阿修羅像に寄せて 脇で数人の少たち、「わあ、なんてハンサムなんやろう!」 男性には美少女に、女性には美少年に映るらしい。 彼(あえて)の内には、深い憂いと、息づまるまでの気魄とが同居している。彼の中の戦鬼である部分が、視る者をたじろがせ、仏である部分が跪かせ、近しい部分が歩み寄らせる。そこに悲哀が在り、笑みが在り、怒りが在る。それでいて、彼は決して鑑賞や凝視を許さない。それほどに生々しく、それほどに激しく、そして気高い。 小一時間も僕をそこに釘付けたのは、一体何だったのかと考える。受け止める僕の中に在るのは、美的な興味では勿論ない。ただ信仰という一語で片付けるのも不十分だ。恋─そう、恋だ。それは一種、心地よい、そして思い起こすに、ずい分と奇妙な感情だった。 気が付くと、数分前にそこで見かけた少女が、やはり同じ所でうっとりと像に見入っている。僕は、まず嫉妬する。けれどおかしなもので、次にどこか嬉しくなって、彼を最も深く拝せる場所をさりげなく、その少女に譲った。 |
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詩集「蝉殻抄─うつせみしょう─」 発行 1979年3月9日 題字 清水政郎先生 挿絵 伊藤伸平 |
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沈 黙 何処かに 宇宙は無いか やがて私と交わり 私そのものとなる 若しくは 私自身がその宇宙となれるような 忘れられた空間だ 私はそして 世界を停めてしまおう その一番美しい瞬間の中に 閉じ込めてしまおう そして そんな時間は無いか 歌が永遠に歌であることを続け 生命がそのひと時ゆえに生命であるような 眩いばかりの沈黙だ ああ 私の先に道が無い 欲する私に道が無い 愛は無いか 言葉も要らぬ 想いも要らぬ 辿って やがて生に達する 深くて豊かな 光は無いか |
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暮 色 しみじみと時は満ちて この路を 人は過ぎる 私は詠える 何時のことか この路を 愛しい者の許へと駒を急かせた 遠い貴人の恋の末を─ そして語れる 道の辺に宿った 遠い旅人の魂の末を─ 路は 古えより夕べに向かい 今なお その果てを朱に染める 遥かな音色に心をそばだて ふと 来し方を振り向けば 胸の騒ぎをよそに ただ 里々に夜は始まりかけている しみじみと想いは満ちて この路を 私は過ぎる |
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邂 逅 ─興福寺、阿修羅像─ 怒りが嘆きに移る境に ひとつの時が 閉じ込められた 永遠を凝つめる者よ 私と お前の裡に秘められた 凪いだ時に 逢いに来た それは繰り返された 数多の出会いの 最早 ひとつではない 逢うべくして 出逢う哀しみの 触るるべくして 触るる激しさの まるで お前と言う存在の持つ必然性に似て 私は─そうだ おそらく─ お前の時を 放ちに来た ああ 沈黙の支配は 熱い対峙を以て破られる 何故に 語り止めた そして 何故になお 問いかけぬ お前はそして この邂逅をまた 過ぎ行く時の中に 埋もれさせてしまうのだ ふふ 笑うがいい そう言いながら 過ぎて行くのは 私の方だ すでに私は 硝子越しに笑んでいる 午后の喧騒の中に 心を投げ出している そう その刹那に 私はつまらぬ 重いだけの夏風にもどり お前は一塊の 時の骸にもどっている 互いの憂いを 互いの裡に置き去りにして このひと時を 歴史の中に置き去りにして |
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要 求 美しくなくてはならない お前は 炎を例える程でないにせよ 輝いていて欲しいと思う 常に新しく 穏やかで 憂いを浮かべ 助力を乞い 時に 不幸でなくてはならない 私が今 お前を守る為に 私が今 お前を愛する為に そして 私を拒まねばならない お前は 時として私は お前に その美しさだけを求めるだろうから お前は不幸で飾った熱い氷塔となって 私の偽りに応えるだろう 求める私と ためらう私の間で 常に高く在らねばならない お前は |
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清(さやか) ─薬師寺、聖観音像─ この 清かさが やがて宇宙を満たすだろう そんな 淡い確かさが こころ優しい人たちの つましい明日を 支えている |
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希(ねがい) ─室生寺への山道で─ 希いが こんな岩肌に染み付いている 僅かの不幸に揺るぎもせずに 古い誓いに震えもせずに 希いは今も 世界に属している 繰り返される吐息の行方を知るがいい 世界はそのまま 青い祈りだ |
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存 在 ─大野寺、磨崖弥勒仏─ 朽ちた拝殿 その小さな 古めいた木の櫓ゆえに お前は存在し 光を放ち続けた そしてなお 放ち続けるだろう やがて凡ての 果てた後にも だが 私はお前に今亡き石工を想う さらに この川原に跪いた多くの生命を想う その足許を洗った水と 流れの末の海を想う 想う私の中に 常に震える私が居て その私がお前を見上げている 川石に腰掛け 脚を組み お前に向けて気怠さを投げ付ける 繰り返されたことだ こんなことすら 繰り返されたことだ そんな哀しみがこの流れの中に在って 吹き抜ける風の中にも在って 過ぎ行く彼らの中 私だけが深く染まっていく だが お前は自身の存在を超えて なお お前であることを止めはしないだろう 櫓が朽ち果て 川の枯れ 人の絶えても お前は落日に輝き 夜に黙す そんな事実の一つ一つが 私を染める だが 覚えておくがいい 私が動かぬのは お前に近づく為だ 少なくとも お前の記憶の一片となる為だ 沈黙の海に揺れる ほのかな明かりとなる為だ 磨崖の仏 その存在ゆえに私は詠い さらに詠い止めぬだろう お前と この私の存在ゆえに |
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杭 優しさではなく 不思議と この心には厳しさが染みる どれもこれも 誰も彼も みな 昔を振り返る形で 私を取り巻いて 過ぎた痛みの分だけ 私はこの身を 季節の厳しさにさらすことが出来る 溶けてゆくといい 虚ろになればいい 古都は 十世紀も変わらずにあるというのに この慌てようはどうだろう 崩れかけた土塀も 苔むした庭園も 早瀬も 池も ここに在る凡ては 時に根づいている ひとり浮くのでなく 流れの底に杭を打って 大地の芯に 私を打ち込んで どこかで この厳しさの一部分となろう 行き交う人の汗の眩しさに 迷わず向かえる 深さが欲しい |
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空(くう) ─法輪寺、虚空蔵菩薩像─ 時の死を視た それは問うを忘れ 祈るを忘れ 在るをも忘れて 暮れなずむ 古えの都を巡る私に だが お前が初めて過去(すぐせ)を垣間見させた 現在(いま)を捨てさせた 時とは 無へと向かうもの 生とは 常に空なるもの お前は今や 空漠とした哲学となって 私の合わせた掌を統べ 結んだ唇と 閉じた眼(まなこ)を支配する 生とは 死を巡るもの 死とは 生を越えるもの 私の裡にゆったりと始まるのは 遥かな お前自身の記憶かも知れぬ その中で 私はお前となって 時の生誕を視ていた |
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屍(かばね) ─桜井より三輪山を望む─ 永い死への道程だ その途上で幾度 お前は多くの死と 自らの痛みに 激しく嗚咽したことか あらゆる迷いを寄せ付けぬ それは 王者の死か お前は大地を支える 大いなる屍だ 拒むことで お前は時代を受け容れる 黙すことで お前は時代を戒める しかし お前の許に急ぐ私は お前の一体 何になれるのだ |
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下 降 ─中宮寺、弥勒像─ 祈りの形に渦巻く風が 蒼い私をすくい上げる そうだ あなたの笑みの意味は 下降の中にこそ在る 今こそ墜ちて行こう あなたの中へ 光さんざめく忘却の中に 待つものよ 忍ぶものよ その遠さよ その高さよ 常に私の裡に在って けれど遥かな想いよ 絶えずあなたの裡に在って なお近しい記憶よ 凡てが 墜ちて行く 凡てよ 深く 墜ちて行けよ |
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解 答(こたえ) 丘が在って 愛が有る 戦さが有って 丘が在る 自身の投げ掛けた 問いへの解答を待つかのように 丘は 里の暮らしを 黙って包み込んでいる 気休めを 優しさに変えることを学び 孤独を安らぎに 問いを答えに移すことを覚え 丘よ 目覚めて欲しい 彼らは十二分に幸福だ それが お前の久しく求めた 解答ではなかったか もう待つことをせずともいい 守ることを忘れていい 今 お前で在ることを始めながら あと一度だけ 問うて欲しい この先に愛は在るか この先に 戦さは在るか |
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伝 承 ─唐招提寺、境内─ この燃える空の中に その沸き上がる雲の中に 決して忘れてはならない − 白さが在る 激しさの中で いつも穏やかな 例えば瞳 あの輝く空の中に 一日の終わりの儀式の中に 決して忘れてはならない 朱(あか)さが在る 滔々とした流れの中で あえて燃え上がる 例えば生命 空からそれを切り取って 時を越えて 伝え 伝える この伽藍を巡る香りの渦の 睡蓮よ それが お前だ |
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解 放 ─興福寺、阿修羅像 再び─ 柵に囲まれて 硝子が在り 硝子に閉じ込められて 生命が在る 時と共に 絶えること無い憂いよ 生命と共に 移らぬ怒りよ お前に必要なのは 永遠ではなく 回帰であるのに なのに 凡てを約束された張り子の像よ ああ そのふくよかな問いすら 空しいではないか お前には 崩壊こそが似つかわしい その刹那の 燃焼こそがふさわしい (今、二人を隔てる硝子の箱を) 振り上げ 降り下ろし へし折り 叩き割るこの拳は お前と共に この私自身の解放だ 目前に砕け散る 虹色の破片に 自身の過去と その偽りを見る 後ろ手に押さえられて 私は静かに確かめるだろう たった今始まった 二人の生と そして たった今越えた 数多の死を |
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渦 ─秋篠寺、技芸天像─ あなたの投げ掛けた渦に 私は巻き込まれ 廻り 巡って 自分の一番中心に向かっている 尋ねたい あなたの広さの理由は何処にある 嘆きの凡てを 泪に集め 怒りの凡てを 風に集めて 何故にあなたは 穏やかなのだ そして かくも強いのだ あなたは皆を許すだろう けれど私は許さずにいる 激しい午后と 気紛れの風を この心の渇きと 世界の眩しさを たった今 踏み越えた時を 放たれた言葉を 結ばれた約束を 宇宙を 私を 時代を そしてあなたを ああ あなたの広さの理由は何処にある 帰ることだ めざすことだ 自分の一番中心に 自分の一番 確かな部分を− そこで初めて向き直り もう一度だけ 今は問おう 私は あなたを許せるか そして あなたを守れるか やがて あなたはゆっくりと 私の中を 拡がって行くだろう |
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負(おい) さざ波よ さざ波よ そのまま私を 追い詰めてしまえ 根付けぬ者の負いの軽さだ 黙せぬ者の惑いの軽さだ 話し掛ける言葉の一つ一つに 染み付いているのは 甘えと偽りでなかったか さらには 鼻持ちならぬ連帯の想いだ 私が軽く蹴ってあとにできる土地を 彼らが背負って 樹(た)っている 例えれば歴史だ 例えれば血だ 例えれば鎖だ 例えれば死だ こんなにも速く 小波の寄せて 軽い舟なら沈みもしよう こんなにも細かに 小波の寄せて 小さな舟なら 染み渡ろう 通り過ぎるものの一つでしかない私を 誰が想いに留めようか それゆえに自ら 放った言葉に重りを付けて 育てた記憶を風に刻んで 空しく消えるを見送って 空しく消えるを見送れば さざ波よ さざ波よ このまま私を運んでしまえ 残る者の生命の重さよ 惑えぬ者の暮らしの重さよ |
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浮 これほど速く 薄れていく 流れは私の中から私の中へと 続くのだから もう少し あと少し 留められぬものなのか それは一番淡い際の 記憶なのだ それほどに 風に近しい想いなのだ だからもう少し あと少し 流れよ 留まって欲しい そして 私を時の虜にするといい 存在の重さと共に 汚れの重さが無くなるならば それもいい それもいいではないか ほら なんて遠い まるで 故郷は生命の裏側で ゆったり ゆったりと沈んでいくようだ 浮かんで来るのは− あなたか− ああ あなたを思い出せずにいる それでいて 戸惑うことだけ許されている私を 笑って欲しい 私の流れと あなたの流れが 何処かしらで交わっているとするなら それは 嬉しいこと みんながみんな そうなのだと信じて廻っている それが世界だ 世界の凡てなのだ だからこそ 時は 終わりの無い上昇だ 生命の叫びが 一つの加速で そのたび人は 摩擦で燃えて 軽くなっていく 軽くなって…… 昇って行くことで あなたはどれほど 深く 宇宙に根付けるか 昇って行くことで 私はどれほど 重く 心を重ねていけるか 凡ては 一つ この宙(そら)の青さに 掛かっている さあ 薄れてゆけ 終わってしまえ 私の中で最も ほのかな時間よ 残された誓いは ひとつ残らず この私が背負っていこう その激しさに依って燃え尽きる者たちに 今 鎮魂の賦を 宇宙は 震えて あなたがそれを 見送るだろう あなたが 震えて 私がそれを 抱き止めるだろう |
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