100題 - No38

これを限りの
確かにそこにあるはずの存在が酷く遠く感じる時がある。
「好きだ」
そう囁き抱き締めても、時折その瞳に憂いが降りる。
そしてその唇は何事かを告げようと開きかけては、また閉ざされる。
けれど拒まれることはない。
口付けも身体を重ねることも。
「嫌なのか?」
問えば、かぶりを振りそれを否定する。

何に心を苛まれ、そして何を告げようとしているのか。
尋ねても答えが返ってくることはない。
なにひとつ分からぬまま、ただ日々は過ぎていった―――





馬超は城門に背を凭せ掛け、そこから続く道の先をじっと見つめていた。
戦を終え、多数の兵が次々と帰還してくる。
家族や恋人との再会を喜ぶ兵達の姿がそこかしこで見られる。

馬超もまた彼の人を出迎える為、ここでその姿を待ちわびているのだ。
ややして、白馬に跨った馬超の待ち人が、こちらに向かってくるのが視界に入った。
徐々に大きくなってくるその姿。
彼もまた城門の馬超に気付いたようだ。
馬超へ向け穏やかに微笑んでみせる。
けれどその微笑が悲哀を帯びていることに、遠目にも馬超は気付いた。

いつもそうなのだ。
戦の後の彼―――趙雲は。

やがて馬超の元まで辿り着いた趙雲は馬上から降り、馬超の前に立つ。
「お帰り、無事で良かった」
本当は今すぐにでも抱き締めて口付けたいのだけれど、まさか周囲にこれだけの人がいる状況ではそういう訳にもいかない。
「怪我はないのか?」
目の前の趙雲の戦袍はあらゆる所が赤く染まっている。
だがそれは恐らく―――

「はい、大丈夫です。
どこにも怪我など負ってはいません」
趙雲は静かに首を振る。
馬超の予想通りやはりそれは全て返り血なのだろう。

馬超はほっと息を吐く。
趙雲程の武人ならばそう簡単に傷を負うことも、まして命を落すこともないだろう。
今回は辺境での小規模な小競り合いだった筈だ。
それでも何が起こるか分からないのが戦なのだ。
無事を確かめるまではやはり気が気ではない。

戦には勝利し、無事に帰還できたというのに、やはり趙雲の表情は浮かない。
「どうかしたのか?」
「何も……」
それは今まで幾度となく繰り返されてきた会話。
「……行こうか」
それ以上問うことはせず、馬超は歩き出す。
趙雲もまた馬を引き、そのあとに続く。

だが二人の間に会話はなく、ただ黙々と互いに足を進める。
馬超がそっと肩越しに趙雲の様子を伺えば、彼は目を伏せ、じっと何かを考え込んでいるようだ。
おそらくそれが何か尋ねても、趙雲からは先程と同じ答えしか返ってはこないのだろう。
こういう時いつもすぐ側にいる筈の趙雲がどこか遠くにいるような錯覚に陥る。

「子龍、俺は自分の邸にもどるが…」
それを振り払うように馬超は趙雲に声を掛ける。
視線を上げ馬超を捕らえた趙雲の瞳はやはり物憂げだ。
「ご迷惑でなければ、私もご一緒して構いませんか?」
「無理することはないのだぞ?」
無意識のうちに低く冷たい声が、口を突いて出た。

趙雲の表情と態度を見ていると、彼が嫌々ながらに自分に付き合ってくれているのだと思えてならなかった。
もしかするとずっと以前から―――そう自分と一線を越えてしまったことに後悔の念を抱き続けているのではなかろうかと。
それは心の中を過ぎっては打ち消してきた嫌な予感。

馬超の言葉の意味するところが分からなかったのか、小首を傾げる趙雲に、
「無理して俺に付き合う必要はない!」
素気無く言い捨てて、馬超は歩調を速める。
趙雲の口から自分の考えが肯定されるのが恐ろしかったのだ。
だが後ろからは馬超を追うように、変わらず趙雲の足音が聞こえてくる。

また傷付けてしまっただろうか。
誰よりも何よりも趙雲のことを大切に想っているにも拘らず、こうして彼との距離感を感じる度に冷たい言葉を投げつけてしまう。

邸までの道のりがいつもよりずっと長く感じられる。
重々しい沈黙を纏ったまま、ようやく二人は馬超の邸へ帰り着く。
さっさと中に入ってしまった馬超の背を辛そうに見遣り、出迎えに出ていた家人に馬を預けると、趙雲もまたその後に続いた。





寝所の窓辺により、馬超は腕を組んだまま外を眺めている。
趙雲が少し遅れて部屋に入ってきてたことにもちろん気付いてはいたが、憮然とした表情のまま馬超は趙雲の方を見ようとはしなかった。
趙雲もまた黙り込んだまま、戸口のところで立ち尽くしている。

どれだけそうしていただろう。
「…湯浴みの準備がしてある」
ようやくぽつりと馬超は口を開く。
相変らず視線は外に投げ掛けたままではあったが。
「疲れているだろう…。
湯を浴びてゆっくり身体を休めてこい」
「…はい、お気遣いありがとうございます」
趙雲は馬超の勧めに従い、静かに部屋を後にした。

閉じられた扉の向うで馬超がどのような気持ちでいるのか、それは趙雲自身もよく分かっていた。
己の態度が馬超に距離を感じさせてしまっているのだ。
馬超はそのことを酷く気に病み、心を痛めている。
そしてその馬超の姿を見て、趙雲の心もまた締め付けられるのだ。
何とも愚かしい堂々巡りだろう。
全ての原因は自身にあるというのに、趙雲はそれをどうしようも出来ずにいる。
いい加減告げねばならぬと思うのに、己の心の弱さがそれを許さない。

長い廊下の先で立ち止まり、戸を開ける。
室内には湯気が立ち上っている。
そしてその入り口には白く綺麗に整えられた衣が用意されている。
趙雲がここに来るかどうかなど分からなかったであろうに、馬超は趙雲が戦での疲れを癒せるようにこうして湯浴みの準備を整えて待っていてくれたのだろう。

だがそんな馬超の優しさがまた趙雲の胸を抉るのだ。
馬超の自分への想いが如何に深いものかを感じる度に、過ぎる想いがあった。

それを最初に感じたのはいつのことだったろうか。
それはある時ほんの一瞬胸を過ぎっただけのものだった。
けれど一度芽生えたその小さな翳りは、次第に心を侵食していった。
それを馬超に告げるつもりはなかった。
自分でもどうしようもないそれを、彼に言ったところでどうなるものでもない。
言わなければと思い続けているのは、別の言葉だ。

今日こそは言おう―――そう決めていた。
こんな気持ちを抱えたままでは、これからも馬超を傷付けていくことになる。
もうこれ以上彼を苦しませたくはない。





湯浴みを終え、趙雲は寝所に戻る。
馬超は先程と変わらず外を眺めたままった。

「孟起」
趙雲に名を呼ばれ、ようやく馬超は身体を反転させ、趙雲へと向き直った。
だが―――
「!!」
趙雲の姿を認めた馬超は、驚きに目を見開く。
「お前…」
続けるべき言葉が出てはこなかった。

馬超が用意してあったはずの新しい衣に袖を通さず、趙雲は帰ってきたときと同じ返り血で汚れた戦袍を身に纏ったままだった。
趙雲はゆったりと綺麗な微笑を作る。
「貴方のお心遣いには感謝致します…しかし―――私には血に濡れたこの姿こそ相応しいですから」
ゆっくりと趙雲は馬超の方へと近付いていく。
馬超の前で立ち止まると、驚愕したままの彼の唇に自分のそれを重ねあわせた。
そうしてふわりと身を離す。



―――血の匂いがした。



それは趙雲の戦袍から発せられたものなのか。
それとも彼自身の身体から香ったのだろうか。

微動だにしない馬超の瞳をじっと見つめ、趙雲はずっと言えずにいたその台詞をようやく音にした。
―――今日を限りにして下さい。
別れましょう…孟起」

趙雲の言葉を理解しているのいないのか。
呆然と馬超は立ち尽くしたままだった。
それを気にする様子もなく、趙雲は続ける。
綺麗に微笑んだまま―――
「最後に……血濡れのこの身体を抱いて下さいますか?」
趙雲は朱色に染められた戦袍を脱ぎ捨てたのだった。





written by y.tatibana 2004.02.14
 


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