100題 - No56
注:この小説は100題「ちりぢりに」の続きです。

意味
文を書こうかと思った。

これまでのこと。
これから先のこと。
私の想い。

それらをしたためようとしたのだけれど、実際に筆を握ると何も文字にはできなかった。
悩んだ末、私が書いたのは、

「ありがとう」

とただその一言だけ。

彼には本当に感謝していた。
堅物で融通の利かない私を優しく包み込んでくれた。
抱き締めてくれた。
―――愛してくれた。

突然理由も告げずに去る私を彼は許してくれるだろうか。
いや、寧ろ怒って憎んでくれた方が良い。
そして共に歩むべき女性を見つけて、子を為し、幸せになってもらいたい。

もちろん彼が形だけの妻を娶り、関係を続けていくことは可能だ。
外見から派手なように見えても、彼が想いを寄せた人間に一途なことを私は知っている。
だから、婚姻しようとも彼は変わらず私を愛してくれるだろう。
だがそれではあまりにも彼の妻となる女性が憐れではないか。

そこまで考えて、私は小さく首を振る。
違う。
何よりも耐えられないのは、私の心の方だ。
形式だけにしろ孟起に寄り添い、憚ることなく彼と暮らしていける―――今はまだ見ぬ彼の妻となる女性に対して私は平静でいられるだろうか。

湧き上がる醜い感情を断ち切り、文机の前から立ち、室内を見渡す。
この部屋で、何度も酒を飲み、会話し、そして身体を重ねた。
別段、特別だと感じたこともなく当たり前のように過してきた日々が、とても充実したものだったと今更ながらに気付く。
湧き上がってくる感慨を振り払うように、首を振り、私は部屋を出た。

閉じた扉を背にして、私はずるずるとその場に座り込む。
涙が溢れてきて、止まらなかった。
嗚咽を堪えることも出来ず、私はただ泣いた。
今まで辛いことや悲しいことは多々あったけれど、それでも涙など流したことはなかったのに……。
自分がこれ程までに女々しい人間だと思わなかった。
けれど涙は尽きることを知らぬように、零れ落ちる。





さよなら、孟起……。





新しく赴いたその地では、すべき事が山積していた。
砦の建設はもちろんのこと、他所から移動してきた兵の鍛錬、書簡の処理など朝早くから夜更けまで動いていても一向に減ってはくれなかった。
けれど私のとってはその方が有り難かった。
余計なことを考えなくても済むと思ったから。

だが何をしていても、ふとした瞬間に彼の姿が脳裏を過ぎる。
彼の声が間近で聞こえる気がする。
何よりも大きく喪失感を覚えるのは、褥に入った時だった。
いつも傍らにあった温もりはなく、冷たい寝台の感触に身を震わせる。

その度に自嘲する。
一方的に関係を断ち切ったのは私のほうだというのに、未だ彼が傍にいることを切望する自身に対して。
忘れようと思った。
なのに忘れるどころか、会いたい気持ちは日々募っていく。

今までも戦で離れ離れになることは多々あった。
寧ろ共に過ごす時間の方が少なかった。
遠征中は彼のことを思い出すことも稀だったくらいだ。

それでも寂しいなどと思ったことはない。
それはきっと彼と強くと繋がってるという自負があったからだろう。
だがその糸を自ら切ってしまえば、狂おしいほどに彼を求める自分がいた。

なんとも未練がましい自分に吐き気を覚えるほど嫌悪した。

別れのあの日から深い眠りにつくことはなくなった。
正確には出来なくなった。
浅い眠りの合間に見るのは、いつも彼の夢だった。





隣に立つのは私ではなく、腕の中に赤子を抱いた女性だった。
仲睦まじそうに微笑み合って、赤子に優しい眼差しを注ぐ。
本当に幸せそうな彼の姿がそこにはあった。
この為に私は彼の元から去ったのだ。
そう望んでいた筈なのに、私の胸に湧き上がってくるのは醜い嫉妬。

「孟起」
離れた場所からそれを見ていた私は耐え切れずに、彼の名を呼ぶ。
すると彼の視線がすっと私の方へと移される。
その瞳は女性や赤子を見つめていた暖かなそれではなく、凍てつくような冷たさを含んでいた。
「孟起……、私は―――
すると私の言葉を遮るように彼は、
「誰だ?」
瞳と寸分違わぬ冷たい声で問う。

「誰って……」
驚愕の余り言葉が続かない。
「お前のことなど俺は知らん」
一瞥をくれると、最早私には興味がないとばかりに女性達の方へと向き直る。
女性の肩を抱き、そのまま立ち去っていく。

私は一人その場に取り残されるのだ。
絶望と共に。





はっと目が覚めて、私はそれが夢だと認識する。
繰り返し見るその夢。
いい加減に慣れそうなものなのに。
夢で投げつけられた冷たい目と台詞が胸を抉る。
所詮は夢の中のことだと何故一笑に付すことが出来ないのか。

私がこの地に来てから、早一年が過ぎようとしていた。
それは彼との関係が終わってからの年月。
その間、彼からは文の一つも来ることはなかった。

最初のうちは突然居なくなった私に腹を立てているのだと思った。
そのうち何故だと理由を問う文が来るだろうとも踏んでいた。
だがその私の予想は裏切られた。
結局のところ彼にとって私の存在はそれだけのものだったということか。
「別れて欲しい」
そう告げた彼の従兄弟の言葉は、もしかすると彼本人の代弁だったのかもしれない。
ならば、文など来るはずもない……。

何もかもただ私の独り善がりで。
それでも未だに彼を忘れることが出来ない自分がひどく滑稽だった。

あの後すぐに彼は妻を娶ったのだろうか。
彼ほどの男ならばぜひ妻にと望む女性も多いことだろう。
子も生まれているやもしれない。
その情景が夢でみたそれと重なった。
あれはただの夢ではなく、現実なのかもしれない。
彼はもう私のことなどすっかり忘れてしまっているのだ、きっと。





そんな時、一人の女性に想いを告げられた。
私がここに赴いて以来、ずっと私の身の回りの世話をしてくれていた女性だった。
取り立てて美しいわけではない。
だが陽気で、気立ての良い魅力的な女性だった。

このまま彼女の想いを受け入れ、妻に娶れば、彼のことは忘れてしまえるだろうか……そんな思いが過ぎる。
きっと彼女は私には過ぎた良い妻になり、子が出来れば良い母になってくれるだろう。
卑怯な私は彼女を逃げ道にしようとした。

抱き締めた彼女の身体は私の何倍も小さくて、華奢だった。
寝台に彼女を組み敷いた。
彼女は抵抗せず、静かに瞳を閉じた。
私はそのまま彼女を抱くつもりだった。

けれど……。
出来なかった―――
どうしても。

彼の姿が鮮明に甦ってきたから。
愛おしさが溢れてきた。
いくら頭で納得してみせても、心は偽れなかった―――





それからしばらく経った頃だろうか。
私は激しい眩暈と吐き気に襲われ、執務中に倒れてしまった。
過労だと薬師には告げられた。
しばらくゆっくり休んだほうが良いとも。

だが数ヶ月経っても、私の状態は一向に良くはならなかった。
身体が重く、微熱が続いて、頭に霞みがかったように意識がはっきりしない。
自分が起きているのか、眠っているのか。
夢と現(うつつ)の境界線が酷く曖昧だった。

「恐れながら、趙将軍の状態は心の病かと思われます」
そう言った薬師の言葉を聞いたのも夢だったのか、それとも現実だったのか。

心の病―――
本当にそうなのだろうか?
だとすれば原因として考えられるのは一つしかない。
どこまで私は往生際が悪いのか。
いい加減諦めて、忘れてしまわねばならいのに。
忘れなければと思う気持ちと、決してそうは出来ない気持ちが長く葛藤し続け―――とうとう心が悲鳴を上げた。

「大丈夫ですか?」
ぼんやりとする意識の中、優しく声が掛けられ、額に湿らせた布が置かれる。
彼女はあれから後も変わりなく私の世話をしてくれている。
私が酷く傷付けてしまっただろうに。
彼女に対する他者とは違う感情が私の中にあることは確かだ。
けれどそれはやはり彼に抱いているものとは違うのだ。





そっと額に触れられた感触に、私は目を覚ます。
室内は暗く、窓から差し込んでくる月明かりに、もう夜なのだと認識する。
あれからまた眠ってしまったようだ。
それともこれもまた夢の中なのだろうか。
相変わらず意識がはっきりとしない。

「まだ、熱があるな…」
その声に私は身体を震わせた。
途端にぼんやりとしていた頭が覚醒する。
恐る恐る視線を横にずらせば、枕元に腰掛け私の額に手を宛てている人物が目に入る。
金色の髪が月に照らされ、はっきりと見える。
色素の薄いその瞳がじっと私を捕らえている。

「も…うき?」
そこにいたのはずっと忘れられずにいた彼。
けれど私は直に否定する。

あぁ……これは夢なのだと。
私の願望が見せた夢だ。

それでも、それはいつもの夢とは違って、彼の声音も瞳も優しかった。
彼は額から上に手を動かし、そのまま私の髪を梳く。
私の髪が好きなのだと言って、よく彼はこうしていたことを思い出す。
「この夢が覚めなければ良いのに……」
ぽつりと本音が口を突いて出た。
夢の中ならば何でも言えるような気がした。

すると彼は一度驚いたように目を見開いて、戸惑ったような表情になる。
「お前は俺に会いたかったのか?
俺との関係を絶ってしまいたかったから、俺の元から去ったのではないのか?」
「違う……。
本当は会いたくて、会いたくて、堪らなかった。
けどお前のことを想えば、離れるしかなかった。
信じてはもらえないだろうが、私は今でも―――孟起のことが好きだ」

すると、彼の瞳から涙が零れ落ちた。
それが私の頬を濡らす。
はっきりとその感触を感じて、私はにわかに混乱する。

これは夢ではないのかと。

私の疑問を悟ったように、彼の身体が傾き、そして唇に彼のそれが重ねられた。
しっかりとした温もりが伝わってくる。
その口付けが、ずっと霞み掛かっていた私の意識を晴らしていく。

夢ではない。
確かに現実に彼がいるのだ。
私の傍に。

長く深い口付けを終えると、彼は私の身体に覆い被さるように私を抱き締めた。
彼の身体は震えていた。
泣いているようだった。
だが私の目にも溢れてくるものがあった。
「どうして……ここに?」
私は彼の背に腕を廻し、尋ねる。
それは当然の疑問。

そうして抱き締める腕に力を込める。
彼の存在をもっとはっきりと感じたかった。
決して彼を離したくはなかったから。

「お前が倒れて、具合が良くないと聞いて、いてもたってもいられなくなった。
会いたいと思う気持ちを止められなかった」
その言葉が素直に嬉しいと思った。
彼がそこまで私に会いたいという気持ちを抱いていてくれたことに。
もう私のことなどすっかり忘れてしまっていると思っていたのだから。
けれど……。

「孟起……奥方はどうした?
何も言わずに飛び出してきたのではあるまいな?」
彼はもう共に歩むべき伴侶を見つけているはずだ。
それを考えれば、今の気持ちを言葉に出すことは憚られた。
「いない」
「えっ?」
「妻などおらん。
お前という人間がいるのに、何故妻など娶らねばならんのだ。
岱にも散々に薦められたが、俺にそんな気持ちは微塵もなかった」

信じられない思いで彼の言葉を聞いていた。
では何故、黙って彼の元を去った私に何も言ってはこなかったのか。

その疑問を口にすれば、孟起は私から身体を離し、苦しげに眉を寄せた。
「最初は怒っていたさ。
あんな短い書置きだけを残して、去って行ったお前にな。
どうしてだと問う文をお前に出そうと思った。
すぐにでも後を追おうかとも考えた。
だが丞相に止められた。
お前には心に決めた女がいて、向こうで一緒になるつもりだと……そう聞かされた。
だから文も書かなかった。
お前が幸せになるのなら、決して邪魔はすまいと。
それでもどうしてもどうやってもお前を忘れられはしなかった」

嘘だ。
私にそのような女性はいない。
だがすぐにそれは丞相が私の為に吐いてくれた嘘なのだと悟る。
私が後悔はしないと彼との別れを決めたのなら、その心を決して乱さすまいと。

彼が私に対して連絡を取ろうとしなかった訳。
それは私が彼の幸せを願っていたように、彼もまた私の幸せを願っていてくれてたから。

「お前の方こそ奥方は?
すまん……思わず抱き締めてしまったが、奥方に見られれば拙かろう?」
私は苦笑して、首を振る。
「いないよ。
私もずっと独り身だ。
いや違うな……心はずっとある人間に囚われたままだ」
彼は驚愕した様子でしばらく私を見つめていたが、やがて心底嬉しそうに笑った。
「俺は自惚れても良いのか?」
「さぁ…」
私は身体を起こすと、今度は自分から孟起に口付けた。

それが答えだった。

私たちは互いの幸せを願ってすれ違ってしまっていた。
けれど結局、手放そうとしたものこそ本当の幸せだったのだ。
私には彼が必要で。
そして彼には私が必要なのだ。

口付けの合間に彼が囁いた。
「俺もこの地へ赴任しろとの丞相からの命を受けた。
如何にお前でも一人で執り行うには仕事量が多過ぎるだろうと。
もう無理はするな。
俺が傍にいるから」
と。







written by y.tatibana 2004.11.21
 


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