句会・俳句  Topへ
   句会は連句の座ほど緊密なものではないが、仲間との談笑と共に進む。  

  
   
2016年12月28日

東京やなぎ句会編 岩波書店刊
五・七・五 ― 句宴四十年 』2009年
楽し句も、苦し句もあり、五・七・五 
  ― 五百回、四十二年
』2011年
友ありてこそ、五・七・五』2013年
先日、「雑司が谷シェイクスピアの森」の望年会で、関場先生から例年のごとく贈られる本の中に『友ありてこそ、五・七・五』があって、それを戴いて帰った。なかなか面白いので、少し前に出版された同句会の本2冊も図書館から借りて読んだ。
  東京やなぎ句会は、1969年、入船亭扇橋、永六輔、小沢昭一*、江國滋*、桂米朝、大西信行、柳家小三治、矢野誠一、三田純市*、永井啓夫*というメンバーでスタートし、神吉拓郎*、加藤武が加わり、12人の句会であった。毎月17日に集まり、2013年の本が出た時点で、530回目を迎えており、その継続性に目を見張る。(この時点で*印の方は既に物故。)本は、句会の模様、自選句、会や友達の思い出、ゲストだった人たちの寄稿など多彩で、会の様子を生き生きと伝え、読み物として楽しい。下戸の方が多いのだが、酒を飲む人より騒がしいという。あの時はどうだとか、ばかばかしいダジャレを飛ばしながら、冷やかし合い、何しろ弁の立つ人の集まりだから、作句より、この談笑のひと時を楽しむ。それがこの人たちの生きる拠り所ともなり、仕事より、句会(友情)を優先さている様が、伺える。「句作さえなければいい句会だ」と言いながら、せっせと俳句を作るのもおかしい。俳句という文芸の力と句会というシステムの素晴らしさが分かる。
句会は、誰が作ったのかわからないようにしておいて、メンバーが、それぞれ、句に天・地・人・客の評価を行い、その結果を公開し、順位と賞品を授与する一種のゲームなのだが、その中で、楽しみ、切磋琢磨し、何よりも人と人との触れ合いによる人生の喜びを味わうのである。記録の中では(爆笑)という語が絶えないのであるが、寄る年波で、何人になれば会を閉じるかなど絶えず話題となっている。気が付くと、去年、今年に入船亭扇橋、永六輔、桂米朝、大西信行、加藤武も鬼籍に入られた。
  この句会での俳句を私ごときが論評するのははばかれるが、俳句を一つも出さないのも失礼だと思うので、一句引いておきます。もうすぐ年の瀬を迎えるので、永六輔の句:
       去年今年 足かけ二年の立小便  
  これは虚子の名吟「去年今年貫く棒の如きもの」の本歌取り。棒の如きものを握って年を越した六輔はもういない。「昭和」も遠くなった。
ーーーーーーーーー
引用の句が川柳ぽいので、川柳の句会と誤解されといけないので、書き添えますが、会の宗匠の入船亭扇橋(光石)は秋桜子門下とも言うべき正統派で、この会は川柳の句会ではありません。しかし、メンバーを粗く括れば、芸能世界の人たちなので、花鳥諷詠とは行かず、人の哀歓を捉える句が多い。無作為に少し拾ってみます。
   炬燵から顔を出す子と二人かな  (光石)
   散髪を終えたうなじの秋暑かな 大西行信(獏十)
   知らぬ人と旅の初湯に話しけり 小沢昭二(変哲)
   うちの子でない子いてる昼寝覚め 桂米朝(八十八)
   蒲公英の絮(わた)散り散りとなる定め 加藤武(阿吽)
   みぞれ降るつないだ手と手ポケットに  柳家小三治(土茶)
   ほころびた軍手で牡蠣割る老女かな  矢野誠一(徳三郎)
   看取られる筈が看取って寒椿   永六輔(六丁目)

私の興味は、句そのものより、この人たちの心の拠り所ともなった「句会」というシステムにあり、長く続くグループの要素がここにあるような気がします。

 

  
   
2017年1月4日

渥美清句集『赤とんぼ』田中靖夫・絵、森英介編 本阿弥書店2009

渥美清(俳号:風天)がいくつかの句会に顔を出し、俳句を作っていたことは以前テレビで見て覚えていて、今回、まとめて読んでみた。1時間もあれば読める量だった。気ままに選んでみる。
まず正月の句:   はつ電話笑顔のままで受話器置き
寅さんの世界:   小春日や柴又までの渡し船
             テレビ消し一人だけなり大晦日

山頭火風の自由律の句で、「生きる」ことを詠う。
  山吹キイロひまわりキイロたくわんキイロで生きる楽しさ
  げじげじにもあるうぬぼれ生きること
  いつも何か探しているようですひばり
  蟹悪さをしているように生き
  ゆうべの台風どこに居たちょうちょ
  なが雨や銀の帯とく蝸牛

小さな者への共感がある。
  お遍路が一列に行く虹の中
のような美しいものもある。
もし、渥美清が、俳句というもの、句会というものがなければ、その心の内を表出することはなかったであろうし、我々は寅さんの心の内を覗くこともなかったかもしれない。
 
   
  • Toshiro Nakajima 今年の文学の授業は、「蛸壺や はかなき夢を 夏の月」という芭蕉の俳句を鑑賞せよというものです。さて、どんな解釈が出てくるか、100名のペーパーが楽しみです。
      Toshiro Nakajima 芭蕉が奏でる壮大な世界に幻惑を覚えます。明石に行くと、割りばしの袋にこの句が書いてありますが、誰も注目しません。たこ焼きよりも美味いのに。
  • 宮垣弘 明石の蛸の3つ思い出
    ●明石の魚の棚で、魚屋から逃げ出した蛸が道路を8本足で横切っているのを見た。あの蛸は無事海に帰ることができただろうか?
    ●明石沖に飯蛸を釣りに行ったら、海底が蛸の絨毯のように、糸を下ろせばすぐ釣れたので、釣りの醍醐味は全く味わえなかったが、釣れた蛸を船板に投げつけると、滑稽なタコ踊りをしてくれた。
    ●魚の棚で、蛸を土産に買って、発泡スチロールの箱に詰めてもらったが、新幹線の駅で切符を買うとき、置き忘れた。(これは友達の話。JR駅員はこの遺失物をどう扱っただろうか?)
      Toshiro Nakajima すてきな思い出ですね。いずれも捨てがたい。傑作なコメントが多く提出されました。若いってそれだけで輝くのですね。
  • Toshiro Nakajima ただ、多くの方が「月」という大名辞と「蛸壺」という小名辞の対比を無視します。困ったものです。