私の論語 | Topへ | |
論語ほど、古今多くに人に読まれ、また、その注釈、解釈のある本は無いと思う。 私も30代から親しんできた。 私の蔵書 私の読み方 鎌田先生の講義 論語読みの面白さは、色んな読み方が出来、諸説紛紛の中に、自分の心に響くものを見出す喜びにある。 また、経験と知見の蓄積によって、読み返すたびに、発見があることである。 実践が伴わなければ「論語読みの論語知らず」に終わる。 |
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安富歩『生きるための論語』ちくま新書 2021 この本は『論語』をかなり読み込んだ人にお勧め。 初学者には、この本の凄さは分からない。 この人のちょっと常人とは異なる生き様 ー 学者としての経歴、50歳過ぎてから女性装への転換、政治行動 ー を知る人は、初めから敬遠するかも知れないが、私は逆に、このような人が論語をどう読んだか興味があって手に取った。 伝統的な解釈、A説、B説と並べて自分の意見を言うのではなく、論語の文そのものの中から、整合性ある解釈を導き出す。 その生き生きとしプロセスに感銘を受けた。 一口にその特徴を言うと、多くにキーワードを「学習の回路を働かせる過程」とダイナミックに捉えていることである。創見に満ちた生き生きとした論語論であった。 第1章 学而時習之 ー 学習とは 小論語とも言われる、論語巻頭の一節: 子曰、學而時習之、不亦說乎。有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎。 子曰く、学びて時に之を習う、亦た説ばしからずや。朋有り、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍おらず、亦た君子ならずや。 「学習」を深く掘り下げ、あとの「有朋自遠方來、不亦樂乎。人不知而不慍、不亦君子乎」を、その延長上に読み解くのであるが、私はこのような解釈は初めて、(ネタバレになるので説明略)その新鮮さに驚き、読み続けることになった。 第2章 是知也 ― 知とは 「知」の検討に入るがこれもユニーク。 「私は、論語の思想の最も重要な特徴はこの学習のダイナミクスあると考える」(42頁) 第3章 無友不如己者 これは普通、「己に如かざる者を友とするなかれ」と読み、自分より劣った者を友としてはいけないと解している。著者の解釈は違う。そのために、「忠」「恕」といった語をかみ砕き、「如」の本質をあぶりだした上で、 「言葉を心と一致させる人と交わり、ありのままの自分でない者を友達にしない」に到達する。この章だけでも大論文で、面白い。 第4章 是禮也 ー 礼とは このあたりまで来ると、著者の生き生きとした思考過程が明らかになる。つまり、文章間に整合性が取れている。 そして論語の基礎概念系列として、仁、忠、恕、道、義、和、礼が総合的に捉えられていることを示す。 あわせて、信、恭、勇、乱、盗など周辺の概念も明らかにされる。 いずれも、動的解釈というべきか。 第5章 必也正名屋ー名を正すとは 平易な具体例で分かりやすい。 第6章 孝弟而好犯上 ー 孝とは 「犯」「乱」も著者の創見が光っている。 「孝弟」についても 第7章 仁者不憂 ー仁とは 著者の論語論の総まとめに当たる章である。 仁とは好む対象ではなく、態度であり、状態である。 仁、知、信、直、勇、剛という態度は、言葉によって実体化し、好む対象としている時点で既に間違っている。学というのは対象の実体化から抜け出すために必要なのだ。 選択肢と分岐なき道 ー フィンガレッドの説 第8章 儒家の系譜 孔子の思想の流れを「魂の脱植民地化」というキーワードで繋いでいこうというのである。 「魂の脱植民地化というのは、他人のではなく、自らの地平を生きるようになること」 取り上げられた儒家:孟子、程明道、謝上蔡、李卓吾、梁漱溟、 「私は儒家の思想の根幹は、生きた人間の身体反応に依拠した、学習回路の作動に、人間社会の秩序を見る」との観点から二人取り上げる。 ノーバート・ウィーナー(サイバネティクス)と論語 ピーター・ドラッカー(経営学)と論語。 特にドラッカーと論語の関連は、簡にして要を得た記述であった。 2022・7・3 |
「私が本書でやりたかったことは、私自身に納得いく方法で、できるだけ論語を内在的にかつ忠実に読み。そのなかから私自身が生きるために必要な知識を見出す、ということである」 自跋より(同書260頁) 私は、このように本を読みたい。 |
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論語への入口 和刻本 30歳半ばであったと思う。神戸の高架下の細く長い商店街を、神戸駅近くまで行った所に、古本屋とも言えない程の、古書のコーナーがあって、そこに、無造作に置かれていた和本を手に取った。ちょっと目で追うと、なんと読めるのである。 それは、論語集註の後藤点の端本であった。大きな漢字が目に飛び込んできた。500円?のそれを買って帰り、その興奮を父に話した。 これが私の論語との幸運な出会いであり、漢籍への入り口であった。 訓点が施されているが、原文そのものを読めるという喜びは大きかった。翻訳では到底味わえないことだった。 それから、和刻本の漢籍を少しずつ集め始めた。数千円のものが殆どだが、大きな買い物として『資治通鑑』100巻、5万円だった。これの公田連太郎の注釈書が26万円したので手が出ず、積読のまま、一行も読まず、4年前の引っ越しの際、多くの和刻本と共に処分した。今も心残り。 買わないで、心残りなのは、ある日早稲田の古本屋に荻生徂徠の『論語徴』の和本あって、5千円だったのをやり過ごしたのは未だに残念だと思う。 その頃集めていた和本は今は半分も手元にない。今、論語関係であるのは後藤点と道春点の2種だけである。 和刻本で論語を読む喜びを分かち合いたいと、後に、職場の同僚、小田雅則君、西村博司君と、和本による輪読会を持った。 東京に来て、湯島聖堂の斯文会で鎌田先生の論語の講義を聞いたのは54歳(1991)の時であった。同じ聖堂では日曜の朝、水澤利忠先生の「史記」の講義があって、何度か出たのも思い出深い。 論語は、仲間と読む方が面白いので、後に、私が部長の頃、係長研修にも使ったし、小さな会社の顧問をしていた時も若い人数人と読んだ。いずれも和本のコピーを使った。 アメリカ人女性のエリカさんとも論語を読んだ。日本語学習者としては上級者で、会社の営業報告の翻訳もやるくらいだったので、漢文を教えることにしたが、為政第二までで終わった。 www.alice-it.com/erika/ronngo.html |
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鎌田正先生の思い出。 鎌田先生の講義の思い出を書いておきます。 なぜ、先生の講義を聴こうと思ったのか、それは、『春秋左氏伝』を読む際に、明治書院の新釈漢文大系『春秋左氏伝』4巻を参考に読んでいて、鎌田先生の入念な注釈にお世話になったので、その先生の謦咳に触れたいと思ったのである。 東京に来て、高名な先生にお会いできる喜びがあった。 ちなみに、聖堂では、金谷治先生の話も聞けた。 先生はいつも、竹添光鴻の『論語會箋』を携えて来られた、一度もそれを開かれたことはなかったが、いざという時の参照文献と思っておられるのだろう。私もマネをして、台湾出版のこの本を買った。 また、安井小太郎の本が出会ったら買っておくように言われた。 これも入手できた。 ある時、受講者から、易経はどんな役に立つのかの質問に、先生は、黒板に見事な字で「積善之家 必有餘慶」と書かれ、こんなのもありますよ。と言われた。(易経 坤の分言) 講義の最後にこんなことを言われた。 「皆さんが、なにか、困ったことにぶつかった時、論語を無造作にどこか開いてご覧なさい。そこに打開の糸口を見出せるから。」 これは、先生が実践してこられた、秘伝とも言うべきものであった。 2022・7・3 |
竹添光鴻の『論語會箋』1962年初版、1978年再版。台湾・廣文書局刊 安井小太郎の本。898頁。1940年再版東洋図書初版は1935年、 安井小太郎(1858-1938)安井息軒の外孫 積読のままだが、取り出してひょいと覗いてみたら 子曰 學而時習之、不亦說乎。で 子や亦の解説を丁寧にしてあった。 [亦は比較する言葉で、不亦說乎と云えば説ぶ可きものは澤山あるが、之も一つの説しいものではないかと云う時に此の亦を使ふ。」35頁 吉川幸次郎『論語』の解説も面白い。 [語調を緩やかにするために、加えられた、ごく軽い助字である。」 「どうだ説しいことではないか・・・強く且つ柔らかに、相手の同意を、導き出すいい方であると見るが正しい」 「亦」一つとっても論語読みの愉しみがある。 「不亦・・・乎」については、 鮑善淳『漢文をどう読みこなすか』日中出版、158頁参照。 2022・7・6 |