05 // grow flowers

今日は早朝から太陽宮には、大勢の人間が慌しく出入りしていた。
王女リムスレーアとゴドウィン卿の息子であるギゼルの婚約の儀が執り行われるからだ。
常であれば婚約とは喜ばしいことだろう。
女王家と元老の中で現在の所抜き出た力を持つゴドウィン家の婚約でさえなければ―――そこには様々な思惑が渦巻いていた。

しかし―――表面上は恙無く準備は進められていく。

そんな太陽宮の庭から、ソルファレナの街を静かに眺める少年の姿があった。
その街を、そしてそこに生きる人々を、慈しむようなそんな温かな眼差しで見つめている。

だが、その表情が途端に一変した。
スーッと仮面を被るが如く、感情の色を感じさせない冷たいそれへと変化する。
「義兄上」
そう背後から声を掛けてきた人物の気配を感じ取ってのことだった。
義兄上と呼ばれた少年―――王子エルフィードはゆっくりと振り返る。
その空を思わせる蒼い瞳は、柔和な笑みを浮かべた青年の姿を映す。
だがその笑みが心からのものではないことに、エルフィードはずっと以前から気付いていた。
エルフィードは黙したまま、その青年―――ギゼルと対峙する。

口を開こうとはしないエルフィードの態度をどう取ったのか、ギゼルは芝居がかった大仰な動作で頭を下げる。
「これは失礼致しました。
まだ婚約の段階で、義兄上とお呼びするなどとは気が早かったですね。
ついつい姫様の将来の夫となれることが嬉しくて、浮かれておりました。
どうか非礼をお許し下さい、王子殿下」
言葉は謝罪だが、それもやはり表面上だけのものであろうことを感じる。
どれだけ優しげに微笑んで見せようが、丁寧な口調で話そうが、怜悧に光るその瞳がギゼルという男を如実に物語っている。

「今日はお一人ですか?
いつもの護衛の少女はおられないのですね……。
物騒ですよ、王子殿下のお命を狙う不埒な者がいつ現れるとも限らない。
もしも尊い貴方様の身に何かあれば、一大事ですからね」
空々しく響くその台詞。
エルフィードはそれに対してクスリと小さく笑みを漏らす。
「僕の命を狙う者―――か。
貴方には心当たりがあるのですか?」
ようやく口を開いたエルフィードがギゼルへと問う。
まるで全てを見透かしているかのように。

ギゼルは柔和な表情を崩さぬままに、首を振る。
「まさか……。
知っていたならば、私がすぐに始末していますよ。
ですが―――」
言いながら、ギゼルはゆっくりとエルフィードの方へと歩み寄っていく。
エルフィードは身じろぐこともなく、近付いてくるギゼルを見つめている。

エルフィードのすぐ目の前で立ち止まると、ギゼルはすっと手を伸ばす。
その指がエルフィードの喉元へと絡み付いた。
「気を付けられるに越したことはありませんよ。
今ここでこの手に力を込めれば、貴方の命を奪うことは簡単に出来る。
ここにいるのは王子殿下と私だけですからね―――誰も目撃者はいない。
突然現れた刺客に襲われたのだとでも言えば、真相は闇の中だ。
貴方を快く思っていない貴族達が、そのような暴挙に出ないとも限りませんからね。
あまりお一人で歩き回られない方が良い」
忠告という意味の言葉を語りながらも、ギゼルは未だエルフィードの喉から手を離そうとはしない。

エルフィードはやはり取り乱すようなことはなかった。
恐怖で身が竦んでいるのではないことは、真っ直ぐにギゼルへと向けられる冷静な眼差しが証明している。
「僕をこのまま殺すのですか?」
ギゼルの瞳がすっと細まった。
まるで獲物を狙う俊敏な豹のように。
「さぁ……どうしましょうか」
僅かにギゼルが指に力を込めるも、エルフィードは抵抗しない。

フフッとギゼルは嘲笑にも似た笑みを口元に刻む。
「貴方を見ていると、私はいつも不可思議な感情に囚われるのですよ。
心も身体も真っ白な貴方を、滅茶苦茶に壊してしまいたい衝動に駆られる。
貴方という人は私のように破壊衝動を駆り立てられるか、それとも逆に庇保護欲を掻き立てられるかどちらかなのでしょう。
貴方のことは決して嫌いではないのに、本当に自分でも不思議なのですよ」
自分を見つめるエルフィードの瞳が、怯えも怖れも湛えていないことが、殊更にギゼルの加虐心を煽っているのだとこの少年は気付いてはいないのだろう。
この顔を絶望に歪ませ、自分の前に跪かせてやりたくなる。

そんな仄暗い感情の赴くままに、ギゼルは指に更なる力を込めた。
否―――実際には込めようとした所で、それは遮られてしまった。

「はい、そこまでですよー」
場にそぐわない間延びした声が、ギゼルの行動を制止させた。
その声が聞こえたから、ギゼルは動きを止めた訳ではない。
ギゼルの首筋にぴたりと剣の刃があてられていたからだ。
「カイル殿ですか……」
後ろを振り向かずとも、その独特の口調と、そして気配を全く感じさせずに背後を取られたことで、その正体を理解する。
多少なりとも剣に覚えのあるギゼルであったが、やはり流石は女王騎士というべきか。

「大当たりー」
カイルは相変らず軽い調子で答えるが、その瞳は決して笑ってなどいなかった。
「貴方に私が斬れますか?
私はリムスレーア様の夫となる人間―――すなわち何れは女王騎士長となり貴方の上に立つんですよ」
ギゼルの言葉に、カイルが剣を降ろすようなことはなかった。
ただ可笑しそうにあははと笑う声が返る。
「俺が守りたいのは今の王家の人達であって、貴方ではないんですよー。
だから躊躇う理由なんてこれっぽっちもない。
貴方が王子に仇なすのならば、俺は貴方を殺す」

ギゼルはふっと口端を吊り上げる。
さも愉快そうに。
「そう言うと思っていましたよ。
貴方は、私が王子殿下に抱いているのとは真逆の感情をお持ちのようだ。
何としてでもこの方を守りたいと思っている。
―――私がその大切な方の首に掛けているこの手に力を込めるのと、貴方の剣が私の首を絶つのとではどちらが早いでしょうね」
「試してみますかー?」
カイルが動揺する素振りはない。
絶対の自信があるのだろう。

此処に至って、ようやくギゼルはエルフィードの首から己が手を外した。
「ほんの冗談のつもりだったのですが、少々度が過ぎましたね。
大変ご無礼を申し上げました、王子殿下」
そうしてギゼルはまたもや仰々しく、エルフィードに非礼を詫びる。
エルフィードはそれには答えず、カイルへと視線を移す。
「カイル……もう良いよ、ありがとう」
エルフィードはギゼルに見せるのとは全く違う、柔らかい笑顔をカイルへと向ける。
それを受けて、カイルは剣を鞘へと仕舞った。

エルフィードは何事もなかったかのように、ギゼルの脇を通り過ぎ、カイルの傍へと寄る。
「行こう、カイル」
「はーい」
二人は連れ立って、宮殿の方へと去って行く。
そのままギゼルを気に留める様子もないまま、宮殿の中へと姿を消すかと思われたエルフィードが、突如足を止め、ギゼルのほうを振り返った。

「貴方が何を考えているのか知らないけど、僕は絶対に負けない。
ソルファレナの人々を苦しめるようなこと、そしてリムを悲しませるようなことをしたら、僕は貴方を赦さないよ」
それだけを言い残すと、エルフィードはカイルと共に今度こそギゼルの視界から消えた。

ギゼルは黙って、その場に立ち尽くしたままだ。
いつもの彼ならば、余裕漂う笑みの一つでも浮かべて「胆に命じておきますよ」とくらい返しそうなものだ。
だが言葉が出てはこなかった……。
それはエルフィードの強い意志を宿した瞳と、その身から発せられる気配に、思わず圧倒されてしまったからだ。
身体の内から立ち昇る様な神々しい気―――それは王気と呼ぶに相応しいものだったのかもしれない。

ふいにギゼルの頭に闘神祭終了後の父の言葉が蘇った。
―――将来の禍根の芽を自ら育んでいるのではないのか?
と。
まさにそれを今ギゼルは痛感していた。

ようやく呪縛から解き放たれたように、ギゼルは大きく息を吐き出す。
そうして口元にいつもの笑みを刻む。

例え父の言葉が的を射ていたとしても、ギゼルは後悔などしていなかった。
それでこそ叩き潰す甲斐があるというもの。
久々に感じる高揚感が何とも心地良い。

まだまだ育ててやろう、あの輝く芽を。
そうしていつしか蕾となり、美しい花を咲かせるその時まで。

「ギゼル様」
声と共に、突如目の前に現れた人影。
しかしギゼルは別段驚きはしなかった。
「宜しかったのですか?
あのまま王子の命を取ることも出来たでしょうに」
感情を全く読み取らせない、暗い目をした青年の言葉に、ギゼルは肩を竦めてみせた。
「それほど簡単ではないよ―――あの方の命を奪うのはね」

ギゼルはエルフィードの去った宮殿の方角を見つめながら、半ば独り言のように呟いた。
「美しく花開いたその瞬間、摘み取るのが楽しみだ」
と。



2006.06.24 up