C・G・ユングと石

みなさんはC・G・ユングという深層心理学者のことをご存じでしょうか?
彼が亡くなってすでに40年以上が過ぎていますが、いまだに心理療法の世界に大きな影響を与えている深層心理学の創始者のひとりです。
私が心から尊敬している人物でもあります。
ユングの死後刊行された自伝の中に彼と石とのイマジナルなエピソードがいくつか見られます。ユングが石とどのように関わっていたのかをピックアップして紹介してみます。
石好きの人なら、ユングのことにきっと共感できると思います。
もしこの引用からユングに興味を持っていただけたら望外の喜びです。(^^)
なお、文中の『自伝1』とは『ユング自伝1』(アニエラ・ヤッフェ編、河合隼雄他訳、みすず書房)、『自伝2』とは『ユング自伝2』(同)のことです。



幼年時代1 7歳から9歳頃 (『自伝1』 p.39-40より)

この壁(引用者註.ユングの生家の庭にある石で建てられた壁のこと)の前に、突き出た石――それは私の石だったが――の埋まった坂があった。一人の時、しばしば私は石の上にすわって、次のような想像の遊びをはじめた。「私はこの石の上にすわっている。そして石は私の下にある。」けれども石もまた「私だ」といい得、次のように考えることもできた。「私はここでこの坂に横たわり、彼は私の上にすわっている」と。そこで問いが生じてくる。「私はいったい、石の上にすわっている人なのか、あるいは、私が石でその上に彼がすわっているのか。」 この問いは常に私を悩ませた。そしていったい誰が何なのかといぶかしく思いながら立ち上がったものだった。答えは全くはっきりせずじまいで、私の不確かさは好奇な魅惑的な闇の感じに伴われることになった。けれどもこの石が私にとってある秘密の関係に立っていることは全く疑う余地がなかった。私は自分に課せられた謎に魅せられて、数時間もの間その上にすわっていることもできたのである。・・・・私はあの瞬間を決して忘れてはいない。というのも、それが、電光のひらめきの中で私の子どものころの永遠の性質に光をなげかけたからである。



幼年時代2 10歳 (『自伝1』 p.40-41より)

当時私は小学校の生徒がみんな使っていた小さな鍵と、定規付きの黄色い、ニスを塗った筆箱をもっていた。この定規の端に私はフロックコートを着て背の高い帽子をかぶりぴかぴかの黒い長靴をはいた長さ約二インチの小さな人形を刻み、インクで黒く塗り、のこぎりで切り離し、筆箱に入れていた。筆箱の中にはこの人形のためにベッドを作り、布切れで上衣まで作ってやった。私はまたライン川からとってきたつるつるした長い楕円形の黒っぽい石を筆箱の中に入れ、上半分と下半分とを絵具で塗りわけ、ずっと長いことズボンのポケットに入れて持ち歩いていた。これはあの人形の石だった。これらすべてが偉大な秘密だったのである。私は筆箱を家のてっぺんにある屋根裏部屋へ秘かにもってゆき(床板が虫にくわれ、腐っていたので、屋根裏部屋へ上るのはとめられていたのであるが)、屋根の下の梁の上に満足しきって隠した。なぜなら誰もそれを決してみてはならないからである。たましいでさえそれがそこにあるのを決してみつけることはないだろうということが私にはわかっていた。誰も私の秘密を見つけだして壊すことはできなかったのである。私は安全だと感じ、私自身と争っているという苦しい感じはすぎ去った。あらゆる困難な状況にでくわした時、すなわち私が何か悪いことをしたとか私の感情が傷つけられた時、あるいは父のいらいらや母の病弱が私を憂うつにした時などに、私は注意深く寝かされくるまれた人形と、そのすべすべしたきれいに色を塗られた石のことを考えた。幾度となくしばしば数週間の間隔で私は誰にもみつからないことを確かめた上で、秘かに屋根裏部屋へしのび上り、梁によじ登って筆箱をあけ、私の人形とその石とを見た。こうするたびに、私は筆箱の中に前もって授業時間中に自分で作り出した秘密の言葉で何かかいておいた巻紙を入れていった。新しい巻紙を加えていくのは、厳粛な儀式的行為の性格を帯びていた。不幸にも私は何を人形に伝えたかったのかよく覚えていない。ただ私の手紙が人形にとって一種の図書館となっていたことがわかっているだけである。



学童時代 12歳 (『自伝1』 p.70より)

後になって母は私に、そのころ私がしばしばふさぎ込んでいたと言った。本当はそうではなかった。むしろ私は、秘密のことを考えていたのである。そんな時、私の石の上に坐ると、奇妙にも安心し、気持が鎮まった。ともかく、そうすると私のあらゆる疑念が晴れたのである。自分が石だと考えた時はいつでも、葛藤は止んだ。「石は不確かさも、意志を伝えようという強い衝動も持っていず、しかも数千年にわたって永久に全く同じものである」が、「一方私はといえば、すばやく燃え上り、その後急速に消え失せていく炎のように、突然あらゆる種類の情動をどっと爆発させるつかのまの現われにすぎない」のだった。私が私の情動の総体であるにすぎないのに対し、私の中に存する他人は、永久・不滅の石だったのである。



無意識との対決 37歳頃(『自伝1』 p.248-250より)

私は自分に向かって言ってみた。「何も解らないので、ともかく自分に生じてくることは何でもやってみよう」と。かくて、私は無意識の衝動に自分を意識的にゆだねることにした。
先ず最初に心の表層に浮かんできたことは、たぶん私の十歳から十二歳、ころの思い出である。私はそのころ積石の玩具で熱心に遊んだ時期があった。私は、どのようにして小さい家や城を建てたか、びんを使って門や天井をささえる側面をつくったかなどをありありと思い出した。少したってからは、普通の石を使い、しっくいの代りに泥を使ったりもした。これらの構築物は長い間私の楽しみであった。驚くべきことに、この記憶は相当な情動の動きを伴っていた。「あー」と私は自分に語りかけた。「これらのものは未だ生きながらえている。少年は未だ存在していて、現在の私に欠けている創造的な生命を所有している。しかし、どのようにして私はそれに到る道をひらくことができるだろうか。」というのも、成人としての私が、現在から十一歳のときの私にまで橋わたしをすることは不可能のように思われたからである。しかし、私がその時代との接触を再確立しようと欲するなら、私はその時代にかえり、その子どもらしい遊びと共に少年の生活に従事するより他にチャンスはなかった。これは私の運命の曲り角であった。しかし、私は際限のない抵抗の後に、あきらめの気持をもってはじめて、屈服したのである。というのは、子どもの遊び以外になすべきことはないと認めることは、苦しく不面目な経験であったからである。
それでも、私は湖岸や湖の中から適当な石を集め始めた。そして、小屋や城や、ひとつの村全体をつくりにかかった。教会はまだだったので、四角い石に六角柱の石をのせ、ドームもつくった。教会には祭壇が必要だが、私はそれをつくるのをちゅうちょした。私はある日、この仕事にどのように接近するかということを考えつづけながら、湖岸の石をひろい、湖に沿っていつものような散歩をしていた。突然、赤い石が目にとまった。ピラミッド型の四面体で、高さ四センチメートルくらいのものだった。これは水のカによってこのような形にっくりあげられた石の一片――つまり全く偶然の産物――であった。私は直ちにこれが祭壇である!と解った。私はこれをドームの下の中央に置いた。こうしながら、私は子どものころの夢の地下のファルロスを思い出していた。このような関連性は私に満足感を与えた。・・・・自分の足場を再獲得するために私は多くの努力を必要とし、石との接触は私の助けとなった。



 47歳から80歳 (『自伝2』 p.34-37より)

学問的研究をつづけているうちに、私はしだいに自分の空想とか無意識の内容を、確実な基礎の上に立てることができるようになった。しかし、言葉や論文では本当に十分ではないと思われ、なにかもっと他のものを必要とした。私は自分の内奥の想いとか、私のえた知識を、石に何らかの表現をしなければならない、いいかえれば、石に信仰告白をしなけれぱならなくなっていた。このような事情が「塔」の、つまりボーリンゲンに私自身のために建てた家屋のはじまりである。
私は、当初から、この塔を水のほとりに建てたいと念願していた。つね日頃からチューリッヒ湖の北部の美しい風光に、奇妙にひかれていたので、一九二二年に、私はボーリンゲンにいくばくかの土地を求めた。その地は、聖マインラット寺院の地域内にあり、古い教会の地所で、もとは聖ガル修道院の所有地であった。
最初、私はありきたりの家ではなく、ただある種の、原始的な平屋建を計画していた。それは暖炉が中心にあって、壁にそって寝棚のある円形構造の家にするはずであった。幾つかの石に囲まれて、中央に火が燃え、この中心をめぐって家族の生活全体が営まれている、アフリカの小屋をひそかに考えていた。原始的な小屋は全体性の理念を、つまりあらゆる小家畜までもがそこに参与しているような、家族的全体性を具現している。しかし、その計画はあまりにも原始的すぎると思ったので、工事にかかる最初の段階で、すでに私は計画を変更してしまった。大地にへばりついたような平屋ではなく、あたりまえの二階建の家にしなければならないと思うようになった。そして一九二三年に最初の円形家屋が建てられた。その家ができ上った時、その建物は快適な、住み心地のよい塔になったと思われた。
私が、この塔について抱いていた休息と新生の感情は、でき上ったときから強烈であった。それは私にとって、母なる暖炉を意味するものであった。それでも日増しに、私はまだいうべきことをすべていい尽してはいない、なにかが欠けている物足りなさを感じだした。そこで、四年後の一九二七年に、塔のような別棟のついた中央の建物をつけ加えたのである。
それからしばらく経って――その期間もまた四年であったが――、またもや私は不全感に襲われた。この建物は私にはまだあまりにも原始的すぎると思われ、そうして一九三一年に塔に似た別棟が増築されたわけである。この塔のなかには、私がただ独りきりでいることのできる部屋が欲しいと思った。私はインドの家屋でみたものを心に描いていたのであるが、インドの家には――カーテンで、部屋の一隅が仕切られているにすぎないけれども――、普通そこの住人が引篭ることのできる場所があった。インドの人たちはその場所で、ほぼ十五分か三十分のあいだ、黙想にふけったり、あるいはヨーガの修行をしたりしている。このように引篭れる場所は、人口の密度が非常に高いインドでは不可欠になっていた。
この隔離された部星のなかで、私は独りになれる。部屋の鍵は常時手放さなかったので、だれも私の許可なしに、その部星に入ることはできない。数年の間に、私は周りの壁に絵を描き、そうすることによって、私を時間から隔絶し、現在から無時間のなかに運び去ってくれたすべてのものを表現した。このようにして第二の塔は、私の霊的集中の場になったのである。
一九三五年に、私は垣で囲まれた一郭の土地が欲しくなった。空と自然とに向かって開かれている、大きな空間が欲しかったのである。そこで――また四年の間隔をおいてであるが――、私は中庭と湖に面した開廊をつけ加えた。そこはこの家の、さきに建てた三つのまとまりから離れた、第四の構成部分となった。このようにして四位一体(quaternity)のものができ上った。それは建物の四つの異なった部分が、しかも十二年の歳月を経てできてきたのであった。
一九五五年の妻の死後、私は自分自身にならねばならないという、ある内的な義務を感じた。ボーリンゲンの家の造形を借りていうと、二つの塔の間にうずくまっている、非常に低い中央部分は、私自身なのだということに、突然気付いたということである。私は、今ではもう「母性的」で「霊的」な塔のかげに、自分を隠すことはできなかった。そういうわけで、その年にこの中央部分に二階を増築した。この二階建が私自身を、もしくは私の自我を表現したのである。もっと早い時期にはこのようなことはできなかったろうと思う。たとえしていたとしても、それはうぬぼれた自己顕示にみえたにちがいない。いまやそれは老年期にいたって達成された意識の拡張をあらわしていた。中央部分の二階の増築でこの建物は完成した。私は一九二三年に最初の塔をつくりはじめたのであったが、それは母の死後二ヵ月たったときであった。これら二つの日付、つまり母と妻の命日は、後で解るようにこの塔が死者たちと関係があるだけに、意味深い日である。
最初から塔は、私にとって成熟の場所――つまり私が過去、現在そうであり、未来にそうなるであろうものになりうる、母の胎内、あるいは母の像と思えた。それは私が石の中で再び生れかわるかのような感じを与えた。このようにして、塔は個性化の過程を具現するもの、青銅よりも永続的な記念すべき場所であった。もっともこうしたことは、建築中には思いもよらず、いっもそのときどきの具体外的な欲求にしたがって各部分を建てていた。だから私は夢のうちにこの塔を建てたともいえるだろう。後になってはじめて、いかにすべての部分がよく調和し、精神的全体性の象徴という意味深い形態をとっているかということに気付いたのである。
ボーリンゲンでは、私は自分の本来的な生をいき、もっとも深く私自身であった。ここでは、いわば私は「母の太古の息子」であった。これは錬金術の巧みな表現である。というのは、私が子どものときに経験した「故老」、「太古の人」は、これまでも常に存在しこれからも存在しつづけるであろうNo.2の人格だからである。それは時間の外に存在し、母性的無意識の手なのである。私の空想では、それはフィレモンの形をとって、ボーリンゲンに再びその生を得たのである。



石碑 75歳 (『自伝2』 p.38-41より)

一九五〇年に私は、塔が私にとってなにを意味しているのか表わすために、石で記念碑のようなものを作った。この石が私のもとに運ばれてくるまでのいきさつにはおもしろい話がある。私は、いわゆる庭を囲む塀を造るために石が必要となり、ボーリンゲンに近い石切場から取りよせた。石工が石切場の主人に寸法をいって、主人はそれをいちいちノートにひかえていたのだが、その間私はそばに立ってみていた。ところが石が船で運ばれて着き、陸揚げされたとき、礎石の寸法がまったく間違っていることがわかった。三角石のかわりに、注文したのとはけたちがいに大きな、厚さがほぼ五〇センチメートルもある、四角の石塊がとどけられたのである。石工は激怒して、船頭にすぐに持って帰れといった。
しかし私はその石をみたとたんに、「いや、それはわたしの石だ。わたしがもらっておく」といった。一目みただけで、それは私に全くぴったりしたものであり、その石で何かしたいと思ったからであった。ただ、そのときにはまだ何なのかわかっていなかった。
最初に心に浮かんできたのは、ヴィルヌヴのアルノー(一二一三年没)という錬金術師の書いたラテン語の詩で、私はこの詩を石に彫った。それは翻訳すると、

ここに、みすぼらしい、不恰好な石が立っている。
それは、かねにしても安いものだ。
その石は愚者に軽蔑されればされるほど、
ますます賢者に愛される。
この一節は、錬金術師の石、つまり無知な大衆によって軽蔑され、捨てられてきたあのラピス(石)と関係している。
やがてまた別のものがみえてきた。その正面に、石の自然の構造として小さな円形が見えてきたが、それは私を見つめている目のようであった。そこで私はそこに目を刻んで、その目の中心に小さな人間の像、ホモンクルスを彫った。それはあなたがたが他人の目のひとみのなかにみいだす一種の「人形」――つまりあなた自身――いわば一種のカビル、あるいはアスクレピオスのテレスフォロスに相当するものである。古代の像では、彼はフードつきの外套をきて、ランプを下げた姿で表現されている。彼はまた、行く手を指示する人である。私はそれを彫っているうちに心に浮かんできたいくつかの言葉をささげて、その碑にギリシア語で書いた。訳すと、

時間は子供だ――子供のように遊ぶ――ボアード・ゲームで遊ぶ――それは子供たちの王国。これがテレスフォロス、宇宙の暗闇をさまよい、星のように深淵から輝く。テレスフォロスは太陽にいたる門を、夢の国への道をさししめす。
こういっな言葉が――つぎつぎと――私が石をきざんでいるあいだに浮かんできた。
湖に面した第三の面には、ラテン語の詩文で、その石自身に語らせることにしたが、それは多少とも錬金術からの引用である。訳しておくと、

私は孤児で、ただひとり、それでも私はどこにでも存在している。私はひとり、しかし、自分自身に相反している。私は若く、同時に老人である。父も母も、私は知らない。それは、私が魚のようにうみの深みからつり上げられねばならなかったから、あるいは天から白い石のように落ちてくるべきであったから。私は森や山のなかをさまようが、しかし人の魂のもっとも内奥にかくれている。私は万人のために死にはするが、それでも私は永劫の輪廻にわずらわされない。
さいごに、ヴィルヌヴのアルノーのたとえにならって、私はラテン語で、「C・G・ユングは一九五〇年、七十五回目の誕生日を記念して、ここに感謝の念をもってこの碑を建てる」と刻んだ。
この石を仕上げて、それをくりかえし眺め、石のまわりを歩きまわりながら、いったい石に彫りたいという衝動の背後にはなにが隠されているのだろうと、自問した。
塔の外に建てたこの石は、塔を説明しているようである。それは塔の住人を示現するものではあるが、他の人たちに理解できないものであった。ところでこの石の裏面に私がなにを彫ろうとしたか、お解りになるだろうか。それは「マーリンの叫び」である。というのは、石が表現している言葉は、俗世から消え去って森のなかで過したマーリンの生活を思い出させたからである。ひとびとは、今もなおマーリンの叫び声を聞くと彼の伝説は伝えているが、それでもひとびとはそれを理解することも説明することもできないのだ。
マーリンというのは中世の無意識がつくりだした、パーシファルと並びたつイメージである。パーシファルはキリスト教徒の英雄であり、マーリンは悪魔と清らかな乙女との間にできた息子として、パーシファルの影の兄弟である。この伝説のあらわれた十二世紀には、その伝説の本当の意味が理解されるだけの前提条件がまだなかった。そういうわけでマーリンは生涯追放されたままに終り、そのため「マーリンの叫び」がかれの死後も森から聞こえつづけている。だれにも理解されなかったこの叫びは、マーリンが安らげずに生きつづけていることを意味している。マーリンの物語はまだ結末をみぬままに、かれはいまだにさまよっているのである。マーリンの秘密は、主としてマーキュリーの姿で、錬金術によってうけつがれていたといってもよい。その後ふたたびマーリンは、私の無意識心理学でとりあげられ、そして――理解されないまま今日にいたっている――それは、大多数の人たちにとって、無意識と密接にかかわりあいながら生きるといったことが、自分たちにはひどくかけ離れた彼方のことと思われているからで、私は無意識と密接にかかわりながら生きるということが、人々にはどんなに難かしいことなのかと、くりかえし思い知らされねばならなかった。



ビジョン 69歳 (『自伝2』 p.124-126より)

一九四四年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて足を骨折するという災難にあった。意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付添っていた看護婦は、「まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした」といっていたが、彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。私は死の瀬戸際にまで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。
私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸とがみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭はすばらしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた。左方のはるかかなたには大きな曠野があった、――そこは赤黄色のアラビヤ砂漠で、銀色の大地が赤味がかった金色を帯びているかのようであった。そして紅海が続き、さらにはるか後方に、ちょうど地図の左上方にあたるところに、地中海をほんの少し認めることができた。私の視線はおもにその方向に向いて、その他の地域はほとんどはっきりとみえなかった。雪に覆われたヒマラヤをみたが、そこは霧が深く、雲がかかっていた。左手の方はまったく見渡すことができなかった。自分は地球から遠去かっているのだということを、私は自覚していた。
どれほどの高度に達すると、このように展望できるのか、あとになってわかった。それは、驚いたことに、ほぼ一五〇〇キロメートルの高さである。この高度からみた地球の眺めは、私が今までにみた光景のなかで、もっとも美しいものであった。
しばらくの間、じっとその地球を眺めてから、私は向きをかえて、インド洋を背にして立った。私は北面したことになるが、そのときは南に向いたつもりであった。視野のなかに、新しいなにかが入ってきた。ほんの少し離れた空間に、隕石のような、真黒の石塊がみえたのである。それはほぼ私の家ほどの大きさか、あるいはそれよりもう少し大きい石塊であり、宇宙空間にただよっていた。私も宇宙にただよっていた。
これと同じような石を、私はベンガル湾沿岸でみたことがあった。それらは黄褐色の花崗岩のかたまりで、そのなかのいくつかは、なかをくり抜いて礼拝堂になっていた。私がみた石塊も、そのような巨大な、黒ずんだ石のかたまりであった。入口は小さな控えの間に通じていた。その入口の右手には、黒人のヒンドゥー教徒が、石のベンチに忘我の状態で、白い長衣を着て、静かに坐っていた。彼は私を待っているのだと、私にはわかった。二歩でこの控えの間に入ると、そのなかには、左側に礼拝堂への扉があった。数え切れないほど多くの壁龕には、それぞれ皿状にくぼんでいるのだが、そこにはココヤシ油が満たされていて、小さな灯心がともされ、それらが扉のまわりを、明るい炎の渦でとり囲んでいた。私はかつて、セイロンのカンディーにある「仏陀の聖なる歯」という寺院を訪ねたとき、こういう状景を実際にみたことがあった。扉は幾重にも並んだこの種の油灯で縁どられていた。
私が岩の入口に通じる階段へ近づいたときに、不思議なことが起こった。つまり、私はすべてが脱落して行くのを感じた。私が目標としたもの、希望したもの、思考したもののすべて、また地上に存在するすべてのものが、走馬灯の絵のように私から消え去り、離脱していった。この過程はきわめて苦痛であった。しかし、残ったものもいくらかはあった。それはかつて、私が経験し、行為し、私のまわりで起こったことのすべてで、それらのすべてがまるでいま仏とともにあるような実感であった。それらは仏とともにあり、私がそれらそのものだといえるかもしれない。いいかえれば、私という人間はそうしたあらゆる出来事からなり立っていた。私は私自身の歴史の上になり立っているということを強く感じた。これこそが私なのだ。「私は存在したもの、成就したものの束である。」
この経験は私にきわめて貧しい思いをさせたが、同時に非常に満たされた感情をも抱かせた。もうこれ以上に欲求するものはなにもなかった。私は客観的に存在し、生活したものであった、という形で存在した。最初は、なにもかも剥ぎとられ、奪われてしまったという消滅感が強かったが、しかし突然、それはどうでもよいと思えた。すべては過ぎ去り、過去のものとなった。かつて在った事柄とはなんの関わりもなく、既成事実が残っていた。なにが立ち去り、取り去られても惜しくはなかった。逆に、私は私であるすべてを所有し、私はそれら以外のなにものでもなかった。



2002/06/30作成

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