儒家の晩年  Topへ
   道家は無為自然をモットーとしているので、特に晩年は変わるところがないと思うのだが。儒家の人たちはどうであろうか?  

  
   孔子の例1

  葉公が子路に孔子の人となりを訊ねた。子路は答えなかった。孔子は次のように言った。
 「お前はどうしてこう言わなかったのか?
その人となりは、(学問に)発憤して、食べるのも忘れ、、(道を)楽しんで憂いを忘れ、老いの来るのも気が付かない方なのですよ。と」

  原文
葉公問孔子於子路、子路不對。子曰、「女奚不曰、其爲人也、發憤忘食、樂以忘憂、不知老之將至云爾。」
(論語・述而七、18)

  発憤と楽しみの対象が何であるか、いろいろな解釈があるところですが、渋沢栄一の『論語講義』の説を引いておきます。(1977年、二松学舎大学出版部版、326頁~)

  「汝は何故に下のごとく対へざりしぞ『吾が師の人となりは、学を好み、心に思うて得ざる時は、憤りを発して考究し、食事をなすことも忘れ、そして一旦これを考究してその義を得たるときは、大いに喜びて、いかなる心配になることがあってもその憂ひを忘れ、かくして日々倦まず、追々年を重ねて老境に入り、余年の少くなるも知らずして勉強して休むことなきことかくのごとし』と対へればよきものを、何故に対へざりしぞ」

  渋沢栄一がこの節を、4頁にわたり口述しているが、時に、85歳。その中で、
  「働くといふことが、人生における第一の楽しみであり、不老不死の薬も、働くに勝る薬はあらじとぞ思う。人は働いてさえおれば憂ひも消へ心配もなくなるものである。」とも述べている。

  毎朝、6時起床から、午後12時に就眠という一日の様子も書いてあるので、ご興味がある方はご覧ください。
        2020・2・18           
 

  
   孔子の例2 

子曰く、歳寒くして、然かる後に、松柏の彫(し)ぼむに後くるるを知しる。


子曰。歳寒。然後知松柏之後彫也。(論語・子罕第九 27)

この言葉を色紙に書いたものを、私は鎌田正先生から頂いたことがある。
その時の状況はここをご覧ください。

この時、先生は、80歳で、以降講義はしないとおっしゃっていた。
理由は、自分の勉強の時間が欲しいのだと。97歳まで勉強を続けられたのではないかと思う。
2008年6月13日逝去)

       2020・2・20
 

  
   孔子の例3

子曰く、甚(はなはな)しいかな。吾の衰(おとろ)うるや。
久しいかな。吾また夢に周公を見ず。

子曰。甚矣。吾衰也。久矣。吾不復夢見周公。
(論語・述而第七 5 )

この言葉は、孔子が仕えるべき主君を求め諸国を遍歴し、かなえられず、魯に戻った68歳以後のものだろう。(上記渋沢説)

孔子には、堯ー舜ー周公というモデルがあって、理想の社会を実現するという大きな夢があった。

小人の私は、ついぞ、そのような大志を抱いたことがないが、私の友人、知人の中で、数名が2か月に一回ぐらい集まって、天下国家を論じ、政談(清談)を楽しむグループが2つある。いずれもメンバーは80歳台。いつまでも続いて欲しいもの。
    2020・2・25
 

  
   佐藤一斎(1772年-1859年)美濃国岩村藩出身の儒学者。
少而学則壮而為有
壮而学則老而不衰
老而学則死而不朽

 
少にして学べば、則(すなわ)ち壮にして為すこと有り
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず
 
(言志晩録60条)

    2020・3・31
 佐藤一斎像  渡辺崋山筆

  
   孔子の例4

子曰く、吾十有五にして学に志ざす。三十にして立たつ。四十にして惑わず。五十して天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従たがいて、矩(のり)を踰(こえ)ず。

子曰。吾十有五而志于學。三十而立。四十而不惑。五十而知天命。六十而耳順。七十而從心所欲。不踰矩。
(論語・為政第二 4)


耳順は、伊藤仁斎によると「毀誉の来たる、耳に受けて逆らわさるなり」とある。自分と異なる意見をどれだけ受容できるかにということかもしれない。
七十而の項について、渋沢栄一は「余のごとき非徳のものはそうは参らぬ。既に八十四歳にあい成った今日でも、もし心の欲するままに行ふときは、たいてい規矩を飛び越えて乱行となるであろう。幸い今日まで余が規矩を超えず、乱妄に陥らずに済んだのは、一に克己の賜である。」と。
年を取ると己の欲するところが分からなくなる。ああ!。

   2020・5・28
 

  
   湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新。
(大学・伝2章)

  殷の創始者、湯王が顔を洗う洗面器に、次の言葉が彫ってあった。
「苟まことに日に新たに、日々に新たにして、又た日びに新たなり」

  朱注「湯以(おも)えらく、人の其の心を洗濯し、以て悪を去るは、其の身を沐浴し、以て垢あかを去るが如し、と。故に其の盤に銘せり。言うこころは、誠に能く一日以て其の旧染の汙を滌(あら)いて自ら新たにする有らば、則ち当に其の已すでに新たなる者に因りて、日々に之を新たにし、又日に之を新たにすべくして、略(ゆめ)にも間断有る可からず、となり」

   2020・10・28