ふたたびユングに与う
M・ブーバー
わたしが『現代における神の沈黙』のなかでしたユング批判にたいし、かれはそれを反駁す
るためにわたしあてに返事を寄せてきた。しかし、それについては、もう一度わたしの立場を
はっきり申し述べれば十分だと思う。
わたしはなにも、かれが考えているように臨床的精神医学の本質に疑いを抱いているわけで
はない。もちろん、わたしにはそうする資格はないし、また、わたしはユングの心理学上の論
文のどの一つをも批判したおぼえはない。それもまた、わたしのなすべき仕事ではないからで
ある。ただ、わたしはユングが自分の心理学的領域を厳しく守ると言いながら、その実、精神
医学や心理学の領域をとびこして、宗教上の諸問題にまでさまざまのことをいっている事実を
指摘したまでである。しかも、わたしがかれの誤りを実証したかどうかは、良心的な読者諸君
が、わたしの引用したユングの言葉を一つ一つ調べて下さればわかるはずである。そのために
も、わたしは煩をいとわず、引用の出典箇所をあきらかにしておいたのである。ユングは、わ
たしのこうした実証を批判しているが、かれがどんな手を使ってわたしを批判しているかは、
かれの返事を見ればはっきりとわかることであろう。
まず、わたしは『現代における神の沈黙』のなかで、ユングがつぎのように述べていること
を指摘した。すなわち第一に、「神的行為が人間のこころから生じているのは事実である」と
いうこと、第二にユングはこの事実を、「神はそれ自体において存在する」という「正統の信
仰」と対比させているということ、これである。これについてかれは「神は人間という主体か
ら独立しては存在しないのだ」と主張する。そうなると、ユングとわたしの間の論争点は「神
とはたんに心的現象にすぎないものであるか、それとも神は人間のこころから独立し厳として
存在するものであるか」という一点にしぼられることになる。そして、それについてユングは
「神はそれ自体において存在しない」というのである。ところで、上に述べた論争点を別の言
葉で言いかえればつぎのようにもいえるであろう。すなわち「信仰を持つ人間が神の行為と呼
ぶものは、たんにそのひとのこころから生じたものにすぎないのか。それとも人間は人間のこ
ころを超越した存在者の行為を把握することができるか」と。この問いにたいしてユングは「神
の行為も自分自身のこころから生じたものにすぎない」という。だから、わたしは、この言
葉は正当な心理学者の吐くべき答えとは思えない」、といったのである。なぜなら心理学者に
は、なにが人間のこころを超越して存在しており、なにが超越して存在していないかとか、ま
た人間の行為はどの程度まで人間のこころによらないで生ずるかといったことを決定する資格
がないからである。
ところが、それにたいするユングの返事はこうである。「わたしはただ無意識について判断
したにすぎない」、「わたしがはっきり述べたいことは、ただ――本当にただ――神についての
事柄は万事人間についての事柄と同じであり、それは心的な事柄にほかならない」と(傍点は
著者)。そういったあと、ユングは奇妙にも自分の考えをさらにいっそうせばめて「神について
のすべての事柄はなによりもまずこころから生ずる、というのがわたしの考えだ」と主張する
(傍点は著者)。
読者よ。まずこれらの言葉と、上述したユングとわたしの論争点にたいするかれの答えとを
比較してみられるがよい。たとえユングのように、無意識の力による行為はわれわれのこころ
から生じ、またそうした行為は人間という主体から独立して存在しないということを強調した
ところで、そこで「無意識」という言葉を使う限り、その主張はまったく無意味な同語反復に
すぎなくなってしまうであろう。なぜなら、この主張は「無意識という名の心的領域は心的で
ある」というにすぎないからである。だから、もしかれの主張になんらかの意味を持たせよう
とするためには、その主張が無意識の世界ないし心的世界一般を否定して、その先までつき抜
けなければならない。ところが、ユングはかれの主張にそうした否定的な意味があることを認
めず、相変わらず神に関するすべての事柄は「人間的な事柄」だと言い、「心的な事柄」にすぎ
ないと言い張るのである。われわれはこの点についてかれの言葉をもう少し注意深く調べてみ
ることにしよう。
そのためには、かれの主張をなんの先入観もなく、色めがねもかけずに調べてゆくよりほか
に方法はあるまい。 というのは、他人と議論する場合、わたしはまず自分の考えを他人に押し
つけることから始める気は毛頭ないからである。むしろ、われわれが互いに対話をするために
は、はじめから自分の信念を切り出さないで、うしろに引っこめることが必要だと考えている。
しかし、この場合に限って、問題点をはっきりさせるために、わたしの啓示にたいする信念に
ついてあえて二言付け加えておこう。
わたしの啓示についての考えは、いかなる正統の解釈とも結びついてはいないわたしなりの
ものであるが、それを申し述べれば大体つぎのようになるだろう。「われわれは啓示を、神に
ついての言葉が一字一句正確にでき上がり、それが天から地へ手わたされたものと解してはな
らない。いや、啓示とはわれわれに降った霊の炎がわれわれの本質を溶かし、その結果生じた一
つの言葉、一つのしらせのことである。それは、意味と形態を持つ点では人間的である。――
ということはつまり啓示は、われわれに理解できる観念と言語からできている。けれども、そ
の反面において、啓示は、われわれに啓示をあたえた絶対者の存在とその意志がいかなるもの
であるかを如実に示すものでもある。つまり、われわれは自分自身『啓示された存在』なので
ある。だから啓示は啓示された通りに表現するより仕方がない。」わたしの考える啓示の意味
は以上の通りである(1)。
それにしても、現代においては一般に他のすべての事柄についての説明と同じように、神に
ついての説明もまた「あまりに人間的」である。しかし、われわれは、はたしてそれでことの
真偽をあきらかにすることができるであろうか。実際、ことの真偽をきめる決め手は「心理的
説明」か「非心理的説明」か、などということにはなく、まさに心理を超越した実在者(すな
わち神)と自己との関係を取り扱うことができる「心理的説明」か、それともそうした関係を
取り扱うことができない「心理的説明」かということにある。
ところが、残念ながら今日の心理学には両者の間に区別を立て、いずれが真理であるかを決
定する権威がない。もしも心理学がそれをあえておこなったならば、それこそ心理学の越権行
為であり、それによって心理学は自分で自分を傷つけることになるであろう。
では、いったい心理学はなにをしたらよいのであろうか。この点について、科学としての心
理学が果たすべき唯一の正当な活動は、適切な判断に従って心理学本来の領域を守ることしか
ないとわたしは思う。ところがユングはどうか。かれは心理学者としての分を守らず、「人間か
ら離れて神は存在しえない」などという。しかし、もしもかれのこの説明が、「神」とは名ばか
りで、実は無意識内における「原型」についての説明にすぎないというならば、「神は心的要素な
り」などと強調する必要はいまさらないはずである。(どうしてそんな必要があるだろうか、)
しかし、その反対に、もしも「人間から離れて神は存在しない」ということが「もともと心理
外にあるべきはずの存在者(すなわち神)が心理の一部分となり、従って心理外にはもはや神
は存在しなくなった」ということを意味するとしたら一それこそユングはあきらかに心理学
者の領域から逸脱していることになる。われわれは一見したところきわめて巧妙にできてはい
るが、しかし実は曖味そのものであるユングの論法から少しも早く抜け出さなければならない。
しかし、ユングはわれわれがそうすることをなかなか許さない。それどころか、かれはわれ
われの注意をつぎの事柄へとそらせてしまう。それは「人間というものは神について実に沢山
の像を持っているが、それらはみな自分勝手に拵え上げたものだ」という説である。この点に
ついては、わたしも昔から注意し、何度も説明を繰り返してきた。ここでなにより大切なのは、
そうした神の像がまさに一片の像にすぎないという事実である。いやしくも信仰を持つものな
らだれしも、自分が神の写真を持っているとか、神の姿を魔法の鏡にうつし出すことができる
などと想像しはしない。なるほどわれわれはみな、こころのうちで神の姿を描いたことがある
のを知っている。しかし、それはあくまで神の像として――つまり似姿として――描いたので
あって、けっして神そのものを描いたのではない。また、われわれにそれを描かせたのは、本
来はいかなる像も持たない絶対者に向けられたわれわれのはげしい信仰心なのである。熱心な
信仰心を向けたからこそ、姿や形のないはずの絶対者を「こころに描くことができた」のであ
る。換言すれば、絶対者をなんらかの形で「意味することができた」のである。存在する絶対
者――実在する神――にこうした熱烈な信仰心を傾けるということは、さまざまな経験を経て
信仰に達した人々ならだれでも知っている共通な事柄である。ユングはかれの著述のいたると
ころではっきりと「現代の意識は信仰を嫌う」と言い、かれ自身の意識もまさにこのような
「現代の意識」につらなるものだと申し立てている。しかしながら、こうした神にたいする嫌
悪の情を、「純粋に心理学的」と自称する説明のなかに入れこむことは許されないことである。
第一、心理学をはじめいかなる科学といえども、神に寄せる人間の信仰についての真理を研究
する能力は持っていないはずである。むしろこの問題に触れないことこそ、純粋な科学者のと
るべき道であり、また同時に特権ともいうべきであろう。今日の科学者の能力をもってしては、
かれらが実際に知っている事柄を取り扱うと同じ態度で神信仰の問題を取り扱うことなど、沙
汰の限りというほかない。
心理学は神秘にたいして信仰がいかなる態度をとるか、なに一つ知らない。それなのに、心
理学は事実において、さまざまの神秘を取り扱っている。これこそ、まさしく現代におけるグ
ノーシスのあらわれというべきであろう。われわれはグノーシスを、かつてはさかんだったが
いまでは跡形もない、遠い昔に存在していた歴史上の遺物などと考えてはならない。それどこ
ろか、グノーシスはいついかなる時代にも存在する。そして、無神論よりもっと徹底的に神を
抹殺する役割を果たしている。というのは、グノーシスはいままで存在してきた神の姿を破壊
しなければそれ自身存在することができないからである。この意味でグノーシスこそ、信仰に
とっての真の大敵ということができよう。そうしたグノーシスが今日その姿をあらわしてきた。
しかもわたしにとって非常に気になるのは、それがたんにとてつもない人間中心主義にあふれ
た主張をしているからというだけでなく、特にそれがカルポクラテス的グノーシス(2)の特色を帯
びているからである。まことにカルポクラテス的グノーシスは、みずから精神療法と称して人
人のこころに入りこみ、やがて人間の本能を信仰によって聖化するかわりに、本能そのものを
神秘なる神の座につけてしまうのである。われわれはC・G・ユングをこうした現代における
グノーシスの出現と結びつけて考えなければならない。そして、それが歴然たる事実であるこ
とは、いまかれの書物からわたしが証明したばかりであり、さらにお望みとあらば、いくらで
もかれの言葉を引用して証明してお目にかけるであろう。
訳註
(1) ここの告白的な書き方は、ブーバーとしてはかなり珍しいことである。それだけに、啓示につい
てのかれの考えの一端がはっきりとうかがわれて興味深いが、啓示についてのかれの考えはかなり複
雑なので、ここの考え方を別の面から説明しておこう。ブーバーは啓示を神と人間のわれ−なんじの
出会いによって生ずるものと主張する。従って啓示を受ける預言者は神の聖書をただ受動的に受け入
れる器のようなものではなく、「個性を持った人間として、たとえばオルガンがそれ自身の機能にも
とづいて曲を奏するように、神の啓示を自分のものとして他の人々に伝える」(『イスラエルと世界』
中「偽の預言者」参照)。かくて啓示とは「一方的に神のものでもなければ、もちろん人間の作りご
とでもなく、神的なものと人間的なものとの出会いから生じたもの」(同上)であり、つまり人間と
神との交わりによって生み出されたものということになる。
(2) カルポクラテスは二世紀前半のアレキサンドリアの人。グノーシス派の学者。「善悪は人間の頭
がそう思っているだけのものである。これに反して、人間の魂は肉体という束縛からできるだけ早く
のがれるためには死ぬまでの間に本能的、肉体的、精神的なすべてのことを経験しうる限り経験しつ
くさねばならない」と主張したという。ユングはカルポクラテス流の「救われるためには精神的はお
ろか、肉体的、本能的ないかなる経験をなしてもよいという倫理的決断をつかさどるものとしての勇
敢な分別」に感激したらしい。『心理学と宗教』、「ある自然的象徴の歴史とその心理構造」参照。
解説 ブーバーとユング双方の主張を聞くと、両者の意見はかなり平行線をたどっている感
じを受ける。もともと一方は神学者、他方は心理学者であってみればそれもやむをえないかも
しれない。もっとも心理学者のうちでもハンス・トリュープ Hans Trub のようにユングの
心理学から抜け出してブーバー的な「出会いによる精神療法」に移ったような学者もいないわ
けではないが Hans Trub:Heilung aus der Begegnung.1951……。そこでたとえば精神分析学
者としてトリュープの門下にあったスボロヴィツ Arie Sborowitz のごときはブーバー説と
ユング説は相反するものではなく、互いに補いあうものであると主張している('Beziehung und
Bestimmung Die Lehren von Martin Buber und C.G.Jung in ihrem Verhaltnis zuein ander,'
Psyche, Eine Zeitschrift fur Tiefenpsychologie und Menschenhunde in Forschung undP raxis
II.1948,9-56.)。いまその要点をあげれば、(1)ブーバーは真の関係の本質とはいかなるものか
を説き、ユングは真の関係を結ぶ障害になるものにいかなるものがあるかを説く――たとえば、
かれのいう「投影」Projektion、「受入」Introjektion、「同一化」Identifikation 等マイナス面
がそれ。(2)ブーバーは他者との関係を説くのにたいして、ユングは自己自身との関係を説く。
(3)前者が恩寵を説くのに反して、後者は自由を説く。前者が責任を説くのに反して、後者は運
命を説く。前者が世界との一致を説くのに反して、後者は自己との一致を説く。しかし、スボ
ロヴィツにいわせるなら、これらは一つの真理の積極面と消極面をあらわすにすぎない。ブー
バー説とユング説とが合体したときはじめて、そこに完全に近い理論が生ずると。この意見に
たいしてモーリス・フリードマン Mauric Friedman は Martin Buber:The Life of Dialogue.
1955.においてつぎのようにいう。「双方の主張はそれほど互いに相容れるものとは思えな
い。なぜなら、ブーバーは現実を自己と他者の間に見出し、ユングは自己のうちに見出してい
るからである。従って、両者の他者への関係とか、自己の使命とかについての考え方も異なって
くる。即ち、ユングにとって使命とは、自己のうちでおこなわれることがらであり、ブーバー
にとってはまさにそれは自己が自己の外にあるものに向かって応答することである。つまり、
ブーバーにとって、人間は自己の可能性を実現すべく呼び求められているのであり、ユングの
いうように運命づけられているのではない。そこで、人格の完成そのものもは、ブーバーにと
ってはユングほど重大な目的とはならない。なぜなら、われわれはわれわれに向かって呼びか
けてくるものに答えることができれば、それで完全になるからである。ところが、ユングは個
人の魂の本質的な生命が、他の諸実在者との真の出会いより成立することを無視してしまって
いる。だから、かれがいかに『自己がわれと他者とを含むもの』と主張しようとも、その他者
とは真の他者――つまりわれ−なんじの関係を結びうる他者ではない。せいぜい個々の魂の心
理内容を構成するものにすぎない。ユングによれば、神も人間も『自己』のうちに含まれると
いう。ということはつまり神がなんじとしてではなく、それとして自己のうちに含まれること
を意味する。だから、『完全な自己は神の姿と同じである』とか『自己の実現は神の受肉に等
しい』とがれが主張しても別に驚くには当たらない。さらに、かれはこうした『自己の神化の
過程が集合的無意識によって行なわれる』と主張するが、しかし『集合的無意識すら個人の精
神によらなければ体験しえない』とすると、かれの主張は普遍妥当性を欠くものといわないわ
けにはいかない。」(以上のことについてはブーバー著・拙訳『孤独と対話』を参照されたい。)
なお、ブーバーの全集 Werke I.は本文のところで終わっているが「メルクール」誌ではこ
のあとにつぎの部分がつづいている。ブーバー自身あまり意味がないと思ってのちに切り捨て
たのであろうが、参考までにその部分を付記しておく。文章は本文の切れ目から追い込みで書
かれている。
たとえば、公平な読者ならば誰しも、かれが書いた『アブラクサス』はユング自身いって
いるように、詩ではなくまさに一つの信仰告白であることを見抜くであろう。わたしがここ
でこの作品のことをもちだしたのは、ユングがすでにそのなかで、善悪を包含し、対立した
価値の両立を上手にはかるグノーシス的な神をはっきり公言しているからにほかならない。
わたしはこの両性的な像の方をかれのいう四位一体の像よりも審美的にははるかに好ましく
思っている。後者が、第四位の場所にあるいはサタンを、あるいは聖母を、あるいはまたま
だなんともわからないものを指定しているにしても……(1)。
以上、わたしがユングにたいして述べたことは「異端審問」であろうか。いやいや、わたし
にとっては異端の審問ほど厭わしいものはなく、またなにものもこれ以上わたしのつとめか
らほど遠いものもない。(ユングはあきらかに、わたし自身が正統信仰の側に立つ人々から
異端視され誹謗されていることに気づいていないのである(2)。)わたしがここに述べたことに
は審判らしいものはなにもない。あるとすればただ一つの特色があるだけだ。そしてそれが
正しい特色であったかどうかは読者諸賢の御明察におまかせすることにしよう。
訳註
(1) 巻末付録「ユング術語解説」中二五四頁「四性」参照。
(2) 事実、ブーバーの主張と行動はユダヤ教会内における伝統的保守主義者からは余りにも自由主
義的で危険であると考えられていた。
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