100題 - No39 注:この小説は100題「これを限りの」の続きです。 |
|
馬超は立ちすくんだまま呪縛にかかったかのように動けずにいた。 趙雲はそんな馬超を見つめ、ただ綺麗な笑顔を見せている。 その足元には趙雲が纏っていた血染めの戦袍が脱ぎ捨てられている。 ―――別れましょう。 趙雲は唐突にそう告げた。 普通の言葉と変わらぬように至極平然と。 だがその言葉を馬超は理解できずにいる。 否。 理解したくないのだ。 いつの頃からか趙雲が見せるようになった物憂げな表情。 じっと何事かを考え込み、その瞳には酷く悲しげな色が宿っていた。 抱き締めても、肌を合わせても…彼の心はまるでどこか遠くになるように思えた。 趙雲がそうやって思い悩んでいたのは、やはり自分との関係だったということか。 何度も打ち消してきたそれを、とうとう趙雲の口から聞くことになった。 予感はあった。 だが想像以上にその衝撃は大きく、馬超の胸を抉った。 顔を強張らせたまま、馬超はようやく口を開く。 「本気…か…?」 一縷の望みをかけ、問うた。 けれど趙雲はあっさりと頷き、それを肯定する。 「えぇ、もう貴方とはこれきりです。 ですから最後に抱いて下さい―――そう言ったのです。 それとも血に汚れた私の身体など抱きたくはありませんか?」 馬超は呆然とした様子で、ゆるゆると首を振る。 「どうしてだ?子龍。 お前がずっと考え込み俺に告げようとしていたのはこのことだったのか?」 「ですから、そう申し上げているではありませんか。 私はずっと後悔していました…貴方と関係を持ったことに。 私達の関係は本来許されるべきものではありませんから。 つい流れのままに今まで時を重ねてきてしまいましたが、いい加減目を覚ますべきです、貴方も私も。 身体だけで繋がっていた関係です―――最後もまたそれで終えるのが相応しいとは思いませんか?」 趙雲の瞳からは一欠片迷いも読み取れなかった。 もう彼は決断してしまっている。 一方的に―――馬超との別れを。 身体だけで繋がった関係。 そんな風に考えたことなど断じてなかった。 趙雲のことを愛しいと思うから抱きたいと思った。 身体だけを求めていた訳ではない。 けれど趙雲はそうではなかったということか。 本人の言う通りただ馬超に流されるままに関係を続けてきただけなのだと。 怒りとも虚しさともつかない、やるせなさに全身を支配されていく。 馬超は趙雲の腕を捕らえ引き寄せると、乱暴に趙雲の身体をその場に押し倒した。 背を強かに打ちつけられた趙雲が小さく呻く。 その趙雲の身体に圧し掛かった馬超は冷たい瞳で趙雲を見下ろし、口元を歪める。 「抱いてやる―――お前の望みどおりにな」 首筋に噛み付くような口付けを落す。 ―――血の匂いが香った。 「どれだけ湯を浴びても、身体を洗い流そうとも…長年染み付いた血の匂いは消えてはくれませんね。 此度の戦でも多くの命を奪いました。 一体どれほどの人の血を浴びてきたのでしょう―――そしてこれからも私の身体は血に濡れていく」 ぽつりと呟かれた趙雲の言葉に、馬超はつと視線を上げる。 虚空を見つめる趙雲の瞳はやはり哀しみに彩られていた。 「それは俺も同じことだ。 武人ならば当然の…」 「えぇそうですね。 私は別段武人としての自分を後悔している訳ではないのですよ。 そうではなく私は―――」 言いかけて止め、趙雲は溜息と共に首を振る。 「…もう止めましょう。 こんなことを話していても詮方ないことです。 私達にはもう会話など必要ありません―――ただ抱き合って快楽を貪るだけで良い」 もう話すことはないとばかりに趙雲は目を閉じる。 それは身体を合わせること以外には興味がないのだという様がありありと見て取れる。 再び昏い気持ちに心が支配されていくのを馬超は自覚した。 馬超も最早何も言わず、趙雲を抱いた。 ただ激情の流れゆくままに―――。 趙雲が別れを切り出した時にはまだ高かった陽はとうに落ち、室内には青白い月の光が差し込んでいた。 馬超の身体の下の趙雲のその顔はすっかり色を失い、手は力なく床に投げ出されている。 その目も堅く閉ざされたままだ。 ようやく馬超は趙雲から身体を離す。 それでもぴくりとも趙雲の身体は動かなかった。 意識を失っているようだ。 戦から戻ったばかりの疲労の上、馬超に散々身体を蹂躙されたのだ。 無理からぬことだ。 そんな趙雲の姿に馬超は何かに耐えるように眉根を寄せ、拳を握り締める。 虚しさや後悔や怒り…様々な感情が綯い交ぜになっている。 乱れた息を肩で整え、昂ぶった気を落ち着かせる為大きく息を吸い込んだ。 そのまま馬超は部屋を出たが、またすぐに戻ってきた。 濡らした布と新しい衣を携えて。 その布で趙雲の身体を清め、衣を着せると、趙雲を抱き上げ寝台へと運んだ。 まだ趙雲が目を覚ます気配はない。 寝台の淵に腰掛け、馬超はそっと趙雲の頬に触れた。 もう二度とこうして趙雲に触れることは叶わないのだろうか。 共に夜を過ごし、朝を迎えることも。 ―――気が狂いそうだ。 また昏く冷たい感情が頭を擡げてくる。 馬超はそれを振り払うように強くかぶりを振り、立ち上がる。 このままここにいれば趙雲をまた無残に引き裂いてしまいかねない。 頭を冷やすべく馬超は部屋を出て行った。 それからどれくらいたった頃だろう。 ようやく趙雲の瞳がゆっくりと開かれる。 だが一点をぼんやりと見つめたまま趙雲は動こうとはしない。 正確には動けないのだ。 全身を疲労と痛みが支配していて、指の一本さえ動かすのも億劫だった。 部屋の中に馬超の気配はない。 視線だけを自分の身体に落せば、身が清められきっちりと新しい衣が着せられている。 それらを趙雲に施し、寝台に運んだ後出て行ったのだろう。 趙雲は小さく笑みを漏らす。 やはり非情にはなれきれぬ男だと。 散々悩まされ傷付けられた挙句、一方的に別れを切り出した者のことなどそのまま床にでも転がしておけば良いものを。 それくらいの痛みが自分には丁度良い。 馬超の優しさを知れば知るほどそれは―――、 彼の中と自分の中に流れるものの違いをまざまざと見せ付ける。 ゆるゆると趙雲はまるで己の身体ではないように重く感じる身体を起こした。 ひどく喉が渇いていた。 傍らの水差しから水を移そうと、趙雲は器を手に取る。 だがそれはポロリと趙雲の手から滑り落ち、床とぶつかり割れた。 溜息を吐き、趙雲は割れた破片を拾い集めようと、寝台から床へと手を伸ばす。 少し大き目の欠片の一つを手に取った趙雲は、何を思ったのか掌にそれを載せたまま動きを止める。 やがてその破片ごと手を握り込む。 ぐっと強く力を込めて。 指の間から温かいものが滴り落ちる。 趙雲はその己の手を微動だにせずじっと見入っていた―――。 部屋に戻って馬超が目にしたものは、寝台の上で手から血を流す趙雲の姿だった。 月明かりに照らされた趙雲の表情はどこか虚ろで、心ここにあらずという様子だ。 馬超が戻ってきたことにも全く気付いていない。 目を見開き思わず馬超は立ちすくむ。 床に散った陶器の破片、流れる血。 直ぐに点が線になった。 すると自然と身体が動いていた。 「子龍!お前何を…!?」 声を荒げ、馬超は趙雲の元へ駆け寄った。 「子龍!!手を開け…!早く!」 それでも趙雲は手を見つめたまま動こうとはしない。 止め処なく流れる血が、趙雲の手だけではなく、衣も掛布も染めていた。 「私の…私の血は……赤いですか?」 ようやく趙雲は呟くように言葉を漏らす。 「子龍?」 「私にも赤い血が…流れてますか?孟起…。 分からなくなるのですよ、戦の後は特に。 人の命を奪うことに何の躊躇いも痛みも感じない。 返り血を心地良いと思うことさえある。 そんな私に―――みなと同じ赤い血が流れているのかと…そんな疑念がよぎるのです。 私は人ではないのかもしれない…と」 「何を馬鹿なことを言っている!」 馬超は趙雲の手を取り、力ずくでその手を開かせる。 血に染まった陶器の破片が趙雲の手から零れ落ちた。 「お前にも見えているだろう!? お前にも当然赤い血が流れているではないか!」 馬超は己の衣の袖口を破ると、それを趙雲の手へ素早く巻きつける。 「それに…例えお前が人であろうがなかろうが俺のお前への気持ちは揺るがない。 何も変わりはしない」 馬超はきっぱりとそう言いきる。 じくじくと痛む己の手を見つめながら、趙雲は哀しげに微笑んだ。 「貴方は本当に優しいですね。 いつも私を包み込むように暖かくて……そんな貴方の側にいることがとても心地良い。 けれど戦場で倒れ伏すたくさんの兵を見た時ふと思ったのです。 私が何の痛みも感じず殺めたこの人達にも、大切に想い想われる家族や恋人がいるのだろう。 それなのにもうこの人達は二度とその温もりを感じることもない。 なのに無慈悲に命を奪った私は、貴方という人に愛し愛されて幸せを感じている。 私にそんな資格があるとお思いですか? そしてそんな自分が酷く醜く汚いもののように思えてきて―――」 趙雲はゆっくりと馬超へと視線を移した。 涙を流している訳ではなかった。 けれど馬超には趙雲が泣いているように見えた。 「私のそんな醜さが、いつの日か優しい貴方をも汚し、そして殺めてしまうのではないかと…そう思うと恐ろしかった。 人としての心の痛みを失くしてしまった私には安らぎよりも苦痛のほうが相応しいのです。 それにも拘らず私は貴方の優しさに溺れ、それを手放せなかった。 ずっと別れを告げようと思っては出来ず悩んで―――そんな私の弱さが貴方を傷つけているのを分かっていながら。 だから今日こそは別れようとようやく決心しました。 それなのに変わらず貴方は優しくて……私の中に流れるもののとの違いをまざまざと見つけられます」 「それは違うぞ、子龍」 馬超は瞳を細め、目の前の趙雲の髪を梳く。 「お前は俺を買いかぶり過ぎている。 俺は決してお前が思うような優しい人間ではない。 はっきり言って俺はお前以外の人間の生き死になど興味もなければ、躊躇いもなく殺せる。 お前同様心も痛まぬさ。 もしこの国が滅ぼうとも俺には関係のないことだ。 お前さえいてくれればそれでいい」 「孟起…」 「俺の中にもお前と同じ―――いやそれ以上に冷酷なものが流れている。 それが人ならざるものだとお前が思うのならば、それで構わぬ。 ならば二人で共に堕ちていこう。 そこがどんなに暗い地の底であってもいい―――そこにお前がいれば…そこが俺にとっての生きる場所になる」 じっと馬超を見つめる趙雲の唇に深く口付けると、趙雲の身体を抱き締めた。 絶対に離しはしないのだとの想いを込めて。 やがてそれに応えるように己の背に廻された趙雲の腕を感じ取って、馬超はただ静かに微笑んだ。 written by y.tatibana 2004.03.03 |
|
back |