吉川幸次郎  Topへ
  私の中国古典の先生は吉川幸次郎である。先生の導きによって、中国の本を読む歓びを知ったのは生涯の宝である。
 

  
   『洛中書問』吉川幸次郎・大山定一 1946年秋田屋

  詩の翻訳についての往復書簡集である。当時新進気鋭の学者が四つに組んでこの問題に議論しあっている。

  学人の翻訳と文人の翻訳の2種あるという議論が面白い。
  吉川が言う。学者の翻訳は研究の一部で、簡単な報告であって、本当の研究はちゃんとした報告されるべきである。
  私は、吉川幸次郎の最も中心的研究である杜甫の『杜甫詩註』において、その訳詩が今一つであるという印象を持ったが、どうやら、吉川のは学人の翻訳であろうか?
  大山は、詩の翻訳は詩でなければならない、戯曲の翻訳は戯曲でなければならない、という態度で、文人の翻訳に近い。
  途中、野上豊一郎『翻訳論』を取り上げ、to be or not toの訳語に及ぶ. 。直訳的翻訳を勧める、野上に対し、大山は反論し、吉川は賛意を述べている。

  水掛け論のようで、結論は出ていないが、翻訳することの深みを味わうことが出来る。
     
  この往復書簡は昭和19年3月31日に始まり、同年12月27日に終わっている。当時雑誌「学海」に掲載。翌年に敗戦。1年後の昭和21年11月に出版されている。粗末な紙に印刷されて、ホッチギス止の造本だが、文化のレベルが偲ばれる。
  本書は後に「筑摩叢書」で再版されている。

   *  *  *

ネットで次のものが詳しい。
  『洛中書問』――翻訳詩の問題(2) - qfwfqの水に流して Una pietra sopra (hatenablog.com)

  私は常々、学者の訳詩は面白みにないものが多いと思っているが、原詩の言葉の意味につられているせいだろう。しかし、原詩を読む時の参考としては、学者の逐語訳的な翻訳が役に立つ。 私は詩の翻訳は必ず原詩も載せるべきだと思っている。

  2021・9・25


 

  
   
古典への道 吉川幸次郎対談集
                朝日新聞社1969年

  私は6月終わりから7月上旬、日赤病院に入院していました。
(コロナではありませんし、すでに、退院しておりますのでご心配なく)
  入院の間、3冊、本を読みましたが、最初に読んだ本は、この本です。
  中国の古典に関して、吉川幸次郎と井上靖、石川淳、中野重治、桑原武夫、石田英一郎、湯川秀樹、の対談と
  後半は「中国古典をいかに読むか」として、吉川に対して、主として五経、四書について、田中謙二、島田虔次、福永光司、上山春平、が聞くという座談会があります。
  私はこの本を最初に読んだのは42歳の時、2度目は65歳の時、そして今回は3度目で、もうすぐ84歳になろうとしています。
  驚いたことに、登場人物は今の私より遥か年下で、ほぼ全員が鬼籍に入っていることです。
  私は第3の人生を、漢籍を読むことから始めようと思っています。

写真は、日赤の病室の窓から。

  2021・7・12
 

  
 
2017年2月9日

吉川幸次郎先生からの葉書

  身辺を整理してたら、吉川幸次郎先生から頂いた葉書が2葉が出てきた。いずれ散逸してしまうだろうから、ここに載せておきます。私の中国熱が上がっていた頃、吉川幸次郎先生の『杜甫詩注』の刊行が始められていた。(1977年) ある日、新聞で先生が杜甫の足跡を確かめるために訪中されると記事を見て、私は驚いてしまった。当時先生は70歳を超えておられ、私には高齢に思え、20巻の予定のこの詩注が途中で頓挫するのを案じ、先生に、旅の安全を祈る旨、葉書を出したのである。先生は帰国後に絵葉書をくださった。(写真右)「このたびの旅行出発の前日は、おはがきを頂き恐縮です 3週の旅 予定を果たして先月十八日かえりました その大要は本月14日ごろから毎日に拙稿を載せます これは重慶すなわち渝州にて 大江嘉陵に合流の風景です おくれはせながら御礼迄  己未五月四日」  
  翌年年賀状を出したら、先生からも頂いた。(写真左) 「御愛読の杜注第四冊は校正ほぼ了 夏までには本になります 」と墨書されている。
  一介の読者に過ぎない者にも、気を配られる先生の人となりに私は感激した。
   先生は、上記の年賀状を頂いた年1980年の4月8日永眠された。
 先生の「論語」をはじめとして、多くの著書に接し、私の読書生活の中で最も大きな影響を受けた方であるが、私は先生の謦咳に接したのは、大学1回生の時、講堂で、多くの人と一緒に先生の講話を聴いた、ただ一度だけである。その時の話で覚えているのは、「私は読書に関しては、いささか、自負するものがある。」という一言だった。
  その先生の読書がどんなものであったか、膨大な著書のうちに示されているのだが、先生の蔵書の一部は、神戸市立中央図書館に「吉川文庫」として所蔵されている。神戸淡路大震災でどうなったいるであろうか?もう一度訪れたいものだと思う。



  2017・2・7
 
   

竹内 美紀 すごいです。翻訳論の勉強のときに、大山定一との『洛中書間』を読みました。わたしにとっては歴史上の人物のイメージでした。直接教えを受けられたのですね。なんか感動しました。

〇宮垣弘 『洛中書問』(1946年刊)を懐かしくなり、取り出して来ました。類書に福島麟太郎との往復書簡『二都詩問』(1971年刊)もありますね。

木下 信一 我が高校の大先輩で、校歌の作詞者でもあります。
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〇宮垣弘 良い高校ですね。私も神戸高校の校歌が大好きです。神戸高校にガールフレンドがいて、誘われて文化祭にも行ったことがあります。
 「わこうどは
  まなびやをたかきにぞおけ
  きみみずや
  六甲のけわしきおいて
  わがにわと
  ながむるちぬのうみづらに
  海彼のゆめをいざないて
  しおさいとおくみちくるを」


Toshiro Nakajima 大倉山の図書館にこのような文庫があるとは。楽しみが増えました。

〇宮垣弘 私が拝見した時は、蔵書は地下の部屋にありましたから、地震の被害を受けなければとよいがと思ったことでした。
当時、専任のスタッフがせっせと整理していましたので、蔵書目録も出来ていると思います。

Toshiro Nakajima 早速、駆け参じます。ご教示をありがとうございます。

Toshiro Nakajima 洋書と中国文学の2種類の目録がございました。

 

  
   先生の葬儀

  吉川先生は19804876歳で亡くなられた。その葬儀は五条の大谷本廟で行われ、私は神戸からその葬儀に駆け付けた。一介のファンに過ぎないのだが、白髪の司馬遼太郎をはじめ錚々たる会葬者に紛れて、その死を悼んだ。弔辞を生島遼一先生が読まれた。私は先生のフランス語の授業に数回出たことがあり、フランス語よりその日本語の明瞭さに驚いた記憶がある。内容は忘れたが見事な弔辞であった。帰りに頂いた会葬御礼の封筒には千円の図書券が付いていて、何のお香典も用意していなかった自分を恥じた。

  四月と言え、まだ寒い日で、私は市電沿いに7条を通って歩いて京都駅に向かった。途中、小さな古本屋があって、そこに入った。婆さんが店番をして、そこに和綴じ本の蘇轍注の『老子道徳経』2巻が目についたので買って帰った。

  あれから40年、先生の本を沢山買い、読み読んできたが、今度の引っ越しで半分は消えてしまった。振り返って先生から教えられた最大のことは何か?と問われれえば、「中国の文芸は深く、面白い」ということである。それは私の財産である。

 2020・4・27