良寛さん(1758-1831)  Topへ
    私は良寛さんを甘く見ていました。世捨て人的な弱い人物でないかと。良寛さんは、33歳の時、国仙和尚の印可を得、一等首座の位を授けられています。良寛はその後行脚の旅に出、その後の人生は、悟りの深化であり、その表現であったわけです。そのように良寛さんを見ると、がらりと、彼の遺したものが理解できるようになります。堂々たるかな、その人生!  以前読んだ良寛さんの本:
alice-it.com/syohyo/ryoukan.html

  
    安藤英男 『良寛 逸話でつづる生涯 』 
          すすき出版 2007(初1986)

 子供たちと手鞠をついて遊ぶ良寛さん、泥棒に寝具を取らせる良寛さん。その歌や、漢詩または書を愛する人は多いが、なんといっても最も素晴らしいのは、良寛さんの人柄、仏道の修行で練り上げられた人格から、流れでる行動である。
  それは、良寛さん逸話として口碑として残っているが、まとめて読みたいと探していたところ、出会ったのが本。長年の渇を癒やしてくれた。伝記として、よくまとおり、地図、系図、写真、年表など役立つ情報満載
 炊くほどに風がもちくる落ち葉かな
  これは、藩主が、出向いて、あなたのため、寺を建ててあげたいとの申し出に対する良寛の答えであった。時に良寛さん、61歳。
  最晩年の良寛さんには、貞心尼さんとの出会いがあった。私は、この歳になって、初めて、良寛さんに出会った感じがする。 


  2023・6・25
 
   
榊原 安英さんFBへの書き込み
早速に本を買いました。
愉しみです。
いつも良い本を紹介して戴き、有難うございます。
良寛の話で好きなのは、以下の逸話です。(この本には出ていなかったと思います。)
「万物一体の仁」
『檀家の嫁入り前の娘に子供が出来た。父に言えない。「信頼している良寛さんの子供であると言えば許してくれるかも」と思って言った。その結果「良寛は破戒僧だ」と言って、父が生まれた子供を押し付けた。良寛は「あっ、そうじゃ、そうじゃ、儂の子じゃ、良い子じゃ、良い子じゃ」といいながら貰い乳をしながら育てた。』
なぜ、引き取ったか?もしも、自分がこの子の親だと言ってやらなければ、この娘はどうなるだろう?深い思いを巡らせて、自分の子だと言ったのだろうか?
もし、「その子が、その娘が可哀想だから・・」なら、良寛はその程度の人だったということか?いや、違う。
(良寛×この子)⇒二元対立ではなく、良寛は「悟りの人」つまり、「赤ん坊は良寛だから」引き取った。自分の誤解を招いたとしても、自分にこの子を押し付けられたとしても、それは己の因果なのである。己の因果なる故に「我が子」だと。
その因果として、その子を抱いたのである。例え濡れ衣であったとしても、それを因果だとして受け、その因果を果たすことが出来なければ、悟りの世界などへ行く資格がない。仮染めの他人の出来事であったとしても、「悟れる者」は十方奉仕の世界に居て、「十方是我なり」果たすことが出来るもの。

宮垣: 榊原 安英 様、この逸話は、安藤さんの本には出てきていません。有名な逸話ですね。立派な解説ありがとうございます。


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宮垣この逸話は、ふと白隠禅師のものではない方ネットで調べて見ましたら、やはり白隠の所に出ていました。良寛は白隠を尊敬していたようなので、同じような事がおきたら同じような事をしていたと思いますが・・・白隠逸話の文献したわけではありませんが、


2023・7・9
 

  
   良寛さんの書

  良寛さんが名筆家であったことは、多くの人から、その書が求められていることことでも分かる。
しかし、中には良寛さんの書は分からないという人もいた。
 右記の書は私は何度見ても分からなかった。

  君看雙眼色
  不語似無祐
 (君看よ双眼の色 語らざれば憂い無きに似たり)
と書いてある。

 この語は、白隠禅師(1686-1769)が大燈国師の句に付けられた句。『槐安国語』に収められているとのこと。

ネットから拾ってきました。

同書より、大燈国師の元の句(千峯雨霽露光冷から始まる、左の七字四行の句)と、それに付した白隠の句(右の君看雙眼色。不語似無愁以下の四行)をご紹介しましょう。

千峯雨霽露光冷   君看雙眼色。不語似無愁
月落松根蘿屋前   眼中無見刺。耳裏絶聞塵
擬寫等閑此時意   若識琴中趣。何勞絃上聲
一溪雲鎖水潺潺   莫嫌襟上斑斑色。是妾燈前滴涙縫

色付け部分が白隠の作。
何れにしろ、悟った方の心境。

良寛さんの書は、分かり易いものも多い。

私は、書籍で写真を見るだけなので、一度は本物に触れたいと思う。

 2023・7・9