19 // One's mission

セラス湖に聳えるシンダルの遺跡。
そこを本拠地にしようと言い出したのは、軍主である少年にいつも付き従う護衛の少女だった。
ソレイユ城と名付けられたその場所は、最初はがらんとして寒々いものだった。
しかし人が集まるにつれ、賑やかで活気溢れる正に本拠地というに相応しい場所になった。
心ならずもそこは反乱軍という汚名を与えられた人々の、謂わば希望の象徴だ。
自分達にも帰るべき場所がある、そこに帰れば仲間達の暖かい笑顔が迎えてくれる……そんな心の拠り所の場所。





そのソレイユ城を巡って重大な決断を迫られることになったのは、ゴドウィン側がアーメスと手を組み、進軍してきた時だった。





「ここを守る」
はっきりとした声でそう宣言したのは、軍主の少年―――エルフィードだった。
それを受けて、軍師であるルクレティアは深々と溜息を吐いた。
エルフィードへと自分は心底呆れ返っているのだと、知らしめるかのように。
「王子、私達の目的は何ですか?
ここを守ることでしたか?
姫様と王都を奪還することではなかったですか?」
いつもは穏やかな笑顔を浮かべているルクレティアだったが、この時の彼女にそれはなかった。
羽扇片手に静かだが、厳しい口調で、ルクレティアは矢継ぎ早にエルフィードへと問い掛ける。

エルフィードは拳をぐっと握り締め、そんなルクレティアを睨み付けた。
「……何と言われようが、この城は守る」
「何をそんなに意地になっているのです?」
ルクレティアの冷めた眼差しが突き刺さる。
「意地になどなっていない!」
それに対して、エルフィードは声を荒げて、大きく頭を振る。
まるで子供が駄々をこねるように。
「命令だ!
なんとしてでもここを死守する!」
普段は物腰の柔らかい、静かな印象の少年だった。
こんなにも感情を露に怒鳴るエルフィードを、今まで誰も見たことはなかった。


しかしその場に居た者達の考えもまた、ルクレティアと同じだった。
今この場所に固執して、敵の大軍と戦うことがどれだけ危険を伴うことかを分かっていたからだ。
たとえ守りきれたとしても、こちら側も甚大なダメージを受けることは必至だ。
なのにエルフィードがそこまで固執する理由は何であるのか。
それが分からぬような愚かな少年ではないことを皆知っている―――にも拘らず、彼の頑なな態度は何ゆえだろうと、困惑を齎す。

ガレオンやラージャも説得を試みるが、エルフィードは首を縦には振らない。
諭されれば諭されるほどに、彼は益々意固地になっていくようだった。
軍主たるエルフィードに命令だと繰り返されれば、結局従わざるをえない。
それがどれだけ危険で無謀な選択であったとしても。

誰の言葉にも耳を傾けようとしないエルフィードに、最早周囲はお手上げの状態であった。
どうあってもエルフィードの意思は翻りそうにない。
ルクレティアはまたもや大仰に溜息を落とす。
「王子がそこまで仰るのなら、致し方ありません。
ただ―――どんな結果になろうとも、その現実から目は逸らさないで下さい」
感情を押さえてはいたのだろうが、ルクレティアの声はかなりの冷たさを含んでいる。
頭の中でこれから先に起こることを容易く想定できる彼女だけに、流石にやり切れない思いだったのだ。
自分がいくら策を巡らしたとて、大きな痛手を被ることは避けられないだろう。

「それではこの城を守る手はずを―――」
「ちょっと待ってください」
ルクレティアが口を開いたのを、遮るように言葉を発した者がいた。
それまでずっと黙り込んで、事の成り行きを見守っていた女王騎士のカイルであった。
「俺は王子がどう仰ろうと、ここを守ることには反対です」
カイルの視線は真っ直ぐにエルフィードへと注がれている。

興奮の為か顔を高潮させ、肩で息を整えていたエルフィードは、思わぬカイルの台詞に目を見開いた。
彼だけは絶対に反対しないと……自分の気持ちを理解してくれると信じていた。
この城を守るという自分の意見に無言のまま賛同してくれているのだと思っていた。
こちらを見つめるカイルの表情は、常らしからぬ険しいものだった。
冗談などではなく、真剣であることは一目瞭然だ。

「カイル……っ」
信じられぬ思いで、反射的に彼の名を呼ぶことしか、エルフィードには出来なかった。
怒りよりも、今までずっと自分の味方をしてくれた彼に、反対されたことが酷くショックだった。
無条件に信じていただけに、手酷い裏切りにあったかのように、その衝撃は大きかった。
何かに心がぎゅっと鷲掴みにされて、息が詰まる程に痛む。
縋るようなエルフィードの眼差しにも、カイルは折れなかった。
「ルクレティア殿も仰ってましたが、王子の使命は何ですか?
それをもう一度良く考えてください。
俺も自分の使命を全うする為には、今の王子の意見に従うことは出来ません。
貴方に何と思われようともね」

改めてはっきりとした拒絶の姿勢を示され、エルフィードはとうとう言葉を失って立ち尽くす。
大きく見開いた蒼い瞳がみるみると潤み、そこからぽろりと涙が零れ落ちた。
一度流れたそれは堰をきったように次々と溢れ出す。
こんな大勢の前で、情けなく見っとも無いとエルフィードは己を叱咤するが、涙は止まってくれない。
まるで幼い子供のようだ。
だが頭でいくらそう考えていても、心がそれに付いてきてくれないのだ。
唇を噛み締め、漏れそうになる嗚咽だけは何とか堪えた。

涙で視界がぼやけて、カイルの顔も、周囲の人間の表情も良く分からない。
きっと呆れ返っているに違いない。
軍主である威厳も何もあったものではない。

「王子」
その時、カイルがいつも通りの優しい声でエルフィードを呼び、彼の方へとそっと手の伸ばす。
だがそれを気配で感じ取り、エルフィードはカイルの手を強く払い除けた。
「触るな!
カイルのこと信じていた僕が馬鹿みたいだ……。
もう顔も見たくない!」
叩きつけるように叫んで、エルフィードは居た堪れなくなったのかその場から走り去ったのだった。





セラス湖の畔で、カイルは物憂げにその透き通った湖面をじっと見つめていた。
「あらあら、貴方でもそんな表情をされることがあるんですねぇ」
背後から掛けられた声に、カイルは小さく息を吐き、振り返る。
先程のソレイユ城でのやり取りが嘘のように、いつも通りの柔らかな笑みを浮かべたルクレティアがそこには立っていた。
「わざわざからかいに来られたんですかー?
俺って見かけによらずナイーブな人間なんですよー、落ち込む事だってありますって」
カイルの口調も普段のように軽いものになっている。
表情は冴えないままであったが。

「からかうだなんて、とんでもない。
私はお礼を言いに来たんですよ。
さっきは王子を諌めて下さって、ありがとうございます」
城を死守するか、それとも捨てて逃げるが―――結局その結論はエルフィードが立ち去った為、持ち越しとなった。
あれからエルフィードは自室に篭ってしまっている。

「でも貴方が王子の意見にああもはっきり反対されるとは、私としても意外でした」
ルクレティアの言葉に、カイルは曖昧に微笑んだ。
「本当は俺だけは王子の味方でいたかったです。
リオンちゃんが大怪我をして、サイアリーズ様が裏切って、ご両親の最期の様子を知って……立て続けにそんなことがあって、今のあの人は精神的にかなり追いつめられているんだと思います。
そんな王子の心に更に傷を付けるようなことなんて、俺だってしたくはなかったですよー。
でも今回のことだけは絶対に認める訳にはいきませんから」
「貴方の使命の為に……ですか?」
「全てお見通しですねー」
言ってカイルは、再び湖へと視線を転じる。

この澄んだ湖面のような蒼い瞳の少年の姿が蘇る。
一番見たくないと思っていた人の涙を、自分が流させてしまった。
けれど―――。

「あの人の命を守ることが、俺にとっては絶対の使命なんです。
軽蔑されるかもしれませんけど、この城を守ることによって他の多くの人達が傷付くことより、俺は王子が危険に晒されることの方が見過ごすことは出来ない。
それに仮にこの城を守りきったとて、俺にもその結果は目に見えてますからねー。
きっと王子は心に大きな傷を負うことになる……これまでのことが蓄積した心が耐え切れず崩壊して、もう立ち上がれなくなってしまうかもしれません。
そんな姿は見たくないです。
王子を守る為なら、俺はあの人にどんなに嫌われようとも構いません」

自分が憎まれ役になることによって、エルフィードの命が守れるならばそれでいい。
今傷付けてしまったとしても、その結果更なる大きな哀しみを与えられずに済むのなら、恨まれてもいい。

「本音を言うのなら、戦いに出ることも止めて貰いたい。
王子には武器なんて持って欲しくなかったですよー」
そうぽつりと零したカイルに、ルクレティアはくすりと笑う。
「随分と過保護ですねぇ」
するとカイルもあははと声を立てて笑った。
「えぇ、そうですよー。
出来ることなら、外界から遮断できるような籠の中にでも閉じ込めておきたいくらいです。
太陽宮で家族に囲まれて、ずっと幸せな笑顔を見せていて貰いたかった。
血腥い現実とはかけ離れた所で、そんなものは知らずに生きていって欲しかったです。
それがベタベタに甘やかしているだけで、王子の為にならないと分かっていてもね。
最近の王子は随分大人になっちゃって、俺の手の届かない場所にいっちゃうみたいで、寂しいんですよぉ、俺は」
あまりにもあっけらかんと言うものだから、それが本音なのか冗談なのか、ルクレティアも判断がつかなかった。
特に最後の部分はわざとらしく拗ねたような口調で、まるで本心を悟られまいと、煙に巻こうとしているかのようだ。
しかし全部が本当ではないにしろ、それが本音に近い気持ちなのだろうと推察する。

「王子があそこまで意地になって城を守りたいって言い張った理由も、俺には分かる気がするんですよー。
王子にとってあの城は、やっと見付けた自分の居場所なんだと思います。
太陽宮では優しい家族に囲まれていたとはいえ、貴族達の口さがない陰口やら王子を軽んじる態度も頻繁でしたからね。
誰もが自分を必要としてくれて、暖かく迎えてくれる―――そんな安心して寛いでいられる……初めて得ることの出来た場所なんでしょう。
それをゴドウィン側に踏みにじられるのが、きっと我慢ならないんだろうなぁ……ずっと大切なものを奪われ続けてますからね。
その気持ちは痛いほど分かるんですけど、それでも譲れないものがある。
王子に反対したことを、俺は後悔してはいません」
カイルは再び真剣な面持ちになる。

自分が間違ったことをしたとは、今も思っていない。
あそこでエルフィードがそれでも城を守ることに固執すれば、気を失わせてでも連れ出すつもりだった。
自分の行動を悔いてはいない。
ただ……。

「その割りに随分と浮かない顔ですけど」
ルクレティアがこの場の重い雰囲気を払拭する為か、茶化すように言う。
するとカイルはまた力ない笑みを見せた。
「さっきは嫌われても平気だなんて格好良い事言いましたけど、実際面と向かって言われると想像以上に堪えるものだなぁって。
あんなに傷付いた瞳で、顔も見たくないなんて泣かれちゃうと、いくら俺だってヘコんでしまう訳ですよー」

大事に想う相手を泣かせて、平気な顔で居られるほど、カイルとて図太くはなかった。
いくら後悔していないといっても、落ち込まないという訳ではない。
あの時のエルフィードの表情が、脳裏から離れてはくれないのだ。
何とも言いがたいやるせなさが渦巻いて、自分でも如何しようもなかった。

「あれは王子の本心ではないと思いますけどね。
貴方に反対されて確かにショックだったでしょうけど、だからこそ王子は今、部屋で考えているんじゃないでしょうか。
何故貴方にまで反対されたのか、そして自分の使命は何であるかということを。
賢い方ですから、きっと冷静になって考えて下されば、分かってくれると信じています。
貴方もそうでしょう?」
それに対して、カイルは力強く頷きを返したのだった。





ルクレティアと別れ、カイルは城に戻った。
聞けば、まだエルフィードは部屋から出てこないらしい。
カイルは彼の自室へと向かい、扉を軽く叩いた。
しかし返る声はない。
「王子、皆さん心配されてますよ。
俺の顔を見るのが嫌なら、どこかに出かけてでもきますから、皆を安心させてあげて下さい」
カイルはそう優しく扉の向こうへと語り掛ける。
だがやはり返答はなかった。

カイルは小さく溜息を落とすと、扉の前から身を翻した。
まだ時間が必要なのかもしれないと思いながら。

その時、ガチャリと背後から鍵を外す音がして、扉の開く気配があった。
それに反応して、カイルが振り返るよりも早く、彼の腰に手を回し、その背にぎゅっと何者かが抱きつく感触があった。
「お……うじ?」
姿を確認しなくても、カイルには分かる。
それがエルフィードだと。

「ごめん……カイル」
小さな声ではあったが、それは落ち着いたエルフィードのものだった。
先程の感情の昂ぶりなど、まるで感じさせない。
いつもの彼らしい声であった。
「僕はまだまだ子供だな……皆の意見を聞き入れず、ただ自分の居場所を失くしたくはない為に、我儘を言っていたに過ぎない。
カイルは僕のことを守ってくれようとして、反対してくれたんだろう?
ちゃんと考えてみればすぐに分かるようなことなのに―――ここを守ることにどれだけの意味があるのかを。
僕の使命はリムを取り戻して、ファレナを本来あるべき姿に戻すことだ。
その為には多くの人達の協力が必要で、その人達を此処を守る為だけに危険に晒してしまうことは許されないのに。
僕の居場所はこの城ではなくて、どこだって皆がいてくれる場所こそが自分の居場所なんだ。
そんな当たり前のことにようやく気が付いたよ」

カイルは腰に回されたエルフィードの手に、自分のそれを重ね合わせる。
自然と笑みが零れた。
「王子なら分かって下さると思ってましたよー。
でもあんまり急いで大人にならないで下さいね……置いていかれそうで寂しいですから」

背中から伝わってくる温もりに、先程までの重苦しい気持ちが嘘のように解かされていくのを、カイルははっきりと感じていた。



2007.10.28 up