16 // offer a prayer 【前編】
その昔―――エルフィードが幼く、カイルがまだ女王騎士見習いであった時のことだ。
カイルはエルフィードから唐突に訊ねられたことがある。
「とても大切な人がいて、もしその人より先に死ぬことになったとしたら、カイルはその人にずっと自分のことを覚えていて欲しいと思う?
それとももう自分のことは忘れて欲しいと思う?」
と。
突然何を言い出すのかとカイルは面食らったものだ。
聞けば、そういった悲恋の内容の本をサイアリーズの自室で読んだのだと言う。
幼いながらももう一通りの文字は読めるエルフィードは、どうやら自分の部屋にある絵本の類では物足りなくなってきたらしい。
病で若くして死に逝く女性が、恋人である男性に、最期に自分のことを「どうか忘れ……」と呟いた所で物語は終わるのだそうだ。
その女性が「忘れないで」と言おうとしたのか、それとも「忘れて」と告げようとしたのか、エルフィードは非常に気になった。
そこで先程の質問へと繋がる訳である。
―――おいおい、そんな本……まだ王子には早すぎでしょー。
そうカイルは思わず苦笑する。
しかしカイルを見上げてくるエルフィードの瞳は、カイルの答えを期待して輝いている。
強い好奇心がエルフィードを動かしているのだろう。
うーん……とカイルは首を捻る。
どうやら答えないという訳にはいかなさそうだ。
「そうですねー、俺だったら忘れないで欲しいって思いますかね。
だって好きな人に忘れ去れちゃうなんて、俺は悲しいですからー」
カイルがそう答えを返すと、エルフィードはにっこりと笑った。
「カイルはそう思うんだね。
じゃぁきっとあの物語の女の人もそう言おうとしたんだろうなぁ。
だって女心のことならカイルに聞けば間違いないって、父上が仰ってたもの」
エルフィードの言葉に、カイルはぎょっと目を見開いた後、はぁーっと深く脱力する。
騎士長閣下は一体幼気な王子に何を吹き込んでいるのやらと。
「カイル、どうしたの?」
がっくりと肩を落とすカイルに、エルフィードは先程の笑顔とは一変、心配そうな眼差しを向けてくる。
どうやら急に具合でも悪くなったのかと思ったようだ。
慌ててカイルは再び柔らかな笑みを見せる。
「何でもありませんよー。
王子のお役に立てて、嬉しいです。
ちなみに王子だったら忘れて欲しいですか?
それともずっと覚えていてもらいたいですか?」
逆にカイルはそう問いかけてみた。
するとエルフィードは深く考え込むように、眉根を寄せ、首を傾げる。
だがすぐに諦めたように頭を振った。
「良く分かんない」
「あはははは」
カイルは可笑しそうに吹き出して、エルフィードの小さな身体をひょいと抱き上げる。
―――当たり前か。
いくら聡い子だと言ったとて、まだまだ幼いのだ。
文字は読めても、その感情やら心情といったことまで理解するのは難しいのだろう。
まして色恋に関してのことなど。
死という概念もまだよく理解していないに違いない。
そのままでいてくれれば良いと思う。
いつかは知ることとなっても、死などという言葉はこの少年には似合わない。
胸元に抱えたエルフィードをカイルは肩車してやる。
すると楽しそうな歓声が頭上から上がった。
アレニアあたりに見付かれば不敬だのと小言をいわれそうだが、エルフィード自身がこうして肩車をされるのが好きだと知っているので、カイルは咎められようが気に留めてもいない。
「王子はずっと俺のこと忘れないでいてくれますかー?」
「うん、僕がカイルのことを忘れるなんてことないよ。
だってカイルのことが大好きだから」
曇りのないまっすぐとした言葉は、カイルの心をほんのりと暖めてくれる。
エルフィードといると、とても優しい気持ちになれるのだ。
「ありがとうございます。
俺も王子のことが大好きですから、何があっても王子のこと忘れたりしませんよー。
約束します」
そんな他愛なくも微笑ましい遠い過去の一ページだった。
けれど―――。
あれから時を隔てた今、まさかそれを深い哀しみと苦しみと共に思い出すことになろうとは、もちろんあの時のカイルは予測してなどいなかった。
「王子!!」
視界がぱっと朱色に染まり、その向こうでエルフィードは静かに笑みを湛えていた。
カイルの悲痛な叫びに呼応するかのように、エルフィードの顔がゆっくりとカイルへ向けられる。
フェイタス河の水面を思わせる綺麗な蒼い瞳が、カイルをまっすぐに捉えた。
微笑を浮かべたまま、エルフィードは口を開く。
「カイル……どうか僕のことは忘れてくれ―――」
それを最後に、エルフィードの瞳は閉じられ、そしてふらりとその身体は傾いた。
カイルの伸ばした手は虚しく空を切り、エルフィードの身体は血塗れた大地の上に倒れ伏したのだった。
エルフィードは自室のベッドの上に横たえられている。
其処彼処に巻かれた包帯が何とも痛々しい。
それを取り囲むように大勢の仲間達が、沈痛な面持ちで立ち尽くしていた。
「この子らしいといえばらしいけど、あんたが倒れてどうするんだい!?」
どんな状況においても取り乱すことのないラージャが、この時ばかりは語気を荒げ、顔を覆った。
先の戦いで、まだ戦に慣れず敵の猛攻に混乱した新兵達を逃そうとして、エルフィードは敵の刃に倒れたのだ。
酷い怪我だった。
普通の人間だったら即死だったねと、シルヴァが苦い顔をしながら呟いたほどに。
それでも一命を取り留めることが出来たのは、彼の手に宿る黎明の紋章のおかげだと思われた。
かの紋章の癒しの力がエルフィードの命を繋ぎとめたとした考えられない。
カイルは目を閉じ横たわるエルフィードを、ぼんやりと見つめていた。
何故だかふわふわとした浮遊感が全身を包み、今目の前にある光景に現実感が伴わない。
ただエルフィードの言葉だけが、何度も何度も頭の中で繰り返される。
―――僕のことは忘れてくれ。
と、エルフィードはカイルの目を見つめて言ったのだ。
それはまるで遺言のようだった。
否、それはまさにエルフィードの遺言だったのだろう。
敵の攻撃を受けた時、彼は死を覚悟したように見えた。
幸いにもそれが現実となることはなかったのだが。
しかし……あの人にとって自分はたったそれだけのところに位置する人間だったのか。
己の存在を忘れ去れてしまっても構わないような。
大切な人間の記憶から、己のことが消えてしまうこと―――それはとても辛いことではないか。
それなのに忘れてくれとあの人は言った。
つまり自分はあの人にとって然程特別な人間ではなかったということだろう。
カイルの中に哀しみとも怒りともつかぬ感情が渦を巻く。
もしあの時、目が合ったのがカイルではなく、サイアリーズやリオン……もしくはその他の仲間であっても、エルフィードは同じ台詞を口にしただろうか。
「……殿!カイル殿!!」
自分を呼ぶその声に、カイルははっと我に返る。
目の前には冴えない表情のベルクートがいた。
「カイル殿!
両手の力を緩めて下さい!」
ベルクートの言葉に、カイルは僅かに首を傾げる。
両手……?
両手がどうしたというのだろうか?
ゆっくりと視線を落とし、脇に落とした己の両手に目をやれば、ぐっと握り締めた拳が目に入る。
そしてそこから流れ出る赤い血が。
そこでようやくベルクートの言葉の意味を理解する。
無意識のうちにとても強く拳を握り締めていたせいで、爪が皮膚を突き破ってしまったのだと。
ベルクードに指摘されるまで、カイルは自分がそこまできつく手を握り締めていたことにも気付かず、痛みも感じなかった。
だがここに至って、徐々に感覚が戻ってくる。
そして血の色が、エルフィードが傷を受けたあの瞬間を蘇らせる。
そうしてエルフィードが大怪我を負い、倒れたのだという事実が、ようやく現実感を伴ってきて、カイルは身を震わせたのだった。
「王子、今日はとっても良いお天気ですよー」
カイルはエルフィードの自室の窓を開け放ちながら、そう声を掛ける。
しかし―――返る答えはない。
エルフィードはベッドの上で目を閉ざしたままだった。
あの日以来、エルフィードは未だに目を覚まさない。
黎明の紋章の力か、敵から受けた傷もすっかり完治し、全身を覆っていた包帯も今はもうない。
だが傷は癒えたというのに、どうしたことかエルフィードの意識は戻らないままの状態であった。
一見すれば、ただ安らかに眠っているだけのようだ。
その整った顔立ち故か、ともすれば人形が横たわっているようにも見える。
カイルはエルフィードの胸元に耳を寄せる。
そしてその鼓動を確かめると、ほっと安堵の息を吐くのだ。
生きていることを確認して。
毎日それを繰り返している。
暇を見つけては、カイルはこうしてエルフィードの自室を訪ねている。
今日こそは目を覚ますのではないか―――そんな期待を胸に抱いて。
それは叶えられることなく現在に続いているが、カイルは訪れる度にエルフィードへと語りかけていた。
軍主たるエルフィードを欠いても、セイリュウ軍は何とか体裁を保てていた。
ロイを影武者として、軍師ルクレティアが敵に現状を悟られぬよう策を弄している。
表面上は変わることなく、日々進んでいく。
そこに一抹の寂しさを覚えているのはカイルだけだろうか。
エルフィードが目を覚まさなくても平気なのか。
彼とそっくりの身代わりさえいれば事足りるような、エルフィードはそんなお飾りの存在でしかないというのか。
皆、エルフィードのことをこのまま忘れてしまうのではないか。
そんなことある訳がない。
ただの八つ当たりだとカイル自身分かっていたけれど、エルフィードが目覚めぬ焦燥がカイルの心を荒ませていた。
室内に置かれた鏡に、厳しい自分の表情が映り、カイルは慌てて首を振る。
エルフィードの意識がないと言えども、こんな顔で彼の傍にいてはいけない。
カイルの笑っている顔が好きだと良く彼が言ってくれたから。
笑顔を作り、カイルは枕元に腰を下ろす。
「王子、そろそろ寝るのも疲れちゃったんじゃないですかー?
寝る子は育つって言いますけど、あんまり眠って俺より大きくなっちゃったりしないで下さいよー。
だから早く目を覚まして下さい」
いつものように軽口を叩きながら、カイルはエルフィードの頬を撫でる。
伝わってくる微かな温もりに、思わず泣きたくなる。
忘れてくれと言われたけれど、忘れられる筈なんてない。
何があっても忘れたりしないと、あの遠き日に約束したではないか。
仮にそんな約束がなくても、どうして忘れることなどできようか。
誰よりも大切な存在を―――。
※【後編】に続く
カイルはエルフィードから唐突に訊ねられたことがある。
「とても大切な人がいて、もしその人より先に死ぬことになったとしたら、カイルはその人にずっと自分のことを覚えていて欲しいと思う?
それとももう自分のことは忘れて欲しいと思う?」
と。
突然何を言い出すのかとカイルは面食らったものだ。
聞けば、そういった悲恋の内容の本をサイアリーズの自室で読んだのだと言う。
幼いながらももう一通りの文字は読めるエルフィードは、どうやら自分の部屋にある絵本の類では物足りなくなってきたらしい。
病で若くして死に逝く女性が、恋人である男性に、最期に自分のことを「どうか忘れ……」と呟いた所で物語は終わるのだそうだ。
その女性が「忘れないで」と言おうとしたのか、それとも「忘れて」と告げようとしたのか、エルフィードは非常に気になった。
そこで先程の質問へと繋がる訳である。
―――おいおい、そんな本……まだ王子には早すぎでしょー。
そうカイルは思わず苦笑する。
しかしカイルを見上げてくるエルフィードの瞳は、カイルの答えを期待して輝いている。
強い好奇心がエルフィードを動かしているのだろう。
うーん……とカイルは首を捻る。
どうやら答えないという訳にはいかなさそうだ。
「そうですねー、俺だったら忘れないで欲しいって思いますかね。
だって好きな人に忘れ去れちゃうなんて、俺は悲しいですからー」
カイルがそう答えを返すと、エルフィードはにっこりと笑った。
「カイルはそう思うんだね。
じゃぁきっとあの物語の女の人もそう言おうとしたんだろうなぁ。
だって女心のことならカイルに聞けば間違いないって、父上が仰ってたもの」
エルフィードの言葉に、カイルはぎょっと目を見開いた後、はぁーっと深く脱力する。
騎士長閣下は一体幼気な王子に何を吹き込んでいるのやらと。
「カイル、どうしたの?」
がっくりと肩を落とすカイルに、エルフィードは先程の笑顔とは一変、心配そうな眼差しを向けてくる。
どうやら急に具合でも悪くなったのかと思ったようだ。
慌ててカイルは再び柔らかな笑みを見せる。
「何でもありませんよー。
王子のお役に立てて、嬉しいです。
ちなみに王子だったら忘れて欲しいですか?
それともずっと覚えていてもらいたいですか?」
逆にカイルはそう問いかけてみた。
するとエルフィードは深く考え込むように、眉根を寄せ、首を傾げる。
だがすぐに諦めたように頭を振った。
「良く分かんない」
「あはははは」
カイルは可笑しそうに吹き出して、エルフィードの小さな身体をひょいと抱き上げる。
―――当たり前か。
いくら聡い子だと言ったとて、まだまだ幼いのだ。
文字は読めても、その感情やら心情といったことまで理解するのは難しいのだろう。
まして色恋に関してのことなど。
死という概念もまだよく理解していないに違いない。
そのままでいてくれれば良いと思う。
いつかは知ることとなっても、死などという言葉はこの少年には似合わない。
胸元に抱えたエルフィードをカイルは肩車してやる。
すると楽しそうな歓声が頭上から上がった。
アレニアあたりに見付かれば不敬だのと小言をいわれそうだが、エルフィード自身がこうして肩車をされるのが好きだと知っているので、カイルは咎められようが気に留めてもいない。
「王子はずっと俺のこと忘れないでいてくれますかー?」
「うん、僕がカイルのことを忘れるなんてことないよ。
だってカイルのことが大好きだから」
曇りのないまっすぐとした言葉は、カイルの心をほんのりと暖めてくれる。
エルフィードといると、とても優しい気持ちになれるのだ。
「ありがとうございます。
俺も王子のことが大好きですから、何があっても王子のこと忘れたりしませんよー。
約束します」
そんな他愛なくも微笑ましい遠い過去の一ページだった。
けれど―――。
あれから時を隔てた今、まさかそれを深い哀しみと苦しみと共に思い出すことになろうとは、もちろんあの時のカイルは予測してなどいなかった。
「王子!!」
視界がぱっと朱色に染まり、その向こうでエルフィードは静かに笑みを湛えていた。
カイルの悲痛な叫びに呼応するかのように、エルフィードの顔がゆっくりとカイルへ向けられる。
フェイタス河の水面を思わせる綺麗な蒼い瞳が、カイルをまっすぐに捉えた。
微笑を浮かべたまま、エルフィードは口を開く。
「カイル……どうか僕のことは忘れてくれ―――」
それを最後に、エルフィードの瞳は閉じられ、そしてふらりとその身体は傾いた。
カイルの伸ばした手は虚しく空を切り、エルフィードの身体は血塗れた大地の上に倒れ伏したのだった。
エルフィードは自室のベッドの上に横たえられている。
其処彼処に巻かれた包帯が何とも痛々しい。
それを取り囲むように大勢の仲間達が、沈痛な面持ちで立ち尽くしていた。
「この子らしいといえばらしいけど、あんたが倒れてどうするんだい!?」
どんな状況においても取り乱すことのないラージャが、この時ばかりは語気を荒げ、顔を覆った。
先の戦いで、まだ戦に慣れず敵の猛攻に混乱した新兵達を逃そうとして、エルフィードは敵の刃に倒れたのだ。
酷い怪我だった。
普通の人間だったら即死だったねと、シルヴァが苦い顔をしながら呟いたほどに。
それでも一命を取り留めることが出来たのは、彼の手に宿る黎明の紋章のおかげだと思われた。
かの紋章の癒しの力がエルフィードの命を繋ぎとめたとした考えられない。
カイルは目を閉じ横たわるエルフィードを、ぼんやりと見つめていた。
何故だかふわふわとした浮遊感が全身を包み、今目の前にある光景に現実感が伴わない。
ただエルフィードの言葉だけが、何度も何度も頭の中で繰り返される。
―――僕のことは忘れてくれ。
と、エルフィードはカイルの目を見つめて言ったのだ。
それはまるで遺言のようだった。
否、それはまさにエルフィードの遺言だったのだろう。
敵の攻撃を受けた時、彼は死を覚悟したように見えた。
幸いにもそれが現実となることはなかったのだが。
しかし……あの人にとって自分はたったそれだけのところに位置する人間だったのか。
己の存在を忘れ去れてしまっても構わないような。
大切な人間の記憶から、己のことが消えてしまうこと―――それはとても辛いことではないか。
それなのに忘れてくれとあの人は言った。
つまり自分はあの人にとって然程特別な人間ではなかったということだろう。
カイルの中に哀しみとも怒りともつかぬ感情が渦を巻く。
もしあの時、目が合ったのがカイルではなく、サイアリーズやリオン……もしくはその他の仲間であっても、エルフィードは同じ台詞を口にしただろうか。
「……殿!カイル殿!!」
自分を呼ぶその声に、カイルははっと我に返る。
目の前には冴えない表情のベルクートがいた。
「カイル殿!
両手の力を緩めて下さい!」
ベルクートの言葉に、カイルは僅かに首を傾げる。
両手……?
両手がどうしたというのだろうか?
ゆっくりと視線を落とし、脇に落とした己の両手に目をやれば、ぐっと握り締めた拳が目に入る。
そしてそこから流れ出る赤い血が。
そこでようやくベルクートの言葉の意味を理解する。
無意識のうちにとても強く拳を握り締めていたせいで、爪が皮膚を突き破ってしまったのだと。
ベルクードに指摘されるまで、カイルは自分がそこまできつく手を握り締めていたことにも気付かず、痛みも感じなかった。
だがここに至って、徐々に感覚が戻ってくる。
そして血の色が、エルフィードが傷を受けたあの瞬間を蘇らせる。
そうしてエルフィードが大怪我を負い、倒れたのだという事実が、ようやく現実感を伴ってきて、カイルは身を震わせたのだった。
「王子、今日はとっても良いお天気ですよー」
カイルはエルフィードの自室の窓を開け放ちながら、そう声を掛ける。
しかし―――返る答えはない。
エルフィードはベッドの上で目を閉ざしたままだった。
あの日以来、エルフィードは未だに目を覚まさない。
黎明の紋章の力か、敵から受けた傷もすっかり完治し、全身を覆っていた包帯も今はもうない。
だが傷は癒えたというのに、どうしたことかエルフィードの意識は戻らないままの状態であった。
一見すれば、ただ安らかに眠っているだけのようだ。
その整った顔立ち故か、ともすれば人形が横たわっているようにも見える。
カイルはエルフィードの胸元に耳を寄せる。
そしてその鼓動を確かめると、ほっと安堵の息を吐くのだ。
生きていることを確認して。
毎日それを繰り返している。
暇を見つけては、カイルはこうしてエルフィードの自室を訪ねている。
今日こそは目を覚ますのではないか―――そんな期待を胸に抱いて。
それは叶えられることなく現在に続いているが、カイルは訪れる度にエルフィードへと語りかけていた。
軍主たるエルフィードを欠いても、セイリュウ軍は何とか体裁を保てていた。
ロイを影武者として、軍師ルクレティアが敵に現状を悟られぬよう策を弄している。
表面上は変わることなく、日々進んでいく。
そこに一抹の寂しさを覚えているのはカイルだけだろうか。
エルフィードが目を覚まさなくても平気なのか。
彼とそっくりの身代わりさえいれば事足りるような、エルフィードはそんなお飾りの存在でしかないというのか。
皆、エルフィードのことをこのまま忘れてしまうのではないか。
そんなことある訳がない。
ただの八つ当たりだとカイル自身分かっていたけれど、エルフィードが目覚めぬ焦燥がカイルの心を荒ませていた。
室内に置かれた鏡に、厳しい自分の表情が映り、カイルは慌てて首を振る。
エルフィードの意識がないと言えども、こんな顔で彼の傍にいてはいけない。
カイルの笑っている顔が好きだと良く彼が言ってくれたから。
笑顔を作り、カイルは枕元に腰を下ろす。
「王子、そろそろ寝るのも疲れちゃったんじゃないですかー?
寝る子は育つって言いますけど、あんまり眠って俺より大きくなっちゃったりしないで下さいよー。
だから早く目を覚まして下さい」
いつものように軽口を叩きながら、カイルはエルフィードの頬を撫でる。
伝わってくる微かな温もりに、思わず泣きたくなる。
忘れてくれと言われたけれど、忘れられる筈なんてない。
何があっても忘れたりしないと、あの遠き日に約束したではないか。
仮にそんな約束がなくても、どうして忘れることなどできようか。
誰よりも大切な存在を―――。
※【後編】に続く
2007.04.07 up