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転落の恐怖と慰安──永井荷風「暁」を読む──


日比 嘉高
『京都教育大学 国文学会誌』第33号, 2006年6月, pp.33-45


一、滞米時代の荷風・再考

 現在、永井荷風は「日本文学」というカテゴリーに分類される作家である。日本で生まれ、日本国籍をもち、日本語で書き、日本で没したのだから、それも当然だろう。彼の死後その全生涯を見渡したとき、総体として彼の文業を「日本文学」として分類することそのものに、私もさほど違和感を覚えるものではない。

 しかしながら、私がここで行おうとしているのは、そうした半ば以上自明視されている理解に、一つのくさびを入れてみようという作業だ。それは端的に言えば、永井壮吉という一人の渡米者が、当時の一般的な意味での「日本人」──日本に生まれ、日本で生きるというほどの意味における──ではなくなりかけていた時期があったという事態に、あらためて照明をあててみようという試みだ。

 荷風、永井壮吉は一九〇三(明36)年に渡米し、一九〇八年に帰国する。通常、この期間は、彼の「外遊」などとも称され、表記が示すとおり一時的な外国渡航・滞在として理解されている。その間の経験は、作家荷風の文学的な基礎ともなり、日本社会を外から眺める契機の一つともなったと考えられてきた。もちろん、帰国後の彼の軌跡を評価の基準とした場合、その把握は間違ってはいないわけだが、しかしながら一方で、そうした遡及的な視線は、まさに滞米している時期固有の彼の経験と感性を、見えにくくしてしまってもいる。

 荷風が滞米していた時代は、日本からの出稼ぎ労働者や留学生たちが太平洋岸を中心に数多く生活し、サンフランシスコやシアトル、ロサンゼルスなどの大都市の一角に、日本人街を形成するまでになっていた時代だ。これまでの研究史において、荷風はこうした日本人コミュニティとは距離をおいた存在として、すなわち一時滞在者、旅行者としてとらえられてきたといってよい。日本で初期自然主義の文学を試みていた荷風が、アメリカに赴き、ゴンクールなどフランス文学の勉強をし、文学的革新を遂げ、そのまなざしでもって悲惨な日本人出稼ぎ労働者たちの姿を描き出した──というような大筋の理解があった。この枠組みではそれと言及されぬまま、荷風はつねに一方的にまなざす存在であり、まなざされるアメリカの人々や在米の日本人たちとは一線を画した存在として位置づけられている。

 しかし、実際にはそうではなかったのではないか。北米の移民地の状況や荷風自身の日記、書簡の分析による詳細な論証は、本論と対をなす別稿にゆずることにするが(1)、いくつかの点において検討し直すと、彼は〈在米日本人〉コミュニティの中で生きていたと考えるのが妥当であり、それどころか彼自身は日本に帰らないでおこうか、という選択肢すら思い描いていた節があるのである。日記の記述、父の無理解への絶望、恋人イデスとの交情、銀行および大使館での勤務の継続性、コミュニティ誌『大西洋』掲載の記事(2)からうかがえる在ニューヨークの日本人たちとの交流、これらを総合していけば、荷風・永井壮吉は不満を漏らしつつも、アメリカでの生活をなんとかうまくやっていたと十分に想定できるのだ。そして、何かのきっかけさえあれば、帰らないかもしれないという想像は、帰らないでいようという決意へと転じていたかも知れず、あるいは帰らないかもしれないと思いながら帰ろうという決意にもいたらず、いたずらに滞米生活を重ねるという結果にもなっていたかもしれない。そのようにして「一世」になっていった「日本人」は事実多いのだ。永井壮吉もまた、そうした人々の群れの一員だった。

 こうした視座を導入する利点には、荷風文学に関する再評価の起点となるということだけにとどまらず、もう一つの重要な意味がある。

 アメリカに留まることとは、つまり荷風が当時の言葉でいう〈在米日本人〉として生きることを意味した。この意味で言えば、彼が滞米中に書き継いだ作品群『あめりか物語』は、〈在米日本人〉による作品だということになる。こう考えてみたとき、『あめりか物語』を、同じ時期にアメリカで生活を送っていた他の〈在米日本人〉たち──後の視点からは日系アメリカ移民あるいは日系アメリカ人一世とも呼ばれるようになる人々──の日本語文学と同じ地平で評価する可能性が、我々の前にひらける。日本近代文学と日系移民の日本語文学との間の入り組んだ交渉関係を考える一つ入口が、そこにはある。

 この論考の目的は、その足がかりとして、荷風が日本へ帰国することなしに〈在米日本人〉として生きるみずからの可能性を自覚していたということを、彼の短篇「暁」を読むことを通じて論証することにある。

二、「暁」を読む

 「暁」は、荷風の帰国にあわせるように刊行された短篇集『あめりか物語』(博文館、一九〇八年八月)に収録された小説である。初出誌はまだ確認されていないが、末尾に「四十年五月」の日付をもつ。ストーリーは「自分」の語りによるコニー・アイランド──ニューヨーク、マンハッタン近郊にある巨大な複合遊園地の紹介からはじまる。「浅草の奥山と芝浦を一ツにして其の規模を、驚くほど大きくした様なもの」(179頁(3))としてそのようすを概観した「自分」は、そこに「玉転し」の店を出している日本人たちへと語りを進める。日露戦争後から、日本人という物珍しさと、景品を取れるという勝負気とによって、「Japanese Rolling Ball」すなわち「玉転し」は増加の傾向にあった。「自分」は、ヨーロッパへの旅費を稼ぎたいがために、この「玉転し」屋の、とある一軒に身を投じる。物語は、以降、その最初の一夜の観察と、そこで出会った一人の書生の身の上話によって構成される。

 視点人物であり、語り手でもある「自分」はアメリカに来て「二年ばかり」になる若い男性で、「何を為たつて構はない、欧洲ヨーロツパに渡る旅費を造ると云ふ目的から、ふいとした出来心で、唯ある玉転しの数取りになつた」(180頁)という。後に紹介する、身の上話をする書生との会話を見ると、高等学校についてのやりとりを交わしており、やはり相当程度の学歴を日本で積んだ人物であることがうかがわれる。ある程度の学歴を持ちながらも、ヨーロッパへの渡航費の工面までは自由にならず、自分の身体を資本にして日系移民たちの労働の場に身を投じた若い男性、と整理することができるだろう。

 他の登場人物たちの紹介は、次のようにされる。

かう云ふ人気もの〔玉転しを指す〕で、一儲を為やうと云ふ人達の事であれば、其の主人あるじと云ふ日本人は、大概もう、四十から上の年輩。生れ故郷の日本で散々苦労をした上句あげく、此のアメリカへ来てからも多年ありと有らゆる事を為尽し、今では、那に世の中はどうか成らア、人間は土どろをかぢツて居たつて死にやア為めい、と云はぬばかり、其の容貌かほつきから、物云ひから、何処となく位が着いて、親方らしく、壮士らしく、破落戸ごろつきらしくなつて居る。で、其の下に雇はれて、毎日客が転す玉の数を数へ、景物を渡してやる連中は、まだ失敗と云ふ浮世の修行がつまず、然し軈やがては第二の親方にならふと云ふ程度の無職者、又は無鉄砲に苦学の目的で渡米して来た青年である。  (180頁)

「壮士」「破落戸ごろつき」などと形容される店の親方。そこで使われる日本人労働者たちは、一種類はその親方の予備軍ともいうべき「無職者」、そしてもう一種類は資本もないまま渡米して来た「苦学生」たちである。

 「自分」はこうした人々の世界にはまだあまりなじみがないらしく、彼らをまなざす視線は観察者のそれである。コニー・アイランドの店子たちの風俗に新奇の目を見張り、新たに職場仲間となった人々が夜の繁華街の性的放埒さの中に身を投じるありさまを見守りながら、「自分」は南京虫だらけの寝床に潜り込むこともできず、軒下でまどろむ。そこへ現れるのが、一人の書生である。

 私娼らしき女性たちを追って海岸の方へ行ったあとに戻ってきたらしい彼は、その場になじめないでいるようすの「自分」に気づくと、会話を交わしはじめる。彼は「自分と同じ位な若い書生風の男」で、アメリカは「今年の冬で丁度五年」(187頁)になるという。話は、彼の身の上話へと流れていく。

 『かう見えても、家へ帰れば若旦那さまの方だ。』と淋しく笑ふ。
 成程、其の笑ふ口元、見詰める目元から一帯の容貌おもざしは、玄関番、食客、学僕と云ふ様な境遇から、一躍渡米して来た他の青年と違つて、何処か弱い優しい処がある。身体は如何にも丈夫さうで、夏シヤツの袖をまくつた腕は逞しく肥えて居るが、其れも、労働で錬磨きたへ上げたのとは異り、金と時間の掛つた遊戯や体育で養生ようせいした事が、注意すれば直ぐ分る。幾年か以前には隅田川のチヤンピオンであつたのかも知れぬ。
 『日本では、何処の学校だつた。』
 『高等学校に居た事がある。』
 『「第一」か?』
 『東京は二年試験を受けたが駄目だつた。仕方がないから、三年目に金沢へ行つて、やつと這入れた。然し直きに退校されたよ。』  (188頁)

 二年級の時に病気で落第、翌年数学で落第し、退校になったという彼は、その後「女義太夫を追掛けたり、吉原へ繰込んだり、悪い事は皆な其の間に覚えた」(189頁)というようなありさまだった。見かねた父親が、ついに彼をアメリカへ遊学させた、ということらしい。

 問題は、この書生がアメリカでの私費留学生の立場から、いかにして滑り落ちたのか、というその筋道である。マサチューセッツの学校に入学して二年目の秋、彼のもとに日本から届くはずの学資が届かなかった。窮した彼は、「ハウス、ウヲーク」すなわち、白人家庭での家事労働に雇われて行く。そこで彼が見い出したのは、意外なことに、慰安だった。彼の父親は「□□学院の校長をして居る」「法律の大学者」。そのため彼には、幼少の頃から将来への過度のプレッシャーがかかっていた。しかし、彼の学業成績は周囲に期待に応えられるものではなかった。

〔・・・〕かう云ふ絶望の最中、まア想像したまへ! 僕はふいと、送金が延引した為めに、云はゞ家との関係が中絶して了つたのであらう。是非にも成功して帰らねばならぬ、故郷へ着て帰るべき錦を造る責任が失なくなつた──何と云ふ慰安だらう。もう死なうが、生きやうが、僕の勝手次第。死んだ処で、嘆きを掛ける親が無ければ、何と云ふ気楽だらう、と云ふ様な気がしたのさ。』  (194頁)

 期待の重荷を背負わせる故郷との紐帯が切れ、「ハウス、ウオーク」ののんきさ──給仕をし、皿を洗い、食事をし、居眠りをし、仲間の下女をからかう──が、彼に慰安をもたらす。「〔・・・〕『一方では、以前にも増して、いよ/\父に会す顔が無いと、良心の苦痛に堪えない、と同時に、一方では此の動物的な境遇が、ます/\気楽に感じられる。〔・・・〕』」(195頁)。聞いていた「自分」の、ではこれからどうするのだ、という問いに対し、彼は苦悶の顔色を浮かべながら答える。「『いやゝゝ、其様そんな事を考へない為めに、僕は此様こんな馬鹿な真似をして居るんだ。〔・・・〕あくまで身体を動物的にしやうと勤めて居るんだ。』」(196頁)。

 彼に大きなプレッシャーを与えていた父親との関係については、いまは問わない。注目したいのは、母国からの送金の停止が、留学生たちを労働へと追いやるというルートを「暁」が書き留めているということだ。もちろん、これは送金だけにとどまることではない。日系移民たちの相対的高学歴層の多くは、私費留学生であり、しかもさしたる資本も持たず働きながら勉学する目的で渡米した苦学生たちだ。金銭的蓄えの払底が、勉学から労働へと彼らを追いやるのは、きわめて当然の道筋だ。そして留学、遊学の目的できた者が、そのまま職をえ、定住移民すなわち日系アメリカ人の「一世」になっていったのは、現実の移民史が語るところだ。

 「暁」のストーリーが示しているのは、留学生が労働移民へと「転落」し、当初たてた帰国の目的すら失って、アメリカ社会の下層を生きていく姿である。

三、コニー・アイランド

 ところで、きわめて興味深いのは、こうした留学生から労働移民へという階層移動の物語を、荷風がコニー・アイランドという巨大遊園地を舞台に描いているということである。

 コニー・アイランドという場所については、すでに末延芳晴『荷風のニューヨーク』『荷風のあめりか』(4)による詳細な紹介があるが、私がここで着目したいのは、ストーリーがもつ階層移動の物語が、遊園地という社会的文化的装置と巧みに組み合わせたかたちで構成されているという事実である。

 コニー・アイランドは、ニューヨーク、ブルックリン地区の南端にあるエリアで、湾に抱えられるかたちで大西洋に臨んでいる。一九世紀初頭からリゾート地として開発が始まり、二〇世紀の世紀転換期には、スティープルチェイス・パーク、ルナ・パーク、ドリームランド・パークといった複数の遊園地に、大小各種のホテル、ビーチ、サーカス、ミュージカル、ダンス・ホール、フリーク・ショー、動物ショー、飲食店などありとあらゆる遊戯施設があつまった、複合レジャー地区としてその最盛期を迎えていた。これは、ちょうど荷風が滞在していた時期である。マンハッタン・エリアから遊覧船やフェリーボート、鉄道、路面電車などを利用して、利用機関によれば三〇分強で行けたという立地の良さもあり、ハイシーズンには二〇万人を超える人出で賑わっていたという。

 荷風「暁」は、コニー・アイランドのようすを次のように描き出す。

 凡そ俗と云つて、これほど俗な雑沓場は世界中におそらく有るまい。日曜なぞは、幾万の男女が出入をするとやら、新聞紙が報道する統計を見ても想像せらる。電気や水道を応用して、俗衆の眼を驚かし得る限りの、大仕掛の見世物と云ふ見世物の種類は、幾十種と数へられぬ程で、其の中には、多少歴史や地理の知識を増す有益なものもあり、又は無論、怪し気な舞り場、鄙猥な寄席もある。毎夜、目覚しい花火が上る。河蒸気で、晴れた夜に、ニューヨークの広い湾頭から眺め渡すと、驚くべき電燈、イルミネーシヨンの光が、曙の如く空一帯を照す中に、海上はるか、幾多の楼閣が、高く低く聳え立つ有様は、まるで、竜宮の城を望むやう。 (179-180頁)

 こうした絢爛たる遊戯空間の景観は、アメリカ社会において新しい階級が徐々に力をもちはじめたことによって現出した。アメリカ史の研究者で、コニー・アイランドを世紀転換期のアメリカの経験を体現したカルチュラル・シンボルとして分析したジョン・F・キャソンは、膨大な人々の遊園地への殺到は、勃興する都市中産階級と比較的余裕のある労働者階級が、新しいタイプの余暇を要請しはじめたためであり、それに気づいたレジャー資本が莫大な資金を投下し、彼らの嗜好にぴったりあうよう集中的にさまざまな遊戯施設を築きはじめたためだと分析している(5)

 キャソンの考察でとりわけ興味深いのは、コニー・アイランドという新しい娯楽の場が、都市の新興階級の人々に与えた体験の質の分析である。前世紀までの公園が、その利用者たちの趣味の向上と道徳心の養成を目的として設計されていたのに対し、コニー・アイランドに象徴される新たに登場した遊園地は、利用者たちを日常の規範から解放することを目的として造られていた。ジェット・コースターやウォーター・シュート、水着での海水浴、圧縮空気による着衣へのいたずら、その他さまざまな仕掛けが、日常社会で人々を縛っているマナーや身だしなみ、威厳、体面、そして性的な抑制を吹き飛ばすべく待ちかまえている。

 こうした新しい経験をめがけて名付けられた言葉は、興味深いことに〈祝祭〉であったという。「祝祭と遊戯の町としてのコニー・アイランドは、社会を描写するための旧来のカテゴリーに挑戦していた。それは新しい種類の文化制度のように思われ、論者たちはそれを描写するために、類似した現象をさがし求めた。「ほとんど切れ目のない、フランス的なフェート(祭り)」、「中世の路上の市」、「フィエスタ(祝祭)とマルディグラ(カーニバルの最終日)」、「シャリバリ(騒々しいお祝い)」、さらに頻出する「カーニバル」などなど」(キャソン、62頁)。

 ミハイル・バフチンのカーニバル論が明らかにしたように、〈祝祭〉の空間は価値転倒の場であり、「広く世を支配している真理と現存社会機構からの一時的解放や、階層秩序・関係、特権、規範、禁止などの一時的破棄を祝うもの」(6)である。バフチンへの言及はないものの、キャソンのコニー・アイランド論は、近代アメリカ民衆のための新しい〈祝祭〉空間を、バフチンのカーニバル論に非常に近い形で描き出す。

カーニバルやその他の季節ごとの祝祭や祭日、たとえば古代ローマの「農神祭サトウルナリア」や中世フランスの「愚人祭」は、産業化以前の文化において、慣習的な役割が逆転されたり、階級制度が転覆されたり、刑罰が一時停止されたりする機会の働きをしてきた。社会の全構成メンバーがしばしばマスクやコスチュームをつけて、途方もない道化やお祭り騒ぎに参加するのである。コニー・アイランドは、カーニバルの伝統をもたない文化に対して、カーニバルの精神を制度化したように見えたけれども、その祝祭性を時間的に、暦の上の特別な時点としてではなく、空間的に、地図の上の特別な地点として位置づけていた。それ独自のタイプのカーニバルを創造することによって、コニー・アイランドは、慣習化された社会的な役割や価値を吟味し、改変させたのである。 (62-63頁)

 コニー・アイランドが、勃興する都市大衆たちにもたらした経験は、日常生活において各々が受けている階級や性における差別や制約から、彼らを一時的にであれ解放してやるというものであった。

 そしてまたこの一時的な解放は、民族的な面においても機能をしていたのだとキャソンは論じる。イタリアや東ヨーロッパからの移住者を筆頭にした移民たちは、世紀の変わり目までに「マンハッタンとブルックリンで、成人人口の過半数を構成していた」(51頁)というが、そのニューヨーク周辺の民族的構成の変動を、コニー・アイランドの客層は反映していた。コニー・アイランドにおける経験は、この移民たちの文化に影響を与えたという。「コニー・アイランドの遊園地やほかの新しい大衆文化の施設は、移民や労働者階級のグループを、その様式と価値のなかに組み入れさせることに成功した」(52頁)。つまり、遊園地の経験は、移民たちが彼らのもつ固有の文化からアメリカの主流文化へと合流する後押しをしたというわけである。

 ここで論を荷風のテクストに戻そう。「暁」は、日本からの留学生がふとしたことをきっかけに、労働者へと転落するエピソードを物語内で語っていた。「破落戸ごろつき」の親方が経営する玉転しの店で働くという経験は、彼にとって「馬鹿な真似」であり「動物的な境遇」ですらある。しかし彼は故郷のしがらみから逃れるために、そこにあえて身を投じていた。こうした解放の経験は、まさにコニー・アイランドの用意した、日常の規範からの脱出という経験と平行するものであったと捉えることができる。荷風が「暁」の舞台を、このアメリカの世紀転換期を象徴する文化装置のただ中にとったことは、まさにふさわしいものであったと言えそうである。

 だが、はたして、この平行性は本当に信じてよいものだろうか。アメリカの新興階級の経験と、ヨーロッパ各地からの移民の経験と、日本人移民の経験は、同じなのだろうか。コニー・アイランドの〈祝祭〉は、彼らの上に等しく到来する種類のものであったのだろうか。

四、魔窟の一夜は明けたか

 アメリカ移民史の第二波としてやってきた東ヨーロッパ、南ヨーロッパからの移民の増大につれ、コニー・アイランドの観客層がその変化を反映する。そして「コニー・アイランドの遊園地やほかの新しい大衆文化の施設は、移民や労働者階級のグループを、その様式と価値のなかに組み入れさせることに成功した」(52頁)とキャソンはいう。だが、ここでの「移民」にはアジア系移民は含まれていないことに注意しなければならない。ではアジア系の人々は、コニー・アイランドには来なかったのだろうか。そうではない。

 この時点において、アジア系の人々とその文化は、ベリーダンスを踊るエジプトの踊り子や中国の芝居小屋やインドの宮廷や日本の庭園といったように、来園者の博覧会的な視線の前に、「展示物」に限りなく近い姿でならべられていたのである。「暁」に登場する「日本の玉転し」も、やはりそのなかの一つに他ならなかった。荷風のテクストは、その遊戯の人気の理由を「第一が日本人と云ふ物珍らしさ」(180頁)というように説明し、正確に観衆たちのもつ好奇のまなざしを書き留めている。コニー・アイランドが仮に一定の文化的同化力を及ぼしていたとしても、それはアジア系の移民の上にはこの時期及んでいなかったというべきだろう。

 もう一つ、「暁」の描いたコニー・アイランドは、主として深更から明け方にかけてのコニー・アイランド、すなわち来園者が立ち去り、あるいはホテルへと帰った後の、閉園後のそれであったということも見逃してはならないだろう。つまりテクストに登場するコニー・アイランドは、電飾と群衆と歓声が支配する表の姿ではなく、落とされた照明と労務から解放された店員、稼ぎ時の娼婦、そして静けさの向こうから届く波の音とが支配する裏の顔だったのである。そこでは「大仕掛の見世物の楼閣は、イルミネーシヨンの光が消え」、「薄暗い影の中に、夢の如く、幻の如く、白粉を塗つた妙な女が、戸を閉めた四辺あたりの見世物小屋から、消えつ現れつして居る」(183頁)。「玉転し」の日本人店員たちも、めいめい玉台の上に寝床をとり、娼婦を追いかけ、あるいは「行きなれた南京街へ落ちて行」(186頁)く。

 「暁」が描き出した解放は、コニー・アイランドが都市大衆にもたらした解放とは、まったく質が違ったものだというべきだろう。それは日常の生活からの解放といっても、コニー・アイランドにおける労働からの解放であり、性の解放といっても、コニー・アイランド労働者たちの闇に紛れてはいるがあけすけな買売春である。新興の中間層が都市における労働の日常から逃れ出るのだとすれば、遊興の街の労働者たちは新たに形成されつつあるアメリカの主流娯楽文化を支える労働から逃れ出るのであり、そして荷風によれば日本人移民たちは同時に故国の親族たちが負わせるさまざまな期待の重荷からも逃れ出ている──「太平洋と云ふ大海があるんで、先づお互に、仕合と云ふものだ」(186頁)──のである。

 主人公「自分」に語りかけた書生の転落は、こうしたコニー・アイランドという解放の〈祝祭〉空間から、さらに逃れ出た場を選び取って、もしくは選び取らざるを得なくなって起こっている。解放というなら、それはあまりにも苦い解放であろう。しかもその苦い経験は、おそらく学歴競争からドロップアウトした書生一人のものだけだったのではなく、出稼ぎのためにアメリカにまでやってきた労働移民や苦労を覚悟しつつ理想を携えて苦学生たちにとっても共通のものであったはずなのだ。娼婦を追いかける仲間を見やりつつ、彼らの一人はこういう。「『〔・・・〕何も乃公おら達だつて、初ツから恁うなるつもりで米国アメリカへ来たのぢや無えからな。』」(186頁)

 書生の語りを聞き終えた「自分」は、夜が明けつつあるのを知る。深更のコニー・アイランドに生きる人々を目の当たりにした彼は、差し込み始めた光を目にし、次のように安堵の感慨を漏らす。

 一閃の朝日が、高い見世物の塔の上に輝き初めた──あゝ、何たる美しい光であらう。自分は一夜、閉込められた魔窟から救ひ出された様に感じて、覚えず其の光を伏拝んだのである。 (196頁)

 この箇所は短篇「暁」の結末部となっており、ストーリーは、「自分」が朝日によって「救い出されたような気がして」終わっている。「自分」は「魔窟」に染まることなく、そこに生きる人々とは別の感覚、経験を保持したままでいつづけるのだろう──素直に読んだ場合、読者はこのように感じると思われる。

 しかしこうした安堵をもらす「自分」とは、いったいどんな存在であったか、あらためて考え直してみよう。彼はたんに見学のためにここにいるのではなく、一週間雇いの契約で店員になっているのであり、この朝日の輝きとともにこの魔窟から出て行ったわけではないのである。つまり、「自分」は「暁」という物語を語っている段階では「其の頃」(180頁)と自らの体験を対象化できるほどにはなっているが、コニー・アイランドに身を投じた段階では、どれだけその「玉転し」の店にいたのかは不明なのである。

 しかも、物語にみる「自分」の属性からうかがうかぎり、彼がコニー・アイランドをまなざす視線は外部者のものだが、その所属する階級は必ずしも彼の新しい仕事仲間たちとはまったく別であるとはいえそうにない。彼はみずからこう言っている。「自分も其の頃は其の中の一人、何を為たつて構はない、欧洲ヨーロツパに渡る旅費を造る」(180頁)。日本で相当程度の教育を受けたようすがあるとはいえ、その当時の彼は「何を為たつて構はない」という気持ちにまでなっている一人の労働者なのだ。

 こう見てくると、「暁」に登場する在米日本人たちは、そのほとんどが何らかのかたちで当初の目的からは滑り落ちた「転落」を経験しつつある人々として描かれているのが分かるだろう。コニー・アイランドという世紀転換期におけるアメリカのカルチュラル・シンボルをとり込みながら、荷風はその新興階級の解放のための〈祝祭〉空間を、移民たちのほろ苦い転落物語の背景として利用した。

 さて、これまであえて言及することを避けてきたわけだが、身の上話を語る書生の経歴と「自分」の経歴は、荷風自身の当時の立場に近い部分を少なからず持っている。第一高等学校の受験に失敗した経験も、ようやく入った学校を退校になった経験も、寄席や吉原で遊んだ経験も、挙げ句父親にアメリカへ送られるという経験も、荷風自身が経てきたものだ。もちろん「自分」がいう「欧洲ヨーロツパに渡る旅費」云々というのも、フランスへ渡ることを熱望していた荷風自身が重なって見えるくだりだろう。末延芳晴『荷風のニューヨーク』(前掲)のように、「自分(荷風自身)」(288頁)とする論者もいる。

 私自身は、書生も「自分」も、荷風と同一視して読む読み方には反対である。そうではなく、「暁」は、荷風がみずからの経験をその登場人物たちに重ねながら、ありえるかもしれない自分の近未来をシミュレートした作品として読まれるべきであろう。「西遊日誌抄」は公刊された荷風の滞米・仏日記であり、そのすべてを事実とみるには慎重であった方がよいが、日記中、荷風は米国にとどまるかもしれない自分を繰り返し書き込んでいる。渡仏に反対する父への反発、その父のいる日本への帰り難さ、恋人イデスへの断ちきれぬ想いがその発露の原因となっているものの、「暁」執筆の九ヶ月ほど前、突如おとずれた正金銀行解雇の危機とそれにともなう帰国の可能性におびえた荷風は、次のような心情をもらしてもいるのだ。

〔・・・〕余は米国を去りて日本に帰りし後当時を思い出でゝ返らざる追憶の念に泣く事なからんか。〔・・・〕嗚呼余は到底米国を去る能はず。敢て一女子〔イデス〕の為めと云ふ勿れ。米国の風土草木凡てのものは今余の身に取りてあまりに親愛となりたるを。  (328頁)

 永井壮吉は、日本に帰らなかったかもしれない。すくなくとも彼は、自分の身の回りの在米の日本人たちが、当初の計画とは異なったかたちで滞米を続ける姿をみており、自らの眼前にもまた、そうした可能性が開けていることを十分に理解していたと考えるべきだろう。「暁」のほかにも、『あめりか物語』には、同様に日本における立場をなげうって米国にいつまでともなくとどまっている青年男性の姿が書きとどめられている。海外にとどまり快楽の道を進むか、日本へ帰国し妻のもとでの禁欲の道を選ぶか、イリノイの私立学校で行き迷う男の姿を描いた「岡の上」。その主人公渡野は、日本にいたときは大学の文科を出、父親の資産を受け継いで華々しく活躍していた新学士だった。「長髪」においても、放蕩ゆえに米国へと遊学に出された伯爵の長男藤ヶ崎国雄が、その性癖をあらためることなく、不身持ちのために離縁された富豪の元妻の「男妾」としてニューヨークに生きる姿が描かれている。

 いずれの作品も、ありえたかもしれないみずからの姿と、現実に日米のはざまで生きる自分自身の現在との間に形象化した一つの思考実験として存在していたのかもしれない。荷風の『あめりか物語』を帰国後に彼がたどった道筋から逆照射することには、慎重であった方がよい。米国滞在中の永井壮吉は、もしかしたら帰らないかもしれない存在〈在米日本人〉としての自分を仮想しながら、テクストを書き継いでいたのだから。

(1)日比「永井荷風『あめりか物語』は「日本文学」か?」(『日本近代文学』74、二〇〇六年五月)。
(2)『大西洋』は荷風の短篇「一月一日」の初出誌。雑誌は未見だが、荷風に関する次に引用した記事は『荷風全集』第四巻、岩波書店、一九九二年七月、375頁で見られる。「久しくニユーヨーク正金に在職中なりし永井荷風氏今回仏国里昴正金支店に栄転せらるを以て本社の中村春雨、朝井青葉主人役として生稲料理店にて盛なる送別会を開けり出席せられし者は大坂朝日の福富青尊氏、日米週報社の中村嘉寿氏田村松魚氏、紐育時報社の井上文学士に竹内三樹三郎氏なりき」。
(3)引用は『荷風全集』第四巻(岩波書店、一九九二年七月)による。ルビは適宜省いた。以下同。
(4)末延芳晴『荷風のニューヨーク』(青土社、二〇〇二年一〇月)、『荷風のあめりか』(平凡社、二〇〇五年一二月、『永井荷風の見たあめりか』中央公論社、一九九七年一一月の改題改訂版)。
(5)ジョン・F・ キャソン『コニー・アイランド──遊園地が語るアメリカ文化』(開文社出版、一九八七年五月)。
(6)ミハイル・バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』せりか書房、一九七三年一月、16頁。

◇この研究は科学研究費助成金(平成15─17年度、課題番号15720031「20世紀前半期における〈文学青年〉の社会的形成過程とその表象」)およびそれを発展的に引き継ぐ科学研究費助成金(平成18─20年度、課題番号18720043「北米日系移民の日本語文学に関する総合的研究 1868-1945」)の助成を受けて行われた。


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