10 //An oath of a knight
何も見えない―――。
周囲を見渡しても、全てが闇に閉ざされていた。
少年はその中で立ち尽くしていた。
本能的に身体が小刻みに震え、少年は自身の身体を抱き締めるように肩に手を廻す。
太陽の紋章を戴く国に育った少年の周囲は、いつも光が満ち溢れていた。
しかし、だからといって闇が怖いと思ったことは今までなかった。
光が活力を与えてくれるのならば、闇は安らぎを齎してくれると知っている。
だが―――今置かれているこの闇は、少年が知るそれとは全く違った。
冷たくて、歪んでいて、酷い圧迫感がある。
まるで出口の無い誰か持つ底なしの悪意の中に、閉じ込められたかのように。
と、その時、どこからか微かな声が少年の耳に届いた。
思わず、少年は目を見開く。
どんなに小さな声であっても、それを聞き違えるはずはなかった。
それは幼くして過酷な運命に置かれた愛しい妹の声だったから……。
「リム!」
弾かれたように顔を上げ、震えていた己の身体を奮い立たせると、少年は闇の中を駆け出した。
右も左も分からない。
上下すらもあやふやな、その闇の中を少年は妹の名を懸命に呼びながら、走り続けた。
やがて、闇の中にぼんやりと浮かぶ少女の姿を認めて、少年は一度立ち止まる。
少女は泣いていた。
闇の中で、たった一人で。
「兄上、助けて……」
そう繰り返しながら。
「リム!」
駆け寄ろうとした少年であったが、どうしたことか少年の足は動かなかくなっていた。
見えない鎖に絡め取られてしまったかのように。
少年の意志に反して、四肢は微動だにしない。
「リム!リム!」
懸命に少年は少女の名を叫ぶ。
だが、少女の耳にはその声は届いていないのか、少女はただ悲しげに泣き濡れている。
すると突然、少女の背後に別人の姿が現れる。
抜身の剣を手にした、年若い男だ。
男はその口元に冷たい笑みを浮かべながら、後ろから少女の首元ぎりぎりにへと刀身を宛がう。
少女の顔が恐怖で凍りつく。
男はその笑みと同じく、瞳には冷酷で残忍な光を湛えている。
あの日―――それまで幸せだった日々を奪い去った男。
男の視線がつっと少年の方へと向けられる。
「これでもう、貴方は一人だ」
冷たく言い放ち、男は躊躇うことなく剣を引いた。
「止めろ!!」
少年の悲痛な叫びは、朱色に塗りつぶされる。
少年を取り巻く闇が、一瞬にして今度は赤く染まったのだった―――。
「―――っ!」
目を開くのと同時に、エルフィードはベッドの上に勢い良く身を起こす。
はぁはぁと激しく乱れる息に、肩を大きく上下させる。
心臓も激しく脈打っていた。
しばらく呆然としていたエルフィードであったが、やがてぼんやりとした視線を周囲へと走らす。
窓から射し込む月明かりが、うっすらとエルフィードの周りを照らしていた。
見慣れた室内。
本拠地であるソレイユ城の自室だった。
「夢……か……」
ようやくエルフィードは自分の状況を理解したらしい。
汗に濡れた額にはりつく前髪を、無造作にかきあげ、大きく溜息を吐き出した。
あの夢をエルフィードが見たのは、今日が初めてのことではなかった。
今まで幾度となく繰り返しエルフィードを苛む悪夢。
夢だと知り安心するのだけれど、同時にいつそれが現実になるのかもしれないという恐怖も同時に襲ってくる。
そんな嫌な予感を振り払うかのように、エルフィードは左右に首を振る。
再びベッドに横なったが、夢のせいで神経が昂っているらしく、とても眠れそうに無い。
またあの悪夢を見るのではないかと思えば、尚更に。
エルフィードはベッドから降り立ち、部屋を出た。
少し夜風にでも当たって、気分転換を図ろうと。
「あれ、王子……どうかしたんですかー?」
自室を出ると同時に、エルフィードの良く知った声が掛けられる。
柔らかな笑みを湛えたカイルが、エルフィードの目の前に立っていた。
万が一に備えて、エルフィードを守るため見張りについているのだろう。
もう夜中を過ぎるというのに、カイルに疲れた様子は微塵も感じられない。
女王騎士と言えどカイルとて人間だ―――疲労を感じないはずは無い。
ただ自分を気遣ってそれを見せないようにしてくれているのだと、エルフィードも気付いている。
「いつも遅くまで、ありがとう。
僕のことは気にしないで大丈夫だよ……。
目が覚めてしまったから、水でも飲みにいこうかと思っただけだから」
エルフィードが見せる笑顔に、カイルは軽く溜息を落とす。
「王子の大丈夫は、大抵の場合、全然大丈夫じゃないんだよなぁ……」
ぽつりと零して、カイルはエルフィードの目線の高さまで身を屈めた。
エルフィードの肩に手を置いて、真っ直ぐに彼の瞳を見据える。
「あぁ……やっぱり。
王子、何がありました?」
エルフィードの瞳の中に何を見たのか、カイルは微かに眉根を寄せて問う。
しかしエルフィードはゆるゆると首を振る。
なんでもないのだと示すように。
「俺がどれだけ長く、王子のお傍にいると思っているんですかー?
俺の目は誤魔化せませんよ」
言って、カイルはエルフィードを解放してくれはしない。
「カイル……」
「今なら俺以外誰もいませんし……話して下さいよー、王子。
このままだと気になって、俺は休めそうも無いですし、そのせいで倒れたりしたら王子を恨みますよー」
冗談めかした口調で、カイルは言う。
恨むだなんて、決して本心からではないことを、エルフィードはもちろん分かっている。
恐らく話しやすい雰囲気を作ろうとしてくれているのだと。
「夢を……見たんだ」
カイルに根負けする形で、とうとうエルフィードはぽつりと語り始める。
繰り返される悪夢の内容を。
「リムは泣いていた。
僕に助けを求めながら、とても悲しそうに……。
なのに僕の声は届かなくて、身体も動かすことが出来なくて―――そして……」
一面を染めた紅を思い出して、エルフィードは身体を震わせた。
「王子……大丈夫ですよ、姫様はきっと泣いてなんていらっしゃいません。
あの方のことだ、気丈に振舞っておられると思いますよー」
安心させるように、カイルは優しい笑みを見せる。
エルフィードはそれに対して、曖昧に頭(かぶり)を振った。
「分かっている。
リムは太陽宮で、敵に囲まれる毎日を過ごしながらも、きっと泣いてなんていないと僕も思うよ。
でもそれは―――ただ無理矢理に自分の心を奮い立たせて、我慢しているだけだ。
まだあの子はほんの十歳の女の子なんだよ?
不安と恐怖で押し潰されそうになりながらも、王家の人間としてのプライドだけでリムは耐えている。
でも心の中では泣いているよ―――夢で見たように……」
エルフィードは顔を伏せ、何かに耐えるように拳を握り締める。
いつも自分を慕ってくれていた妹の笑顔が、エルフィードの頭を過ぎる。
あの笑顔をずっと守りたいと思っていた。
自分にできることは何でもしてやりたいと。
困っていたら必ず助けに行くと約束もしたのに―――。
「これだけ大勢の人に助けて貰っているのに、僕の力が足りないせいで、まだリムを助けてあげられない。
もっともっと僕が頑張らないと……」
守れなかった誓いを悔やみ、厳しい表情になるエルフィードに、カイルはふと真剣な面持ちになる。
それは今までエルフィードが見たことのないカイルの表情だった。
「俺から見れば、王子だってまだまだ子供ですよ。
それなのに、この戦いが始ってから、王子は背伸びをして、いつも自分ひとりで何でも抱え込もうとする。
それが俺にはとても痛々しく感じるんですよー。
……王子、俺にはね、女王騎士になった時から、とある願いがあったんですよ」
「願い?」
カイルの言わんとしていることが全く読み取れずに、エルフィードは怪訝そうに問い返す。
カイルは頷きながら、硬く握り締められたままのエルフィードの手を取った。
自分の両手で包み込むように。
「貴方のこの手を、決して血で染めるようなことはさせまいと。
貴族達の心無い言葉を投げ付けられようとも、貴方は決してそれに負けなかった。
太陽宮でご家族に囲まれて、幸せそうに、朗らかに笑っていた王子を見るたびに……貴方にはいつも光の中にいて貰いたいとそう願っていた。
王子が姫様の笑顔を守りたいのと思ったのと同様に、俺も貴方の笑顔を守りたかった。
あんなことがなければ、貴方の手はずっと血に濡れることなんてなかった筈なのに―――」
いつも軽い口調で、エルフィードをからかっているカイルとは思えない真剣な声音。
苦しみに耐えるようにきつく寄せられた眉と、細められた瞳。
エルフィードはそんなカイルに対し、何を告げれば良いのか分からなかった。
ゴドウィンよる謀反がなければ、こうして軍主として立つこともなかっただろう。
そして、戦いの中で、自らの手でもって誰かを殺めるようなこともなかったかもしれない。
けれど今、自分は戦わなければならないのだ。
幼い妹を助け出すために。
どれだけの血をその身に浴びようとも。
そしてどんなに自分が傷を負おうとも。
「貴方がどれだけ傷付き、苦しんでいるかを思う度に、俺の中に御すことの出来ない歪んだ感情が湧き上がってくる。
戦いに勝利して、姫様を救い出すことが出来ても、死力を尽くした貴方の手には王座も領土も何も残らないのにと。
いっそ貴方が新しい王国を―――」
「カイル!」
エルフィードから、カイルの言葉を遮る鋭い声が発せられる。
伏せていた顔を上げ、エルフィードはきっとカイルを睨みつけた。
「それは言ってはいけないことだ、カイル。
カイルが僕のことをそんなにも想ってくれているのは、嬉しい……だけど、それは駄目だよ。
それに僕の手には何も残らない訳じゃない。
リムという存在が残る、母上たちが愛したファレナという国が残る、そして僕の元に集まってくれた人達との絆が残る。
王座なんて、僕は欲しいと思ったこともない」
カイルの表情がふっと緩む。
いつものように優しい笑顔を浮かべる。
そこに居るのはエルフィードが良く知る女王騎士のカイルだ。
「王子ならそう仰ると思っていましたよー。
今のは忘れちゃって下さい。
そんな貴方だからこそ、俺は守りたいと思ったんです。
貴方の手を血で濡らさないという願いは叶わなかったけど、貴方の心からの笑顔を取り戻すという新たな誓いが俺にはあるんですよー。
この戦いを終わらせて、姫様を助け出す為に持てる限りの力を尽くつもりです。
だからね、王子、もっと周りを頼って下さい。
何でも一人で頑張ろうとしないで下さい、ね?」
この戦いが始って以降、どこかでずっと自分が誰よりも頑張らなければという焦りにも似た気持ちがあった。
自分にもっと力さえあればと、後悔ばかりだった。
それは父、母を守りきれなかった無念からか。
それとも妹を助け出すことが出来ず、太陽宮を後にすることになった罪悪感からか。
そんな感情の乱れが、あんな夢を見せているのかもしれない。
太陽宮に居た頃は、困っていることがあれば、もっと素直に助けを求めることが出来ていたのに。
母であるアルシュタートも在りし日に言っていた―――出来ぬことがあれば、出来るものに助けてもらえば良いと。
人は独りでは生きてはゆけないのだから。
「そ……だね。
これからはもっと、皆に助けて貰うようにする。
一刻も早くリムを助けてあげたいから……」
エルフィードは頷きながら、そう答えを返す。
そしてカイルに握られたままの手に視線を落とした。
「僕の手は血塗れて汚れてしまったかもしれないけど……カイルは力を貸してくれる?」
カイルはもちろんだと強く頷いた。
そのまま握っていたエルフィードの手を、カイルは己の口元へと近付ける。
「血で染まっていたとしても、貴方の手は綺麗ですよ」
そうしてその掌に、新たな誓いを立てるが如く―――静かな口付けを落とすのだった。
周囲を見渡しても、全てが闇に閉ざされていた。
少年はその中で立ち尽くしていた。
本能的に身体が小刻みに震え、少年は自身の身体を抱き締めるように肩に手を廻す。
太陽の紋章を戴く国に育った少年の周囲は、いつも光が満ち溢れていた。
しかし、だからといって闇が怖いと思ったことは今までなかった。
光が活力を与えてくれるのならば、闇は安らぎを齎してくれると知っている。
だが―――今置かれているこの闇は、少年が知るそれとは全く違った。
冷たくて、歪んでいて、酷い圧迫感がある。
まるで出口の無い誰か持つ底なしの悪意の中に、閉じ込められたかのように。
と、その時、どこからか微かな声が少年の耳に届いた。
思わず、少年は目を見開く。
どんなに小さな声であっても、それを聞き違えるはずはなかった。
それは幼くして過酷な運命に置かれた愛しい妹の声だったから……。
「リム!」
弾かれたように顔を上げ、震えていた己の身体を奮い立たせると、少年は闇の中を駆け出した。
右も左も分からない。
上下すらもあやふやな、その闇の中を少年は妹の名を懸命に呼びながら、走り続けた。
やがて、闇の中にぼんやりと浮かぶ少女の姿を認めて、少年は一度立ち止まる。
少女は泣いていた。
闇の中で、たった一人で。
「兄上、助けて……」
そう繰り返しながら。
「リム!」
駆け寄ろうとした少年であったが、どうしたことか少年の足は動かなかくなっていた。
見えない鎖に絡め取られてしまったかのように。
少年の意志に反して、四肢は微動だにしない。
「リム!リム!」
懸命に少年は少女の名を叫ぶ。
だが、少女の耳にはその声は届いていないのか、少女はただ悲しげに泣き濡れている。
すると突然、少女の背後に別人の姿が現れる。
抜身の剣を手にした、年若い男だ。
男はその口元に冷たい笑みを浮かべながら、後ろから少女の首元ぎりぎりにへと刀身を宛がう。
少女の顔が恐怖で凍りつく。
男はその笑みと同じく、瞳には冷酷で残忍な光を湛えている。
あの日―――それまで幸せだった日々を奪い去った男。
男の視線がつっと少年の方へと向けられる。
「これでもう、貴方は一人だ」
冷たく言い放ち、男は躊躇うことなく剣を引いた。
「止めろ!!」
少年の悲痛な叫びは、朱色に塗りつぶされる。
少年を取り巻く闇が、一瞬にして今度は赤く染まったのだった―――。
「―――っ!」
目を開くのと同時に、エルフィードはベッドの上に勢い良く身を起こす。
はぁはぁと激しく乱れる息に、肩を大きく上下させる。
心臓も激しく脈打っていた。
しばらく呆然としていたエルフィードであったが、やがてぼんやりとした視線を周囲へと走らす。
窓から射し込む月明かりが、うっすらとエルフィードの周りを照らしていた。
見慣れた室内。
本拠地であるソレイユ城の自室だった。
「夢……か……」
ようやくエルフィードは自分の状況を理解したらしい。
汗に濡れた額にはりつく前髪を、無造作にかきあげ、大きく溜息を吐き出した。
あの夢をエルフィードが見たのは、今日が初めてのことではなかった。
今まで幾度となく繰り返しエルフィードを苛む悪夢。
夢だと知り安心するのだけれど、同時にいつそれが現実になるのかもしれないという恐怖も同時に襲ってくる。
そんな嫌な予感を振り払うかのように、エルフィードは左右に首を振る。
再びベッドに横なったが、夢のせいで神経が昂っているらしく、とても眠れそうに無い。
またあの悪夢を見るのではないかと思えば、尚更に。
エルフィードはベッドから降り立ち、部屋を出た。
少し夜風にでも当たって、気分転換を図ろうと。
「あれ、王子……どうかしたんですかー?」
自室を出ると同時に、エルフィードの良く知った声が掛けられる。
柔らかな笑みを湛えたカイルが、エルフィードの目の前に立っていた。
万が一に備えて、エルフィードを守るため見張りについているのだろう。
もう夜中を過ぎるというのに、カイルに疲れた様子は微塵も感じられない。
女王騎士と言えどカイルとて人間だ―――疲労を感じないはずは無い。
ただ自分を気遣ってそれを見せないようにしてくれているのだと、エルフィードも気付いている。
「いつも遅くまで、ありがとう。
僕のことは気にしないで大丈夫だよ……。
目が覚めてしまったから、水でも飲みにいこうかと思っただけだから」
エルフィードが見せる笑顔に、カイルは軽く溜息を落とす。
「王子の大丈夫は、大抵の場合、全然大丈夫じゃないんだよなぁ……」
ぽつりと零して、カイルはエルフィードの目線の高さまで身を屈めた。
エルフィードの肩に手を置いて、真っ直ぐに彼の瞳を見据える。
「あぁ……やっぱり。
王子、何がありました?」
エルフィードの瞳の中に何を見たのか、カイルは微かに眉根を寄せて問う。
しかしエルフィードはゆるゆると首を振る。
なんでもないのだと示すように。
「俺がどれだけ長く、王子のお傍にいると思っているんですかー?
俺の目は誤魔化せませんよ」
言って、カイルはエルフィードを解放してくれはしない。
「カイル……」
「今なら俺以外誰もいませんし……話して下さいよー、王子。
このままだと気になって、俺は休めそうも無いですし、そのせいで倒れたりしたら王子を恨みますよー」
冗談めかした口調で、カイルは言う。
恨むだなんて、決して本心からではないことを、エルフィードはもちろん分かっている。
恐らく話しやすい雰囲気を作ろうとしてくれているのだと。
「夢を……見たんだ」
カイルに根負けする形で、とうとうエルフィードはぽつりと語り始める。
繰り返される悪夢の内容を。
「リムは泣いていた。
僕に助けを求めながら、とても悲しそうに……。
なのに僕の声は届かなくて、身体も動かすことが出来なくて―――そして……」
一面を染めた紅を思い出して、エルフィードは身体を震わせた。
「王子……大丈夫ですよ、姫様はきっと泣いてなんていらっしゃいません。
あの方のことだ、気丈に振舞っておられると思いますよー」
安心させるように、カイルは優しい笑みを見せる。
エルフィードはそれに対して、曖昧に頭(かぶり)を振った。
「分かっている。
リムは太陽宮で、敵に囲まれる毎日を過ごしながらも、きっと泣いてなんていないと僕も思うよ。
でもそれは―――ただ無理矢理に自分の心を奮い立たせて、我慢しているだけだ。
まだあの子はほんの十歳の女の子なんだよ?
不安と恐怖で押し潰されそうになりながらも、王家の人間としてのプライドだけでリムは耐えている。
でも心の中では泣いているよ―――夢で見たように……」
エルフィードは顔を伏せ、何かに耐えるように拳を握り締める。
いつも自分を慕ってくれていた妹の笑顔が、エルフィードの頭を過ぎる。
あの笑顔をずっと守りたいと思っていた。
自分にできることは何でもしてやりたいと。
困っていたら必ず助けに行くと約束もしたのに―――。
「これだけ大勢の人に助けて貰っているのに、僕の力が足りないせいで、まだリムを助けてあげられない。
もっともっと僕が頑張らないと……」
守れなかった誓いを悔やみ、厳しい表情になるエルフィードに、カイルはふと真剣な面持ちになる。
それは今までエルフィードが見たことのないカイルの表情だった。
「俺から見れば、王子だってまだまだ子供ですよ。
それなのに、この戦いが始ってから、王子は背伸びをして、いつも自分ひとりで何でも抱え込もうとする。
それが俺にはとても痛々しく感じるんですよー。
……王子、俺にはね、女王騎士になった時から、とある願いがあったんですよ」
「願い?」
カイルの言わんとしていることが全く読み取れずに、エルフィードは怪訝そうに問い返す。
カイルは頷きながら、硬く握り締められたままのエルフィードの手を取った。
自分の両手で包み込むように。
「貴方のこの手を、決して血で染めるようなことはさせまいと。
貴族達の心無い言葉を投げ付けられようとも、貴方は決してそれに負けなかった。
太陽宮でご家族に囲まれて、幸せそうに、朗らかに笑っていた王子を見るたびに……貴方にはいつも光の中にいて貰いたいとそう願っていた。
王子が姫様の笑顔を守りたいのと思ったのと同様に、俺も貴方の笑顔を守りたかった。
あんなことがなければ、貴方の手はずっと血に濡れることなんてなかった筈なのに―――」
いつも軽い口調で、エルフィードをからかっているカイルとは思えない真剣な声音。
苦しみに耐えるようにきつく寄せられた眉と、細められた瞳。
エルフィードはそんなカイルに対し、何を告げれば良いのか分からなかった。
ゴドウィンよる謀反がなければ、こうして軍主として立つこともなかっただろう。
そして、戦いの中で、自らの手でもって誰かを殺めるようなこともなかったかもしれない。
けれど今、自分は戦わなければならないのだ。
幼い妹を助け出すために。
どれだけの血をその身に浴びようとも。
そしてどんなに自分が傷を負おうとも。
「貴方がどれだけ傷付き、苦しんでいるかを思う度に、俺の中に御すことの出来ない歪んだ感情が湧き上がってくる。
戦いに勝利して、姫様を救い出すことが出来ても、死力を尽くした貴方の手には王座も領土も何も残らないのにと。
いっそ貴方が新しい王国を―――」
「カイル!」
エルフィードから、カイルの言葉を遮る鋭い声が発せられる。
伏せていた顔を上げ、エルフィードはきっとカイルを睨みつけた。
「それは言ってはいけないことだ、カイル。
カイルが僕のことをそんなにも想ってくれているのは、嬉しい……だけど、それは駄目だよ。
それに僕の手には何も残らない訳じゃない。
リムという存在が残る、母上たちが愛したファレナという国が残る、そして僕の元に集まってくれた人達との絆が残る。
王座なんて、僕は欲しいと思ったこともない」
カイルの表情がふっと緩む。
いつものように優しい笑顔を浮かべる。
そこに居るのはエルフィードが良く知る女王騎士のカイルだ。
「王子ならそう仰ると思っていましたよー。
今のは忘れちゃって下さい。
そんな貴方だからこそ、俺は守りたいと思ったんです。
貴方の手を血で濡らさないという願いは叶わなかったけど、貴方の心からの笑顔を取り戻すという新たな誓いが俺にはあるんですよー。
この戦いを終わらせて、姫様を助け出す為に持てる限りの力を尽くつもりです。
だからね、王子、もっと周りを頼って下さい。
何でも一人で頑張ろうとしないで下さい、ね?」
この戦いが始って以降、どこかでずっと自分が誰よりも頑張らなければという焦りにも似た気持ちがあった。
自分にもっと力さえあればと、後悔ばかりだった。
それは父、母を守りきれなかった無念からか。
それとも妹を助け出すことが出来ず、太陽宮を後にすることになった罪悪感からか。
そんな感情の乱れが、あんな夢を見せているのかもしれない。
太陽宮に居た頃は、困っていることがあれば、もっと素直に助けを求めることが出来ていたのに。
母であるアルシュタートも在りし日に言っていた―――出来ぬことがあれば、出来るものに助けてもらえば良いと。
人は独りでは生きてはゆけないのだから。
「そ……だね。
これからはもっと、皆に助けて貰うようにする。
一刻も早くリムを助けてあげたいから……」
エルフィードは頷きながら、そう答えを返す。
そしてカイルに握られたままの手に視線を落とした。
「僕の手は血塗れて汚れてしまったかもしれないけど……カイルは力を貸してくれる?」
カイルはもちろんだと強く頷いた。
そのまま握っていたエルフィードの手を、カイルは己の口元へと近付ける。
「血で染まっていたとしても、貴方の手は綺麗ですよ」
そうしてその掌に、新たな誓いを立てるが如く―――静かな口付けを落とすのだった。
2006.08.10 up