薫 風 山の端の 細身の月が身じろいで 持ち上げようとしてる きのうと違う夜明け 何をためらってか この明け方はいつになく長い 右頬と同時に からだの深いところが感じる風が この年はじめて痛くない 闇のなか 濃い生きものたちの気配は 満ちていく 耳を済ませば 草々の呼吸の音が 聞こえるほどに だから動けない あの淡い色の月と同様 さそり座の ゆったりとした曲線をたどって 白々とした新しい空に染まる このまま どこにも行かず 何にもならず ただ たたずむことを思い出した 春 最初の風 1996.3.17-20. |
美 味 な 朝 あかしあが 空に賑やかだ 点描のはるじおんが きのうまでの枯れ野を 駆けるようにして広がって止まる かみつれが 天を指して甘く匂いたつ 遅いつつじが 山すそに透明な光を投げる そして むらさき色の静かな炎! はるか見上げる頭上の 桐の花は 高らかに香る あかしあが 身のまわりで賑やかだ 色、色、色、薫り この朝 このひと時 地球はおいしい果実になる 1996.5.28. |
剥 離 とり戻すことは なにか ひとつを作ることより ずっと むずかしい いま 眠ってしまえば ようやく形になりかけた言葉を 永遠にうしなってしまうだろう と 予感しながら誘惑に負けた幾百の夜が そのことを教えてくれる そのようにして いつも わたしのコトバは わたしの言葉でありながら わたしのことばからすこしずつ 剥がれていく 僅かずつながらも それて続けていく日常が 一年さきのあなたを もう ここにはとどめてくれないだろう それでいて 誰ひとり この流れの岸からはあがれない あるいは 大きな木を中心にして わたしの反対側に いつもわたしのことばが隠れている ─ワレワレは出会うことがない─ そのようにして わたしが変わることは ない ある日 すっぽり何かといれかわってしまい わたしでない私が やがて にっこりと笑うだけだ 1996.6.23.-7.8. |
海 か ら 遠 く へ すぐにでも 追いつけるはずだった 瀬を渡り 沢を横切り 荒ぶる流れの 砕け散る岩の陰にでも 深い淀みの淵の底にでも それは容易に見いだせるはずだった わたしの形をしたままに わたしから削りだされて いち早くそこに流れ入ったもの それはこの水面に船を浮かべれば いつでも取り戻せるはずだった ひと夜限りの嵐も過ぎれば しばらく身悶え震えた流れも 照れ隠しの飛沫をわずかに散らして いつもの静かな面に戻る 人の暮らしの臭いを含んで 失われたわたしと同じ臭いを含んで だが、 含まれたすべての気配のなかに わたしはわたしを見いだせるほど 正しくも謙虚でもなく 傷ついてもいなかった いくつかめの岸を辿り いくつかめの橋のなかほどから みはるかす流れの涯のものを知れ すべてはそこで選別される 或いは拒絶され そして受容される 生命よりもさらに深い闇 ただ、闇 その圧倒的な広さよりむしろ その正体は深さに秘められる そこに群れなす数多の生物よりもむしろ 更なる死の影の濃さこそがすべてだ 辿った道を戻りながら わたしは失われたものを惜しみはしない 感受と夢と憧憬と─ 脱け殻のわたしにも戻る道はある 悲しみの方法を思い出しながら 痛みの感覚を懐かしみながら 辿る道はある あの豊かに寄せる波の岸辺から もっと遠くへ 1997.8.16-18. |
秘 密 の 花 園 人間は意識的に隠し 或いは、見えないふりをし 或いは、殊更見ないように努め そのようにしてお互いの間に秘め事を共有しようとするだろう われわれが「秘密」と呼ぶようなものの多くは そのように他愛のないものだ 隠されるから知ろうとして、男は女に恋をし 隠すことで自分の値打ちを高められると勘違いして 女は浪費する 隠すために消費するエネルギーと 暴くために費やするエネルギーとで 社会の大部分が今日も展開する ほんとうは 隠すに値するものなど ひとつも無いのに そして われわれの地上に そして、まだ見ぬ宇宙に 自然、と敬愛を込めて呼ばれる われわれの外の世界に 隠された事実など、ひとつとして無い すべては明らかにされ 解き明かされ 目の前に提示されている が 見えない 聞こえない 分からない それがわれわれの目 そして耳、知覚 この春 わたしははじめて 路傍の名も知らぬ草々が つける花を美しいと知った 午後の日向の匂いの 僅かばかりの移ろいを知った 杉木立の下生えに鮮やかな 紅色の花のあることをを知った 雨垂れが時折りつくる官能的な 曲線を辿る楽しみを知った うぐいすの移る枝ごとの 音色の変化を知った 今まで目の前にさらされ、聞き、嗅いでいながら なにひとつ認識していなかった自分を 知った それらが 秘密などであろうはずがないのに はじめから 何のてらいも、気負いも、押し付けもなく いつも それはそこにあったのに 隠されていたのは ただひとつ わたしの中の 2002.5.28.-6.5. |
暖 色 の 岸 辺 豊か に水を含んだ大気が 自分の重さに耐えきれず ふいに動いたおそい夕暮れ 踏み分ける足もとから立ちのぼる 濃い香草の息が たどり着かれたはずの身体に 甘い 雲間にのぞく光がようやく届けば つかの間 地上に色彩の波が踊り 鮮やかに渦巻いては視界を満たし ひたひたと ささやきながら引いていく 点在する赤、黄、黄、黄、黄、そしてあらゆる緑! いつからか ここは海 降りては月の光の宿る 暖色の岸辺 膝まで濡らす波を掻き分け いつからか歩みも軽く 全身を草色に染め上げて あの光彩の際の 岸辺まで かつて地上と呼ばれ 優しい人々の住んだ あの岸辺まで 2002.9.30.-10.9. |