河を渉る    1991−1992
     
      眠 れ ぬ 夜 に 
     
     
     裏切られたことよりも
     裏切りを予感して過ごした時間が
     何より惜しまれる
     人が人を傷つけていく時間の生々しさは
     繰り返された呪いの言葉の数々よりも
     沈黙の底に澱み続けた
     鈍い痛みによってのみ 深く
     記憶に留められる
     
     許すことほどに
     憎むこともまた容易く
     後悔の持つ甘い快楽に等しく
     認知されぬ不幸は時に心地よい
     
     多く語られた経緯を丁寧になぞりながら
     本当は何を演じたかったのか
     期待された世界の崩壊は起こらず
     海を隔てた戦闘も虐殺も
     隣国の学生たちの死も
     何ひとつ変えることのない
     変えられる筈もない 日常という
     地味で ただ重い
     時間の連続だけが残る
     
     その時間の連続の果てに最早
     あとは人を傷つけること以外の
     何の用も成さぬ
     裏切ることどころか
     裏切られることさえ叶わぬ
     自分の他に
     誰ひとり存在しないことを
     予感して
     立ち竦んだ春の夜
     
     もう二度と
     傷つけたくはない
     遠い
     隣人に向けて
     今宵
     何度めかの
     受話器を
     取る
     
                         1991.4.27.- 5.10.



     
      空 の 下 で 
     
     
     アカシアが春の涼風に花びらを散らせる午後
     足許に積もった白いものは
     かつて空の青を淡く染めたものたちだ
     次の嵐が明けた朝には
     泥をも染めて
     踏みにじられるものたちだ
     
     私は たしかに
     愛することを行えた
     かつて
     選び選ばれた者を
     人間を
     その愚かさと儚さを
     自分を
     この空の下を
     
     疲れ果てた私の頬の汗は
     やがて乾けば
     額から首筋にかけての涼やかさへと
     うつろい変わる
     吹く風の偽善は
     気化熱のささやかな仕事を
     むなしくする
     
     揚げ雲雀の声高らかに
     息潜めて静寂を望んだ空の下を
     揺るがす
     舞い上がる彼を それでも
     見上げる者は居ない
     未だ 否 常に
     変わることない それが
     豊かであると
     いうこと
     
     隠された死を
     けれど隠し通すほどに我々は
     自由でなかった
     明らかにするものを忌むことと
     物陰に潜んでこっそり
     盗み見ることとは 多く語られるほどに
     矛盾せず
     誰もが快く許される それも
     豊かであるということ
     
     この空の下では
     
     愛されることだけ多く
     (けれど愛すことなく)
     悪戯にも似た
     ささやかな罪を許され続ける
     そんな春の涼風になり下がる
     気だるい午後
     私は
     漸くあの空を見上げることをして
     目を細め
     狙いすまし
     その高く舞い昇るものを
     撃ち
     落とす
     
                         1991.5.13.-6.11.



    
     
      ボ サ ・ ノ ヴ ァ 
         ─スタン・ゲッツの死を悼んで─ 
     
     
     歌が あった
     共に暮らし始めて数ヵ月
     聞こえた歌をはさんで ようやく
     私たちは向かい合った
     抑え込まれた感受の波が
     高みに登った秋から冬
     ささやかな終焉を次の春に控えた
     静かな夜に
     私たちは ようやくにして
     友と出会った
     
     熱い嘆きと
     華やかな熱情を
     深く忍ばせれば
     それが ボサ・ノヴァ
     人が生きる日々の気だるさを
     美味として味わえるほどに
     心地よく思えるほどに
     私たちは満ち足りて
     不幸ですら
     なかった
     
     オリンピックが二度ほど開催される時間を経て
     私はそれでも満ち足りて
     不幸ですらない
     そして
     独りだ
     春はいつの間にか過ぎ去り
     私は今年
     春が存在したことすら 覚えていない
     生きながらも
     とうとう生き得なかったそのような
     人の営みの虚しさを
     酒の肴に久方ぶりの
     ボサ・ノヴァを聴けば
     もう一度あの長い夜から
     生き直しても良いなどと
     愚かでいられる程度の
     今日 何度めかの
     独り だ
     
                            1991.6.12.



     
      永 い 夜 
     
     
     雨の季節
     濃い湿度の海中を遊泳しつつ
     暮らしを立てながら
     私は
     私を原初の存在に落としめる
     この暑気すらをも
     祝福するだろう
     
     水銀柱がもうふた目盛り伸び上がるだけで
     地軸が僅かに傾くだけで
     気圧配置がささやかな気紛れを起こすだけで
     人類は
     直立歩行を始めたあの頃の生き物へと
     容易に立ち戻ってのけられる
     
     あの頃
     私が本当に脅えたのは
     二本足で歩く 同類の
     人間という
     脆い肢体を持った生き物では
     なかった筈だ
     そう
     まだあの頃は
     
     棲息し
     生存し
     暮らし
     そして生きる
     彼らは彼らの世界を
     必要以上にややこしくすることに
     躍起になってきた
     ややこしくして
     ようやく手に入れた物を
     自ら
     不幸
     と名付けてまで
     
     それでいて
     太古の頃より
     引きずり続けた
     自らの醜悪を
     未だ御しきれずにいる
     欲望
     と名付けて隠蔽し
     嫌悪し
     時々 開き直っては賛美して
     混乱を続ける
     
     つまるところ
     この濃い湿度の海の底に
     うずくまる
     一個の獣でしかない
     我々だ
     
     その無力の獣に立ち戻って
     私はようやくのこと
     棲息から始まる人類史を
     辿り直して 自分がついに
     人間への進化を行いそこねたことに
     気付くのだ
     
     いつもこんな明け方に
     
                        1991.6.26.-7.8.
     


     
     
      美 酒 
     
     
     口辺に残ったビールの匂いに
     今一度 酔いが戻る
     酔うという
     月並みな行為に導く動機の
     今となれば 何と単調なこと
     興奮も 激情も
     振り返って辿り切れる 一番
     遠い時間に押しやってしまった
     今となって
     職場のささやかな揉め事に
     涙しながら電話に向かったところで
     かつての純情と
     感受と誠実が甦ったなどとは
     見え透いた体の良い 錯誤
     大粒の涙に机上を濡らしながら
     ふいの来訪者にどう繕うかと
     すでに模索すらできる道化だ
     にも関わらず
     置いた受話器と同時に
     止めてのけられる筈の嗚咽が
     久しく続いて 戸惑う愚かさの
     目も当てられぬ狼狽ぶりに
     照れ ごまかして
     抜いたビールの栓をそのまま
     しばらく見つめて 置き捨てて
     今度はどこに逃げ込むのかと
     久方ぶりに声が聞こえて
     うなずいて
     気の抜けていくビールそのままの
     惚けた顔を冷水で洗い流し
     もう一度大声で泣いて
     辺り憚らず 泣き散らかして
     やがて 人心地
     人間めいた空腹な心に
     美味しい酒を
     ようやく やっと
     呉れてやる
     
                         1991.6.8.-10.



                                                                           
     
      地 球 は  そ れ で も 
     
     
     かつて私は
     生き急ぐあまりに肩越しに
     振り返るばかりを多くして
     踏み留まることを忘れたように
     歩き続け歩き続け
     結局どこにも行けなかった
     辿り着いて誰もおらず
     振り向いた後ろに道は遠く
     ただ陽は上り陽は沈み
     かすかに鳥が囀るような
     地球は淋しい星のままだ
     
     かつて私は
     黙り込んで言葉を諦め
     人と人の間を流れる
     川の深さに無力であると
     信じ込んでは座り続け
     眺めることだけ行った
     発した語句の産み出す不実を
     恐れるばかりの小心が
     こちらに渡る橋を壊して
     どれほど舟を沈めたことか
     地球はそれでも狭い星だ
     
     好むと好まざるとに関わらず
     この星に生きることは
     そのまま或る種の贖罪であると
     気付く者はどうやら未だに
     少ないらしく
     人は今も幸せか不幸のどちらかだ
     
     かつて私は
     死に急ぐあまりに何一つ
     創らず生まず思わずに
     笑うことばかりを多くして
     意味を探すことをも忘れ
     唄い続け唄い続け
     結局誰にも聞こえなかった
     唄いやめたらその静寂に
     耐える力もすでに無く
     ただ花が咲き花が散り
     いつも枯れる枝だけ残る
     地球はいつも優しい星だ
     
                           1991.7.16.



                           
     
      初 秋 
     
     
     不意に鳴りやむ蜩に
     肌に冷やかなものを感じて
     幾度めかの 生きそこなった夏に
     幾度めかの 後悔を重ねて願う
     
     救済を望んだ訳ではなかった
     前に進む為には
     押しのけねばならなかったものたちへの
     今となれば遅すぎる贖罪を
     ただ乞うばかりだ
     
     合わせた両の掌に
     何が応える訳でもなく
     進んだ先にどれほどの意味も
     見出せずに
     それでも
     傷つけ傷つく夏を
     重ねることが私の業だ
     
     虫の音の向こうに聞こえる沈黙が
     ひと頃より深く感じる夜は
     夢を見るには長すぎるし
     たまの夢の中だけに
     友に囲まれて私が
     今も生きている
     たっぷりと疲れ果てた朝に
     笑顔を向けられるだけの季節を
     私は過ごしてこなかった
     
     受容を望んだ訳でもなかった
     立ち竦んで迷う時間に
     僅かばかりの猶予が
     欲しいばかりだ
     
     肩口の冷え込んだ明け方に
     きりりと引き締まった大気を渡って
     唄が聞こえる
     かつて
     信じるものを抱けた時代に
     聞いた唄だ
     かすかなまどろみと共に
     今や消え失せてしまう
     名も無い唄だ
     
     熱さを忘れた夏によく似た
     
     夢を忘れた朝によく似た
     
                           1991.9.15.



     
      楽 園 
     
     
     目覚めた朝が
     暫くは実現されそうもない
     夢を一層空しくさせる数十分の間
     私はそれでも私が
     私の唯一の理解者であることを
     自覚するのだ
     過ごした時間の量だけ
     確実に遠のいていく私の楽園を
     それでも穏やかな気候の
     光と風の中で
     信じてのけられる私を
     愚かしく思う私と
     愛しく思う私とが
     今朝もせめぎ合っている
     
     今となれば語るも憚られる
     私の楽園には
     それでも心優しい人々が住んで
     穏やかな時間を
     もとより他人の為ではなく
     まして自分の為でもなしに
     ただ
     それを豊かなものにする為のみに
     過ごし続ける
     喧騒は有っても裏切りは無く
     憎しみは有っても狂気は無く
     愛でも信頼でも希望でもない
     必然だけが人々を結び続ける
     木や水や空気に保護を与えるのではなく
     ただ交感だけがそこに有って
     広くて深い安らぎだけが
     その証だ
     
     白昼に夢を見て
     いつも現実という深い穴への
     失墜を繰り返しつつも
     私が未だに人間であることを失わずにおれるのは
     遠い楽園の温もりゆえだ
     
     眠りに就く直前の
     一日の疲れを数え上げてきりの無い数十分の間
     私はそれでも私が
     私にとって唯一の信奉者であることを
     誇りに思うのだ
     
                           1991.9.26.



     
      終 末 の 岸 辺 
     
     
     薄く剥がされ
     舞って降り来る
     あれはぼくらの感受の断片
     誰も語らなかった終末の景色は
     むしろ豊かな春に似ている
     若い緑の香にむせて
     ぼくらの上にぼくらが積もり
     闇を忘れた夜の底で ただ
     かつて感じることだけをした
     薄紅の記憶が重なり続ける
     それは月によく似た
     太古の残像 否
     ぼくらの存在を終えた
     そう遠くもない未来の形象
     薄く積もったぼくらのそれは
     さらさらと海に流れて
     今 ようやくに
     語り始め
     かつて許されなかった
     造ることを始めて
     濃いその水の濃度をさらに 深くする
     生きながらに生み出せなかった
     ぼくらの感受は
     やがて岸に打ち寄す波となり
     生きながらに拭えなかった
     ぼくらの罪を
     静かに強く
     洗い流すだろう
     遠い
     終末の
     乾いた岸辺で
                         1991.11.18-20.



     
      冬 の 聲 
     
     
     産まれ出る子の幸と不幸を
     いかほどの言葉を以ても
     語れぬ私に
     冬の時間は乾いた嘆息だけを
     約束する
     目を伏せてさえ
     確かと 折り紙を付けられる
     どれほどの未来も持たぬ私たちに
     それでも彼らは
     庇護を乞うのか
     
     冬ざれを鋭角に横切って
     私の昔に激しく突き刺さったのは
     何物の聲か
     修復のもはや叶わぬ
     建造物の
     基盤を再び掘り返し
     そこに最初に埋めたものを
     取り出し 曝して 感触するように
     そのように
     今でも癒してのけられるものか
     私たちの重ねてきた数々の愚行は
     
     出でよ と
     そう それでも私は命じよう
     生きよ と
     そう 私に命ずる聲のある限り
     
     両の手のぬくみの記憶の消えぬうちに
     身を切るこの風の方角に向けて
     
                         1992.1.20-22.



     
     
      宇 宙 に 開 く 窓 
     
     
     ぼくらはようやく窓辺に寄って
     宇宙の黎明に目を上げる
     何やら豊かな濃度の風に乗って
     流れくるのは
     騙し騙され
     憎まれ憎み続ける
     優しい同胞たちの呼び声だ
     笑ってそれを見送ってのけるだけの
     古い時間を持たないぼくらが
     綴り続けた歌の
     最後の詞句だけが乾いていつも
     剥がれて落ちる
     生きる
     が 生きていくに置き換えられない
     ぼくらの窓辺も
     この宇宙に向けて開いた
     ひとつの脱出口だ
     そこで唯一証されるものは
     ひとが二人でも生きられるという事実だけの
     今日も使用されることのない
     脱出口だ
     
                           1992.3.3.



     
      異 形 の 川 辺  II 
     
     
     薄紅の花の見事に
     打ち興じる人間の季節
     川べりの土手に憩う精霊は
     おぼろの空を見上げては
     決まってそこに置き忘れられる
     人間たちの古い時間を清算する
     つややかに照り映える
     土手の緑までもが意匠となる
     まどろむ時間に似たそよぎの中で
     人間はそしてどこへ行ってしまったのか
     
     真実をめぐる探究に疲れて
     鮮やかに演出された虚構に身を潜めれば
     もはやそこには
     群れた魚の影の揺れる
     川面ほどの画像が映るばかりだ
     液晶ディスプレイの中に宿った精霊は今や
     語り継がれた虚構の中の
     切ない希望を読み取る術も意志もなく
     真実すら語る間の無い
     高精度の地上を造形する
     
     人間は二進法の土手を下って
     美に関する言葉のすべてを検索する
     図らずも精霊たちと同じ方角に顔を持ち上げ
     ほのかに季節の香を含んだ
     宇宙を呼吸すれば
     濃い蒸留酒の中に秘められた記憶は
     人間がいつでも人間以上のものになれることを
     思い出させる
     
     そこに居てそこに居らず
     やがて虚構そのものとなる人間が
     それでも舞う花片の妙を愛でる夕べ
     歌い継がれた唄の繰り返される
     川岸の艶やかな樹木の下では
     愚かな生命を愚かなままで
     慈しむ懐かしい精霊が
     今もひとつふたつ
     静かに安らいでいる
     
                         1992.3.29.-4.8.



     
      春 の 日 
     
     
     風の降る午後
     膝を抱えて
     何が見える訳ではない
     置き捨てた時間と人間たちを
     数える虚空を巻く風が
     今日も乾いた色をしている
     
     うかうかと置き忘れられたものが
     本当は私であると
     気付くには遅すぎる
     澄んだ大気の向こうに
     空が青い
     
     この先の
     どれほどの希望と
     いかほどの季節が
     支えているのか
     今も
     私は生きている
     例えば
     野山のさえずる
     軽くて豊かな春の日を
     
                          1992.4.17.-25.



     
      ラ ジ オ 
     
     
     あの頃
     深夜放送の電波を手探りながら
     伸ばせるだけの背伸びをして
     加わったつもりの大人の世界で
     出会った音楽よりも
     それを美味と感じる自分に感動さえした
     そんな屈折した感性のやり場ばかりを探した
     十代の後半
     あの頃
     愛は何やら言葉の遊びで
     恋は胸の動悸ほどの意味しかなく
     自分以外のすべてが世界で
     どこまでも深く果てしなく広く
     時折 醒めた心には
     一人がただ苦しかった
     あの頃
     何にでもなれる自分が
     実は何にもなれないことを
     うすうす気づいて悄然として
     眠れない夜に
     ラジオは繰り返し
     愛の可能性を語り
     若さの神秘を賛じ
     聞こえる耳慣れぬレコードは
     人生の深遠を歌っていた
     − 繰り返し
     
     私はそして大人になれたか
     人生の半ば近くまでを生きて
     何かを残し
     何かを記してきたか
     
     あの頃
     夜のすべてが聖域だった
     その奥に隠されたものを探っては虚しく
     誰もが黙り
     真実を語ることに恐れた
     不確かであることが何らかの証しであると
     予感しながら
     それでも
     私は電波を手探った
     そんなあの頃に
     今でも私は戻り
     容易に立ち戻り
     心を幼くして
     何も無い虚空を見つめていられる
     同様に
     一人を今も苦しいと感じながら
     味わいながら
     
                          1992.4.22.-25.



     
      若 葉 の 頃 
     
     
     日頃うそぶき ないがしろにして
     無視し続けていた筈の
     ひとの世の流れや
     習いや交わりから
     自分がひとり
     取り残されているという思いを
     ひっそりと辿ればいつも
     遠い春の二週間に行き着く
     
     中学生であることを終え
     しかしまだ高校生にもなれぬ
     何者でもなかった二週間を
     私はただ
     豊かな光線の跳ね回る
     窓の外の景色を眺めることで過ごした
     誰も居らず
     おそらく地上には誰ひとり留まっておらず
     私のささやかな部屋と
     窓の外の限定された春の午後だけが
     世界の全てだった
     
     青い背景を丁寧に横切る
     小さな鳥の軌跡をなぞり
     陽の傾きに合わせて色を移ろえる
     若い緑を記憶に留めながら
     私が本当に見つめていたのは
     底知れぬ ただ暗い宇宙の深淵だった
     そこには常に私の影が棲んでいて
     東寄りの風の向こうから
     淡い若葉のあちら側から
     それは静かに
     私を手招いていた
     地上は束の間の静寂を受け容れて
     振り返れば壁の時計すらも動きを止めて
     私はあらゆる終末を予感した
     
     今も
     鮮やかな色彩の季節の
     穏やかな風の懐には
     私によく似た私の影が潜んでいて
     ひとの世の流れをそれて立ち止まろうとする
     営みに疲れた私を
     低い声で呼び掛ける
     お前は本当は人間とは別の生き物ではなかったか
     お前はいつからそこに生きることを許されるようになったのか
     
     私の弁明を聞く者はしかし
     この春の地上には居らず
     ただ笑いさざめく声だけのする
     幾度となく繰り返された時間だけが
     あれ以来 刻むことを忘れた時だけが
     私の傍らに存在する
     ひっそりと存在し続ける
     
     重ね続けられる春
     若葉の季節
     私は無防備のまま地上に投げ出され
     幾度となく
     死を繰り返す
     
                           1992.5.9-12.



 
     
      日 常 
     
     
     丸めた紙屑が三度めの遠投でもごみ篭に入らない日
     玉子焼きの形が上手く整わない日
     取引先への連絡が九時を過ぎてもつながらない日
     浮かび掛けた言葉が目の前でサラサラと砂になってこぼれる日
     私は巡り合わせの悪さをさんざんなじった挙句に
     宇宙の原初に思いを馳せる
     そこで最初に宿った生命は
     自らの不運を呪うことなどあったろうか
     
     窓を開けて夜気を入れる
     見上げた空に
     昨日よりも僅かに満ちた
     ほのかな月が傾いている
     
     仕事の夢にうなされて目覚める夜半
     取り上げた灰皿を滑らせて
     隣家をはばかって掃除機を使って
     私は自分の仕出かしてきた数多のしくじりを振り返る
     暫くはそれを続けて
     そのうちに涙ぐんでは眠りに就くのを断念する
     何やら根本的で必然的でそして決定的なミスが有って
     私が今ここに居るのだと
     ひとりの夜中を生きているのだと
     やがて鳥のさえずりの聞こえる闇の中で
     すんでのところ絶望を自嘲にすり替えられる
     それが私の生きた時間の証
     
     そのまま迎えた朝になって
     寝惚けた顔で味噌汁をたぎらせ
     慌ててはずしたボタンをつけかえ
     指を針で突き刺して
     やがて繰り返す仕事の上のしくじりを
     予感しつつ
     恐怖しつつ
     私は私の一万と数千回めの一日を
     またやり過ごしに掛かっている
     
                            1992.5.15.


                                      
     
      お 前 と い う 
     
     
     お前という生命
     私の計り知れない悩みと苦しみに支配された
     遠くて近い 未知の生命
     私のこの存在がどれほどの役割も果たせず
     空しく行き違ってしまうばかりの
     ほのかな生命
     お前は
     本当はそこに居たのだ
     もうずい分と以前から
     私の傍らの そして一番遠いところに
     そこで私に求めながらも報われず
     諦めることに自分を馴らしてきた
     お前という生命
     それだからこそ
     私にとってかけがえのない
     二度と出会うことのない
     古くて新しい
     ただ一つの
     生命
     
                          1992.5.15-16.



     
      人 間 の 地 平 
     
     
     探しにいく
     自分がこれまで安直に
     何のためらいも無く
     そして無残にも
     忘れ去ったもののひとつひとつを
     二十五の春に膨大な手紙や日記と共に
     焼却炉で灰にした懐かしい人々を
     前だけを見て足早に行き過ぎた
     道の傍らの友たちを
     十年近くを経てようやく
     探しにいく
     実は
     置きざりにされた子が母親を
     泣きながら追うように
     迷った山間の細道に
     空しく人を求めるように
     二十五の春
     焼却炉の前に立ち竦んだ
     私の髪を焦がした炎が
     今頃になって
     私の胸を焼く
     打ちのめされて
     たったひとりの夜の中で
     ようやく全てがいとおしい
     重ねた不実の分だけ
     取り戻す道のりは長く険しく果てがなく
     この痛みが自分を今
     人間の地平に立たせているのだと
     思えば何もかもが
     ありがたい
     振り返る坂の途上に
     差す日差しがようやく穏やかな
     予感する
     数多の笑顔が目映いばかりの
     今日と
     それに続く明日だ
     
                           1992.5.21.



     
      回 帰 
     
     
     暮らしという木の周りを
     私は静かに巡る
     ゆっくりと出来る限りの
     大きな円を描いて
     先頃私は
     その大きな枝から下りてきた
     本当は遠く確かめたかったその枝ぶりが
     途端に貧相に映って
     足取りを重くする
     立ち止まってしまえば
     そこから伸びる新しい苗木に
     私は何と名付けよう
     
     私は後悔はしない
     そして後悔しなかったことを
     後悔し続ける
     
     人が抜き手を切って泳ぐこの海を
     私の不細工な背泳ぎでは
     少しも前に進まぬこの海を
     なるほど皆は人生と呼ぶ
     それに気付けば溺れるしかない
     冷やかな水の上で
     私は離れた陸を見ず
     もとより行き着くつもりの対岸も見えず
     おどおどしながら見上げるばかりの
     無慈悲な空に
     すいと鴎は流れていく
     
     私は後戻りをしない
     迷った者にもはや
     戻る道すら無いことに気付かぬまま
     
     いとおしいと感じる思いを
     そして私は自分の奥から取り出して
     埃を落とし
     丁寧に延ばして陰干ししながら
     ほんの一瞬
     穏やかな方角から吹く風を感じ
     足許の土の古代を感じ
     身体を突き抜けて地球に届く日差しを感じ
     ほんの一瞬
     私は前を向いて
     踏み出す一歩で
     人間と人間の営みの中心に回帰する
     次の一歩をひそかに恐れなから
     
                           1992.5.25.



     
      河 を 渉 る 
     
     
     河を渡る
     遠い対岸に向けて
     本当は私を渉る
     遥かなあなたに向けて
     遡れば容易いせせらぎであった筈の
     この深さと遠さを我々は
     悲しみと呼ぶ
     いつの日かここに架けられる筈の
     まだ見ぬ長い橋を私たちは
     希望と名付ける
     しかし私は靴を脱ぎ
     ズボンの裾をまくり上げて
     いや
     身につけた全てのものを岸に置いて
     この河を渉る
     不幸や敗退に関するあらゆる予測よりも
     対岸の花や木や
     歌や微笑みやあなたが
     流れの冷たさに私を耐えさせる
     人間はいつから
     泳ぐ力を失ったのか
     これほどに川幅を拡げてしまったのか
     海という
     果ての無い虚無の拡がりに
     いずれは行き着いてしまうその手前で
     私は私という
     今ではいくぶん穏やかな
     しかし水底の見えない暗くて遠いこの河を
     暮らしの汚れに満ちた重い流れを
     もう一度だけゆっくりと
     確かめながら流されながら
     静かにそっと わたりきる
                        1992.5.30.-6.1.