観衆は見えにくい。画家について、あるいは作品について、また展覧会についての言葉は、無数にと言っていいほど産出されてきた。だが、こと観衆という存在について考えようとしはじめたとき、いやおうなく気づかされるのが、観衆、とりわけその具体的な姿について語った言葉が、極端に少ないという事実である。
ここで取り上げようとしている文展開設期の観衆についても、もちろんこのことは当てはまる。1907(明40)年の10月25日から東京上野公園内の元東京勧業博覧会美術館で開会された第一回文部省美術展覧会の出品者が誰であり、受賞者が誰であり、その作品が何であり、審査員が誰であり、入場者数がどれくらいで、入場料がいくらだ、ということを、我々はほとんど正確に知ることができる。ところがその一方で、そこに足を運んだ人々が、いったいいかなる者たちであったのかということについては、これはかなり答えることが難しいと言わねばならない。資料が、ほとんどないのである。
これはむしろ当然で、美術展覧会に足を運んだ人は、美術作品を見に出かけるのであって、そこに集まった人々がどういう人々なのかを観察しに行くわけではない。それを記録する、ということになれば、なおさらである。展覧会に人を見に行くという奇妙な作業を敢えておこなうのは、少々変わった人物だけである。いま、我々の手元に残されているのは、一つにはそうした一風変わった人物──たとえば内田魯庵のような──の残してくれた記録である。
もう一つある。公式な記録というわけではないし、時には少々の粉飾すら混じっていたりもする。だが、その時期の社会のスナップショットを、しばしば思いもかけない鋭さで切り取ってくれるもの。文学作品である。たとえば文展開設期である1910年前後に書かれた小説を通覧していくと、そのなかのいくらかに展覧会へ出かける人々が描きこまれているのを見い出すことができる。
文学作品は所詮虚構ではないか、という問いには次のように答えておこう。小説にしろ、詩にしろ、そこに描き出された場面、人物は、むろん事実そのものではない。たしかに、文学作品には典型化や理念化、潤色、単純化などが不可避的にともなう。しかしそうした表象行為そのものにつきまとう変形は、「事実」の単純な歪曲にとどまるわけではない。文学作品による表象は、ある歴史的文化的な基盤の上から提示された視角の一つとして取り上げる価値がある。作品に書かれたことがらを、たとえば展覧会が開かれた場所の名前であるとか、入場者の数のような種類の情報と同列におくことはできないものの、かといってまったく信ずるにたらない虚構/虚偽の言説であると切り捨ててよいわけでもない。一定の手続きを踏み、その資料のもつ性格を見極めるならば、文学資料は非常に豊かな情報をもたらしうるというのが、本論の立場である。
こうした立場のうえで、本論は、展覧会の観衆、とりわけ文展開設期(1910年前後)の観衆のあり方を、主として文学作品の表象分析をとおして論じる。なぜ文展の観衆を論じるのかについては論の展開のなかで明らかにするが、ひとまずここでは文展という大規模なシステムが形成した観衆の多様性に注目したいからだ、と述べるにとどめておく。文学作品の表象の分析から浮かび上がるさまざまな観衆の姿は、文展という官製システムの始動と、人々の観衆化との関係を明らかにしてくれるだろう。
1907年にその第一回が開催された文部省美術展覧会、いわゆる文展は、フランスのサロンを模して作られた「官」展である。1907年から1919年まで計12回とりおこなわれ、以後帝国美術展(帝展)、文展などと変遷をたどり、現代の日展につながっている。勅令によって委員制度が布かれ、文部大臣の管轄のもとで事務官も文部省内から出すなど、官僚制度のなかに組み込まれた審査体制をもった展覧会であった。
小集団に分かれて競っていた美術団体を一つに糾合して統一的な発表舞台を用意したこと、内国博覧会的な殖産興業策から文化振興策への転換、「官」という権威性と作品の買い上げ制度とがもたらした美術家たちの意欲増進など、これまでにも文展はさまざまに評価されてきた。日本の近代美術史に占めるその役割の大きさを考えれば当然である。だが、その観衆にかかわる点については、いまだ研究は途につきはじめたばかりと言わねばならない。たとえば、児島薫が「美術家が増え、美術市場が拡大し、一般の人々にも美術が知られるようになった」(1)と述べるように、先行する研究においては、文展を介して美術に親しむ人が増えたという程度の概括に終わっている場合が多い。その制度性という観点から文展の分析をおこなった北澤憲昭の論考も、次のような指摘にとどまる。
文展は、こうして美術界に君臨しつつ、国家にとって望ましいかたちの美術を「国定芸術」として創出してゆく一方、副産物として洋画の市場を誕生させ、また、絵画・彫刻を中心とする美術のヒエラルキーを確立して、美術の制度化をおしすすめてゆくことになる。しかも、文展をめぐって、にわかに活気づいてきた美術ジャーナリズムは(批評的言説も含めて)かかる制度化を民衆レヴェルで推し進めていった。こうした官民の動きが相俟って、美術とその鑑賞は、文化システムとして社会的に確立されていったのである(2)。
洋画市場の誕生とジャーナリズムの活動を視野に入れたとはいえ、観衆論に踏み込んでいるわけではない。
もちろん、美術の大衆化という観点が重要であることはいうまでもない。本論が文展に焦点を合わせているのも、美術展覧会としては空前の規模の来場者を呼んだという事実に着目すればこそである。次に掲げた[表1]は、文展の来場者数をまとめたものである(3)。
開催年 | 名称(場所) | 入場者数 | 会期 | 一日平均 |
1907年 | 第一回文展 | 43,741人 | 37日 | 1,182人 |
1908年 | 第二回文展 | 48,535人 | 40日 | 1,213人 |
1909年 | 第三回文展 | 60,535人 | 41日 | 1,476人 |
1910年 | 第四回文展 | 76,363人 | 41日 | 1,862人 |
1911年 | 第五回文展 | 92,765人 | 37日 | 2,507人 |
1912年 | 第六回文展 | 161,795人 | 37日 | 4,372人 |
1913年 | 第七回文展 | 168,708人 | 35日 | 4,820人 |
1914年 | 第八回文展 | 146,486人 | 35日 | 4,185人 |
1915年 | 第九回文展 | 183,418人 | 32日 | 5,731人 |
1916年 | 第一〇回文展 | 231,691人 | 38日 | 6,097人 |
1917年 | 第一一回文展 | 242,662人 | 36日 | 6,740人 |
1918年 | 第一二回文展 | 258,371人 | 36日 | 7,176人 |
開催年月日 | 名称 | 入場者数の記述(4) |
1911年10月11-20日 | 版画展覧会 | 「毎日の入場者は招待した人をのぞいて平均百二十四人コンマの七」 |
1912年2月16-25日 | 白樺第四回展覧会 | 「平均すると一日二百人と一寸」 |
1913年4月11-20日 | 白樺第六回展覧会 | 「入場者は十日間に壹千八百八十八人で、平均百八十八人強」 |
[表2]に掲げた白樺主催のいくつかの展覧会と比べてみても、文展の入場者数の多さは歴然だろう。白樺主催展覧会の入場者数が一日平均で200人を越えたり越えなかったりで推移しているのに対し、文展は第一回から一日当たり1,000人を越え、大正期に入ると4,000人、最終的に1918年の第一二回では7,000人を越すまでになっている。
なぜこれほどまで文展には人が入ったのだろうか。さまざまな要因が考えられるが、ここで問題になる観衆の視点から考えれば、次のような点が指摘できるだろう。まずは「権威性」である。文展は文部省すなわち国家が保証する美術展としてあった。そこで陳列される作品は、国家によって任命された審査員の鑑査を経ているものばかりであり、そのうちのいくつかは国が買い上げるという仕掛けにもなっている。作品の価値は、まさに文字どおり、国家が保証する仕組みになっていたわけである。
もう一つは、先の北澤論文も指摘していたメディアによる宣伝活動である。これは先行する東京勧業博覧会(1907年3-7月)との接続からみておいた方がよいだろう。東京勧業博覧会ではこれまでの博覧会の通例どおり、会場内に「美術館」建設されていたが、この美術館をめぐってはさまざまな事件が紛糾していた(東京勧業博については本報告集所収の五十殿論文に詳しい(5))。彫刻家北村四海による自作《霞》破壊事件、審査問題、褒賞返却騒動などが新聞雑誌でさかんに報道されたのである。これにより、「今回の博覧会に就てはあらゆる方面の人大に美術館に注目し、新聞雑誌の大に批評紹介に努めたると共に、種々の事件は世人を美術館に傾意せしめたり」(6)と報じられるような事態が出来していたのである。文展は、この会期中に周知され、同年10月にスタートする。つまり人々の耳目が、スキャンダラスな色彩を持ちつつではあるが美術に向けられているなか、文展はその産声を上げたわけである。実際、東京府下の各紙は、文展開催にあわせて審査の経過や出品作の紹介・批評を継続的におこなっていく。
東京勧業博覧会との接続の点でいえば、会場となる「場所」の問題も注意されてよいだろう。文展は東京勧業博覧会の跡地(上野公園内)で、同じ「美術館」の建物を利用して開催された。ゼロからスタートするに際し、開催地の知名度を利用できたことの有利さは、少なく見積もるべきではないだろう。
さらに重要だったと考えられるのが「入場料の安さ」である。文展の入場料は、一貫して10銭である(7)。これがどの程度の値段だったのかは、その当時の別の娯楽、鑑賞施設の利用料と比べるのがよいだろう。任意にあげれば、映画館の入場料が15銭(1909年)、帝国劇場観覧の最低料金が20銭(1911年)、上野動物園の入園料が5銭(1907年)である。都電乗車賃4銭(1911年)、『中央公論』1冊20銭(1909年)、ビール大瓶22銭(1914年)も参考としてあげておこう(8)。文展を見るのは映画よりも、『中央公論』よりも、ビールの大瓶よりも安かったのである。当時の観覧記や批評記事を見ていると、執筆者が何度も会場に足を運んでいることが書かれている。高村光太郎も、青少年向けの入門記事で「少くとも四度は足を会場に運びたい」と述べていたが(9)、この値段ならば、光太郎がさほど無理を言っていたわけではないこともわかる。
こうして文展は、数多くの、さまざまな人々を吸い寄せはじめる。次の二つの記事をみてみたい。一つめは『万朝報』の1908年の記事、二つめは1912年の内田魯庵の文章である。
昨日も上野へ行つて見ると、展覧会の賑ひは意想外である、その賑ひをなせる観覧者の要素の啻に美術学生等の専門家ばかりでなく、あらゆる職業の人を集めてゐるのには、一驚を喫せざるを得なかつた、やがてこれは美術思想の普及を示すものである、兎角の批評は擱いて、文部省が一臂の力をこの方面に仮〔ママ〕した為に明治美術の存在が世人に知られた一事は徳としなければならぬと思ふ(10)
十月十三日 朝、根岸へ用事があつて上野を通り抜けようとすると文展会場の前が人の山をなしてる。尚だ開場時間前なのだ。若い紳士や学生の多いは不思議は無いが、十五六の娘連れもある、孫の手を牽くお婆アさんもある、夫婦親子隠居さんまで伴れた一家族もある。文展は美術家及び鑑賞家の専有のヱキジビシヨンでなくて殆んど全社会の公共歓楽場になつた観がある。 (11)
文展には「あらゆる職業の人」が集まりつつあった。「十五六の娘連れ」も「孫の手を牽くお婆アさん」も、紳士も芸者も兵隊も学生も上野へやってきていた。或印刷所の主人が魯庵にむかって言ったように、画家達はすでに、「相撲と同じに矢張贔屓の先生がありますから」などと語られるまでになっているのである(魯庵、325頁)。
先行の論者たちが指摘していた「大衆化」は、まさしくこうした記事から裏付けを取ることができる。あらためて確認すれば、「美術展覧会と近代観衆の形成について」というこの研究プロジェクトの総題は、「近代」の語を含んでいる。私は本論において、美術展覧会とその観衆における大衆化をもって、「近代」と考えている。この立場を取っていえば、「あらゆる職業の人」を吸い寄せた文展こそ、まさに美術展覧会における「近代」の始まりに他ならない。
だが、単純に大衆化と呼ぶだけでは不十分である。先の引用が含んでいた人々の雑多さにこそ、目を向ける必要がある。大量の人々は、大量であればあるだけ、多様な種類の人々を含んでいる。大衆化の語は便利だが、それだけでは膨大な数の観衆が、大衆の名のもとに一括されてしまい、量の増加とともにたどったはずの観衆の複層化の動きが見えなくなってしまう。文展を見に詰めかけた人々は、多種多様であったようだ。いったいどのような人々が、秋の上野に集まっていたのか。先の引用に現れただけでも、美術学生、若い紳士、娘連れ、お婆さん、家族などがあげられる。では彼らは何を見、何を考えていたのか。この雑多な人々は、同じものを見ていたのだろうか。美術展覧会だから美術作品を見た。もちろんそうだろう。だが本当に、それだけだろうか。
ここで私は、これまで大衆と呼ばれ、雑多な顔つきを見せていた人々を、いくつかの層に切り分ける作業をおこなってみたい。もちろん、これは仮設的な作業になるが、この作業によって、人々は一括されることも、またその反対に個別化されすぎることもなくなり、展覧会という場において彼らがふるまうあり方に応じて、それぞれにまとまった特徴を見せてくれることになるだろう。
ヒントになるのは、次の有島壬生馬の展評である。
見物人は十中八九若い男──学生風の人許りであつた。此事は彼地での展覧会などに比べると余程異様な感がします。サロンのベルニサーヂが今日では巴里人士の年中行事中の最大なものゝ一つになつて居る事、如何なる新派の芽生えの様な展覧会にも各種類の人々が集つて見に来る事などは云ふまでもありませんが、夫れは絵画其物に興味があるからで、文部省の展覧会だから行く行かぬと云ふのでは少し心細い。〔・・・〕然るに太平洋画会の有様を一寸見ると芸術家、学生の外は全く社会と没交渉の様に見受けられた。(12)
有島が見た「見物人」たちは、明らかに万朝報記者や内田魯庵が見た文展の観衆とは異なっている。引用に書き込まれているとおり、有島が見たのは太平洋画会の展覧会である。広く一般の注意を引く要素を兼ね備え、多様な人々が観覧に集まっていたらしい文展に対し、白馬会と並ぶ洋画の研究・教育団体であった太平洋画会の展覧会には、ある程度専門化した関心をよせる人々だけが集まっていたのである。あらためて先の『万朝報』と魯庵「気まぐれ日記」を見直せば、そこにはやはり「美術学生等の専門家ばかりでなく」であるとか、「若い紳士や学生の多いは不思議は無いが」と断りがつけてある。つまり、これを言い換えれば、当時美術展覧会に集まる観衆といえば、一般的には美術に関心を持つ若者がまず想起される存在であったといえるだろう。そしてつけ加えるならば、彼らはおそらく大部分が男性であった(13)。
こうした美術趣味を持つ若い観衆たちを切り分けるとすれば、それ以外の人々も見えてくる。有島の表現を借りれば、「文部省の展覧会だから行く」人々である。美術趣味を持つ若い観衆たちは、当然文展が開設される以前から存在しただろう。明治美術会や日本美術院、白馬会、太平洋画会、无声会などその時々の先端を行った美術展覧会の観衆は、彼らだったはずである。このことを踏まえれば、1907年から始まった事態とは「文部省の展覧会だから行く」ような人々の出現だと言いかえることも可能だろう。
以上を踏まえ、ここでは仮に次の四層に観衆を切り分けてみたい。
(1)もっとも専門化した観衆
(2)美術趣味をもつものの、さほど専門化していない観衆
(3)「文部省の展覧会だから行く」観衆
(4)なお見えない観衆
この層に相当するのは、美術家や画学生、批評家など、美術に関する高度な知識をもち関心を寄せている人々である。従来の美術研究が力を注いできたのは、この層の考察ということになる。こうした人々については研究の蓄積もあり、本論では(2)以降の観衆の分析に焦点化することとし、次のような諸特徴を指摘するにとどめたい。観覧行為とみずからの創作活動とが地続きとなっている、展評などを通じて情報をメディア上で循環させる役割を果たす、みずからも展覧会の企画者側にまわる、などである。美術家や美術批評家あるいはその予備軍である彼らは、文展の作品に対しみずからの表現行為との関係のもとで対峙し、批評する。時にはそれをメディアを通じて発表する。フューザン会のような反-文展的な活動を開始するのも、彼らの担った役割である。文学に近いところでは、白樺の同人たちをここに加えるべきかも知れない。彼らの美術の知識には精粗があり、アマチュア的な色も強く保持していたが、フォーゲラーの版画やロダンの彫刻を入手しみずから展覧会を開いたり、新しい西洋の画家達の作品を『白樺』誌上で積極的に紹介していった活動は、これまでも高く評価されてきたとおりである。若き里見〓[弓享]の小説「君と私と」には、展覧会の準備に奔走する主人公たちのようすが書き込まれている(14)。
この層は学生を中心とした美術に関心を向ける知識人層から構成されたと考えられる。文学者の多くはここに入るだろう。1910(明43)年11月の『早稲田文学』には、「文部省美術展覧会印象記」と銘打った、同人たちによるアマチュア意識を前面に出した印象記集が組まれている。そこに掲載された相馬御風の「女と猫」という文章は、この層の心性のある部分をよく語っているように思われる。
まるで五月雨のやうにジメジメした雨が幾日も幾日も降りつゞいた後の快い秋晴れの半日を、わざわざ人間の手で拵らつた絵などの中で費すのはまつたく惜しかつた〔・・・しかし〕ひとつの虚栄心があつた〔。〕これを見なければ以て当代の芸術を談ずる能はずと、仲間の人達から笑はれないために、出来るだけ早く文部省の展覧会と云ふものを見て置かねばならぬ、さう云ふ虚栄心があつた。そ〔ママ〕うして此の虚栄心を奥にひそめた私の眼は、展覧会場での遇つた多くの女や男に対しても、此の中で幾人真に心から芸術の香を慕つて来た人があるだらうかと云ふ疑の念を帯びざるを得なかつた。(15)
自然主義文学の代表的若手論客であり、みずから詩や小説も発表した御風だが、美術に関しては、秋晴れの半日を「絵などの中で費すのはまつたく惜し」いと感じてしまう程度の関心を持っているにすぎなかったようだ。だが、そうした彼でさえ、文展には足を運んだ。「これを見なければ以て当代の芸術を談ずる能はずと、仲間の人達から笑はれないために」。御風は驚くほど率直にみずからの「虚栄心」を語り、のみならずその「虚栄心」を、他の観衆のなかに見い出そうとさえしている。同時代美術の一堂に会する文展を見に行くことが、ある種の常識もしくはポーズとなるような心性が、ここにはある。
虚栄心からであるか否かはおくとしても、さまざまな趣味的活動の一環として、文展に出かけた知識人は多い。先にも引いた内田魯庵の「気まぐれ日記」を見てみれば、「南葵文庫紀念会」や「文芸協会試演」、「帝劇の博文館記念会」、「文明協会の披露会」、「ルツソー二百年記念会」など、さまざまな「会」に彼が連日のように参加しており、文展はその中の一つとしてあったことがわかる。同様に、経済学者でのちに慶應義塾塾長になった小泉信三の若き日の日記をみても、演劇、活動写真、小説、テニスなど彼が情熱を注いだ種々の楽しみの一部として美術は位置していたことが知られる(16)。
一方、この時期の小説に目を転じると、作品のなかに現れる観衆も、やはりこのアマチュア的な観衆が多かったようである。白柳秀湖の「黄昏」は、文展以前の1905年を舞台にした中編小説であるが、ヒロインの兄がこのアマチュア的な美術愛好家として造形されている。
長兄は少年の時から絵画に趣味を持つて水彩画などは可なりの上手で、今に暇さへあれば絵葉書にスケツチなどをして楽しんで居る。工学士といふても部屋にはあまり読んだことのない沙翁や、ウオルズウオルスなどの洋書が綺麗に飾り付けられて、塑像もあれば、油絵の額面もかゝつて居る。(17)
長兄は工学士で現在は鉄道庁の技師をする人物だが、美術、文学に若い頃から関心を持ち続けているとされる。彼の仲間も「東京の中等階級に育つた新しい青年の群で、話は何時でも白馬会や太平洋画界の評判、それから世間の噂に上つて居る大作の批評、文壇の消息などで持ち切」(192頁)るような若者たちだった。
文展に関しては、森鴎外の「青年」をあげることができる。上京したばかりの主人公小泉純一は、まだ住居を決める前に「上野へ行つて文部省の展覧会を見て帰つ」(18)ている。作品ではさらにその後、先に上京していた同郷の友人瀬戸が、純一を連れ出そうと「上野の展覧会へ行つても好い。浅草公園へ散歩に行つても好い」などと誘ったりしている。ただし「純一は画なんぞを見るには、分かつても分からなくても、人と一しよに見るのが嫌である」ため、断ったのであるが(304頁)。
「青年」がよく対比される夏目漱石の「三四郎」にも観衆は登場する。主人公三四郎とヒロイン美禰子が、丹青会の展覧会に行く場面がある。しかし三四郎は純一ほどには絵に関心がない。彼はむしろ、次で論じる(3)に分類される観衆であるといえそうだ。「会場へ着いたのは殆んど三時近くである。妙な看板が出てゐる。丹青会と云ふ字も、字の周囲についてゐる図案も、三四郎の眼には悉く新らしい。然し熊本では見る事の出来ない意味で新らしいので、寧ろ一種異様の感がある。中は猶更である。三四郎の眼には只油絵と水彩画の区別が判然と映ずる位のものに過ぎない」。招待券をもつ美禰子に誘われるままに会場へおもむいた三四郎だったが、「鑑別力のないものと、初手からあきらめ」、「いつこう口をあかな」(19)かったのである。
この層の観衆がもつ美術リテラシーの形成を考えるときに、興味深い資料がある。博文館から出ていた青少年向け文芸投書雑誌『文章世界』に掲載された、高村光太郎の文章である。「美術展覧会見物に就ての注意」と題されたそれは、いかに美術展覧会──文展が想定されている──を見るかという、いわばマニュアルである。「展覧会へ行つて作品の芸術的価値の上下を見極めようなどと思つて見て歩くのは最も損な見方である。〔・・・〕眼に角を立てゝ重箱の隅をほじくらない方が可い」(20)。「会場の中では力めて虚心平気になり、まづ楽しまうと思つて見て歩く心懸が必要である。〔・・・〕そして少くとも四度は足を会場に運びたい。第一日には、〔・・・〕」、「作品の鑑賞の興味、といつて悪ければ愉快さは、作品そのものを通して作者と膝を割つて話の出来る処にある」(32頁)などという調子で進められる文章は、明らかに初心者に向けて書かれている。文展の開催に時期を合わせて掲載されたこの文章は、文学には関心が深かったはずの『文章世界』の読者たちを、美術鑑賞の世界へも誘うものとなっている。雑誌の読者たちは全国に広がっており、これを実行できた者は少なかったはずだが、片上天弦が「文章世界で高村光太郎氏が言つてゐた通り、「三角の机」を探し出さぬやうに、たゞ見て楽しまうといふつもりで見た」(21)と書いているなど、意外なところまでその効力が確認できる。
この層にあたるのは、展覧会に足を運ぶものの、とりたてて美術に深い関心があるわけではない観衆たちである。これまで論じてきた二種の観衆がそれぞれ創作や批評のかたちでみずからの存在を書き残すことがあったのに対し、この観衆たちはそうした機会からは遠い。その意味で、実際の会場ではもっとも大多数を占めていただろう彼らは、現在の我々からすれば、逆にもっとも見えにくい観衆であるといえる。
事実、彼らの姿を明らかにしてくれる資料は乏しく、本論においてもわずかな資料から可視化の試みをおこなうしかない。一つめの資料は、1913(大2)年の『新潮』に掲載された史朗生「文展見聞記」である。
秋晴れの一日──。
其の日、上野公園前の電車を降りる人々の半分は、皆、文展へ!と、ぞろぞろ足を運ぶ。動物園前の広い通りには、時々自働車が奇怪な声を立てゝ馳る。──皆文展の入口を目がけて──。
何しろ、文部省の展覧会も、非常な流行になつたものだ。(22)
こうして始まる史朗生の見聞記は、やや斜に構えた姿勢を示しつつ、一般の観衆たちに混じって展覧会場を巡回しはじめる。面白いのは、彼の記事が通常の批評記事とは異なり、作品の品評と同等かむしろそれ以上に、そこに集まった人々──とりわけさほど絵に関心がなさそうな人々──の観察に向けられていることだ。彼の見聞記は、電車内の「小官吏らしい二人の腰弁」の観察にはじまり、「全まるで戦争の有様」の切符売り場のようす、会場での「商家の細君かみさん」とその娘の会話、その娘を「此の絵よりか、あの方が美人だ」と囁く人々、「一高の帽子を被つた四人連れの学生」、「美術学校の生徒らしい二人連れ」、「紳士」「老人連」と順々にめぐっていく。
注意しておきたいのは、彼の記事が単にただ見たままをつづっているわけではなく、ある差異化の欲望を内にはらんで構成されている点である。満員の電車の中で史朗生は、すぐ前にいた「二人の腰弁」──すでにこの言葉が蔑称だ──の次のような会話を書き取っている。「「何しろ、文部省の展覧会も一種の流行となりまして、絵も何も分らんやうな連中まで出かけるのですから、閉口しますて。」/「ほんとです。」」(82頁) ここには、観衆同士のなかに芽生えている差異化の意識がうかがえる。しかも、この意識は、語り手である史朗生自身によってさらに「さう云つて頷づき合つた二人も、何うやら絵などが真の意味で分つて居るのか何うか、疑はしいやうな顔付きである」と重層化される。史朗生の批評自体がそれほど専門家的でもなく、また公平なものでもないように思えるのだが、ともあれ彼は、観衆の種々を紹介すると同時に、それを階層化し、その最上位に自分自身をおいて語っていく。
彼の記事のもつ階層構造を、仮にここまでの本論の分類に当てはめれば、(1)史朗生、美術学校の生徒、(2)腰弁、一高の学生、(3)商家の母娘、娘を見る人々、紳士、老人連とすることができる。批評家として語りを進める史朗生は、日本画の部屋をひとまとめにして「斯う云ふ日本画の描法は、恰度旧派芝居の型タイプと同じものである」(83頁)と断案を下し、美校の生徒たちは「馬鹿に固い絵だな。」「こんなものは、俺だつて書く。」(84頁)と言ってさっさと行き過ぎる。一方、一高の学生たちは上村松園の「蛍」を前に画中の女性を「令嬢か知ら?」「令嬢にしちや品がない。──令嬢が蚊帳を釣る筈がない。」「〔与謝野〕晶子の歌にでもありさうな情景だね。」(83頁)などと、もう少し大づかみな印象を思い思いに述べあう。
この小節で注目している(3)の観衆については、次のような描写がなされている。「商家の細君かみさんらしいの」として紹介された女性は、上村松園「蛍」をみて、「此の女の帯は何処に結んであるのだらうねえ?前かしら、それとも横か知ら・・・・」と娘に話しかける。ピントの外れたことを話題にしている場面が、ことさらに取り上げられていると言えるだろう。しかも、すでに述べたように、この後には周囲の人々が彼女の娘の美しさに気を引かれているようすが書き込まれ、「此の絵よりか、あの方が美人だ」という呟きまで添えられている。このほか史朗生が「愚作」と断じた島成園の作品(「祭りのよそほひ」)に「頻りに感服してゐる紳士」や、「土田麦仙〔ママ〕の「海女」の前に立つて、首を傾げて居る老人連」、「僕には西洋画と云ふものは何うしても分らん。之れから少し勉強して分る様にならうかな」と言いつつ会場から出て来る紳士、などが登場する。紳士たちは美術への関心のはらい方からすれば、(2)の層に含めることもできそうだが、史朗生の彼らをまなざす眼は冷淡だ。
この種の観衆たちは、必ずしも絵を見ていない、という点に注目したい。彼らは作品を前にしてその描かれた帯の位置を気にしたり、あるいは作品ではなく人間を鑑賞したりしてしまう。次に紹介する資料は、こうした展覧会で美術作品以外を見てしまうような人々の心性を、独特の視線から穿って見せてくれている文学作品、川柳である。
もちろん、川柳の句はすべてが事実であるわけではなく、その点注意が必要である。しかし、人々のある種の典型性や、人情の機微を滑稽味をきかせた切り口で提示するというこの文芸の特色は、それだけ尖鋭に対象を描き出すという効果ももっている。ここで取り上げる川柳は『風俗画報』第400号(1909年9月5日)に掲載された。選・課題は九尺舎吝人、題は「展覧会、開帳」である(全文は論文末尾に【参考】として掲げておいた)。「展覧会」の出題に応じた投稿者たちは、どんな観覧ぶりを見せているだろうか。
展覧会茶菓子駄賃に見て貰ひ 塵悟楼左刀
文展会場には休憩所があり、そこには風月堂が入っていた。句は、これを指しているのかもしれない。文展の休憩場にあった風月堂の売店に関しては、高村光太郎の記事「銀行家と画家との問答」にも、「『今日で四度目だが、展覧会といふものは、観るのに中々疲れるものだね。まあ、休憩室で一休みしよう。』/『又、風月の脂くさい紅茶でも飲むかな。』」(23)という会話が見え、『美術新報』には、「文部省第三回美術展覧会会場内に御休憩室の設備有之候間緩々御休憩被下度候」という「風月堂米津支店 伊藤商店」の広告も掲載されている(24)。この句の作者は、観衆が入場料を支払って展覧会を見に行く、という通常の関係を、主催者が茶菓子を出して観衆に展覧会を見に来て貰う、という関係に転倒させて面白みをねらっている。展覧会に行って美術品以外のところに目をやった観衆の行動の一例を示した句だといえるだろう。これに類するものとしては、
下足代展覧会の余徳なり 久世東籬
という句もある。この句は二通りに読め、判断に迷う。「下足代」を、入場料を指すものとして読めば、展覧会は美術鑑賞という恩恵を受けることができるだけでなく、お金まで差し出させてくれるありがたいところだという、皮肉な視線の句ということになる。また「下足代」を、字義どおりに履き物を預ける代金としてとれば、入場料を支払って観覧したのにさらに下足代までとるとは、という非難を込めた句ということになる。だがいずれにせよ、芸術に理解を示そうとする観衆たちならばあえて無視したであろう些事を、ことさらに取り上げて皮肉って見せていることはたしかである。恩沢と料金とを天秤にかけつつ展覧会へおもむいた観衆の、せせこましくもたくましい視線を示すものといえるだろう。
これにとどまらず、こうした「よそ見好き」な観衆たちは、「絵の様な人も交りて展覧会」(京光人)とやはりここでも絵を見る人を見てしまったり、「展覧会売約済に注目し」(吉備のや)といって絵の横に付された売約済みの札に目をとられたりしている[図1]。当時の展覧会の出品作はその多くが売り物である。とりわけ文展のような大規模で権威的な展覧会でもこうした体制が採用されたことにより、三越呉服店に洋画部が設立されるなど絵画市場の整備拡大をもたらしたことはすでに先行論を参照しつつ確認したとおりだ。ここでみてとれるのは、そうした絵画市場の一端が展覧会の陳列現場にも侵入し、「売約」が即その作品の価値を保証するといったかたちで、観衆たちの視線と志向を制御している事態である。
図1:文展の売約済の札(25)
絵を見る行為自体にも、本来的な鑑賞以外の要素が混じり込んだりもする。
腰巻をしたが不平の来館者 井石庵
展覧会に相応しい裸体の画 選者吝人
裸体画は、いまだこの層の観衆にとって好奇の対象であり続けている。「▲裸体画の前には一番多く人が集まる。無論見る人の心は異るであらうが、矢張女ならでは夜の明けぬ国だね。君なども一番先に集る方だらうアハヽヽヽヽヽヽヽ」とは某政治家談の展覧会評だ(26)。
この層の観衆たちは、とりたてて美術を愛好しているわけでもなく、また作家や作品についての知識を仕入れようという欲求も強くはない。まさに有島壬生馬の言った「文部省の展覧会だから行く」観衆たちだ。もちろん鑑賞・享受の仕方はさまざまであってよく、彼らの姿勢は何ら批判されるべきものではないが、指摘しておきたいのは、さまざまな指向をもつ人々が同時に集まった結果として、不可避的に相互に差異化する視線が生まれて来ているという事態である。文展という場に参入した人々は、そこで避けようなく切り分けられ、差別化されてしまうのだ。この点については次節3で詳述しよう。
この節の最後として、なお見えない観衆について論じておきたい。たとえば、史朗生の引用中に登場した二人の「腰弁」をあらためて考えてみる。先の分析では、(2)の層の観衆として分類しておいたが、「絵も何も分らんやうな連中まで出かけるのですから、閉口しますて」などと慨嘆していた彼らも、実は文展開催中の上野に近づいた電車内で会話しているだけであり、『朝日新聞』の文展評を見ている一方の男は、実はまだ見に行っていないと言明している(82頁)。こうした新聞の展覧会評や出品図版の前の人々をも、「観衆」と考えてみることはできないだろうか。文展の開設に合わせて、審査や作品評の報道が新聞各紙をにぎわしていたことはすでに述べた。新聞の購読者数に比べれば、実際に文展へ足を運んだ人数など微々たるものだ。もちろん、『太陽』をはじめとする雑誌類にもこうした情報は数多く掲載された。ほかにも、絵はがきや図録といった媒体も考えられる。しかもこうした媒体は家族内や仲間内で回覧されることも少なくなかったはずだ。もし仮に、紙面の前の読者たちも「観衆」としてとらえる立場をとるならば、文展の「観衆」の裾野は、飛躍的に拡大するだろう。
この視座にたった場合、文化的に見た「中央」と「地方」の格差が問題化するはずである。雑誌メディアなど、場合によっては海外にまで届けられた媒体は、「中央」と「地方」の情報格差を小さくする方向で働くこともあるが、ことに美術作品を鑑賞しようという場合などには、複製を目にする機会が「本物」への欲望を喚起する場合も出てこよう。たまたま拾った地方の若い女性の手紙を抜き書きしたという体裁の芥川龍之介「文放古」は、そうした地方在住の「観衆」の欲望を書き取った短編小説である。
・・・・・・あたしの生活の退屈さ加減はお話にも何にもならない位よ。何しろ九州の片田舎でせう。芝居はなし、展覧会はなし(あなたは春陽会へいらしつて? 入らしつたら、今度知らせて頂戴。あたしは何だか去年よりもずつと好ささうな気がしてゐるの)音楽会はなし、講演会はなし、何処へ行つて見るつて処もない始末なのよ。おまけにこの市まちの智識階級はやつと徳富蘆花程度なのね。きのふも女学校の時のお友達に会つたら、今時分やつと有島武郎を発見した話をするんぢやないの? そりやあなた、情ないものよ。(27)
舞台はすでに春陽会の時代であり、本論の対象とする時期からは少し下っているが、起こっている事態はさほどかわっていないはずである。「九州の片田舎」に住む彼女は、去年の春陽会の展覧会も見たかどうかはあやしい。だが、徳冨蘆花を見下し、「芥川龍之介と来た日には大莫迦だわ」と言ってのけ、帝展ではなく春陽会を選択する彼女は、今年の春陽会が「何だか去年よりもずっと好さそうな気がしているの」と言う(28)。彼女がそう述べる根拠は、たぶん新聞や雑誌の展覧会評か、あるいはそれを読んだ別の人から聞いた噂話である。ここで表象されている人物像は、高等教育を受け、文学や美術、音楽などへの興味を呼び覚まされながらも、地理的な制約に阻まれて「本物」に接触することがかなわないでいる地方の知識層のある類型である。引用からうかがえるとおり、この小説を語る「わたし」(芥川自身になっている)の、こうした地方の人間に対する目は冷たいが、そこには東京に生まれた芥川の傲慢さが含まれていなくはないだろう。彼女のように文化的虚勢を張るか否かは別としても、情報は伝わるがそれを実際に目にする機会からは阻まれている地方の読者/「観衆」たちは、数多かったはずである。
文展の果たした役割の一つを、美術の大衆化を促進した点にみることは、ある部分では正しく、ある部分では正しくない。たしかに展覧会へは数多くの人々が足を運び、会場は雑踏した。しかし、そこにつどった人々を「大衆」と呼んで終わらせてしまってよいだろうか。これまで分析してきた資料が語るとおり、集まった観衆は実にさまざまな相貌を見せている。出品作を褒貶する批評家もいれば、虚栄心からなかば義務的ででもあるようにやってくる文学者もおり、せっかくの会場で絵ではなく人間を鑑賞する人々もいた。そして会場の外にも、やはり文展を「見ていた」人々が存在していた。「観衆」は複数、もしくは複層だったということを、我々は肝に銘じておかねばならない。
ここで注意しておきたいのは、こうしたさまざまな姿の観衆たちは、展覧会場に来る前からさまざまだったわけではない、という点である。むろん個々の人間がそれぞれに異なった生活と人生を生きており、その性別も階層も嗜好も色々だということは言うまでもないが、ここで述べたいのはそうした一般論ではない。観衆が、専門家/アマチュア/さほど関心のない層/紙面の前の観衆に分かれるのは、彼らが展覧会場(あるいはその図版)の前に立った、まさにその時である。この節のタイトルを「観衆化」としたゆえんはそこにある。観衆が、展覧会場に来る前から存在したかのように想像してしまうのは錯覚である。観衆は、会場に来たときに、観衆となる。
この「となる」の部分に目を凝らす必要がある。観衆を、すでにそこにいたものとして考えるのではなく、ある状況の中で「となる」存在として考えた場合に見えてくるのは、人々と〈制度〉との間の関係である。人々が〈制度〉の埒内に参入するときに、彼らの身体と思考が変容を起こす。いままで「商家の細君」だった女性は、会場では絵画の拙い読解者となる。「売約済」の札を気にする観衆は、文展という鑑査と売却のシステムが用意した価値体系に、知らぬまに巻き込まれている。
こう考えてくれば、文展という官設の〈制度〉が人々の間にもたらした複層化と、それにともなう序列化のようすがわかってくる。募集・鑑査・陳列・褒賞・売却からなる文展システムの誕生は、否応なく人々を組み込んでいく。作家たちは、出品するしないの選択に始まり、鑑査通過の成否、褒賞の有無、売却の成否といった一連の関門に直面する。そこで下された評価は、文展会期中のみならず、その後の彼/彼女の「市場価値」に直結していく。批評家にしても、文展の出品作あるいは文展という制度そのものを批判するにしろ評価するにしろ、この年に一度の大きな美術展の前に立場を明らかにすることを余儀なくされる。しかも仮にその批評家が文展について批判記事を書いたとしても、日々飛び交う多数の情報のなかにおいて文展に関する情報に場を占めさせたというすでにそれだけで、彼は文展というシステムが社会内で機能していく一翼に参与したことになってしまう。
そして、以上の動きはすべて、観衆となるだろう人々と無関係ではない。人々は新聞の文展記事の前で、雑誌に載せられた出品作の図版の前で、文展に行って来た人の噂話の前で、そしてもちろん、文展会場の中で、観衆となる。彼らはそのとき、記事や図版や噂話や作品や売約済みの札やの、〈呼びかけ〉に反応するのだ(29)。複層化はここで始まる。知識のストックはどれぐらいあるか、美術のリテラシーの程度は、好みの種類はどうなのか、どれくらい誠実に〈呼びかけ〉に答えようとするのか、そこに立つに至った動機はなんだったのか、予断は、党派は──。その他さまざまな要因が〈呼びかけ〉に応じて起動して来、彼らはその個々の場合に即してそれぞれのタイプの観衆になる。
しかも、〈呼びかけ〉の場は、多様な指向がそのままで放置されるような性格の場ではない。単線的ではないにしろ、美術の場は、価値づけと序列化のともなう闘争の場だ。嗜好や信条やリテラシーの程度に応じて、さまざまな観衆はそれぞれの価値のヒエラルキーのなかに位置づけられる。本論で参照した幾人かの批評家のように、その序列化を自覚的に示してみせるものもいる。観衆たちの複層性は、展覧会というシステムの中に人々が巻き込まれた瞬間から生成されるのである。
本論では、文展開設期に焦点を合わせ、美術の大衆化の始まりの内実を、同時に生起したその複層化の出現として捉えてみた。文学作品に描き出されたさまざまな観衆の姿は、人々が展覧会というシステムと取り結んだ多様な関係を考える手がかりとなる。美術関連の資料だけではなく、文学資料を並行的に利用することによって、こうした細部の動向が視野に入ってくるのである。
論を終えるにあたり、私は観衆に関わるもう一段の切り分けを示しておくことにしたい。それは、観衆とそれ以外の人々との間の切り分けである。次の[表3]と、前出の[表1]を比較してみる。
開催年 | 名称(場所) | 入場者数 | 会期 | 一日平均 |
1890年 | 第三回内国勧業博覧会(東京) | 1,023,693人 | 60日 | 17,061人 |
1903年 | 第五回内国勧業博覧会(大阪) | 5,305,209人 | 104日 | 51,011人 |
1907年 | 東京勧業博覧会 | 6,802,768人 | 134日 | 50,766人 |
文展の入場者数と博覧会のそれとの間の目眩がするほどの隔たりを、あらためて確かめておきたい。文展の観覧者が多いといっても、博覧会との差は歴然である。東京勧業博覧会の一日平均にした入場者数50,766人は、それだけで同年秋に同じ上野で開かれた第一回文展の総入場者数を上回っているのである。
私がここに述べておきたいのは、文展の観衆を過度に一般化すべきではない、ということである。たしかに文展へはこれまで美術展に足を運んだことのないような人々が来るようになった。それ以前の美術展の観衆と比較して、大衆化が進んだのは事実である。しかし、その「外」には、目もくらむほど膨大なそれ以外の人々が控えていた。この落差を、忘れてはならない。「大衆」という言葉は、たとえば「国民」という言葉と同じように、その内部に横たわる無数の裂け目を見えなくし、しかもその外部との輪郭をすらあいまいにする。この言葉のもつ平準化の作用には、注意をしておくべきだろう。
(1)児島薫「序文」(『文展の名作[1907-1918]』展図録、1990年、9頁)。
(2)北澤憲昭「文展の創設」(『境界の美術史──「美術」形成史ノート』ブリュッケ、2000年6月、75頁、初出『日本洋画商史』美術出版社、1985年5月)。
(3)数字の出典は『日展史5 文展編五』(日展、1981年6月)の「展覧会期並びに観覧人数」(570頁)による。会期の日数および一日平均の人数については、日比が算出した。
(4)出典は以下の通り。版画展覧会は記者「版画展覧会」(『白樺』第2巻第11号、1911年11月、113頁)、白樺第四回展覧会はKS「第四回展覧会記事」(『白樺』第3巻第4号、1912年4月、137頁)、白樺第六回展覧会は記者「第六回美術展覧会記事」(『白樺』第4巻第5号、1913年5月、131頁)。
(5)このほか、資料の所在を含め本論は多くの面で示唆を受けている。
(6)望雲「小言」(『美術新報』第6巻第7号、1907年7月、1頁)。
(7)ただし第九回からは「特別入場日」として30銭の日を設定している。
(8)いずれも週刊朝日編『値段史年表 明治・大正・昭和』(朝日新聞社、1988年6月)による。
(9)高村光太郎「美術展覧会見物に就ての注意」(『文章世界』第5巻第13号、1910年10月15日、32頁)。
(10)「美術展覧会の顛末(上)」(『万朝報』1908年10月18日、一面)。
(11)内田魯庵「気まぐれ日記」(『太陽』1912年7-12月、引用は『明治文學全集24』筑摩書房、1978年3月、325頁)。
(12)有島壬生馬「太平洋画会合評 偶感四ツ」(『早稲田文学』第67号、1911年6月、67頁)。
(13)南・有島の滞欧記念絵画展において、白樺同人たちは「婦人の入場第一人者」に署名を求める計画をもっていた。ただしこれは「若い御夫婦で工合が悪かつたので止め」になっている(致生「展覧会日記」『白樺』第1巻第5号、1910年8月、26頁)。
(14)里見〓[弓享]「君と私と」(『白樺』第4巻第4-7号、1914年4-7月)。
(15)相馬、78頁。引用中「ジメジメ」「幾日も幾日も」「わざわざ」は原文では踊り字を用いているが、ここでは置き換えた。
(16)第二回文展が開催されていた1911年10月の日記から文展関連の記述を引いておく。「〔10月17日〕上野の文部省展覧会を見た。西洋画と彫刻とを大急ぎで一べつしただけだ」(118頁)。「〔10月21日〕新橋橋際に阿部君を待ち合わして文部省展覧会を再び看る。〔・・・〕エハガキを十二三枚買って来た。気に入った作物のはない」(119頁)。引用は『青年小泉信三の日記』(慶應義塾大学出版会、2001年11月)による。
(17)白柳秀湖「黄昏」(『黄昏』如山堂、1909年5月、引用は『明治文学全集83明治社会主義文学集(一)』(筑摩書房、1965年7月、192頁)。
(18)森鴎外「青年」(『スバル』1910年3月〜1911年8月、引用は『鴎外全集』第6巻、岩波書店、1972年4月、290頁)。
(19)夏目漱石「三四郎」(『朝日新聞』1908年9-12月、引用は『漱石全集』第5巻、岩波書店、1994年4月、497-498頁)。
(20)前掲、高村光太郎「美術展覧会見物に就ての注意」29頁。
(21)天弦「目に留つた絵」(『早稲田文学』第60号、1910年11月、79頁)。先の相馬御風の引用も含まれていた「文部省美術展覧会印象記」特集の一部である。
(22)史朗生「文展見聞記」(『新潮』第19巻第5号、1913年11月、82頁)。文中の「ぞろぞろ」は原文では踊り字を用いている。
(23)高村光太郎「銀行家と画家との問答」(『文章世界』第5巻第15号、1910年11月15日、42頁)。
(24)広告は『美術新報』(第9巻第1号、1909年11月1日、19頁)に掲載。
(25)「文部省告示第二百二号 第一回美術展覧会規則」(1907年7月19日)の第十三条には「売買約定ヲ為シタルトキハ出品札ニ左ノ雛形ノ付札ヲ貼附スヘシ」とあり、図1が図示されている。『日展史1文展編一』(日展、1980年7月、548頁)による。
(26)某政治家談「公設美術展覧会評」(『太陽』第13巻第16号、1907年12月、144頁)。
この他にも、この「展覧会、開帳」を課題とした川柳欄はさまざまに興味深い事実を教えてくれる。簡単にまとめれば、1909年という時点になってなお展覧会と開帳をひとまとめにする出題の仕方。古田亮「日本の美術展覧会 その起源と発達」(『MUSEUM』第545号、1996年12月、29-56頁)も指摘するように、日本における展覧会の先行形態としては(出)開帳が存在した。美術展覧会が古器物、書画骨董などの展覧会と肩を接するようにしてあった状況、比喩的な使用から知られる展覧会という名称の社会的浸透などである。
(27)芥川龍之介「文放古」(『婦人公論』第9年第5号、1924年5月、引用は『芥川龍之介全集』第十一巻、岩波書店、1996年9月、92頁)。
(28)徳冨蘆花は、明治30年代から幅広い人気をえていた作家で、代表作「不如帰」は新派劇の人気演目にもなっていた。ここでは大正後半期の青年層、特に若い女性に人気のあった有島武郎と対比され、時勢に遅れた趣味の一例とされている。ちなみに芥川は、女性の境遇に理解がない作品を書いたという点で非難されている。
(29)〈呼びかけ〉の議論については、ルイ・アルチュセ−ル「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(『アルチュセ−ルの〈イデオロギ−〉論』三交社、1993年2月)を参照している。
川柳
九尺舎吝人(選課題)展覧会、開帳
○
開帳にうるほひ村は米の飯 | 五明庵扇翁 |
吉原は活きた女の展覧会 | 日本一成 |
出開帳してから仏流行し | 蝶鳥舎 |
鳳凰も展覧会へ出る明治 | 満月居 |
茶にされる筈古器物の展覧会 | 同 |
春先はとかく仏も出開帳 | 同 |
書画せりうり展覧会と雅名つけ | ましら |
下足代展覧会の余徳なり | 久世東籬 |
出開帳電車の中へ弘めをし | 同 |
出開帳一寸三越へお小休み | 同 |
開帳は浄財呉れろ/\なり | 積翠 |
開帳で和尚ふところ布袋にし | 同 |
造花など展覧会で即売し | 吉備のや |
展覧会売約済に注目し | 同 |
展覧会たけに古物が意張りだし | 香風舎楳樹 |
偽物書画展覧会で味噌を付け | 同 |
出好きの信者開帳を鼻にかけ | 同 |
若後家が拝まれたさに出開帳 | 同 |
大黒は留守番本尊出開帳 | 京春川 |
藪入りをした気開帳へ下女御供 | 八重子 |
土用干し展覧会にして開き | 同 |
屋根の洩り直す設計の御開帳 | 同 |
開帳に賽銭あげて婆々は泣 | 京光人 |
開帳に涙もろいか寄つて来る | 同 |
開帳に中をするのは寄進札 | 井石庵 |
小供等の撰書雲井に舞上る | 末木花宝 |
秀逸の部 | |
橋詰に開帳札の立ち腐れ | 蝶鳥舎 |
開帳に姑さそふ利発者 | 志奮冠者 |
展覧会話の種か入場し | 同 |
骨董や展覧会と向をかへ | 久世東籬 |
御開帳赤い信女かめかして出 | 吉備のや |
展覧会茶菓子駄賃に見て貰ひ | 塵悟楼左刀 |
庫裏の屋根洩る間暫しの出開帳 | 京春川 |
絵の様な人も交りて展覧会 | 京光人 |
腰巻をしたが不平の来館者 | 井石庵 |
懸賞当選 | |
人 古神輿展覧会へ担ぎ出し | 満月居 |
地 汽車に曳かれて開帳に善光寺 | 五明庵扇翁 |
天 幔帳の紫雲棚引く開帳場 | 井石庵 |
軸 嫁にも仏開帳で鬼は留守 | 選者吝人 |
展覧会に相応しい裸体の画 | 同 |