『対話の倫理』
(マルティン・ブーバー著、野口啓祐訳、創文社、1967年)より
「現代における神の沈黙」の第二部(後半のユングに関係する部分のみ)
当代一流の心理学者ユングは、ハイデッガーやサルトルと違って宗教を歴史的に、また伝記
的に眺めることによってそれを総括的に観察している。その際かれは、観察の対象として、わ
たしにいわせれば疑似宗教としかいえないようなものもたくさんに入れこんでいる。しかし、
それは一概に非難さるべきことではあるまい。ところで、わたしが疑似宗教と名づけたのは、
人間と向かい合って根源的なわれ−なんじの関係を結ぶことのできないような神――だれもそ
うした関係を体験したことも信じたこともないような神――を信じている宗教のことである。
さらにユングは、みずから心理学的領域と定めたところから一歩たりともそとには出ないと
公言しているが、これもまた、まことにもっともなことと思われる。
しかしながら、われわれはかれの心理学によっては、宗教と疑似宗教との間に実質的な区別
を立てることができない。それはたとえていうと、マックス・ウェーバーの考えたような社会
学では、モーセとヒットラーにあたえられた「カリスマ」の質的な差異をたてることができな
いのと同じである(41)。だが、われわれがユングを非難するのはそんな点ではない。かれが、上記
した公言にもかかわらず、心理学の境界を――特にその本質的な点において――堂々と踏み破
り、しかもそれについて一言の釈明をこころみようともしなければ、気づこうとさえしない点
にある。
もちろん、ユングは宗教上の問題を取り扱う場合にも正確な心理学的表現を用いており、こ
の点に欠けるところはない。そればかりでなく、ユングは自説がごく限られた専門的領域にお
いてのみ妥当することを繰り返し力説している。たとえば、かれは「啓示」ということを定義
して「人間の心の奥底をあかるみに出すこと」といっているが、そのあとですぐ「この定義は
なによりもまず心理学的な方法で述べたものであるから、われわれはこの定義から、啓示とは
それ以外のなにものでもないというような結論を下してはならない」と弁明これつとめている(42)。
そればかりでなく、ユングは「元来、心理学者は超越者についてのいかなる説明も避けなけれ
ばならない」と何度もいっている(43)。というのは、かれによると、この種の説明はいつも人間の
身のほどを知らない僭越な気持ちをあらわしているからである。もしも、神が人間の心の一つ
の状態であるとするならば、それはまさに可知的なものについての説明であって、不可知なも
のについての説明ではない。ところで、われわれは不可知なものについては――ここでかれは
上述した公式を一字一句違えずに繰り返していう――「いかなる結論も下してはならない」と、
上述したユングの言葉は、心理学の正しい立場を表現しているものといってよい。心理学も
また、他のすべての科学と同じように、注意しさえすれば客観的な基礎を持つ説明をすること
ができると考えてよいのである。
ところが、ユングが宗教を定義して「宗教とは、人問の意識によらず、意識の彼方にひそむ
暗黒な無意識の奥地(ヒンターグルント)から生ずる心的事象と自己との生ける関係である」というならば(44)、か
れはもはやみずから定めた心理学の限界を飛び越しているといわざるをえない。なぜなら、か
れはこの定義をなんの条件もつけないで主張しているし、また、この定義以外のいかなる主張
をも認めようとしないからである。
もしもユングのいうように、宗教がわれわれと心的事象との関係にすぎないならば――とい
うことはつまり、自分自身のうちの出来事にすぎないならば――結局宗教とは、時に応じてい
かに完全な姿を人間の心中にあらわすことがあろうとも、所詮は人間から超越して存在する本
質的絶対者との交わりではなくなってしまう。いや、もっと正確にいうならば、われ−なんじ
の関係は成立しなくなってしまう。ところが、このわれ−なんじの関係こそ、真の信仰心に燃
え立った人々があらゆる時代において自分たちの宗教を理解した、その仕方にほかならなかっ
たのである。かれらがわれをなんじのなかに神秘的に没入させようと心の底からのぞめばのぞ
むほど、われ−なんじの関係はいよいよ緊密に結ばれていったのである。
このように、宗教は本来神と人間との関係についての問題であって、神そのものについての
問題ではない。それなのに、ユングはこの事実を無視して神だけを対象として考えている。で
は、かれはいったい神そのものをどう考えているのであろうか。ユングを批判するためにはま
ずそれをしらべることが大切であろう。
ユングは神を称して「一種の自律的心理内容」だという(45)。ということはつまり、ユングは神
がわれわれの心理内容を生み出す母体たる真の本質的存在者ではなく、まさに心理内容そのも
のと考えているわけである。かれはいう。「もしも神が心理内容でないなら、神は事実上存在
しないことになる……。なぜなら、そうなると神がわれわれの生活に干渉する場所がなくなっ
てしまうから……」と。こうしたユングの神観にもとづくと、自律的心理内容でないものは、
たとえわれわれの心のうちに心理内容をもたらしたり、あるいはわれわれと交わりつつ、とも
にもたらすことに努めるものであっても、われわれの生活にくいこんでいないという理由のも
とに「実在しない」ことになってしまう。そういうかと思うと、ユングは別の箇所で「人間と
神との間の相互関係は欠くことができない」と主張する(46)。その意味はつまり人間を「神の心理
学的なはたらき」と見、また神を「人間の心理学的なはたらき」と見ることなのである。しか
し、わたしにいわせるなら、ここでユングは大まじめで神に心理や心理学的な性質を付け加え
ているが、「神の心理学的はたらき」ということは一体どういうことなのか、いくら考えても
わたしには理解できない。
さらに、「われわれの心理学にとって……神は無意識のはたらきである」というかれの定義
も、これまた心理学の枠からはみ出ている観がある。というのは、この定義は「神はそれ自身
において存在する」という「正統神学の考え方」(48)を裏返しにしたものにすぎないからである。
もっとも、こうした正統の考え方もユング流の心理学でいえば、「神のはたらきは自分の心の
深層における無意識から生ずる。われわれはそれに気づかないでいるだけなのだ」ということ
に帰してしまうであろうが……。
こうしてここであきらかになったことは、信仰深い人々が「神のもの」と信じている事柄は、
実は自分自身の心に生じた事柄にすぎないということである。では、一方においてこう主張し
ながら、他方においてユングがみずから「自分の神についての主張は『物それ自体は純粋に否
定的かつ極限的な概念』と説くカントの立場とほとんど同じである」(49)といっているのはどうい
うわけであろうか。われわれはこの矛盾した二つの主張をどう調和させたらよいのか、わたし
にはさっぱりわからない。なるほど、カントは「物それ自体」はいかなる範疇によっても認識
することができないといった(50)。その理由は「物それ自体」が現象ではなく、まさに人間の知る
ことのできないあるものとしか考えられないからである。しかしながら、たとえば、わたしの
家の窓の前に立っているもの、そして、わたしが「木」と呼んでいるその「現象」は、人間の
知ることのできないあるものとわたしとの出会いから生ずるのではなく、その木と内なるわた
しとの出会いから生ずるのである。カントはこのことをまったく知らなかった。
ユングはなにごとにつけても「超越的なもの」についての説明は避けるつもりだと述べてい
る。だが事実はその正反対で、かれは「神は絶対的状態においては存在しない」――換言する
と「人間という主体から独立し、人間的なすべての制約を越えては存在しない」という考えに
賛成だという(51)。これでは唯一絶対なる「神」――なんの冠詞も必要としない「神」――という
言葉が、そのすべての意味を失わないにしても、とにかく神は唯一の実存的な存在ではなくな
り、「多くの神々のうちの神」にすぎなくなってしまう。また、それと同時に唯一なる神が、
人間という主体から離れつつ交わりを結ぶという可能性も永遠に失われてしまうことになるの
である。
しかしその反面において、ユングの説からあきらかになったことが一つある。それは「神は
人間から離れては存在しない」ということである。これこそ、超越者というものの本質に関す
るただ一つの説明というべきであろう。神は人間を超越すると同時に人間から離れては存在し
ない。これが真の超越者の本質である。その特色は、神とはこれこれでないという否定的説明
と、その否定的説明を通じて神とはまさにこれこれであるという肯定的説明が同時に成立する
ところにある。その点はユングの説が真実の一面を正しく伝えているといえよう。しかしかれ
がいう「神的なものの相関性」とは、実は心理学的なものではなく形而上学的なものでなけれ
ばならない。このことは、たとえユングが「心理学的に体験しうるものには満足するが形而上
学的なものは断固拒否する」といかにいきまいたところで、あくまでも真実なのである(53)。
しかし、こういうと、ユングはおそらくつぎのように反発してくるだろう。事実かれはそう
いったことがあるのだ。「形而上学的な主張は、実は心的表現にすぎない。だから、それは心
理学の領域に属するものである」(54)と。なるほど、もしもわれわれが、すべての表現をその意味
や発言されたときの意図にもとづいて考えず、たんにその心的な起源にもとづいて考えるなら
ば、まさにすべての表現は心的現象ということができよう。だが、そうなるとかれのこの言葉
をまじめにとる限り、心理学の限界はいまやあってなきがごときものになってしまう。ところ
がユングはさらに別の箇所で、「心理学は形而上学的主張や信仰のあかしの世界に踏みこまな
いように自己の限界をきつく守らなければならない」といっている(55)。さあこうなると、心理学
こそまさにわれわれが認めることのできる唯一の形而上学ということになってしまうではない
か。これは論理の上からいってどうしてもそうならざるをえない結論である。しかし、この結
論はかれの日ごろの主張となんと矛盾していることであろう。なぜなら、それでは心理学は経
験科学であると同時に形而上学たらざるをえないからである。しかし、事実において心理学が
同時に両者の役を果たすことは絶対に不可能なのである。
ユングは人間のこころについてもこれと同じような考えをいだいている。かれはいう。「わ
れわれが持って生まれた神的な創造力から形而上学的主張を生みだすのはこころである。ここ
ろは形而上学的諸要素の間に区別をたてる。こころは形而上学的実在を制約する。いや、それ
ばかりではなくこころは形而上学的実在そのものとなるのである」(56)と。
ユングがこの文章で用いている「たてる」setzenという語は、はからずもかれの心理学の本
質を暴露しているといえるであろう。なぜならば、かれがこの語を選んだのは、理由のないこ
とではないからである。つまり、ユングの思想は、実は、カント以後の観念論を心理学に移し
かえたものにすぎないからである(57)。
ところで、こころといってもそれがフィヒテの説く「自我」(58)のように哲学的反省の所産であ
る場合には形而上学的思惟のうちにその場を占めることができるが、ユングのようにこころを
具体的な個人個人のこころ――あるいはもっと正確にいうならば、実存する人間の人格のうち
にひそむ心理的なもの――ととると(59)、こころの形而上学的な場を要求する資格はなくなってし
まう。ところがユングはまさにそのような場をこころのために要求しているのである。たとえ
ば、ユングは人間の行動のさまざまな類型を宿している「集合的無意識」(60)さえ、「類型的行動
形式」をゆずり受けた個人個人の心理を通してはじめて実現されるという(61)。これは具体的な個
人のこころに形而上学的な場をあたえようとするこころみでなくてなんであろうか。
いうまでもなく、真のこころはものを創造する力を持っている。そして、人類の根源的エネ
ルギーをことごとく集約したこの創造力は個人個人に備わったものである。ところで、わたし
にいわせるならば、こうした創造力をユングのように「持って生まれた神的な創造力」と呼ぶ
ことはどうも少々お高くとまりすぎており、またあまり正確ともいえないようである。なぜな
ら、人間のこころは、たとえこのような創造力を持っているにしても、それだけではいかなる
主張も――形而上学的な主張さえ――おこなうことができないからである。こころがなんらか
の主張をするためには、こころと真理とが真に出会い、互いに交わらなければならない。その
ときはじめて、こころはその真理を主張することができるのである。つまり、われわれのここ
ろのうちに真理との出会いがおこなわれ、またわれわれのこころがそれを実際に体験したとき
にようやく、真理はこころのなかで次第にはっきりとした形をとってくるのである。真理は、
われわれのこころと真理との出会い、そしてそれとの交わりによらなければけっしてあきらか
にならないのであって、それ以外にどんな説をひねり出そうと、それはへたなごまかしか、あ
るいは疑わしい考えにすぎないであろう。
われわれは実在する個人のこころを「形而上学的な意味で実在するこころ」と同一視しては
ならない。なぜなら、実在する個人のこころの本質的な生命は、それが認めようと認めまいと、
また相手が他の実在するこころであろうとあるまいと、とにかく他の実在者との出会いによっ
て生じたものだからである。そう考えなければ、われわれは個人のこころをライプニッツのモ
ナドのように考えるより仕方がなくなるであろう。周知のように、ライプニッツはモナドが互
いになんの交渉もなくまったく独自の世界を形づくっていると考えた結果、神の予定調和説を
打ち出さざるをえなくなった。が、ユングにすれば、こんな考え方は真っ向から反対しないわ
けにゆくまい。しかし、もしもかれがそれに反対しようとすると、かれは個人のこころのうちに
その姿をあらわすが、しかしそれ自身は心理学の対象たるそうした個人の経験的なこころの領
域を超越した「集合的なこころ」あるいは「唯一絶対なこころ」の存在を認めないわけにゆかな
くなる(62)。ところで、もしもわれわれがこのような形而上学を「たてる」とするならば、必然的に
それに即した十分な哲学的決定と哲学的基礎づけとが必要となるであろう。だが、そのような
ものは、わたしの知る限りにおいてユングの主張のどこにも見いだすことができないのである。
人間のこころについてのユングの考えは上記のような曖昧な点をいくつも含んでいるが、そ
の究極的な結果は宗教にたいするかれの本質的な態度にはっきりと見いだすことができる。た
とえば、読者は同じ主語を持つユングのつぎの文章を読まれるがよい。その第一は「現代の意
識は十九世紀の意識とちがって人間のこころに最大の期待を切に寄せている……」(63)、第二は「現
代の意識は信仰を嫌う。また、その結果として、信仰に基礎を置く宗教を嫌う……」(64)である。
ユングはかつて「わたしが人間より高いさまざまのカ――たとえば神のカ――を信じたりた
よったりすることにいくら反対しても、人々は自分のいうことに耳をかさない」(65)といって抗議
したことがある。ところが、いまではそれとうってかわって、現代の意識は自分とまったく同
じように信仰を嫌っているというのである。ユングによれば「現代の意識はいまや最大の期待
を人間のこころに切に寄せている」という。そしてそのうちに、人間のこころは諸々の宗教を
通じてその存在を信じこんできた神をも必要としなくなるだろう。なぜなら、神は、人間のこ
ころから超越して存在しながら、しかも確実に人間のこころのうちに宿り、そこにおいて自己
を啓示し、こころと交わり合うようになるからである。それとともに、現代の意識は神に向か
わずこころに向かい、こころこそ神的なものを宿すことができる唯一の領域であることを悟る
だろう。一言でいうならば、ユングは自分のあたらしい心理学が「けっしてたんなる世界観で
はなく、まさに一つの厳密なる科学である」(66)と説く反面、その心理学によって宗教を解釈する
だけでは満足せず、かれみずから現代でもその真理を誇ることのできる唯一の新宗教――つま
り「内在的な純粋心理の宗教」とでも名づけるべき宗教――の教祖となったわけである(67)。
かつてユングは、フロイト説では宗教体験を理解することができないと述べたことがある(68)。
この意見は正しい。ユング自身も長いあいだ宗教的体験の世界をさまよい、その深淵の恐ろし
さを身をもって感じてきた。そしてその結果、かれは以前のあらゆる心理学者をはるかにひき
はなしだ驚くべき結論に達した。それは、「人間の心が宗教的なものを体験するということは
まさに自分自身を体験することにほかならない」という結論であった(69)。これはユングが自説を
主張する際よく引き合いに出すあらゆる時代の神秘家の言葉に似てはいるが、しかし、われわ
れはユングとこれらの神秘家との間に二つの明瞭な区別のあることを銘記しておく必要がある
であろう。すなわち(一)、これらの神秘家がいう「こころ」とはこの世の喧燥から脱し、被造物
としての現存在の矛盾から逃れ、その結果、矛盾を超越して存在する神を把握する「こころ」、
あるいは自分のうちにおいて神の自由な御業を可能にするような「こころ」のことをいうので
ある。(二)、さらにかれらが理解する神秘的体験とは、この世の現実にはいりこむためにたえず
人間の心のうちに「生まれてくる」神と自分のこころとが実は一体であるということを感じ、
またみずから一体になるという体験のことをさしていうのである。
ところがユングは、この世の喧噪から人間を引き離すかわりに「意識」を人間の実存の深淵
から引き離して、それによって「個別化」(70)の過程をうち立てる。また自分自身と、存在する神
とを一体化するかわりに「自己」Selbstの観念をうち立てる。元来、「自己」とは、神秘的な
観念なのであるが(71)、ユングはもはや「自己」を純粋に神秘的な観念としては取り扱わない。む
しろ一種のグノーシス的な観念と考えるのである(72)。この事実は、ユング自身がグノーシス的傾
向を辿っていることをみずから示しているともいえよう。たとえば、上に引用した「現代の意
識は人間の心に最大の期待を切に寄せている」という部分のすぐあとで、かれはそれを説明し
「しかもそれは伝統的な既成のある一つの宗教に立ってのことではなく、グノーシス的な意味
でそうなのだ」と語っている(73)。もちろん、これはたんなるほのめかしかもしれない。しかし、
それでもわれわれは、ここにおいてユングがかれの学問生活の最初から辿ってきた特色ある一
定の傾向がついに実を結んだと見ることができるであろう。その萌芽はすでに、かれがまだ若
い時分に書き、印刷されはしたが市販されなかった作品(74)のうちに見いだされる。かれはそこで
まぎれもなく宗教的な言葉を用いてはっきりとグノーシス的な神――つまり善悪が互いに均衡
を保ちつつ結びついている神――の存在を認めている。この対立する善悪の結合が、万物をそ
のうちに含むといった全体的な形をとって、それ以来ユングの思想の中核にはいりこんできて
いるのである。この事実はわれわれがかれの「個体化」と「自己」の教えを考えるときにきわ
めて重要な意味を帯びることになるであろう。
さて、この問題についてユングがもっともかれらしい説明をこころみているのは曼陀羅分析
である。ユングによると、曼陀羅(76)は世界のさまざまな宗教文化――そのうちでも特に東洋の宗
教や中世初期のキリスト教――に見いだされるばかりでなく、神経症患者や精神障害者の絵に
も見いたされるという。ユングは、こうした曼陀羅が、いわゆる「集合的無意識」から生じ、
善悪のような対立の統一を示す全体性か、あるいは完全性の象徴であると解する(77)。つまりかれ
によれば、曼陀羅は、男女、善悪など互いに相反するものをその絶対的統一のうちに含んだ、
いわば「合一の象徴」であり、その中心部は「神聖なもの」が宿る場所として特に重要視され
ていたというのである。
ところが、現代の多くの曼陀羅には「その中心に神の痕跡などまったく存在していない」(78)。
これはすなわち、現代において曼陀羅を描く人々が「曼陀羅の中心はかれら自身のうちに存在
している」と考えているからであり、これを見ても「今日では一個の全体としての人間が神に
かわってその座を占めていることがわかる。かれらは自分自身を回復した」。ユングはそう主
張する(79)。そしてかれは古代インド人の教える通りに、この「神聖なもの」を象徴する中心的な
全体性をもって「自己」と名づけるのである(80)。
しかしそうはいっても、現代人の無意識の自己表現ともいえる曼陀羅の象徴は、自己が神の
座を奪ったことを示しているわけではない、とユングはいう(81)。つまり、かれが言いたいのは、
これから先はいままでのように人間の「自己」が当然占めるべき場所を神が横取りするような
ことはけっしてない、ということなのである。人間はもはや自己の外に自己の影をうつしてそ
れを神とあがめたり、またそれによって自分を神の位につけたりしようと望んだりはしない。
(ユングはここではこういっているけれども、後述するように別の箇所ではこれとは反対に
「人間が神となることこそ人間の目的である」と主張している)。これからの人間は超越神を
別に否定しはしない。むしろ神などはあってもなくても人間生活にとって関係のないものと考
えるであろう。かれらはもはや、認めることのできないものをむりに認め、絶対者などという
ありもしないものをあるようなふりをすることはしなくなるであろう。なぜなら、かれらは神
のかわりにこころ――というよりは「自己」を認めるからである。実際、「現代の意識」が忌
み嫌うのは神ではなく信仰である。神についての問題がどんなものであろうとも、とにかく現
代の意識にとって必要なことは、これ以上神への信仰とかかわりを持たないということなので
ある(82)。
しかし、われわれはユングのいう「現代の意識」を持った人間と現実に生活を営んでいる人
間とを同一視してはいけない。ユングのいうところによれば「人間は心理学的にいうと大体に
おいてまだ幼児の段階を出ていない。しかも、われわれはこの段階を一足飛びに飛びこすこと
はできない。たとえば、聖パウロは掟を克服したが、こうすることができたのは良心のかわり
にこころを置くことのできた人たちだけであり、その数はまったく限られていた」という(83)。ユ
ングはここで「良心」を社会や宗教上の掟を守る番人と解しているようである。しかし、元来
「良心」とは――その起源が神にあるにせよ社会にあるにせよ、あるいは良心をもって人間を
禽獣とわかつ大切な働きと考えるにせよ――とにかくひとのこころのうちに置かれた「法廷」
とみなすべきものである。われわれがいままでおこなってきたあらゆる行為、あるいはこれか
ら将来にわたっておこなおうとするすべての行為は、良心という法廷において善悪を決定され
る。そして、そこで悪と決まった行為には罰が加えられるのである。
ところで、こうした意味での「良心」はユングのいうようにたんに伝統的な掟を守るために
のみあるのではない。(このことはその掟の起源が神にあっても社会にあっても同じことであ
る。)良心にはそれ以外にもっと大事な役目がある。それはひとにその天職や使命を示す役目
である。たとえば、自分が「するように求められている」と感じたことを怠ったひとや、たし
かに自分の「天職」と思うようになった仕事を忠実に果たさなかったひとならば「良心の呵責」
とはどういうことかよく知っているはずである(84)。
ユングも天職については「天職 Bestimmung を持つものは、おのれの心の底の声 Stimme
を聞くものである」といういかにも立派な説明をしている(85)。ところが、ここでユングのいう
「声」とは、実は「悪と思えるものにわれわれを近づけさせたり、また悪に『多少なりと』従
わせたりするもの」にすぎない(86)。しかし、わたしの考えによれば、およそ自分の天職を知るも
のは、ときにはそんな声とはまったく違った声を聞くはずである。その声は、「そうなれ」と
絶対者から呼びかけられた状態と自分の現実の状態とがあまりにも違っていることについて自
分自身を責めないではいられない声――つまりまさに良心の声である。わたしはこの点で、ユ
ングのいう「内心の声」とはっきり違った考え方をしているのである。違っているといえばそ
ればかりでない。わたしは「すべての人々は神からなにごとかをなすように呼びかけられてい
るにもかかわらず、概してかれらは巧みにそれを避けておこなおうとしない」と考えているが、
この点でもユングの思想とまったく相違しているのである。
しかし、わたしは自説を主張するまえにもう一度「われわれを方向づけ、またその方向を変
えないようにする良心――悪にたいして訴えをおこし、これを裁く良心――のはたらきを否定
し、そのかわりにこころのはたらきを押し立てる」ユングの主張がなにを意味するか考えてみ
たいと思う。ユングの主張は、かれの思考方法のあとを辿ってゆくと、どうしてもかれ自身い
っているように「グノーシス的な意味」にしか解釈できない。実際、かれのいうようにこころ
が「自己」のうちに含まれ、それと同時に善悪のようにまったく相反した性質のものがことご
とくこころのうちに統一されてしまうならば、善悪を区別したり決定したりする法廷としての
良心がいらなくなることはいうまでもない。それどころか、こころは良心のかわりに善悪その
他さまざまの原理の調和をはかり、一致をもたらし、均衡を保たせるなど、さまざまなはたら
きをすることができるようになるであろう。ユングはこのこころの歩む「道」を刃物の刃にた
とえて「せまく、けわしい」(87)といっているが、それは正しい。しかし、かれはこの「道」につ
いていままでほとんどなんの説明もしてこなかったし、またかれがそれを説明したとしても、
それが正しい説明になるとは思えない。というのは、その問題をユング流に論ずると、必然的
に悪の積極的なはたらきを是認することになってしまうからである。
ユングは別の場所で「霊的な人問の誕生」die Geburt des pneumatischen Menschen に必要
な条件について、それよりやや具体的に語っている(88)。それによると、「霊的な人間とは、本能
の命ずることを聡明に実現し、それによって、われわれをこの世に閉じこめているさまざまな
欲望や野心や情熱から解き放たれたひとである」という。なぜならば、「自分の本能の命ずる
通りに生きることのできるものこそ、本能から脱しうるもの」だからである(89)。ユングはこうし
て、「老荘の教え」を勝手に解釈しているが、しかし、老子も荘子も実際にそんなことを説い
てはいない。こうした考えが実はある種のグノーシス的な人々から出ていることは、周知の通
りである(90)。
ユングはプシュヒェ(精神)(91)の特色ある発展過程を「個体化」と呼んでいる。それは個人の
無意識――いや、なによりもまず原型的・集合的無意識の内容を意識のうちに包みこみ、それ
によって「あたらしくて完全な形態」を生み出すことである。ユングはこのあたらしい形態を
名づけて「自己」(ゼルプスト)という。
だが、われわれはユング説をもっとはっきりと理解するために、先を急がずにちょっと一休
みすることにしよう。いったいユングは「自己」の本質をどのように考えているのであろうか。
かれは「自己」とはたんに「自分ばかりでなく他人をもふくんだもの」であり、また「個体化
とは外界を排除せず、むしろそれを包含する過程」と考えているようである(92)。そこで問題とな
るのは、正確にいってこの主張がどのような意味で正しく、またどのような意味で間違ってい
るかということである。
なるほど、ユングは人格形成に他人が含まれることは「比較的まれな出来事」(93)ではあっても
まったくないわけではないという。しかし、ユングにおける他人は、あくまで個人の心的内容
として存在するだけであるし、また他人を含んだ心的内容が個体化によって完成の域に達した
ところで、それが個人のこころであることにかわりはない。
ところが、現実においてわたしが出会う本当の他人とは、わたしのこころとはまったく別の
こころを持った他人である。わたしのこころはどんなことをしたところでそのひとのこころに
なることができない。さらに、わたしのこころは他人のこころを自分のうちに包みこもうとは
しないし、またそうすることもできない。それにもかかわらず、わたしのこころはもっとも現
実的な出会いによって他人のこころと結びつくのである。たとえ自己がいかに完成の域に達し
ようとも、他人は依然としてわたしと向き合って存在している。たがら、わたしがユングのい
う「個体化」によって無意識の世界のすべてを自己のうちに包みこんでしまっても、わたしは
相変わらず自分自身のうちに閉じこもった単一なる自己にすぎないのである。
わたしと向き合っていたものを、わたしが「自己」のうちに「包みこんでしまった」ときに
は、他人はすべてわたしのもの――つまりそれ――になってしまう。わたしと向き合っている
ものをなんとかして自分のものにしてしまおうとか、こころの一部分にしてしまおうとかする
気持ちをわたしが捨てなければ他人は本当にわれにたいするなんじとはならないのである。こ
のことはたんに人間と人間の関係についていえるばかりではなく、人間と神との関係について
もいえるであろう。
もちろん、これは、ユングが主張しているような「自己」実現の目的に達する道とは違う。
しかし、そうかといってそれは自己を否定する道ではない。むしろ、自己と存在者とが出会っ
て純粋な交わりを結ぶ道――存在者と完全にそして直接的にわれ−なんじの関係を結ぶ道であ
る。つまりそれは現実をわれわれのこころにおびき入れる道ではなく、こころが現実へと踏み
出てゆく道なのである。ところが、ユングが考えたのはこれとは反対に、現実の中心を「自
己」へ移しかえることによってわれわれと存在者との関係を断ってしまう道なのである。
ユングはかれの「自己」の考えをマイスター・エックハルトの考えと同じだと称している(94)。
だが、これはとんだ間違いである。なるほど、エックハルトはこころについて、「人間のここ
ろは神と同じように自由だ」と教えてはいる。しかし、こころと神とが違う点は、前者が創ら
れたものなのに反して、後者が創っても創られないものだという点にある。エックハルトは神
と人間のこころがいかに近い関係にあるかを強調しても、いつも両者の間にこれだけの区別を
立てることを忘れなかった。
ユングは「個体化」の目的たる「自己」の実現を「こころのうちでの相反する二つのものの
婚姻的な結合」と考える(95)。ということはつまり、上述したように、人間のこころが悪を包含す
るということを意味している(96)。なぜなら、もしもこころが、悪を包含しないならば、かれが教
えるような意味での全体性は存在しないからである。「個体化」は悪をみずからのうちに包含
することによって「自己」というものの完全な原型を実現することになる。キリスト教ではキ
リストとアンティ・クリスト――あるいは光明と暗黒――というように善と悪が分裂している
が、ユングの場合にはそれらのものがいずれも「自己」のうちに統一されてしまっている。
このように、ユングの主張する「自己」は純粋な全体であり、従ってそれは神の像と区別し
て考えることができないものである。実際、ユングの場合、「自己」の実現は「神の受肉」と
言い換えてもよいであろう。自分自身のうちに善悪をともに有する神――その相反する性質を
アニマ.アニムス(97)の関係にあきらかにしているこの神――は、まさにグノーシスが繰り返し主
張してきた神の姿であり(98)、その起源をさかのぼってゆくならば、光と闇の神々を生みだした古
代ペルシアのズルワン神(99)にまで達することができるであろう。(ただし、わたしの知る限りで
は、ユングはその数多くの宗教史に関する書物で、この神の名前には一度も触れたことがない
ように思われる。)
ユングはこうした根本的にグノーシス的な立場から、ユダヤ教やキリスト教の神観に手直し
を加えた。元来、旧約聖書に出てくるサタンとは「妨害者」のことで、実は神に仕えるものに
すぎない。いや、そういうよりはむしろ、神は人間を誘惑し、それから苦悩と絶望とを通じて
人間の極限的な決断力をさそい出そうとみずからサタンの形をとってあらわれた、といった方
がよいかもしれない(100)。ところが、ユングは旧約聖書のこの神から半悪魔的なデーミウルゴス(101)が
生じたと主張し、そして「神はサタンを生んで天地創造をやりそこなったその『罪』をあがな
うために祭式にのっとって殺されなければならない」という。つまり、「キリストが十字架に
かけられたのはそのためだ」というのである。(わたしはここでユングが一九四○年におこな
った講演をそっくりそのまま引用することにした。というのは、そんな言葉は、かれが引いて
きたというどんなグノーシス派の文献にも見当たらないからである)こうしてユングは三位一
体の神にさらにデーミウルゴスを加えて四位一体の神をつくり出した(103)。
ところで、これらのことはユングの主張によると(104)「人間の心理的事象の投影」にすぎない。
言い換えれば「それらは人間の精神的産物にすぎない。だから、われわれはそれらに形而上学
的な妥当性があるなどと誇ってはいけない」ということになる。しかし、とにかくかれによれ
ば(105)、自己はすべての一神論的体系の原型をなすものであり、その自己を一皮むけばグノーシス
がひそんでいることになる。
ところが心理的事象における形而上学的妥当性を否定したはずのユングは、「自己」を「人間
のうちに宿る神の似姿 imago Dei in homie と考え、それについてつぎのようにいう。「人
間のこころはそのうちに神の本質に通ずるなにものかを宿さなければならない」(103)と。わたしが
知る限りでは、かれがこれと同じようなことを公言したことはあとにも先にもこのときだけだ
ったように思われるが、それはともかく、ユングが善悪を包含する「自己」を押し立て、これ
をあらたな「神の受肉」としてこの世の王座につかせたことは疑いのない事実である。かれは
いう。「自立的な存在としての神の観念がもはや投影されていない場合、そこになにが起こる
だろうかという疑問をわれわれがいだいたとするならば、無意識の魂はつぎのように答えるだ
ろう。『無議はその場合、神格化された人間、あるいは神的な人問をつくる』(107)と」。キリスト
とサタンとを同時に包みこんだ(108)、ユングのいう「自己」こそ、かれがかつて公言したように
「神と人間とは同一である」(109)ことを示すためにこの世に下ったあのグノーシス的な神の究極的
な姿なのである。かれはこの神を信仰しつづけてきた。そして、繰りかえしその神の出現する
日が近いことをほのめかしてきたのである(110)。
以上であきらかなように、ユングの宗教心理学は、まさに「来たるべき神はグノーシス的な
神である」ことを宣言する教えにほかならない。二ーチュは「死せり、すべての神々は。され
ば、われらは望む、超人よ生きよ」と力強く叫んだ。ハイデッガーは、ニーチェのこの警告に
たいして、ちよっとかれらしからぬ調子でつぎのような付けたしをしている(111)。「人間の本質は
いかにしても神の本質的領域には及びえない。だから、人間が神の位につくということなどけ
っしてありえない。しかしながら、この不可能事にくらべれば、はるかに不気味なことが起こ
りうるのである。われわれはその本質をいまようやく考え始めたところである。形而上学的に
いって、神にふさわしい位とは、存在者を被造物として創造的に生み出し、またそれを維持す
る活動の場所であるといえよう。この神の位は空っぽのままのことがある。そんなときには、
そのかわりに、形而上学的にそれに対応するもう一つの場所が口を開く。この場所は神の本質
の領域とも人間の本質の領域とも同じではないけれども、それにしても人間はそれと卓越した
関係を結ぶことができるのである。超人は神の位につくのではない。そんなことがあるはずが
ない。そうではなく、超人の意志が到達する位は、被造物と存在を異にする存在者を、神と異
なる仕方で基礎づける活動の領域なのである」と。
われわれはハイデッガーのこの言葉にしっかりと耳を傾けなければならない。なぜなら、わ
れわれはこの言葉が言いあらわしている事柄や、ほのめかしている事柄が、今日この世におい
て真実であるかないか、われわれ自身ではっきり判断を下さなければならないからである。
訳註
原書は第二部ユング批判のところで脚註番号をまた(1)から始めているが、この註は本文のうし
ろにつけた関係から読者にまぎらわしくないように第一部、第二部とも通し番号にした。なお、*印
は訳註を示す。
*(41) もっともウェーバーの学説にとっては、モーセもヒットラーも客観的類型的に取り扱う必要があ
ったからそれは当然のことであった。ウェーバーの著書『経済と社会』によれば(第三部第一篇三章
二節以下参照)ウェーバーは権威の類型を伝統的権威の類型(たとえば血縁による世襲的王位継承の
如き)と、これを突き破る個人的特殊性と超人的能力に恵まれた革命的人物の類型、そしてそのあと
に形成される合理的権威の類型(たとえば官僚社会等)の三つに分けている。元来「カリスマ」は聖
書でいう「霊のたまもの」のことであるが、ここでは「超人的能力」というほどの意味で用いられ、
こうした能力に恵まれた人間を類型的に見れば、モーセもヒットラーも大差ないということ。
(42) 『心理学と宗教』一九三七年における大学の講義をまとめ一九四二年に出版、二二三頁参照。
(43) ヴィルヘルム訳『黄金の花の秘密』、一九二九年、七三頁参照。(同書はシナの人生の書、ユング
がアビドルンゲンと共に解釈を加えている。――訳者)
(44) ユングーケレニイ『神話学叙説』、一九四一年、一○九頁参照。
(45) 『自我と無意識との諸関係』一九二八年、二○五頁参照。(ここで「自律的」という意味は、わ
れわれの意識から独立し、意識と無意識の間にあってわれわれの意識に一種の威力を発揮するものの
ことである。たとえば芸術におけるインスピレイション、宗教の告知など――訳者)
(46) 『心理学的類型』一九二一年、三四○頁参照。
(47) 同書、三四頁参照。
(48) 同書、三四一頁参照。
(49) 『黄金の花の秘密』二二五頁参照。
*(50) カント『プロレゴメナ』一七八三年あるいは『純粋理性批判』一七八七年参照。
(51) 『心理学的類型』三四○頁参照。
*(52) 繰り返しいうように宗教は神の絶対的な人格と人間の人格との一分のすきもないわれ−なんじの
交わりによって成立する。また、それによって自分と他人との真の人格的な交わりも成立する。 「多
くの神々のうちの神」と人間とではわれ−なんじの交わりをむすぶことができない。
(53) 『黄金の花の秘密』七三頁参照。
(54) 『チベットの死者の書』、一九三六年、一八頁参照。(本書はラマ僧カジ・ダワ・サムドヅプが英
語で述べたもので、W・Y・エヴァンツ・ヴェンツにより独訳され、それにユングが心理学的な註解
をつけたもの――訳者)
(55) 『心理学と錬金術』、一九四四年、二八頁参照。
(56) 『チベットの死者の書』一九頁参照。
(57) フリースやベネケのように心理学の基礎を形而上学に置こうとした前世紀の哲学者たちにさえ、
これと類似した表現は見いだすことができない。(ヤーコプ・フリース、一七七三―一八四三及びフ
リードリヒ.ベネケ、一七九八―一八五四はいずれもカント哲学を心理主義的に解釈し、先天的認識
形式を後天的に内面的経験をもって基礎づけようとしたドイツの哲学者。――訳者)
*(58) フィヒテの主観的観念論においては自己がすべてである。かれの師カントは、一方において自我
を実践的自我として外界の主としたが、他方においては理論的自我としてこれを外界に従属せしめた。
これにたいし、フィヒテは「本源的に存在する実体はただ一つ自我だけ、つまり意志あるいは自発性
だけである」と説いてカントの二元論を脱した。つまりかれはカント哲学の一面を極限にまで及ぼし
て「存在するものはすべて自我である」という立場に立ったのである。しかし、この場合の自我とは
観念論的な意味においての普遍的自我であって、ユングのような心理学的領域における自我ではまっ
たくない。
(59) 『心理学の精神』(ヨーロッパ評論一九四六年)、四六〇頁以下参照。
*(60) ユングは人間の個人の無意識のほかに、超個人的内容を持つ集合的無意識の存在することを主張
してつぎのようにいう。「個人の無意識のほかに、個人では得ることのできない心理内容がある。こ
れは遺伝された心的機能の可能性、すなわち脳の構造そのものに由来する。これらの心理内容は神話
学上の事柄と関連のあるもの、換言すればいかなる時代や環境においても発生する心象である。これ
を集合的無意識という」。さらに、こうした集合的無意識を構成するものについてユングはつぎのよ
うにいう。「それを構成するものは本能と原型である。各人は本能と共に原型を持つ。原型とは人間
に共通な原始的心象であり、またものを理解するときの典型的な形式である。また、それにもとづい
て各人は類型的行動をとる」と。つまり、ユングによると、人間の脳の構造は洋の東西を問わず大体
において同様だから、その考え方も類似してこなければならない。そこに、個人の特殊な無意識のほ
かに集合的無意識の存在する余地があり、各国、各時代における魔力、鬼神、幽霊、妖精、呪いなど
の観念の類似しているのを見れば、集合的無意識を構成する要素として原型のあることがわかるとい
うのである。ユングが『リビドーの変化と象徴』一九二一年の中で神話をあたらしく解釈しようとし
たのも、ひとの心理に伝わっている原型をあきらかにし、そこから個人の間の類型的行動形式を探ろ
うとしたためにほかならない。二五九頁参照。
(61) 『現代人の魂の問題』、一九三一年、四一七頁参照。
*(62) 真の自己は他者と交わりを結んだときにはじめて出現する。この関係が消滅したとき、真の自己
も消滅する。こうして自己の本質的生命が維持されるのは他者のこころであれなんであれ、とにかく
出会いによるのである。さもなければ、われわれはこころをライプニッツのモナドのように考えなけ
れぱならないだろうとブーバーは考える。ところが、こころとこころの交わりを認めず、そして神の
存在も一種の心理内容にすぎないと説くユングの立場によると、ごころをモナドのように互いに通じ
あう窓を持たない単子ととるか、さもなければ心理学が対象とする実際の人間のこころ以外にそれを
超越した形而上学的なこころ一般を考えなければならない。しかし、そうなると、そのいずれもユン
グ自身の主張に矛盾することになる。「予定調和」とは、互いに何の関係もないモナドが相互に調和
をたもつには、あらかじめ神によって調和をたもつよう定められているというライプニッツの考え。
(63) 『現代人の魂の問題』四一八頁参照。
(64) 『黄金の花の秘密』七三頁。
(65) 前掲『現代人の魂の問題』の引用文中、前半の「現代人は知りたい――つまり根源的経験をえた
い――と思っている」と同書八三頁「われわれ現代人は精神について再び体験するよう――つまり根
源的経験をなすようしむけられている」との文章を比較されたい。
(66) 同書、三二七頁参照。
(67) 同書、三二七頁参照。
(68) 同書、七七頁参照。
(69) 同書、七三頁参照。
*(70) ユングの心理学におけるもっとも基本的観念の一つ。個体化あるいは個別化とは「自己をあたら
しく生み出すこと」、「自己に到達すること」、「自己実現」ということである。ユングによれば、無意
識の過程と意識の過程は互いに相手を補い合うような関係にある。そして、両者が合して一つの全体
を構成する。これが「自己」である。自己は意識と無意識との合成によって生ずる。この合成の過程が
個体化である。但し、ユングはこの自己をもって「一方においては単一なものであるが・他方では極
めて集合的であり、個人の意識と無意識と、さらに限りなく広い人類共通の古代類型を内容とする集
合的無意識とを包むもの」と考えた。そして、人間を人格的精神よりは集合的無意識に集中させてゆ
くあまり、「人間」を中心とした心理学というより「心理」を中心とした人間学を説くようになった。
ブーバーがこの論文で痛切に批判しているのもその点なのである。二五二頁参照。
*(71) ユングはエゴと自己とを区別する。エゴは意識の主体であるが、自己は心理全体の主体である。
つまり自己の中にエゴを主体とする意識と無意識とが含まれていると見る。ブーバーにとって自己は
人格と関係を持つが個性と関係しない。個性とはわれがそれと対立したとき生ずる観念で、「われは
これこれの点で他人と違ったものである」ということを意味するのに反して、自己は「われはある」
ということ――つまり、われはなんじとの交わりによって真に本質的な人格のすべてを実存的にさら
け出すことを意味する。この場合、自己はあらゆる因果律から解放されて真の自由をえる。この意味
において、ブーバーにおける「自己」の観念は「神秘的」である。ブーバー『孤独と愛』第一章参照。
*(72) ユダヤ教にとって最も恐ろしいグノーシスはまずバビロニアの占星術、さらにはその影響を受け
て世界精神は宇宙構造のうちにひそむと考えるペルシアの宇宙観に含まれていた。ユングのいう「グ
ノーシス」もキリスト教その他の宗教に見られるこのような一種の内在論的な考えをさす。かれはい
う。「わたしが心理学にたいする関心というとき、それは学問としての心理学ばかりでなく、一般に交
霊術、占星術、神智学等々、およそ心理現象にならなんにでも示された関心をさす。こんなことは現
代をのぞいては十六世紀の終わりか十七世紀以来絶えてないことであった。これに比較しうるのは一、
二世紀頃のキリスト教グノーシス派の隆盛期ぐらいのものであろう。そして現代精神の諸潮流はこの
グノーシス派と極めて密接な関係がある。……グノーシス派の出発点となっているのは、もっぱら人
間のこころの裏面現象であり、この場合、人間のこころの深層も道徳的考察の対象とされる」。『現代
人の魂の問題』一四〇頁参照。
(73) 『現代人の魂の問題』一四七頁参照。
*(74) 「ブーバーへの返事」にユングが「若気のあやまち」と書いている詩のこと。名づけて『死につ
いての七つの説教』という。但しブーバーはそれを『アブラクサス』といっている。二〇二頁参照。
(75) 『エゴと無意識の関係について』二〇三頁参照。
*(76) 曼陀羅は神の性質を哲学的に説明するため、または礼拝の日的で神を可視的な象徴としてあらわ
したもの。ヨガでは修行のためのヤントラ(手段の意味)としての役割も果たした。また仏教ではブ
ッダの悟った菩提の境地を図画にあらわしたものをいう。その図において四方にのびた腕は四原素を
あらわし、中心の正方形の大地とともに完全性と結合とを表現している。なお、そのようにして見れ
ば、十字架も宇宙の真ん中にあって四方に腕をのばしている場合には天国と地獄の間の境界石として
の意味を持っているとユングはJ・クロルの書『神と地獄』(一九三二年出版)を引用していってい
る。『心理学と宗教』第三章参照。本書二五三頁参照。
(77) 『心理学と宗教』二〇三頁参照。
(78) 同書、二〇四頁参照。
(79) 同書、二〇五頁参照。
*(80) ユングは梵我一如を主張するヴェーダ文学の一つ、ウパニシャッドの哲学をもって「神々と人間
の相対性」と「神々が人間へ移行する」心理学を前提としたものと考え、梵我一如の絶対的境地に達
したものをもってかれのいわゆる「自己」とみなすのである。本書二五六頁参照。
(81) 『心理学と宗教』二〇五頁参照。
(82) 同書、二〇七頁参照。
(83) 同書、二〇三頁参照。
(84) 『魂の現実性について』、一九三四年出版中「人格の形成について」(一九三二年)、一九七頁以
不参照。
(85) 同書、三〇二頁参照。
*(86) このひとをちよっと驚かすようなユングの考えはブーバーの引用符こそないが実際のユングの言
葉である。「内部の声がわれわれにもたらすものは、善からぬもの、悪しきものであるのが普通だ。
その理由は、なによりもまず、人間は概して悪に悩んでも善には悩まないからである」、あるいは「内
なる声の性格は明確な意味において悪魔的である」とかれはいう(『人格の形成について』参照。)但
し、これにはユングなりの解釈がひそんでいるのである。それは(1)内なる声が意識にもたらす悪はた
とえ個人的な形をとっても実は集合的(民族的)なものである。(2)この悪があってはじめて、われわ
れは自我を確立することができ、自己意識を主張をすることによって集合的無意識の完全な奴隷とな
ることからまぬがれることができるようになる。(3)つまり、内なる声は人間を最後の道徳的決定の場
に立たせ、その決定によって人間に意識あるいはこころをえさせる。だから、内心の声はつまりは最
善のものと最悪のもの、真実なものと虚偽なものとが入りまじっているといえるのである。だから、
同じ「内心の声」といってもブーバーとユングの場合ではそれを見る立場が根本的に違っていること
がわかる。
(87) 『エゴと無意識との関係』二〇五頁参照。
(88) 『黄金の花の秘密』六一頁参照。
(89) 『同書』六二頁参照。
(90) 『心理学と宗教』二二九頁以下参照。
*(91) プシュヒェとはユングによると意識的なものと無意識的なものとを含めたあらゆる心的過程の総
体をさす。「精神」と訳すがそこに哲学的な意味はない。つまりそこには中心的古代類型の一切が含
まれており、それが個体化されるとそこに「自己」が生ずるのである。それは単一的であると同時に
汎心理的であり、それ故にまた没人格的欠点を持つ。そのことについては、本章訳註(70)ですでに
触れた。なお、ユング自身のプシュヒェについての考えは次章においてあきらかに述べられている。
(92) 『心理学の精神』四七七頁参照。
(93) 同書、四七四頁。
(94) マイスター・エックハルトはいう「自由にして創られないものは神だけである。この自由という
点では神は人間の魂と似ている。しかし、魂は被造物だから創られないという点では神と魂とはこと
なる」。説教集第五巻、三頁以下参照。
(95) 『自己について』、「ヨーロッパ評論」一九四八年、三一五頁参照。
(96) 『精神の象徴』、一九四八年、三八五頁参照。
*(97) アニマは男性のうちに無意識にひそむ女性的人格、アニムスは女性に無意識にひそむ、その本性
と対立する男性的人格をさす。いずれもユングの用語。例えば、窮地に立つ夫をはげまして更生の方
向に立ち向かわせる男まさりの妻のことを「糟糠之妻」というようなのがそれに当たる。いずれの言
葉も「無意識全体のなかに見出される人格」というか、あるいは「人格化された無意識」というよう
なことをあらわしている言葉である。
(98) 『精神の象徴』、四一〇頁参照。
*(99) 北部ペルシアにおける無隈の時間の神。これについてはブーバー著.拙訳『人間、悪について』(南
窓社版)第二篇第二章参照。
*(100) この点についても『人間悪について』第一篇参照。
*(101) キリスト教グノーシス派はネオ・プラトニズムの影響から世界の形成者としてデーミウルゴスを
認めたが、最高神とは考えなかった。のち二元論的なかれらはこれを旧約の神、物質の霊ないし悪神
とみなし、神意に反するためやがてキリストによって滅ぼされるべきものとなした。
(102) 『ミサにおける聖変化の象徴』、「ヨーロッバ評論」一九四〇―四一年、五一頁参照。
*(103) 『三位一体の観念の心理学について』、ヨーロッパ評論一九四〇―四一年、五一頁以下参照。ユ
ングはいう。四という数によって表現される象徴の中に悪魔を加えることは現代になってはじめて考
えられたことではなく、すでに十六世紀における自然哲学者ゲラルドゥス・ドルネーウスなどの考え
たことである。悪魔は自主的な人格と自由と永遠性とを神と同等にそなえている。だから、悪魔は神
にさからっても存在してゆくことができる。ところが、正統のキリスト教のいう三位一体説では、こ
の悪魔の占めるべき位置が明確にされていない。従って、たとえ正統のキリスト教は意識的に「四
位」を否定しても、現代人は三位一体のうちにはすでに第四の部分も同化されていること、また四と
いう数を中心とする象徴には「自然の声」がはっきり聞こえること、などの理由から、教義としてで
はなく、投影つまり自分の主観的内容を客体に同化せしめる心理の必然的な作用にもとづきこの事実
を卒直に認めるべきだというのである。なお『心理学と宗教』あるいは本書二五四頁参照。
(104) 『精神の象徴』四三九頁参照。
(105) 同書、四一七頁参照。
(106) 『心理学と錬金術』二二頁以下参照。
(107) 『心理学と宗教』一七二頁参照。
(108) 『精神の象徴』四〇九頁参照。
(109) 同書、一一一頁参照。
(110) 同書、一七五頁以下参照。
(111) 『森の道』二三五頁参照。この引用とつぎのユングの言葉とを比較れたい。「神の座が空位と
なっている期間というものは、一触即発の危機をはらんでいる」(『心理学と宗教』中「ある自然的事
象の歴史とその心理的構造」)これは本文とほとんど反対のことを意味している。
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