星 の 降 る 夜 最初の夜 私は狭い窓に身を乗り出して さらに狭い星空を見上げた 短い周期で到来する 睡魔と格闘を繰り返しつつ 流星群の訪れを待ちながら 雨に流されることのない 前に進むだけの為に 固められた黒い土の上を 眠りへと急ぐ影たちだけが せわしく動いている 本当の光を失ったこの地上に なるほど相応しい祝宴は 薄い醗酵した液体の量ほどの 痛みばかりが演出をしてのける 目の前の 数分先の風景さえ見えない この闇をひとまず 傍らにどけておく為に 眠りに就く先で その日見事に守りおおせたものの数を 反芻して安堵し或いは 悲嘆に暮れて見上げる夜に 忘れられた光の群れが 佇んでいる さて私は両手を拡げ 絶え間無く降り注ぐ 闇の流れを受け止めよう 溢れる光線にひとは 行き先を見失うこともある 限られた地上の夜を さらに深くして その底に隠された光源にまで 辿れば 私と私の地上は すぐ足元に姿を現して 遠い空を見上げるだろう 狭い夜空を埋めて横切る流星の下で 私はいつか 深い眠りに 身を任せている 1992.8.3-31. |
月 に 吠 え る 押し込められた昼間の殺意を 夜がじっくりと反芻する 再度 噛み砕いて 黒い血 滴らせて 高い雲の間から鮮やかな月球 しっとりと満ちた月が天頂に昇れば 身の内に溜まった頽廃の行き場は無い 両の腕あたりから逆流を始めた 生臭い血液が首筋まで上って わたしは大きく口を開き 鈍痛を繰り返す頭をさらにもたげる 蒼い月影が天上を離れて地上に達し わたしの身体を貫くまでのほんの一瞬 腰の力は抜け 膝は折れ 在った筈の地上にわたしは倒れ伏す その地上が 深い 一匹の獣への変貌を容易に遂げられたなら わたしは今夜 ひとりやふたりの人間の喉笛を 見事 切り裂いていたことだろう 振り上げた前脚の爪を 撃ち下ろす機会の見出せぬほどに この地上の虚無が深い 束の間 月は雲間に隠れて 遠い虫の音が戻り かすかに湿った西風が動きだす わたしは二本の足で立ち上がり もう一度 隠れた月に向けて咆哮する わたしの声の届く一番遠い処で始まる朝が すでに腐臭を放って絶命していることを 汚れた夜気の中に確信しながら 誰が応える訳もない 空しい咆哮を繰り返すのだ 1992.9.7-10. |
眠 り の 底 昼の眠り 高い空の下で 青を汚した雲が 次第に遠くなる 地球の聲を聴きたいと 浅くした眠りを 子らの歓声 不意の足音 排気音と 私の鼓動が妨げる 木立の枯れる音 猫の遠慮がちな溜め息 椿が落ち 古い雫が土に染み入る 小さく軋みながら 縮んでいく地球に 寄せた耳が 私だ 人は恐る恐る 照れ隠しを馴らしながら 人を営む 恥ずかしいと感じる思いが 満ちて弾ける 午後がある 突然の 深くて短い眠りを 突き破り どんぐりがひとつ 私の宇宙を降下する 一番最後に 私は 背中を丸くする けだるい眠りの昼下がり 生まれ落ちる 夢を見た 1992.12.1. |
や が て 満 ち る 記 憶 ─再び、Y.M.に─ いつからか 大きく枝を伸ばし 伸びた枝の広さだけの根を ここに下ろして待っていた もはやどこへも行けぬ苛立ちを ようやく ただ待つ楽しみに 置き換えて 葉を繁らせ 地上に影を生み みはるかす広い野辺に さわやかに渡り来る 懐かしいそよぎを 待ちわびていた いつも海辺の丘から吹く風は 哀しみを内に秘め 笑いさざめき うつろいながら 葉を揺らし 枝を振るわせ 木陰をひと時かき乱して やがて静かに過ぎていった わたしはそして声を聞く とおい昔 わたしが地上に留めてしまった 天使のそれを 失われた翼の代わりには わたしがなれる筈でいた 小さな天使の嬉しい声を この地上の 有りとあらゆる邪悪と 不幸と哀しみを 償って余りある豊かで ひたむきで眩しい声を だから 空に舞っていたささやかな種子は 地上に根を下ろし 天上をめざして 枝を伸ばした この幹を伝って天使が 再び空に戻れるように そして静かに今は朽ち果てる 野辺を渡る風が もう二度と 迷いも 立ち止まることもせぬように 残した種子は やがて風が運んで あたり一面芽吹くように 久々に訪れた懐かしい風が あたたかな日差しを伴って渡り来た その風が 最後にこの樹を震わせる 穏やかに立ち枯れた その大地から いつか 立ち上がる虹を 予感させながら 虹のふもとのこの地上に やがて下り立つ鳥の群れを ひそやかに 確信させ ながら そのように 新たな記憶の満ちる 天使の声の聞こえる朝を わたしは 見上げる空に向け 祝福する 1993.1.16. |
奇 跡 ─二人に─ 両の手を合わせ 合わせた掌の向こうに 拡がる宇宙は 雲の間を貫く 光彩の渦が 今ようやくに 空を始める この声の届く いちばん遠い地平線から ひとの営みは始まって ゆるやかな歩みの途上で 輝く宝石を地上に敷きつめる 夜の闇の中を 手探るように 渡りながら 始まった空の一点を仰いで 今ここに立つ者を 歩み来る者へとつなぐ時間が この星で唯一の奇跡だ 結ばれるすべての祈りに代えて 闇を照らす まばゆい石の輝きに代えて 重ね合う生命の確かさに代えて 地上に最初の朝は 訪れる 1993.1.20. |
喪 失 、 或 い は 本来 書かれていた筈の一篇の小説の中で 捨てた男は電話口の沈黙で女を裏切り続け 女は語り続けることで男を未練に思い 愛し いたわり 断念し 別れを告げ 追い詰める 男が気づいた時にはすでに電話は切られ 夜明け前の暗がりに 信号音ばかりが鳴り続け 静かに立ち上がり部屋を出ていく傍らの猫を 男は見送るばかりだった 書いた筈の作者が何より 傷つき打ちのめされて やり切れぬ気持ちの整理がつかぬままに とまれ保存しておこうと差し入れたフロッピィを 保存処理の完了する以前のそれを 無意識の右手が抜き取ってのけていた ─ 消失。 失われた小説よりも 埋没した宵から未明までの五、六時間を見送り 茫然として過ごした数分間の闇を 本当に見つめていたのは作者ではなく それは小説中の男の筈だった 作者はその男に代わって 短い小説を 見事 葬った やがて繰り返される 考え得る限りの様々な罵詈雑言の末に 今宵何本めかの煙草の後に 本当に満足するのは 作者の方だったかも知れない ─ 「これからあなたがしてくれる後悔に感謝するわ。さよなら」 と、女と言った。 1993.1.27. |
猫 の 夜 お前 夢とか希望とか理想とか 未来に対する展望とか さ そんな事を考えたりはしないの 私は傍らに寝そべる猫に訊く 彼は黙って私を見上げ喉を鳴らす 喰って寝るだけの人生にだよ 疑問を感じたりしない訳か 猫はじっと私を見つめる 俺はまあまあ胸を張れないまでも そこそこ頑張って生きてるつもりだ こうやって疲れてぐったりする夜も 時々はあるさ それでも 生きてる実感みたいなものをね たまには感じながらさ 彼は大きく欠伸をして目を閉じる 閉じたまぶたの裏に 別の夜を眺めている それでもお前がね 羨ましくなることも時々はあってさ 日がな一日 お前みたいに寝て過ごせたら いいなと 思うこともあるんだ こんな夜には特に 彼は薄目を開けて 前脚を伸ばして私の片腕にそっと乗せる やれやれ お前に憐れんでもらうほどまでは まだ 落ち込んじゃいないつもりだ 今のところ 今度こそ猫は眠りに就いて もう私の相手なぞ する暇も意志もない だから 人生の目的とか設計とかね 夢とか希望とか 展望とか 愛だの 連帯だの 運命 だの ね 私も彼を傍らに置いて 猫が乗せた前脚をそのままの 片腕を枕に 眠りに 誘われる いったい 何の夢を見てるんだ 満ち足りた顔で 猫は寝息をたてる 私より 少しはまともな世界の隅で 少しはまともな 夢を見ながら 1993.2.9. |
ま だ 見 ぬ 我 が 子 へ まだ見ることのない そしておそらくは いだくことさえ許されていないあなたの 訪れようのない未来を予見して 父は寒々と震える夜を過ごすことがある あなたの未来が人類にとって どれほど多くの不幸を数えるものであったにしても それは大したことではない あなたはそこでは一人でなく 同じ苦渋を分かちあう人々と 出会うことになるだろうから あなたがそれより この父から始まる未来を どのように処して辿っていくのか 父はそれを思って凍えるのだ 父には正しく示された道につまずくことが多かった 意味の無い枝道を歩むことが多かった 関わるひとを 傷つけ裏切り捨て去ることが多かった あなたが歩むのはその先の道のりだ 正しく誠実で健やかに と 願わぬ父親はいないに違いないにしても この父にはそれを求めることが許されていない つまずいた道から正しく起き上がる方途を教えられるほどに 父はまだ人間へと至ってはいない だから 許されぬあなたの未来は 父から一番はるかな空にある その空へと至る翼を あなたの母が手にするまでのしばらくの間 父はこの寒い夜を繰り返して過ごしていこう 等しく振り向けられた それが人間の時間であることを今は信じて 1993.2.21. |
お い で こっちへおいで 違う ということだけを判り会えていて うっかりすれば傷つけ合うしかないことにも 気づきながら 不器用にいたわり合いながら すぐ近くを歩いてきた このふたりの距離を 理解出来ずにいる世間には 体よく繕いながら 本当の遠さは 僕らが一番知っている けれど、おいで 不幸は大したことじゃない 痛みも今では それほどに辛くない どちらも 生々しいほどの生を負うた者にとっては 見事なほどの証じゃないか もっと 別の過ごし方と 関わり合い方があったにせよ 考えられる一番の不幸すら 心地よいと感じられるほどに ふたりは 伸ばした手の届くほどの距離で 隔たっている そう 人と共に在ること 独りでこの地上に立たずに済むこと 忘れずに済むこと つまりは 痛み続けること そのことが心地よい だから、おいで 夢を見よう よく似た世界の 愛しいという思いが支える かわいた世界の そこでようやく 僕らはひとつになれる どこにも行けない人間の 何にもなれない人間の 虚しい営みの中で その僅かな時間の間に せめて 同じ空を見上げる為に 同じ喜びを分け合う為に 抱き合って眠る為に おいで 1993.3.10-15. |
人 間 の 時 間 本当は もっと豊かに過ごせた筈の 人間の時間を ずい分と無駄に生きてきた かつて 夢中になって聴いた十数年も昔の音楽に 忘れかけていた痛みを容易に取り戻せたにせよ この身がその当時に戻る訳がない 独りだった そして 独りだ 何も変わってはいない ただ 今のそれに救いの無いことだけを除いて 人と人との間を渉る思いを 愛 と名付けて迷わぬ勇気を 僅かの無知と共に失った今では ずい分と哀しみの意味は 違ってしまったけれど 私のいま立ち尽くすこの地上が 虚偽に満ちていることに気付いてのけるのは 昔の私だ 切ない気持ちを辿ってようやく思い出す 未熟で愚かで孤独でただ若かった その頃の私だ それでも信じるに値する 私だ もう二度と見ることの叶わない 空の痛々しい青さも 永遠に続くかと思われた夜の闇も 終えた一日に相応しい夕暮れの艶やかさも 少女の眩しさも 友人が示した絶望の深い色あいも なにもかも かけがいの無いものだった それを生きていた人間の時間を 黙殺して過ごした罪が重い 暮らす為だけに 無闇に消費し続けるこの時間を 惜しいと思って途方に暮れる夜 私はいつも最後に 誰かを愛し 拒絶される夢を見る 1993.3.15-16. |
超 過 勤 務 の は て およそ人間に やれる仕事の量じゃないぞ 殺す気か と会議の席上 苦言だけは呈してみたものの それでもこなしてのけるよりない事は 誰にもまして知っている 年に一度の年度末決算 と 我々のハードワークの必然性との 連関なんぞ 理解すべくもしたくもないが それがお前の仕事と言われれば 誇りも自負も 情熱も持てぬままに すでに充分疲れの溜まった身体を 現場まで引きずっていくより ないのだ 何の為に働くのかという 命題に明確な解答を見出せぬ以上 私は今日を 明日につなぐだけの不毛を繰り返すよりなく つまりは昨年以来の ジューニシチョーのカイヨウを元気づかせ 不意の胃痛の眠れぬ夜をやり過ごし 運転中の記憶を失い 幾度となく段取りミスを重ね続ける そうまでして 人間と人間の時間を擦り減らす 仕事というものを 尊大にせねばならぬのか 辞表を書いては破り捨て 果てしの無かった二ヵ月を乗り切らせたのは ふいに優しい言葉を発する 人間たちの身近な気配と つまらぬ見栄と 鼻持ちならない自尊心だ 見事 こなし切ったという実績が残り この実績は確実に 一年後のさらなる地獄を約束する さんざ働き 超過勤務の代償のすべては 跡形もなく 妻との休暇に使い切り 残せば何やら 仕事におもねる自分が始まるようで 痕跡すら預金口座に記すものかと 完膚無きまで使い切り 肉体の磨耗だけが私の蓄財だ そのようにして ようやく試みた人間の主張も さらに引き続く不毛に呑み込まれ 私はここに居る 自分を誇る何物も持たずに 疲労して救われず 傷めた身体を大の字にして 思い出したように ここに居る 1993.5.19. |
雨 の 始 ま り 肩の力を抜いて ようやく土の上に寝そべる 空が無い 私がしばらく地上の雑事に終われて過ごした時間のうちに 空はどこへ行ってしまったのか 鳥の声を聞く 風の声を聞く 彼らの示すものが 今の私にはもうすっかり理解できない ここが人間の住むところだと 私にはすでにそぐわない場所なのだと あらゆる拒絶が雨の気配 不遜な私はもう何も望まずに あなたを待とうと決めている それが激しい雨なら からだの芯まで濡れてみようと 背中の土の感触は じいわりと そこが世界の入口であることを告白し だから雨の始まりまでは私の場所だ ぽつりと 最初のひとしずくで 崩壊してのける世界なら 私と共に崩れ去ればいい ようやく 雨に濡れる心地よさを思い出した私には もう 失われた空を取り戻すことすら 簡単だ ほら 手を伸ばせば指に触れる 1993.6.28. |
夜 の 蝉 浅い眠りの 夜を突然に賑わして 過敏な神経を 斜めに斬りつけるようにして 夜半の闇には不似合いな 小さないきものが 窓ガラスをいくどか叩く 真夏の太陽を凝縮して 強い光のつぶてとなって 昼間の音を拡声しながら そいつは叩く 叩く 明るい日向に慣れてしまった心は 闇の時間に立ちすくむよりなく 明るい時代になじんだ命は もう闇の世界に戻れない 叩き疲れて 最後にひと声 高く啼いた あれが 自分の片割れなのだと ようやく気づいた時分 朝を待てない小さな命が 深い闇のむこうを向いて ばたばたと不器用な飛翔で 遠ざかる 1993.9.7-12. |
時 の 果 実 忘れかけていた季節の巡りは 老いた古木の死と引換えに ひとつの美しい果実を用意する 隔てた時間が失わせたものは そのじつ なにひとつ有りはしない 人々の託された地上には 間に合わぬことなど ひとつとして無く 与えられた果実を愛でる力は 周到に生み育てられ 準備された たったひとつのこの美しい果実を 慈しむ ただそれだけのために 時の海を渡り 人の道を渡ってきた 裏切りにあい 孤独に耐えることを強いられた ならば すべてが終わる すべての始まりとともに 選ばれた時間 美しい果実は 選ばれた者の手に委ねられるだろう もっとも美味なる芳醇な酒に それを醸してのけられる 唯一の者の手に 人が選ぶのではない すべてははるかな以前に決していた 遠い出会いの先から このことは決まっていた 人の理解の届く範囲に 辿り着くためには 忘れかけるほどの季節の巡りと 少女が娘を経て 見事 大人の女性にまで成長してしまうだけの 時間とが 必要だったけれど あらゆることが 響きあい 呼応する 乾いた地表を雨が潤し 立ちすくんだ足元に花が開き 見上げた頭上に星がひらめき 求められた風が吹く 示された時に ひとつの 美しい果実が 地上に実り 収穫される 1994.2.11-13. |
か な し い き も ち 夕べ見た夢 僕がいて どこかにいて 誰かといて なにかを失ったはずなのに それが思い出せない ただ残っている 切ない気持ち 失うものが なにひとつ 誰ひとりとして ないとすれば あんなに強くいられたのに それが今となれば ただ訳もなく 悲しい気持ち もともと上手でなかったはずの 愛することが ますます不器用になって 差し延べた両の手の やり場に困る 夢を見た朝 僕がいて ここにいて ひとりいて なにかに泣いたはずなのに それが思い出せない ただ残っている 悲しい気持ち 1994.3.28. |
薫 る 夕 べ 花の薫りたつ夕べ 孤独ではないと 言い聞かせるその思いが 数分先の闇を見ている 恐れはしないと 力づける昂りが 奈落へと足を滑らせる 元気だ大丈夫だよと 本当は助けを求める声が どこにも届かない 淡い 薄紅いろの花の名が分からない いつ そこに咲いて在るのか それを知らない わたしの関わらないところで 美しいものが成長する 先へと進んでいく ここにこうして 佇んでいることが 残されていくという 置き去りにされるということだと 感じる心が 元気だよ大丈夫だと 誰かに言い聞かせ 言い聞かせたあとに 待ち続けるその夕べ あの花の下で宿り 見上げれば 舞う花弁が満ちる時間に ささやかな宇宙を聴く 迎えにいこう おまえを拾いにいこう と 動く風に ふいに激しく薫る花の下 わたしは苦しいかたちのまま 静かに固まっていく 1994.4.20. |
朝 、 わ た し の 黒い土はしっとりと湿度を含んで柔らかい。 ひんやりとした空気を頬のあたりで感じる。 それを全身で味わう歩みを歩む。 耳で聴き、目で視て、鼻で嗅ぐ。 目覚めたばかりの森の音。 生まれたての新しい緑。 作られたばかりの大気の匂い。 朝露がひざの高さまでをすっぽりと濡らす。 とおに起きだして、最初の食事をおえた森の鳥が頭上を渡る。 右の掌を開いて、腕をまっすぐに肩の高さまで持ち上げる。 この先に友人たちの住まいがある。 左手を握りしめて空に向ける。 この先に宇宙がある。 「おーい」と、誰に呼びかけるわけではない。 誰、ということもなく、いのちはこの大気いっぱいに満ちている。 薄く張られた水の温みを、しゃがんで伸ばした片手の先で聞く。 昨日より確実に背を高くした稲の葉先に触れる。 株間に顔を入れて生きる緑を嗅ぐ。 水面を走る虫がいて、葉陰でじっと待つ虫がいて、 羽虫がいて、イモ虫がいる。 蛙がたたずみ、蛇が畦を横切る。 なにかが死に、なにかが殺し、なにかが待ちつづける。 握りしめて抜いた畦の草が、掌に青い染みを残す。 薄い切り傷と、夏の匂いを残す。 ヨモギを摘んで、足元に並べて、 ゆるい坂を登って森に入る。 重なった古い落ち葉がふわりと沈む。 去年の古枝がぽきりと折れる。 森は乾いて、いのちの湿度が隠されている。 小さな獣がわずかに走って振り返る。 動かない空気の密度が増す。 荒れた木肌に耳を当てると、流れる遠いひびきは 木々が水を吸い上げる音。 朝の最初の風を受けた、頭上高い葉擦れの声。 本当は彼の静かな囁き。 「おーい」 だから、今度は声にはせずに呼びかける。 ここにいて、どこにでも届く。 すべてのいのちと、 満たされた地上と、 わたしの朝の、どこにでも。 森を抜けて、麦の畑の畝間を抜ける風を味わう。 舞い上がる雲雀の驚きを、わたしも驚いて、 呆然として見上げる空のまぶしさが、 痛い。 足元の土を一握り、 つかんだ姿勢のままで、 わたしはわたしの朝の終わりを見届ける。 1994.6.25-26. |
Follow You あなたのよろこびに 手をとりあうことより あなたのかなしみに うちひしがれることより いまのぼくは あなたの疲れを疲れたい ともに息もたえだえに その場にすわりこんでしまえば なにひとつ先へとは進まないのだろうけれど すわりこんだあなたの見る 雲のうつろいと すわりこんだあなたの触れる 土のぬくみと すわりこんだあなたの息づかいとを いまのぼくはこの身のすべてを使って知りたいとおもう 励ますことより 助け起こすことより だれもが求めるどんなことより そのことが大切におもえる それでいて 最初に腰の枯れ草をはらうのは あなたのほう それでもぼくは もうしばらくそのままに あなたの疲れをあじわいつづける 白くなった心と心が はじめて重なりあえると信じられるから 立ち去ったあなたのあとに残ったあなたを ぼくはようやく 抱きしめる 1994.9.17. |