この人の近来の活動振は実に驚く。全く若い者跣足(はだし)である。その上奥さんのしげ子夫人がそれに負けない位盛んに書くのだから愈々(いよいよ)驚かざるを得ぬ。場所は根津権現の後の藪下と称する処を曲つて行つた処で、近頃氏の書いた小説『青年』の中に、「爪先上がりの道を、平になる処まで登ると、又右側が崖になつてゐて、上野の山までの間の人家の屋根が見える。ふいと左側の籠塀のある家を見ると、毛利某といふ門札が目に附く」としてあるのを読めば、大抵どの見当だといふことが分るだらう。
却々(なかなか?)皮肉ないたづらの好きな人であるらしい。毛利云々などは悪い洒落だ。崖の方へ臨んだ表門は何年と言ふことなく閉されて、団子坂の方に向つた裏門からばかり出入してゐたのに、この頃通つて見るといつも表門が十文字に開いてゐる。これから益々活動せんとする用意と見える。幾度か驚いた上に更に更に驚かされることだらう。
通りを一つ越して奥へ入ると千駄木林町。爰(ここ)では生田長江氏と高村光太郎氏とが、門と門と向ひ合で睨めくらをしてゐる。光太郎氏は父君たる我国彫刻界の大家高村光雲翁と一緒に住んでゐるのだから、邸宅の立派なのは別に驚くことはないが、長江氏は独力で以て奥ゆかしい門構の家に入つてゐる。新進の文学士としては少し過ぎてゐる位だ。理財の方面に於いても却々(なかなか?)如才のない人であるといふことを思はせる。
光太郎氏は母屋から離れて建てゝある工房アトリエの方に起臥してゐる。よく外へ出掛けるから容易に会へない。元は短歌で活動した人だが、帰朝(=帰国)以来は全くそれを捨てゝ専ら評論と翻訳とに力を注いでゐる。その美術評論は甚だ傾聴すべき意見に富んでゐる。
千駄木林町の奥、吉祥寺の裏の方には三島霜川、坂本文泉氏の二氏がゐる。霜川氏が飽くことなき物臭太郎的生活は現代文壇の珍である。かういふ生活を続けて行く人、若しくは続け得る人は、今日以後の文壇には全くその跡を絶つてしまふだらうから、氏の如き人が一人位ゐて、古き世の名匠気質を見せてくれるのも悪くはあるまい。氏は近頃大変芝居に熱心になつて、今の処では何だか演劇方面の文士になつてしまひさうだ。
区内の文士は大略こんなものだが、もつと奥へ入つて巣鴨となると、久保天随、野上臼川、同弥生子の三氏が住む。天随氏は前代未聞のえらい原稿料を取つたので有名な人だけあつて、自分で立派な家を造つてその中に住んでゐる。併し飽迄書生風な人で服装なぞは些(ちっ)とも構はない。この辺はもう随分と奥になつてゐるから、土地も田舎びてゐる。近所は植木屋が多いので何処へ行つても青々した木立の茂りばかり。木鋏の音が時々長閑に聴えて来ることもある。
動坂辺はこの数年来非常に新築の家が増したが、それでも後ろの方には一帯の田がある。田の端れは小川になつて、それから向ふは田端だ。動坂も田端も地面が高く、その間の田圃だけが低地になつてゐる。動坂から田端の丘陵を望んで景色は却(なかなか?)々いゝ。丘陵を掩(おお)ふ木立の中には吉田白甲氏が住んでゐる。
この区はかの砲兵工廠が南の方にのさばつて、自然その附近はガヤ/\して落付きがない為に、文士は皆北部の方へ押しやられてゐる。
小石川方面を細別すると、原町方面、小日向方面、関口方面、雑司ヶ谷方面の四つとなる。原町方面は本郷に近いだけに赤門派が多いが、段々西へ行つて牛込区に近づいて来ると早稲田派が殖ゑて、雑司ヶ谷となると全くそればかりで埋めてゐる。僅かに大町桂月氏の例外があるばかりだ。併し氏なぞは赤門出身とは云ひ条、今の処文壇の中心に立つて活動してゐる人ではないのだから、どこに住んでゐようが氏自身に取つては別に影響もないことだらう。
原町方面では指ヶ谷町に姉崎嘲風氏が住む。盲唖学校の直き傍だからといふ意味ではあるまいが、氏の門はいつも盲ひた人の眼のやうに閉されてゐる。学者としては稀(めずら)しい風采の閑雅な貴公子の面影のある人だが住居は少しもそれらしくない。古ぼけたジメ/\した家らしい。玄関の右手の方に突拍子もない白壁の倉などが立つてゐる。近頃でもちよく/\文芸上の議論を発表するが何だか元気がない。文壇とはこれから益々縁遠くなる人だらう。
氏の門前の通りを前の細道へ入ると樋口龍峡氏が住む。風采からして代議士的なので家の構えも代議士的である。門を入ると緩く傾斜した砂利路が左へ折れて、玄関がまともに見えないなぞは却々(なかなか?)威圧的である。塀の外へ板を拡げて居る爛漫たる幾株かの桜花は甚だ見事だ。もつと奥へ進むと植物園の真後ろに尾上柴舟氏がゐる。生垣ばかりの静かな所へ以て来て、二階の書斎からは植物園の中がよく見える。温室の傍を遊覧の客が徐々(しずしず)と歩を運んでゐる。遙か彼方には伝通院の高台を見渡すことも出来る。こんな広々した自然の眺望を恣(ほしいまま)にし得る所に住んでゐれば、自分の家に庭なぞなくても少しも不都合は感じない。
近処には薄倖の詩人兒玉花外氏が下宿してゐる。登張竹風氏も通り一つ距(へだ)てた向ふに住んでゐる。夜なぞ門前を通るとをり/\得意な義太夫の声を聴き得ることもあると云ふ。生方敏郎氏がこの近くにゐるのは妙な取り合わせと云はなければならない。この辺には小村寿太郎とか坂谷芳郎とか云ふ人々の壮麗な邸宅があるので、文士の生活なぞといふものは甚だケチなものであるといふことを沁々(しみじみ)思はせる。
植物園の横手の坂を降りると土地が一寸(ちょっと)の間だけ低くなるが、それが又直ぐに大塚から小日向の方へかけての高台になる。高等師範の近くには佐々醒雪氏が住む。氏は今はこの学校の教授をしてゐる。茗荷谷には佐藤紅緑氏がゐる。自然主義勃興時は壮んに性欲小説を書いて活動した人だが、その後河岸を変へて新派の脚本作家になつた。近頃は昔に帰つてホツ/\小説に筆を着け出した。これには定めし色々な曰くのあることだらう。
小日向台の端(はず)れなる久世山の向ふには目白台が高まつてゐる。その辺は田中前宮相を始め、華族や富豪の居宅が多いので、木立はいつも注意深く手が入れられて、見た眼が整然として綺麗である。この目白台を少しばかりよりかけた駒井町に徳田秋江氏が住んでゐる〔。〕先達までは正宗白鳥氏も此処に住んで居たが、あんまり鼻と鼻と突き当るやうな近間に住んでゐた為め、ちよい/\行き通ひが頻繁で有り過ぎたさうだつた。つい先達て、もつと奥の高田豊川町へ移られた。
其の白鳥氏の往〔住〕居の先には有名な女子大学がある。すばらしいもので、この学校が一つある為にこの辺の空気が何となく女子大学臭くなつてゐる。マアガレツトに結つて、お納戸色の袴をはいて、胸を反らした女学生がしつきりなしに通る。下駄屋を覘(のぞ)いても小間物屋を覘いても、女学生ばかりが入込んでゐる。学校の裏は老松町から雑司ヶ谷になつてゐる。女子大学の寄宿舎の裏に「星の湯」と称する銭湯がある。如何にも場処に適はしい思ひ付の名ではないか。
相馬御風、大町桂月、三津木春影などの人々はこの附近に巣を食つてゐる。雑司ヶ谷も市内の方は大分家が建て込んでゐるが、郡部となると淋しくなつて来る。楢(なら)や榛(はしばみ)の並木の間からは田圃が見える。鬼子母神の森は町と田圃とが相接する堺に茂つてゐる。秋田雨雀氏はこの森の中に住んでゐる。人見東明氏の寓もやつぱりこつちの方になる。
独り飛び離れた江戸川端に片上天弦氏が住んでゐる〔。〕結婚されるまではやはり女子大学の近辺に居たのだが今は安藤坂下の電車道の直ぐ傍に、琴瑟相和した家庭を持つて、夕暮などは相携へて花下を逍遙されるといふことだ。
この区の住人と来たら大変なものである。本郷も小石川も可なりな人数だつたが却々(なかなか?)そんなものでない。区内だけでも非常な数だ。処へ以て来て奥の方には大久保といふ文士村を控へてゐるので、それを合せると殆ど本郷、小石川の二区を集めたゞけの人数に匹敵する。明らかに中央文壇に於ける文士の巣窟である。早稲田派の多いのは自然の勢であるが、何しろ多人数だけに随分異分子も少くない。場処も区のあらゆる方面に行き渡つてゐる。これは本郷区の時に述べたのと同一の原因から来てゐるのであらう。併し本郷区よりも更に一層万遍なく分布されている。
江戸川方面では新小川町に西村酔夢、金子筑水、楠山正雄、北原白秋諸氏、この辺は出端がいゝから便利には便利だけれど、余り物静かとは云へない。
転じて早稲田方面になると矢来町に、春雨改め中村吉蔵、榎町に窪田空穂、白松南山、鶴巻町に若山牧水、松原至文、弁天町に中村星湖、南町に夏目漱石、小川未明の諸氏が住んでゐる。真山青果氏の留守宅も直ぐ近くの喜久井町にある。この中で牧水氏だけはまだ下宿住居をしてゐる。星湖氏は近頃結婚したばかりである。新婚の歓楽今正に闌(たけなわ)なりや否やは知らない。漱石氏の門前に立つて見ると、玄関の右手植込越に硝子障子の閉まつたのが見えて、「あゝ、あそこに先生がゐるのだな」といふことを思はせる。
神楽坂を牛込見附の方から登つて行く。この辺での繁華な町だから人通りの激しいこと。殊に日曜の午後なぞと来たら非常なものである。早稲田の学生が大部分を占めてゐるが、その中には清国の留学生なども交つてゐる。庇髪が行くかと思ふと、ぞろりと褄を取つて潰し島田の意気な(爰(ここ)のは余り意気でもないが)のも見える。神楽坂の趣味は下町と山の手、都会と田舎、意気と野暮とをゴツチヤにした飽迄雑然たる趣味に依つて色着けられてある。整正がない、統一がない。甚だ乱雑極まるが、その代り活気がある。何と云つても学生本位の町である。
三木露風氏はこの坂の裏手の下宿にゐる。近頃は詩作ばかりでなく傍ら雑誌のエヂタアをも兼ねてゐるのだから嘸(さぞ)かし多忙なことだらう。其処から少し奥に行くと柳川春葉氏がゐる。子供がないので、猫とか犬とかを飼つて其れがだうとかしたといふやうなことをよく文壇の風聞子が伝へてゐた。露風氏とは反対の側の赤城元町には中島孤島氏が住む。横寺町の寺には森田草平氏がゐる。余程寺が氏の趣味には叶つてゐるものと見えて、今迄も好く寺院住居をやつて来た。
市ヶ谷には壮麗な邸宅が多い。土地も高いので湿気は少しもないが、屋敷町が大部分を占めてゐるので余りに乾き過ぎてはゐないかとさへ感じられる。併し外壕へ面した方は普通の町屋や、一寸した門構の家が建て込んでゐる。その辺の田町には馬場孤蝶氏と昇曙夢氏とが住む。孤蝶氏の家は電車の音が絶えず聴える位に壕端に接近してゐる。曙夢氏の家は崖に臨んで立てられてあるので、二階の書斎の窓の硝子越に、壕の彼方なる靖国神社の森が一眼に見渡される。甲武線の電車がおもちやでも見るやうに水辺を失踪して行く。家は別に立派でもないが、この位眺望のいゝ書斎を占領してゐる文士は少なからう。
砂土原町には文壇の耆宿の一人たる内田魯庵氏が控えてゐる。もつと奥へ進むと前にも云つた壮大な構の邸が多くなる。柳田国男氏はこの辺に住む。内閣法制局参事官兼宮内省書記官といふ厳めしい肩書に適はしい、厳めしい構の家である。この人は純粋の文士と云ふことは出来ないけれど、どうも棄てるには惜しい人である。「紳士的」と称する言葉が、この人程真の意味に於いて当てはまる人は少なからう。
薬王寺前町といふ町は何となく埃つぽい、陰気な町である。別段どうといふことはないけれど何となく落付がない。しつとりとしてゐない。物騒がしくはないが閑静でもない。支那人の学校の脇の、ひどく奥へ引込んだ、一寸捜したゞけでは気が付かないやうな隅の方に島村抱月氏の家がある。門だけは当世風だけれど家の方は元代用小学校でゞもあつたかと思はれるやうな構造だ。無論書斎は西洋風で床は板の間になつてゐる。
構わず北へ進むと大久保余丁町である。この辺は市ヶ谷監獄署の裏手に当つてゐる。文壇の元老坪内逍遙氏がゐる。耽美派の急先鋒永井荷風氏がゐる。新進の評論家安倍能成氏がゐる。順々に考へて来ると三人が三人ながら面白いコントラストをなしてゐる。荷風氏も高村光太郎氏と同じやうに今父の邸に住んでゐる。その門前に立つと、成程氏のやうが〔=な〕人がこの家から出たのは無理がないといふ感じが起る。真黒に塗つた太い柱の門は何となく「圧制」を思はせる。それに耐へ能はぬ人は氏の如き反抗児とならざるを得ない。
逍遙氏はその邸宅の一部を割いて文芸協会附属の俳優学校に献じた。新築された学校は表通に臨み、氏の邸は裏通に向ひてゐる。近処の人は爰を坪内横町と呼んでゐるさうだ。氏の感化は単に早稲田の子弟と、文壇の後進との上にあつたばかりでなく、その附近の人々にもかくばかり深い尊敬の念を起させたものと見える。
戸山学校の脇を通つてだら%\坂を降りるとその辺はもう市内ではない。右手にはずつと戸山の原が広がつてゐる。所謂大久保は爰である。大久保も近頃は非常に家が殖ゑた。若し戸山の原が陸軍の管轄地でなかつたなら、疾うの昔にこの辺へも貸家が出来て行つたのかも知れないが、右の理由でそれは遁れた。それが為に広々した原野はいつまでも元のまゝで残つてゐる〔。〕随つて文士連は時々この辺をぶらついて、英訳で窺つた露西亜の荒野を想像することも出来る。只昼のうちは豆を煎るやうな射的の音がちよい/\響いて、多少感興を害する傾きがないでもないが、併しそれとても深く意に介する程のことではない。
大久保は西大久保、東大久保、百人町と分れるが、中でも西大久保に一番文士が多い。岩野泡鳴、戸川秋骨、吉江孤雁、田岡嶺雲、矢崎嵯峨の舎の諸氏がゐる。泡鳴氏は例の有名なる遠藤きよ子女史と共に、まるで男所帯かと思はれるやうな荒涼なる生活を送つてゐる。併し傍目は荒涼でも、内部は甚だ濃艶なものであるかも知れない。軒燈には二人の苗字が並べて書いてある〔。〕
東大久保には竹越三叉、松居松葉、百人町には水野葉舟、草野柴二、服部嘉香、金子薫園の諸氏が住んでゐる。大して広くもない区域内にそれだけの大人数が集まつてゐるのだから、大久保だけの文士倶楽部を起さうなぞと思ひ立つ筈である。
この区に入るとガラリと人がゐない。区が変ればかうも激しい変化があるものかと思はれる程で、市ヶ谷に近い荒木町に安成貞雄氏がたつた一人。見かけに寄らぬハイカラな人で、いつも西洋の新らしい物新らしい物と紹介してゐたが、近頃は余りやらない。飽きたのか。それとも新聞記者になつたので暇がないのか。
ずつと郊外に出た代々木には田山花袋氏がゐる。爰を四谷方面に加へるのは少し無理だがまあ仕方がない〔。〕この辺は大久保と同じく新開地だが大久保よりは静かだ。その代り余程沈んでゐる。大久保よりは大きな家が多いやうだ。花袋氏の住居はこの辺でも一寸眼に付く構である。戸山の原のやうな広い平地はないが、それでも後ろの方には代々木野が一寸見渡す程に広がつてゐる。
純粋の文学者とは云へないが、アナアキズムの方で有名な幸徳秋水氏もこの辺にゐる。
それから更に西の方約三里余、代々木新町から馬車に乗つて甲州街道を行くと、北多摩郡千歳村粕屋に徳富蘆花氏が半農的生活を送つてゐる。市と郡部との境に住んでゐる文士は沢山あるが、氏の如く全く都会から懸け離れた生活をしてゐる人は、木下尚江氏を措いたら先づなからう。併し木下氏だつて蘆花氏の如く離れてはゐない。蘆花氏のやうな人が文士中の最西端、木下氏のやうな人が最北端にゐて、互に相類似した生活をやつてゐるといふのは、その対照が非常に面白い。
爰は四谷区とは違つてお上品な区だけに文士も少しはゐる。併し中央文壇とは少し縁の遠いやうな人ばかりである。三宅雪嶺、伊原青々園、桐生悠々、徳富蘇峯〔峰、以下同〕、千葉江東、河井酔茗、山路愛山、と諸氏の名を列挙したゞけでも分る。三宅氏は政論家兼哲学者、青々園氏は新聞記者で劇評家、悠々氏は法学士の新聞記者時々自然主義攻撃論をやるけれど、いつも狙ひが外れてゐる。蘇峯、江東二氏は共に新聞記者。江東氏は霹靂火の名に隠れて「国民」紙上でいつも小説月評をやつてゐるが、それだけでは未だしと云はねばならぬ。酔茗氏は詩人には違ひないが、今の処では「女子文壇」主筆と呼ぶ方が迥〔はるか〕に適切である。愛山氏は何でもござれで四角八面に切り立てるが、本領は史論家といふ処にあるのだらう。
三宅雄二郎氏の新坂町に住むのが最も南方で、青々園、悠々、蘇峯の三氏はいづれも青山墓地の後ろの方。江東、酔茗の二氏は原宿でもう郡部だ。それからだら/\と坂を降して山手線の〔踏、日比注〕切を越した中渋谷に愛山氏がゐる。これから先はもう余り家はない。
区内には霞町に広津柳浪氏がゐるだけ。土地の様子は赤坂と余り違はない。やつぱり軍人や官吏が一番多く住んでゐる。
迥(はる)かの郊外にはなつてゐるが下目黒なる上司小剣、白柳秀湖の二氏もこの方面に加へなければなるまい。目黒不動は直き近処になる。この辺の田圃は渋谷の方から続いてゐる。行人坂といふのを降りると一度町が切れるのだから、その辺は大変淋しくもあり又田舎びてもゐる。
この区は入口の新橋に近い方は随分ごた/\と混雑してゐる。中部には工場が多い。だから文士は西端の高輪近辺にばかり集まつてゐる。泉岳寺の傍には生田葵山氏がゐる。南町にはその先生の巖谷小波氏がゐる〔。〕厳めしい白木の門口式台造。左手には木造二階建の洋館が見える。文士の中は氏位堂々たる邸宅を構へてゐる人は先づあるまい。
この辺は海に近いから冬は暖かい。日の光さへ何だか東京の北郊よりは明るいやうな気がする。
少し奥へ引込んで白金方面には後藤宙外、小杉天外の二氏がゐる。宙外氏は相変わらず自然主義攻撃で躍鬼となつてゐるが、天外氏の方は『無名通信』なぞに隠れて暢気(のんき)なものだ。
品川から京浜電車に乗つて南馬場で降りると、其処に江見水蔭氏がゐる。近頃は冒険物も余まり見ないが新聞小説では中々読者に受けてゐるといふことである。更に進んで立会川まで行くと、大井町に前田木城氏がゐる。氏の家は昔の東海道に沿うてゐて、書斎は直ぐに品川湾に臨んでゐる。朝の景色は定めて美しからう。更に電車を乗り続けると大森附近に田口掬汀、杉村楚人冠の二氏が住む。二氏は中央文壇の文士中最南端に住む人である。
以上で大略山の手と称する方面は尽きた。先づ東の方本所から出て、北、西、南と東京を一周した訳になる。これからはその中部なる下町へ入る。尤も文壇の方から云ふと下町は山の手程緊要な地点ではない。
先づ京橋区から。この区と日本橋区とは下町と称する言葉が有する概念の最も純粋なものを含んでゐるのだから、文士には甚だ縁遠い。銀座や日本橋の雑踏ではどうすることも出来るものではない。併し二人ばかりゐる。それは小山内薫氏と今一人長谷川しぐれ女史だが、二人とも隅田川の海に注ぐはけ口の佃島なのだから、京橋とは云ひ条趣味から云つて寧ろ深川的である〔。〕水に臨んだ方は何だか漁村の面影があつて、「爰が東京なのか知ら」といふ感さへ浮ぶ。
小山内氏は多年の桎梏であつた「家」を破壊して、拘束のない自由な旅館住居をやつてゐる。しぐれ女史の家は直ぐ傍である。二人の対照に興味がある。
日本橋には一人もゐない。
神田は下町には違ひないが趣味からいふと寧ろ支那的である。神保町辺と来たら支那料理の多いのに驚く。東明館の顧客の半分は清国留学生だといふのは少し大袈裟かも知れないが、何しろその勢力は大したものだ〔。〕だから勧工場の商店の小僧でも「難有う」位の支那語を皆知つてゐる。尤も支那の学生ばかりでなく、中学程度の学校が非常に多いから、その方の学生は沢山集まつてゐる。同じ学生でも本郷のと神田のとでは種が違ふ。
それでも本郷の方に寄つた駿河台辺は割合に静かである。馬鹿に病院が多い。ニコライ堂の巨大な建物の〔/が〕聳(そび)えてゐる。この附近に文士が少しゐる。鈴木町に長谷川天渓、ニコライ堂近くに与謝野寛氏、同晶子夫人、瀬沼夏葉女史など。少し下へ降りると小川町の裏には竹柏会を経営してゐる佐々木信綱氏。それからこの方面ではないが、ずつと飛んで麹町に近い三崎町に前田林外氏がゐる。もう可なりな年輩な上に、一方では紙屋といふ小うるさい仕事を抱えてゐながら、倦まざる努力を続けてゐるのは却々(なかなか?)出来ないことだ。
この区は丁度東京の真中に位してゐるのだから山の手とは云ひ切れないが、さりとて下町とも云ひ切れない。趣味は山の手に近く、どこか本郷辺と似た処もある。区の中部南部は宮城や官省などで埋められてゐるから、文士は皆四谷、牛込に近い北部西武に住んでゐる〔。〕人数も可なり多い。
番町方面では泉鏡花、土肥春曙、中沢臨川、高浜虚子、蒲原有明の諸氏。この辺は主に屋敷町、兵営が近いから朝夕なぞは物悲しい喇叭の音も聴える。鏡花氏は久しく逗子に在つたので、東京に居を卜したのはさう古いことではない。有明氏はまるで昔の郷士と云ふやうな人でも住みさうな、物古りた、堅固な、さうして何となく奥床しい家に入つてゐる。この家から氏の作るやうな詩が出るかと思ふと面白い。
飯田町方面にも少しゐる。神田に接してゐるだけに大分神田の匂がして、余り静かな処だとは云へない。吉井勇、長田秀雄、前田夕暮などいふ新進の気鋭の人ばかり集まつてゐる。吉井、長田の二氏は「スバル」と「屋上庭園」の勇将だが、前者は家族の坊ちやん、後者はお医者様ださうな。夕暮氏は「秀才文壇」の外に、「創作」と称する短歌の雑紙へも力を注いでゐる。