100題 - No55 |
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いつまでもこの関係が続いていく―――。 そう信じていていた訳ではない。 いつか終わりがくる。 否……そうしなければならない関係なのだ。 けれど、彼との関係は今まで感じたことのない満ち足りた暖かさを齎してくれた。 それを手放したくはなくて、その問題から目を背けていた―――。 「子龍、子龍……」 優しく名を呼ばれる声に、私の意識は眠りの淵から掬い上げられる。 ゆっくりと目を開くと、私と抱き合う格好で身を横たえている孟起の視線とぶつかる。 私も彼も何も身に纏ってはいない。 昨夜身体を重ねて、疲れた身体が休息を欲するままに眠りについてしまった。 けれど情交の名残は綺麗に私の身体の内外から取り払われているようだ。 恐らく孟起が眠ってしまった私に代わり、事後の始末を全て為してくれたのだろう。 「随分よく眠っていたな。 すまない、もう少し寝かせてやりたかったんだが、今日は朝から軍議があるからな」 申し訳なさそうな孟起に、私は首を振り、起き上がる。 「いや、お前が謝ることは何もないだろう。 私のほうこそ詫びねばならん。 私が眠っている間に―――後のこと……してくれたのだろう?」 「それぐらいのこと当たり前だ。 お前に負担を掛けているのは分かっているからな、せめてそのくらいは…」 言いながら、孟起も身を起こす。 そのまま不意打ちのように私の唇に孟起のそれが触れた。 「も…」 私の抗議の声は、再び重ねられた唇に遮られる。 長い口付けの後、孟起がその身を離した時には、私の息はすっかり乱れていた。 「も…うき…っ!」 そう睨んで、怒鳴ってみても、孟起は少しも悪びれた様子はない。 「そんな潤んだ目で睨まれても、全然怒っているようには思えんぞ、子龍。 本当ならこのままお前を抱きたい所だが、流石にそれは止めておくとしよう」 からからと笑って、孟起は寝台から先に降りる。 これ以上何を言ったところで、孟起は堪えはしないのだろう。 やれやれとばかり盛大に溜息を吐くと、私も寝台から降り立ち、孟起共々身支度を始める。 もうしっかりと私に馴染んでいる。 彼の部屋で朝を迎えることも。 こうして二人して身を整えることも。 私の生活の一部分として、違和感なく溶け込んでいる。 「一度、私は邸に戻る。 丞相に渡さねばならぬ書簡もある故」 一足先に支度を終え、私は孟起にそう言い置くと、彼の部屋を後にした。 そのまま邸から外への戸口に向かいかけた時、 「趙将軍…」 そう控えめに掛けられる声に、私は振り向いた。 立っていたのは、今や孟起にとって唯一人の血族である馬岱殿だった。 私と孟起との関係を彼は知っている。 そのことについてはっきりと彼に告げた訳ではなかったが、こうも頻繁に互いの邸を訪ね、朝まで共に過ごしているのだから、孟起と共に暮らす彼に分からぬはずはないだろう。 だが実際孟起と褥を共にした後に、こうして彼と顔を合わせるとどんな表情を作ったらいいものかと戸惑ってしまう。 どうしても気恥ずかしさが勝ってしまう。 しかし、いつもならそんな趙雲を慮ってか柔和な笑顔の彼が、今日は随分と思いつめた様子に見えた。 「どうかされたのか?馬岱殿…」 小首を傾げて私が問うと、彼はぐっと拳を握り締めた。 そうして迷いを振り切るように首を振る。 「少し、お話が…。 ここでは話し難いこと故、私の部屋に来ては頂けませんか?」 一体どうしたというのだろう? 私には彼がそれ程真剣な面持ちで何を告げたいのか全く分からなかった。 促されるがまま、彼の自室に向かう。 初めて入る彼の自室は孟起の部屋に比べると随分調度品の類も少なく、飾り気もなかった。 激しい気性の孟起に対して、穏やかな彼。 二人の性格の違いがこうして部屋にも表れているのだな……と、このときの私は呑気にも室内を見回し思っていた。 一方私を部屋へと誘った彼はといえば、じっと私の顔を見つめたまま黙り込んでいる。 「して、話とは?」 彼が一向に口を開こうとはしないので、私の方から切り出してみる。 あまりゆっくりとしている時間はないのだ。 一旦邸まで戻り、軍議の為、城へ向かわねばならない。 すると、彼は私が全く予想もしていなかった行動に出た。 突然床に手を付き、更に深く頭を下げたのだ。 「!!」 驚きに目を見開く私に、馬岱殿は搾り出すような声で告げた。 「どうか…どうか―――兄上との関係はもう終わりにしては頂けないでしょうか? お願いします、趙将軍!」 彼は顔を上げようともせず、私はといえばどんな反応も返せずにいた。 「貴方のお陰で兄上は昔のように笑顔を見せてくれるようになりました。 とても優しい瞳になった……。 貴方には言葉では言い尽くせぬほど感謝致しております。 ですが―――兄上には馬家の血を残して頂かねばならないのです!」 必死で言い募る彼を前に、急速に自分の頭が冷静さを取り戻していくのが分かった。 それはずっと私も考えていたこと。 けれど目を背け続けていたこと。 いつの日か終わりにしなければならない関係なのだと。 私には孟起の子を宿すことは出来ない。 どれだけ私が彼のことを想っていも、それだけは叶いはしないのだ。 とうとうその問題と向かい合うべき時が来たということか……。 「どうか顔を上げてくれ、馬岱殿」 胸を刺す痛みを覆い隠し、私は膝を付き、未だ頭を下げたままの彼の肩に手を置いた。 ゆるゆると彼の頭が持ち上がってくる。 その顔は涙に濡れていた。 そこからは彼の苦悩が痛いほどに感じ取れた。 彼とてこんなことは言いたくはなかった筈だ。 それでも孟起の…そして一族のことを思えばこそ、こうして土下座までして私に告げたのだ。 「貴殿がそのようなことをされる必要はない。 貴殿は何も間違っていない」 私は彼を安心させるように微笑んで見せた。 心の中は酷く乱れていたけれど……。 「少しだけ、時間をくれぬか、馬岱殿」 誤っているのは自分達の関係なのだ。 それは充分に承知していた。 けれど今すぐこの場で答えは返せなかった。 「申し訳ありません……本当に申し訳ありません、趙将軍」 項垂れる馬岱殿を立ち上がらせると、私は静かに彼の部屋を後にした。 軍議では北方の領地に新たに砦を築くとの丞相からの話があった。 最近、北方での賊の活動が活発で、その地方の治安が悪化していると聞く。 魏が裏でその糸を引いているとの話もある。 それに対して、兵の方は既にそちらに移してあるとのことだった。 あとは現地で指揮する人間が必要になるとも。 私は丞相の話に耳を傾けながらも、そっと向かいに座る孟起の様子を伺った。 別段変った様子はない。 頬杖を付いて、丞相の話に聞き入っているようだ。 孟起は彼から何か話を聞いただろうか。 それはないか……と直に私は否定した。 聞いていたのならば、あのように平然とはしていないだろう。 彼の性格からすれば。 これまでの人生の中で、これ程までに誰かを愛しいと思ったことはない。 そんな孟起との関係を終わりになどしたくはい。 だが、それは私の我儘。 孟起のことを考えるのならばやはりこのままではいけないのだ。 一族の再興は彼にとって悲願なのだから。 私は決心した―――。 軍議の後、丞相の執務室を訪ね、頼まれていた書簡を手渡す。 「お手間を取らせてしまって申し訳ありませんでしたね、趙雲殿」 「いえ…」 用は済んだのに立ち去ろうとはしない私に、丞相は怪訝そうな目を向ける。 「どうかなさいましたか?」 「お話が……いえ、折り入ってお願いがあります」 真剣な私の面持ちに、丞相は何かを感じ取ったのか人払いをしてくれた。 文机に座していた丞相は、身体ごと私の方へと向き直る。 向かい合った丞相へ、私は決意を込めて口を開く。 「先程の軍議でお話のあった北方の砦建設の件ですが、もう人選はお済みでしょうか?」 「……いえ、まだ決めてはおりません。 急がねばならぬ問題なので、近々とは思っているのですが」 「では私にその任をお与えくださいませんか?」 私の言葉に、丞相は軽く目を瞠った。 この御仁が僅かではあるが、このように感情を表情に表すのは珍しい。 それ程私の言葉は彼にとって意外だったのだろうか。 「本気ですか?」 「無論です、冗談でこのようなことを申しはしません」 私が微笑むと、丞相は小さく吐息を漏らした。 「魏との国境もありますし、賊の活動も活発な地域です。 恐らく何年も成都には戻っては来れませんよ?」 「私は武人ですよ、丞相。 そのようなこと、何も恐れてはおりません」 「―――馬超殿とのことはどうなさるのです?」 今度は私が驚く番だった。 私を見る丞相の瞳は静かだった。 けれど何もかもを見透かしているような、そう思わせる瞳。 それは思い違いなどではなくきっと真実なのだろう。 彼は私と孟起の関係に気付いている。 私はゆっくりと頭を振る。 「彼には幸せになって貰いたいのです。 だから私は……もう傍にいるべきではない。 私情でこのようなことをお願いするのは許されるべきではないと分かってはいるのですが……」 言って、私は深々と頭を下げた。 それだけで丞相は全てを悟ってくれたようだ。 「私としては貴方に彼の地へ赴いて頂けるのならば、申し分ないのですが……本当に宜しいのですね?」 もう決めたことだった。 引き返せはしない。 「はい」 頷いて、私は再度笑顔を作る。 だがそれが上手く出来ているのか、自信はなかった。 「そうですか……ならば貴方にお願い致します。 主公の方には私から申し上げておきます。 ―――すぐに発たれますか? それとも……」 丞相が私のことを慮ってくれているのだとすぐに分かった。 孟起に何も告げることなく、成都を後にするか。 それとも全てを彼に告げ、別れを惜しむ時間が必要かと。 「できればすぐに出立したいと思います」 孟起に全てを告げても、彼はきっと納得などしないだろう。 何より彼と顔を合わせてしまえば、決心が揺らいでしまいそうだ。 「分かりました。 では必要な人間や物資などは私の方で準備して、お送りいたします。 後のことはお任せ下さい」 「本当に我儘ばかりで申し訳ありません……。 感謝致します」 私は拱手すると、立ち上がった。 扉へと向かう私の背に、丞相が再度問う。 「もう一度だけ伺います。 本当に後悔なさいませんか?」 「はい」 そう答えて、私は部屋を出た。 いよいよ―――別れの時が来た。 written by y.tatibana 2004.11.06 |
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