第四章 C・G・ユングとの対話(1)
ブーバーの批判に答える C・G・ユング
先般、カイザーリング伯の遺作の論文(2)が本誌に載ったが、そこでは、わたしは「非精神的」
というレッテルをはられた。今度は最近号(3)で、わたしはマルティン・ブーバーによって、又別
のレッテルがはられているようである。ただ今度は、カイザーリング伯の場合と違って、わた
しは「精神的」という次元へ高められたらしい。この点につき、わたしはつつしんで、ブーバ
ーに感謝しなければなるまい。たとえブーバーが、神学者の側では音から悪意のある日で見て
た初期キリスト教のグノーシス(4)という次元でわたしを「精神的」といったにせよ、カイザー
リング伯がわたしのことを「グノーシス主義者」とは正反対の「不可知論者(アグノーシス)」というレッテル
をはって咎めだてている折も折だけに、ブーバーが権威ある神学にものをいわせて、そういっ
てくれたのだから………。
とはいうものの、一つの対象について、人々の見解がこんなにも違うものかと思うと、わた
しの心が疑惑の念に閉ざされるのもむりはあるまい。その疑惑とはカイザーリングにせよ、ブ
ーバーにせよ、見解はいずれも正しくないのではないか、別言すれば、なにかの誤解がそこに
あるのではないかということである。わたしがグノーシス派であるか、それとも不可知論者で
あるかという問題に、なぜ人々はこれほど注意を払うのだろうか。なぜ単純に、わたしを一人
の精神病理学者として見てくれないのだろうか。一人の科学者として第一の関心事は、自分の
経験的な素材を叙述し、解釈することであるが、なぜ人々はそれをすなおに認めてくれないの
だろうか。実際、わたしは色々な事実を探究し、それらを理解しようと努めてきた。しかし、
かれらはそんなことには見むきもしないで、ひたすらそれとは関係のないわたしの言葉じりを
とらえ、それに攻撃をしかけてくる。わたしにはそれがどうも納得いかないのである。
ブーバーはかれの攻撃カを増すために、ほとんど四十年もまえにわたしがおかした若気のあ
やまち1といってもそれはあるとき、柄にもなくつまらない詩をつくったことであるが(5)――
さえも利用している。わたしはその中で、ある心理学的な見通しを「グノーシス的」な文体で
表現した。というのは、当時わたしは非常な感激をもってグノーシス派を学んでいたからであ
る。それも無理はない。なにしろわたしは、かれらこそ(かれら一流の仕方で)、いわゆる集
合的無意識の内容をはじめて取り扱った思想家だと信じていたのだから、そこでわたしは、当
時その「詩」なるものを偽名で印刷し、親しい友人の間にくばった。しかし、それがこの年に
なって異端訴訟のねたとなり、いつの間にか自分に不利な証拠品になろうなどとは、夢にも思
わなかった。
さて、もしも人々がわたしを批判するなら、まず前もってつぎの事実に注意するように願い
たい。それは、わたしがグノーシス派だとかその逆だとか見なされたばかりでなく、やれ有神
論者だとか無神論者だとか、あるいはまた、神秘家だとか唯物論者だとか、いままで実にさま
ざまな「論者」に受け取られてきたことである。こうした見解の渦巻くなかで、わたしは自分
白身の所信を声を大にして訴えるつもりはない。それよりむしろ、わたしは疑う余地のない出
典からある学者がわたしについて下した一つの正しい判断を引用した方がよいと思う。それは、
「事実が第一、理論は第二。これがユングの仕事の基調(キーノート)である。かれは終始一貫して経験主義
者である」という、一九五二年二月九日発行の「イギリス医学雑誌」British Medical Journal
に載った一論文の言葉である。わたしはこの見方に双手をあげて賛成する。
わたしの仕事を知らないひとは、きっとつぎのように問いかけてくることだろう。「同じ対象
について、こんなにも違った見解が生ずるというのは、いったいどうしたことなのか」と。そ
れにたいしてわたしはこう答える。「なぜなら、それらの見解は一つ残らず『形而上学者たち』
によって、つまり、あるなんらかの理由によって彼岸の不可知な物事に通じていると思ってい
る人々によって考え出されたものだからだ」と。わたしは人間にとって神秘な事物が彼岸に存
在しないなどとは一度も主張したことはない。しかし、わたしはまた、自分がこのような事物
になんらかの仕方で触れるとか、あるいはそれを具体的に叙述することができるとか考えたこ
とも一度もない。
わたしは、非常に明白な自然科学的理由から、人間の表象と物自体の本性とは同一でないと
信ずるものである。ところで、経験心理学においては、形而上学的ないし宗教的対象について
の表象や見解が非常に重要な役割を演じているから(6)、わたしは実際的な理由からそれに適切な
概念を使用しないわけにいかない。しかし、たとえわたしが宗教的な内容に立ちいたったとし
ても、それはあくまで擬人的な見方にもとづいたものであって、けっして宗教学や形而上学者
のいう神々や天使そのものを取り扱ったわけではない。わたしはそれをよく自覚している。た
とえば、わたしがそのような宗教的な(あるいは原型的な)像を――それ自身の特殊なエネルギ
ーと自律的な作用の故に――比喩的に「人間の心理に巣くう悪魔(デモン)」と名付けたとしても、それ
はけっして宗教そのものの意味をあらわしているのではない。読者よ、どうかこの無意識の世
界の自律性という事実を極めてまじめに受け取ってもらいたい。それはまず第一に理論的な立
場からそれが「精神(プシュヒェ)」の分裂可能性と事実上の分裂を表わしている限りにおいて、また第二に
実際的な立場から、すなわちそれが自我と精神療法の主要部分をなす、意識と無意識との間に
起こる弁証法的な葛藤の基礎をなす限りにおいて、非常に大切な概念なのである。ノイローゼ
の心理学的構造について多少の知識を持っているものならだれしも、ノイローゼは意識と無意
識とが対立的な位置にあり、両者が葛藤を起こすために生ずるということを知っているはずで
ある。いわゆる「無意識の力」というものは、けっしてわれわれが任意に操作することのできる
知的な概念ではなく、ペルソナがこれを管理してもなお往々にして恐ろしい荒廃をひき起こす
危険な敵対者なのである。つまり「無意識」はこころの「対立者」として、そのときそのときに
応じて、われわれが願望したり、あるいは恐れたりするすべてのものを意味するのである。だ
から、素人はきっと、無意識と、人間の器官のなにか理由のわからない病気とは関係があるの
ではないかと憶測するであろう。しかしこの場合は、無意識の背後に悪魔ありと推定する神学
者の方が、人間心理の真相にかなり近づいているといえるのである。
わたしが恐れるのは、ブーバーが精神病理学上の経験をなに一つしていないので、わたしが
「こころの現実」と言い、「個体化の弁証法的過程」ととなえる事柄を少しも理解してくれな
いのではないかということである。こうした個体化から生ずる意識的自我とは、実はなにより
もまず大昔に神格化された名称をもつ無意識の力――その名称の故に昔から形而上的な実在と
同一視されてきたもろもろのカ――に対立した概念なのである。無意識の分析はすでに長い間、
原型の形をとったこれら「諸々の力」の存在を証明してきた。だがこれらの原型は、それに対
応するような思惟概念を持たないのである。
ところが、一部の人々は、意識内における諸概念は、霊感によって形而上学的な対象をも直
接、具体的に表現することができるという風に信じこんでいる。こういう確信は勿論「信仰の
賜物」を所有している人々にのみあたえられるものであろうが、残念なことにわたしはそのよ
うな賜物を持ち合わせていない。だから、たとえばわたしが大天使についてなにかいっても、
それでもってわたしが、「形而上学的な確信」をえたという風に考えてもらっては困るのである。
むしろその場合にはわたしは、なにか経験可能なもの――つまり極度に感知されるような無意
識的なもの――の力について判断しているにすぎないと知ってもらいたい。こういう力とは
「ヌミノーゼ的なもの」(7)、ないし「無意識の内容や過程やダイナミックな動き」などと呼ぶこ
とができるであろう。とにかく、こうした無意識の諸類型は、こういってよければ、「内在的
―超越的」である。ところで、繰り返しいうが、わたしの唯一の認識手段は経験なのだから、
わたしは経験の限界を越えては手も足も出ない。だから、わたしが大天使のことを語ったから
といって、そのためにわたしが現実に形而上学的な大天使の肖像を描き出したなどと想像され
ては、はなはだ迷惑至極なのである。わたしはただ、意識にたいして重要な影響を及ぼすある
心的要因を叙述しているにすぎないのである。それは客観的な「精神(プシュヒェ)」の一部分を表す限りに
おいて、つまり「精神」に宿る無意識の世界の自律的性格をあらわすという点において、主観
的自我とは対極をなしているものである。(だから、この心的要因を主観的自我たるわれにた
いしてなんじと呼んでも差支えないであろう。)この自律的な無意識の世界の現実性がいかな
るものか、その暗黒面を例にとって説明するならば、六百万人のユダヤ人を虐殺したナチスと
か、原子爆弾の発明など、現代のまさしく悪魔的な行為が考えられる。そして、それがわたし
の立場を立派に証明してくれるだろう。しかし他方では、わたしはその現実性のうちに、美、
善、英知、恩恵などの言葉が表わしているすばらしい数々の事柄をも見出すことができる。こ
うして、人間の本性がいかに深く、またいかに高いかを実際に体験すれば、それらの背後にあ
る「心的要因」を比喩的に「悪魔(デモン)」と名づけても別に不思議はあるまい。
このようなわけだから、どうか読者はわたしがたずさわっているのは、経験上明らかにする
ことができるような心的諸現象にすぎないこと、だからたとえばわたしが「神」といっても、
それは一般に異様な実在者ではあるが、しかし証明の可能な心的内容のほかはなにも指してい
ないことを忘れないでほしい。それでもわたしのいうことが信ぜられないひとは、できるだけ
早く精神病医の適当な指導を受けられることをおすすめする。
「こころの現実」とは、わたしがつくった仮説にすぎない。元来、わたしは事実上の素材を
集め、記述し、説明することをもって主要な活動としている。なんの体系も、普遍的理論の提
起も目的とはしていない。たとえ、わたしが多少抽象的な理論を並べ立てたとしても、それは
普通いかなる自然科学もそうするように、わたしにとって道具として役立つ補助手段を定式化
したものにすぎない。だから、ブーバーがわたしのこのような経験主義をグノーシス主義と誤
って解するならば、かれはわたしの記述した事実が、実は事実ではなく嘘であることを証明す
る義務がある。そして、もしもブーバーが経験的素材においてわたしのいうことが嘘であると
いうことの証明に成功したならば、そのときはじめてわたしを本当のグノーシス派と呼ぶべき
であろう。しかし、もしもブーバーのように、わたしの記述した事実をなんの証明にももとづ
かず、ただ嘘ときめつけるならば、そのときはあらゆる宗教的体験そのものをも嘘として片づ
けなければならないだろう。わたしをしていわしむれば、ブーバーはどうもかれの判断を誤っ
た方向にもっていっているようである。それは、神の像のような無意識の世界の「自律的心理
内容」がわれわれの自我にたいしていかに生き生きと現われてくるかということを、かれが理
解していない点において明白である。
こうした心的内容がどの程度、形而上学的な神の存在によってひき起こされ、規定されるか、
それを確かめることは、もちろん経験科学に課された課題ではない。それは神学や啓示や信仰
が明らかにすべき問題である。わたしを批判する人々は、かれらが神について語るとき、まず
かれらが自分の意識から、つぎには自分の無意識という前提にもとづいて語っていることを自
覚していないようである。たとえば、ブーバーがいかなる形而上学的な神について語っている
のか、わたしは知らない。けれど、とにかくブーバーが正統のユダヤ教徒ならば、かれの語っ
ているのは、紀元一年に起こったキリストの受肉によってまだ啓示されなかった時代の神のこ
とであり、またがれがキリスト教徒ならば、それはヤハウェの神が予想しなかったような受肉
した神のことである。もちろんわたしは、ブ−バーがなんじとしての神と生き生きとした関係
を結んでいるというかれ自身の信念を疑うものではない。しかし、だからといって、「ブーバ
ーはユダヤ教徒とローマ教皇とでは別な定義を下すけれども、しかしその実体はまったく同一
なる自律的心理内容と関係を結んでいる」というわたしの考えを変える必要は毛頭ない。この
場合、一つの形而上学的な神が、正統のユダヤ教徒には受肉以前の神として、またキリスト教
の教父たちには受肉以後の三位一体の神として、あるいはまたプロテスタントにはマリアなし
の神として、そしてローマ教皇にはマリアをともなった(8)唯一の救世主として、それぞれの信者
にどの程度まで啓示されているかということに関して、わたしはいささかの判定をも下すつも
りはない。同様に、イスラム教、仏教、ヒンズー教、道教などを含めた他の宗教を信ずる人々
が、かれらの「神」や「涅槃」や「道」などにたいして、ブーバーと同じような生き生きとし
た関係をもっていることについて疑いをさしはさむ気持ちまったくないのである。
それにもかかわらず、ブーバーはわたしが「神は人間のこころから切り離しては存在するこ
とができない」と主張するのにひどく反発して、この主張を一つの超越的な(かれの言葉をそ
のままつかえば、「心理学の領域を逸脱した」)表現としてみなしている。しかし、これはわた
しにとって、はなはだ心外である。わたしはこの際もう一度はっきりいっておこう。「神につ
いて言い表わしうるすべてのこと――端的にすべてのこと―は人間的言表である」と。つま
り、「心理的言表である」と。われわれが神についていだいたり、あるいは、みずからつくり
上げたりする像は、どのみち「人間から切り離される」ことはないのである。だから、ブーバ
ーがわたしのこの主張に反発するなら、かれはなによりもまず、「神が人間から切り離されて
いたならば、神は自分自身の像をどこで、どのようにしてつくり上げたか。神自身でつくり上
げたのでなければ、人間以外のだれが神の像をつくったのか」ということを示さなければなる
まい。
わたしはここで一度だけ、例外として超越的な思惑をやり、「創作」をしてみよう。それは、
「神がたしかに人間の助力無しで、想像を絶した壮麗な、同時に底知れぬほど矛盾に充ちた自
分白身の像をつくりあげ、それを一つの原型の光αρχετυπον ψωδ(9)として人間の無意識のなか
におき入れた」という「創作」である。それはあらゆる時代、あらゆる場所の神学者をして、
それについて相争わしめるためではなく、つつしみ深い人間が自分の魂の深みに、自分自身の
「こころという実体からつくった像」を見出すことができるようにするためである(10)。だから、
この像は、人間が自分の神々や存在の根拠について考えるとき、いつもその考えのうちにはい
りこんでくるのである。
こうした原型が現実に存在していることは、諸民族の歴史ばかりでなく、個々人の心理的経
験を見てもあきらかである。そして、わたしにとっては、この原型だけでまったく十分なので
ある。それは非常に人間に近くありながら、しかも人間とは異なったものである。そして、あ
らゆる原型がそうであるように、この原型も人間の存在にとって極めて大きな決定的影響力を
もつものである。だから、われわれはこの原型と対決することがどうしても必要なのである。
集合的無意識の自律的内容とわれわれの意識との弁証法的関係が、精神療法の本質的部分を形
づくっているというのは、つまりこのことなのである。
ブーバーは、わたしが「グノーシス的な立場」から出発し、心理学者としてなしてはならな
い形而上学的な言表をあえてなしたと主張する。しかし、それはかれの考え違いである。われ
われは経験の結果をなにかの哲学的前提と誤解してはならない。なぜなら、経験の結果は演繹
的にとらえられたものではなく、臨床的な事実による材料から導き出されたものだからである。
この意味で、わたしはわたしを批判する人々にたいして、つぎのような精神病患者の伝記を一
読されることをおすすめしたい。例えば、ジョン・カスタンス John Custance の『知恵・狂
気・愚昧』Wisdom, Madness and Folly. London, 1951. シュレーバー D. Schreberの『一
神経症患者の回想録』Denkuwurdigkeiten eines Nervenkranken. Leipzig, 1903.など。あるいは、
ブーバーと同じテル・アビブ(11)に住むノイマン博士 Dr.E.Neumann のすぐれた労作『アプレ
イウス――愛とプシュヒェ』Apuleius: Amor and Psyche. Zurich, 1952.のような神話的素材
を分析した書物もすすめたい(12)。
わたしはもともと、無意識が産み出したものと或る形而上学的な表象との間には類似性と親
近性とがあることを主張してきたが、この主張はわたしの職業的経験にもとづいたものであっ
て、幸いこの点について、わたしの経験的立場を即座に理解してくれる友人は、カトリックや
プロテスタントの権威ある神学者にも少なくない。だから、わたしは自分の叙述の仕方がブー
バーのいうように、読者を誤解に導くものとは思わない。そんな心当たりはわたしにはまった
くないのである。
ここでわたしは、しばしば受けるもう一つの誤解に触れておきたい。それは、もしもわれわ
れが「投影」(13)を「引込めた」ならば、客体は消滅してしまうのではないかという奇妙な仮定の
ことである。たとえば、もしもわたしが或るひとについての自分の誤まった「投影」を「引込
めた」とする。すると、そのひとはそのために消滅してしまうことになるだろうか。それどこ
ろか、その反対にわたしはいまやかれを以前よりいっそう正しく見ることができるようになり、
かれとわたしとの関係はそれだけプラスとなる。
これと同じことは神についてもいえよう。「神についてのすべての言表は、なによりもまず
自分のこころから出てくるものである。つまり投影によって生ずるものである。だから、ここ
ろの神と形而上学的な神とをはっきり区別しなければならない」といっても、それによってわ
たしが形而上学的な神を否認したわけでもなければ、神にかわって人間を神の地位に立てたわ
けでもない。もちろん、われわれが聖書を引用するとか、またはその他の宗教的見解を披瀝す
るたびごとに、形而上学的な神がみずからわれわれを通じて語りかけるなどと考えるのは、卒
直にいってあまり感心したことではない。けれど、それでもたしかに信仰は、信ずるものにと
っては偉大である。そして、信仰の知識は、おそらくわれわれが辛苦に満ちた、息切れするよ
うな経験によってほんの少しずつえてゆく知識よりも、ずっと完全なものであろう。たとえば、
キリスト教における教義学の体系がグノーシス派の粗雑な「哲学」Philosophoumena よりは
るかに高度の段階に達していることに疑いはない。まことに、教義とは最高度の美と、驚嘆す
べき意味をそなえた霊的構造を有するものである。わたしも及ばずながら自分の学説がそのよ
うな深淵な意味をそなえることができるようにと自分流に努力はしてきた。「客観的精神」の
型をつくり上げようとこころみてはきた。しかし、このような科学的なこころみはどこまでい
っても地上的、実生活的であって、矛盾に満ち、完成の域に遠く、論理的にも審美的にも不充
分きわまるものにすぎない。自然科学の概念――ことに医学的、心理学的概念――は清潔でお
行儀のよい思考原理から出てくるのではなく、平凡な人間生活の底辺から生ずる。それだけに、
経験的概念は非合理的である。ところが、このような人間の日常生活を基盤とする非合理的概
念を、あたかも哲学的概念でもあるかのように批評する哲学者がいたとしたら、それは風車に
戦いをいどむドン・キホーテみたいなものであろう。ブーバーはまさにこの種の哲学者の一人
として、無意味にわたしの自己(ゼルプスト)の概念を分析し、ついに極度の困難におちいってしまった。
経験的概念とは、いわば現存する事実の複合体につけられた名称なのである。われわれは生
存の恐るべき逆理に直面すると、集合的無意識が、教義上の神概念のもつ美や崇高さや純粋さ
などとはまったくうらはらな、矛盾だらけの神の像を描き出す場合がよくあるのである。ヨブ
記や詩篇八八(14)にうたわれている神は、たしかにそうした神――なにかいっそう現実に迫ってく
る神である。その神の像も無意識の神の像にふさわしい感じがする。ことに詩篇の方はその人
間的象徴性の点で、キリストの受肉を考える上に便利でもあろう。
だが旧約聖書以来、教義が歴史的にいくら進歩をしたところで、それがわたしにとってどう
ということはないし、わたしはそれによってあたらしい宗教の開祖になるつもりもない。なぜ
なら、そうなるためには、わたしは少なくとも――古くからのしきたりに従って――ある神的
な啓示を引合いに出す必要があるからである。ところが、わたしは臨床体験を重んずる医師で
ある。本質的に人間とその時代の病にかかわり、苦悩の現実に直面し、それに適した治療手段を
考えなければならない医師なのである。なるほどブーバーがわたしの診ている患者を「憎たら
しい心理学」から引き離し、かれの「言葉」で癒してくれるというなら、それも結構であろう。
わたしもそのような試みには大賛成と言いたいところであるが、聖職者の司牧 cura animarum(15)
がいままで必ずしも望ましい効果をあげなかったから、さし当たっては、経験が提供するささ
やかな「グノーシス」しか知らないわたしのような医師が、かれらの相手をつとめなければな
らないのである。もしも、ブーバーをはじめとし、わたしを批判する人々のうちで、苦しんで
いる患者をなおすためにもっと良い方法を知っているひとがいたら、その方法をぜひ御伝授ね
がいたいものである。
医師とはまことに苦しい立場にあるものだ。なぜなら、かれらは「万一」という言葉によっ
てはまったくなにごとも始めることができないからである。われわれは患者が、わからないか
らいやだといっている信仰を無理に信じろとはいえないのである。あるいは、たとえわれわれ
自身が信仰をもっていたとしても、その信仰が患者に適さなければ、やはりそれを強要するわ
けにはいかないのである。われわれが頼りにしているのは、患者の本性を現実に治癒すること
ができるかどうか――その可能性だけなのである。その結果生ずる見地が、なにか周知の信仰
や哲学と一致しようがしまいが、そんなことはわたしの知ったことではない。わたしの事実上
の素材は、原始的なもの、西洋的なもの、東洋的なもののすべてからなにがしかのものをえて
いる。実際、人間のこころの集合深層は、折にふれてわれわれの耳にきこえてくる神話的なも
の、あるいはなにか特異なものを混じえた異端を含んでいる。そういうと、信仰を尊ぶ主知主
義者や合理主義者は腰を抜かして、さだめしわたしが人間の自然史や精神史の事実をいつわり、
そこからいとうべき神智学をつくり出す漬神的な折衷主義におちいっていると非難することで
あろう。もちろん、信仰を持つものや、哲学的に語ることを好むものは、事実で苦労する必要
はない。けれども、医師は人間の本性の怖るべき現実性を回避するわけにはいかないのである。
わたしの表現は、伝統的な学説を主張する人々によってはほとんど正確に理解されえないで
あろう。グノーシス主義者は、わたしの所説に満足しないだろう。かれらはわたしの考えに宇
宙開闘説が欠けている点や、プレーローマ(16)における出来事についての考えが足りない点をあげ
てわたしを非難するであろう。仏教徒なら、わたしが幻(マーヤー)にまどわされていると説くだろうし、
道教の信者なら、わたしの混乱した所説に異議をとなえるであろう。キリスト教の信者はその
上に、わたしがなんと冷淡かつ無遠慮に「天国についての教義上の理念」を云々することかと
嘲けるであろう。けれどもわたしは、つぎのことを理解してくれるよう、わたしを容赦なく批
判する人たちにいわなければならない。わたしはいつも、自分が説明を求めている事実から出
発しているということを……。
訳註
(1) この論文とそれにつづくブーバーの返事を載せた「メルクール」Merkur誌の編集部は、つぎの
ような解説を冒頭にのせている。「一九五二年本誌二月号に載ったマルティン・ブーバーの論文にた
いし、ユング教授は本誌同年五月号に反論を寄稿された。さらに、ブーバー教授もユング教授の反論
をとり上げて原稿を寄せられた。両論文の中心的主題をなすのは『宗教と心理学について』であるが、
この問題はわれわれにとって極めて重要な意味をもつものと思われるので、ここに両論文を一挙に掲
載して読者の資に供することにした。」
(2) それは一九五〇年、一一五一頁―一一六八頁まで『精神分析学との出会い』と題する論文である。
そのあとにルドヴィヒ・タルティウスのカイザーリング伯を偲ぶ文章も載っている。
(3) 一九五二年二月号のこと。
(4) 元来キリスト教は神の智の認識(グノーシス)を以て信仰(ピステイス)より高い段階にあるとみなした(ヨハネ伝一〇の三八、
或はコロサイ書二の二参照)。しかし、グノーシスが特別な意味を持ち、グノーシス主義者が出て教
会の一大脅威となったのは、二世紀頃からのことである。かれらはキリスト教を「精神化すること」
によって、キリスト教をユダヤ教や原始キリスト教会の教えよりもっと高尚なものにしようと試みた。
そのために、かれらはギリシア哲学や東洋の宗教を多く取り入れて、一種の神智学を作り上げたので
ある。その先駆者は小アジアの宗教的混合主義の盛んな地方から生まれた。ケリントス、サトゥルニ
ノス、カルポクラテス等、その他ユングと関係の深いバシレイデスや、グノースティーケルとして最も
代表的なヴァレンティノスなどがそれである。「宗教が重大な心理的側面を持つ故に、これを純経験
的な立場から考察しよう」とするユングにとって、二世紀頃キリスト教を「精神化した」これらのグ
ノーシス主義者たちの行き方が興味の的になったのは当然である。
(5) ユング自身若気のあやまち jugendsunde といっている「詩」Gedicht は、実は詩というより
散文が大部分で、なかに散文詩のような部分もはいっている。題して『死についての七つの教え』
Septem Sermones ad Mortuos と言い、一九一六年、つまり「若気のあやまち」といっても四十一歳の
時の作である。この作品は今日ではユングの後年における理論の発展に大きな役割を演じたさまざま
の思想がまだ萌芽の形で雑然と並べられているという点で重視されており、今日ユングの弟子で秘書
のアニエラ・ヤッフユ Aniela Jaffe 編ユング著『記憶、夢、思考Erinnerungen, Traume, Gedank-
en von C.G.Jung. 1963, Zurich u. Stuttgart に収められている。ユングはこれを同書に載せるの
を非常にためらったというが、この作品のなかでかれが語っている思想は、二世紀のキリスト教グノ
ーシス、バシレイデスの逆説的論法から非常に多くの影響を受けている。アブラクサス Abraxas と
いう神の名もバシレイデスから取ってきたものである。いま、ユングのこの謎めいた作品のうちから
数行を抜いて紹介しておこう。「アフラクサス――太陽であり同時に空なるもの。あるいは永遠を呑
みこむ悪魔の食道。神である太陽が語ることは生命、悪魔が語ることは死。アブラクサスは生命であ
り同時に死であるもの。善にして悪なるもの。真にして偽なるもの。光にして闇。これらを同一の言
葉によって証しするもの。それ故に恐るべきもの。プレーローマ――無にして充溢。そこでは思惟と
存在は消滅する。なぜなら、永遠なるものは特有の性質を持たないから。そこにはなにものも存在せ
ぬ。もしなにものかが存在するならば、プレーローマが特有の性質を持つことになるからプレーロー
マではなくなってしまう」(同書三九二頁参照)。
(6) これについてはシュマルツ G.Schmaltz 著『東洋の知恵と西欧の精神療法』Ostliche Weisheit
und westliche Psychotherapie, Stuttgart, 1951 参照。
(7) ヌミノーゼとは主としてドイツの神秘思想家ルードルフ・オットーが用いた言葉。宗教に含まれ
ている倫理的ないし理性的要素を取り去ったあとの、宗教に特有な非理性的要素を意味する。原義は
「神の意志によるもの」の意。その本質は言葉では表現できない神秘的なもので、しかも人間にとっ
て「まったくの他者」であり、人間はそれによって支配され制約を受ける。ユングはこのヌミノー
ゼを「人間の意識に独得の変化をもたらす集合的無意識の力」と定め、宗教はそのラテン語の原語
relegere が示すように、われわれの意識に作用するこの神秘な力を「慎重に観察すること」にある
と主張する。『心理学と宗教』参照。但し、宗教のラテン語の原語としてユングのように relegere
をたてるかわりに religare をたてるものもある。その意味は「(義務などに)しっかりと結びつく」
意味で、一般にこの方が通説となっている。
(8) Corredemptrix の訳語。Redemptor 即ち救世主キリストと共に世を救う女性、つまり聖母マ
リアのこと。
(9) αρχετυπον ψωδの訳語。原型の光、即ちイデアのこと。プロティノスの好んで用いを言葉。
(10) ここで「原型の光」とユングが呼んでいるものを、他の場所でかれは「原型そのもの」(アンジッヒ)といって
いる(『心理学の精神』四二八頁参照)。これは人間の意識を超越し、その「永遠の存在」は人間が認
めえないものとされている。その意味では、それは否定神学でいう「神性」(ゴットハイト)にたとえることができよ
う。この「原型そのもの」がなければ、人間の無意識の行為が、諸々の本能によって定められた行動
形式にのっとって、実現されえない。また、それがなければ、われわれの心的内容に秩序があたえら
れることもなく、象徴が生ずることもないであろう。人間が神をこころのうちで考えるときにさえ、
神の像や特色や、わけて宗派の教義などはこの「原型そのもの」を通してのみ生み出されるのである。
(11) テル・アビブはパレスチナの西部、ヤッファ港の郊外都市。もとはイスラエルの臨時首府であっ
た。ブーバーも晩年のひとときをこの地で送ったことがある。エーリッヒ・ノイマンは現代における
すぐれた心理学者でユングの弟子。ユングのいう原型の分析として女性の原型を取り扱った『巨母』
(一九五四年出版)は名著である。
(12) アプレイウスは二世紀中頃のラテン作家。その有名な作『変形譚』Metamorphoses は別名『黄
金の驢馬』De Asino Aureo と呼ばれ、その中心はある青年が魔術によって驢馬に変えられた話であ
るが、そこに色々な挿話がとり入れられ複雑な物語となっている。ノイマンはそのうちの一つ、クビ
ド(つまりアモル)とプシュヒェの挿話を取り上げ、それにユング流の心理学を応用して分析している。
(13) 「投影」とは一般的にいって主観的過程を外部の客体のなかに移し置くことである。その一例は
感情移入行為であろう。くわしくは巻末付録「ユングの術語解説」の項参照。
(14) 詩篇八八にはヨブ記や伝道の書に見られるような彼岸にたいする悲観的な観念が盛られている。
(15) cura animarum の原義は「魂を気づかうこと」で、キリスト教以前はソクラテスの主張の一つ
であった。キリスト教では信者を教え、導き、聖化する聖職者のつとめを司牧と言い、その職を牧職
という。司牧も牧職もいずれもこの語の訳語である。
(16) プレーローマ グノーシス派の人々によってその解釈は種々に分かれるが、大体においてかれら
は死せる質料とプレーローマ(神的火花)とが混合することによって世界が形成されると考え、また
それを指導するものをデーミウルゴス(創造者)と解した。
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