17 // offer a prayer 【後編】

いつもと同じように、カイルはエルフィードが眠る部屋の扉を開ける。
だがそこにエルフィードの姿はなかった。
目を見開き、カイルは室内を見渡す。
やはりどこにもエルフィードはいない。

丁度そこに人の通る気配があった。
カイルが振り返ると、怪訝そうな顔をしたゲオルグが立っていた。

「ゲオルグ殿!戻ってきてたんですか!?
大変です!
王子のお姿が見当たらないんです!」
カイルが蒼白な顔をして言うのに、ゲオルグはますます渋い顔付きになる。
カイルの言葉の意味が理解できないかのように。
「何を言っている?
王子とは一体誰のことだ?
そこはずっと空き部屋だろうに」

次に面食らったのは、カイルの方だった。
今はふざけている場合ではないだろうに。
第一そのような冗談はゲオルグという男には似つかわしくない。

「俺で遊んでいる場合じゃないですってー、ゲオルグ殿。
もしかして王子、目を覚まされたんですかね?
それで一人で何処かに行ってしまわれたんでしょうか」
「お前の方こそ大丈夫か?
疲れが堪っているんじゃないのか?
悪いことは言わん、今日はもう休め。
王子なんて呼ばれる肩書きの者はこの城にはいないだろうに」
ゲオルグの口調は至って真面目だった。
嘘を吐いてるようでも、からかっているようでもない。

カイルは酷く混乱した。
あのゲオルグがエルフィードのことを忘れている……?
在り得ない。
だが目の前の男はエルフィードの存在を知らぬと言う。

思わずカイルはあとじさる。
ゲオルグがまるで見知らぬ人物のように感じられて、カイルは恐怖を覚えたのだ。
そのまま逃げるようにして、その場を駆け出した。

だがカイルは益々混乱することとなった。
出会う人間誰に訊ねてみても、誰一人としてエルフィードのことを覚えているものはいなかったのだ。
全員が知らないと口を揃える。

何故だ?
どうして……?
そんな意味を成さない疑問ばかりが、カイルの頭を駆け巡る。
寄せ集めのこの軍勢を、エルフィードは軍主として懸命に支え、率いてきたではないか。
己の境遇に涙を見せることもなく、周囲には力づけるような笑顔を常に見せていた。
それなのに、こうも簡単に忘れ去られてしまうものなのか。
そんな馬鹿げた話はない。





「王子!」





叫んだ所で、はっとカイルは身を起こした。
暗闇に包まれた周囲を見渡し、カイルは乱れる息を肩で整える。
「夢……か…」
ぽつりと零し、カイルは深く息を吐き出した。
何度か頭を振り、霞掛かった意識をはっきりさせる。
「相当参っちゃってるなぁ……俺としたことが」
自嘲気味にそう一人ごちる。

夢―――。
本当にあれは夢だったのだろうか。
もしエルフィードが消え、誰もその存在を覚えていないとしたら……。

ぶるりと身を震わせて、カイルはベッドから降り立った。
そのまま休んでいた部屋を出て、向かったのはもちろんエルフィードの自室だった。
深夜だからか、本拠地の中は静まり返っていて、カイルは珍しく誰とも顔を会わすことがなかった。
それがまた殊更に不安を煽る。

エルフィードの自室の入口に立ち、カイルは大きく深呼吸する。
祈るような気持ちでもって、カイルはその扉を開けた。

エルフィードは確かにそこに存在していた。
昼間見た時と何ら変わらぬ姿で。
だが安堵の気持ちは、一向に生まれてこない。
ただただ焦りが募る。
あの夢のように、エルフィードはある日突然消え去ってしまうのではないだろうか。
そして誰もがその存在を忘れ去ってしまうのではいだろうかと。

「王子、早く目を覚まさないと、皆王子のこと忘れちゃうかもしれませんよ?」
エルフィードの傍に寄り、カイルはその傍らに膝を付く。
「王子、王子ってば!
いい加減起きましょうよー」
言って、エルフィードの身体を強く揺さ振ってみる。
が、反応はやはりない。

するとカイルはエルフィードに覆いかぶさるようにして、今度は唇を重ねた。
幾度かそれを繰り返す。
「王子様のキスでお姫様は目を覚ますのが昔からの決まりなんですから、早く目を開けて下さい。
……って、俺は王子様でもないし、王子はお姫様ではないけど……まぁ、そんな細かいことは気にせずに―――ね、王子?
起きてくれないともっと酷い悪戯をしちゃいますよー」
そんな風に茶化して語りかけながらも、カイルは自分の視界がどんどんぼやけていくことに気付いた。

止めようと思っても、それは意に反してみるみる溢れてきて、とうとうカイルの瞳から零れ落ちた。
もう限界だった。
「お……うじ……俺は絶対に忘れませんから。
貴方が何と言おうが、他の誰が貴方のことを忘れてしまっても、俺は絶対に貴方のことを忘れたりはしませんからっ!
ずっと、ずーっと貴方のことを覚えています」
堰を切ったように流れる涙を止めることも出来ず、耐え切れなくなったカイルはエルフィードの胸に縋って、泣いた。
哀しみに押しつぶされてしまいそうだった。





「酷い悪戯って……一体何をするつもりだ、カイル?」





不意に降ってきた声に、カイルは弾かれたように顔を上げた。
そして澄んだ蒼色の瞳とぶつかる。
待って待って待ち続けていたその時が、ようやく―――しかも唐突にやってきたのだ。

しかしカイルの反応は鈍かった。
呆然とその瞳を見つめる。
「王子……?」
これもまた夢ではないかと、カイルは自分の頬を思い切り抓る。
―――痛い。
しっかりとした感覚がある。

「王子……王子!」
ようやくカイルにも現実感が伴ってきた。
「うん……心配を掛けてすまない」
エルフィードの手がゆっくりとベッドから持ち上がり、カイルの手に触れた。
そこから暖かな温もりが伝わってきて、カイルの瞳からまた涙が零れる。
今度のそれは嬉し涙だった。

エルフィードはふっと柔らかな笑みを見せる。
「カイルはずっと僕に話しかけてくれていただろう?
ちゃんと聞こえてた。
カイルの声が届く度に、起きなければ……目を開けないとと思うのに、身体は思い通りに動いてくれなかった。
でもカイルが泣いていると思ったら、今まで以上の力が出た―――カイルにこれ以上哀しい想いをさせたくなくて。
そうしたらようやく目を開けて、身体を動かすことが出来たんだ。
本当にごめん……僕はもう大丈夫だから、泣かないでくれ」

喜びに胸が詰まって、まだまだ溢れてくるものがあったが、カイルはぐっとそれを堪えた。
そうして涙を拭い、いつもの彼らしい笑顔を見せる。
エルフィードがそれを一番望んでくれていると感じたからだ。

しかしカイルの胸にただ一つだけ重い澱となって沈んでいるものがある。
エルフィードが倒れる間際、言った言葉のことだ。
「王子……あの時どうして俺に忘れてくれなんて言ったんですか?
俺が王子を忘れてしまっても、王子は哀しくもなんともないからあんなことを―――」
「それは違う」
カイルを遮る形で、エルフィードは静かだがしっかりとそれを否定する。

「カイルは覚えていないかもしれないけど、幼い頃僕に言ってくれただろう?
僕のことを絶対忘れないって。
今でも僕ははっきり覚えている……それがとても嬉しい言葉だったから。
でもあの時、僕は死を覚悟した。
死ぬと思った時、この先ずっと命を落とした僕の存在でカイルを縛り付けたくなかったんだよ。
僕のことなんて忘れて、幸せに笑っていて欲しいと思った。
だから忘れて欲しいってあの時告げたんだ」

あの言葉は、エルフィードがカイルの存在を軽んじていたからではなく、大切に想っていたからこそのものだった。
それを嬉しいと感じぬはずはない。
だがやはり、そう簡単に忘れられる訳もない。
カイルにとってもまたエルフィードは特別な存在なのだ。
その人を忘れて、幸せになることなど出来はしない。

でも―――と、そこでエルフィードは続けた。
「カイルの顔を見つめながら薄れゆく意識の中で僕は……やっぱり忘れないで欲しいと強く感じた。
身勝手だと罵られるかもしれないけれど、カイルにだけは僕という存在をずっと覚えていてもらいたいと思った。
絶対に忘れないでくれって叫びたかった。
けれど、そんな想いとは裏腹に、もうあの時には声を出すことも出来なかったんだ。
願うことが精一杯だった」

カイルは大きく首を振った。
エルフィードのことを身勝手だとは決して思わない。
寧ろ、そう感じてくれたことが嬉しかった。
己もきっとエルフィードと同じ立場であったなら、やはり忘れて欲しくないと願っただろうから。

「随分と前にもいいましたけど、もう一度言います。
俺は王子のことを絶対に忘れたりしませんよー。
ですから王子も俺のこと忘れたりしないで下さい、ずっと」
カイルはエルフィードの手を握り返して、告げる。
それは誓いであり、約束であり、そして―――束縛だ。
例え片方を失っても、その存在を深く胸に刻み込み、想い続けることは相手を縛ることになるだろう。
だがそうと分かっても、カイルはエルフィードを永遠に忘れたくはなかったし、忘れて欲しくもなかった。

エルフィードも同じ気持ちだったのか。
綺麗な笑みを浮かべたまま、しっかりとカイルの言葉に頷きを返したのだった―――。



2007.04.30 up