ヒンドスタン     1981年、夏    インド
     
      失  速 
          ─ベナレス、モスリム街にて─ 
     
     
     踏み違えた路をそのまま分け入り
     迷路のような街に迷って泣き出したくなる
     こんな時間が幾度もある
     そろそろ夕方 戻らなくては
     
     牛たちは荷を引きながら糞をまき散らし
     子供らはバケツを片手にそれを拾って歩く
     幾度も幾度も 繰り返された営みか
     
     明かりは灯り小路は賑わう
     澱んだ空気に子供らの叫び
     さらに奥へと迷い込む
     ことさら後戻りは避け
     真っ直ぐに
     
     女たちは河原の石段にサリーを叩きつけ
     男たちは路上に赤いパーンを吐き散らす
     これもまた 繰り返された営みだ
     
     路は狭まり人影はまばらになる
     街の雑踏は遠のき 風まで停まる
     騒ぐ心を落ち着かせ
     脚を速める 右に左に
     
     人が在り続けること
     行くことも無く 帰ることも無く
     或いはここに行き ここに帰り
     だから彼らは迷うことがない
     ただ 在るだけだ
     
     人が絶える
     明かりが失せる
     闇 ただ闇の家々の間
     迷路は入り組み いつも行き止まる
     人は居るのに この街に人は在るのに
     僕は路を失う
     
     行くことを思い
     帰ることを悩む
     この自分は一体何だろうか
     時の歩調を知らずに生きた
     時を流れず 時に流れた
     
     叫ぶがよい 泣くがよい
     自らを罵り 街を呪い
     そして訴える
     見慣れた通りはすぐ傍らにあるのだ
     
     在るとは時の歩みで我が身を動かすこと
     路傍にうずくまる老婆がそうあるように
     行き交う人に手を差し延べ
     物を乞う 子供らのように
     川の如く悩むことなく
     祈りの如く変わることなく
     石の如く思うことなく
     死の如く迷うことなく
     
     苦い胸の底で噛みしめる
     路を失うは 新たな路を得ること
     
     ここはそして悠久の土地
   
1981.3.28.
     *パーン……噛み煙草、香辛料が口の中を染め唾を赤くする。

     
      ラ ジ オ 
         ─ベナレス郊外の農村にて─ 
     
     村にラジオは鳴り響く
     風に乗り 麦穂を縫って
     ただひとつのスピーカーから
     村にラジオは鳴り響く
     
     インドに生まれた彼らの貧しさが問題なのではなく まして
     日本に育った僕らの豊かさが問題なのでもない
     千本のビリーを作って三ルピーの日銭を稼ぐ彼女らと
     二千円を八十ルピーに換えて三日で使い果たす僕とが
     今ここに 同時に居ることなのだ
     たった一台の小さなラジオを持つが故に
     村中の視線を集める僕とは
     たった一台のカメラを持つだけで
     村の人間を一箇所に集めてしまえる僕とは
     一体何だろうか
     
     一家に一台のラジオを持てぬ貧しさの中で
     彼らは有らん限りの笑みを集めて訴える
     PLEASE GIVE US YOUR RADIO !
     せめて部落に一台のラジオが欲しい
     ほら 金ならここに有る
     これが自分たちに作れる精一杯の金なのだから
     
     ラジオに込めた僕自身の思いと
     輸入規制の政治とが
     安易な答えを妨げたにしても
     彼らの笑顔の絶えよう筈がなく
     僕の苦みの消えよう筈もない
     
     彼らにとって不幸な形で
     国は彼らの暮らしを守る
     思いを越え 願いを越え
     動いているものがこの国に在る
     僕の一時の負い目を超え
     彼らの貧しさを超えて
     しかし 確かな形に国はうねる
     スピーカーから流れるラジオのように
     詰まるところ ラジオの音の止まぬように
     
     しかし そうと知りつつ
     僕とは一体なんだろう
     村にラジオは鳴り響く                                                          
1981.3.30.


*ビリー……葉煙草、葉で巻いて糸で縛る。10本ほどの一束が店で50パイサ(当時のレートで約15円)。
*ルピー……1ルピーはおよそ30円(当時)100パイサ。。
*輸入規制……インドでは国内製品を不利な国際競争から守る為に、原則として外国製品の輸入を控えている。従って良質の外国製品を入手するには旅行者によるしかないのだが、彼らもまた出入国の際に厳しいチェックを受け、外国製品を売るなり譲るなりしたと判れば、高額の税金を徴収される。


     
      火  葬 
          ─ベナレス、ガンガガートにて─ 
     
     生命は黒煙となりて空に昇り
     灰となりて河を下る
     僅かばかりを地に生きて
     呪縛の土地より解き放たれる
     されど 友らよ
     我らの荷は
     まだ この地に在る
                                                    
1981.4.5.
     
      地 平 線 
          ─ゴア発ボンベイ行き船中にて─ 
     
     最初の地平線は
     今ここを歩き始めた自分が
     そう遠くない いつか
     あの地平線に見える村に辿り着けるだろうという確信だった
     村と自分を隔てるデカンの荒野は乾き切って
     おそらくは埃にまみれ飢え渇き
     強烈な日射しを呪うことになろうけれど
     あの砂地に足を取られ低地の辺りで道を失い
     牧童に水を乞い農夫に道を尋ね
     そうしていつか辿り着いてしまうという確信
     自分が人間であることを知り
     つまり人間がそうやって旅をしてきたことを学んだその時間
     僕は固いチャパティを冷めかけたチャイで呑み下しながら
     汽車の窓の側に居た
     
     人は歴史ごとに移ろう時代の上を生きるのではなく
     季節ごとに移ろうこの土の上に生きるものだと
     昼下がりの木陰に憩う老人は無言で語る
     たとい百年の先に生まれようが
     百年前に生きようが
     この季節のこの昼下がりをこうやって
     彼が過ごすことに代わりはないだろう
     土埃を浴びながら歩む牛たちも
     丘を下る山羊の群れも
     人と同じ時間を営むに違いない
     今この瞬間にあの城塞の主が変わり
     その為に多くの兵士がこの野に死んだとしても
     或いはあの丘陵の先で核実験が行われたにしても
     やはりそんなことと関わりなく一杯のチャイに午後を過ごす
     老人がここに居るだろう
     二度めの地平線はその老人の肩先を横切っていた
     
     そしてそれから出会う地平線は
     いつも自分が極めていった地平線だった
     こんなに遠い処へ行けるものか行ける筈がないと
     地図を拡げ時刻表を睨み
     そして時にこの目で確かめながら
     けれど結局辿り着いてしまった地平線だった
     海を越え汽車を乗り継ぎバスに揺られ
     さらに歩きひたすら歩き
     気が付けば怖くなる程の距離を越えて
     知らず辿り着いてしまっている地平線だった
     歩むたびに地平線が移り
     行き着けば始めの土地が地平線になってしまっているという
     繰り返しの中で
     僕はようやく自分の中の地平線が見えてくる
                                                  
1981.5.1.



*チャパティ……米と並ぶインドの代表的な主食。荒挽きの小麦粉を水で練り、丸く延ばして焼く薄いパン。土地によって微妙に異なる。3枚で1ルピー位が相場。
*チャイ……ミルクのたっぷり入った紅茶。一杯25パイサから50パイサ。


     
      戦  記 
          ─再び、ベナレス、ガンガガートにて─ 
     
     僕たちの闘いは今に始まった訳ではない
     
     僕に必要なのは安らぎではなく
     目もくらむばかりの生命の高さだ
     ひと足ひと足を確かめながら踏む山の頂きに
     その実何があるという訳ではなく
     もろい岩肌に取り付きながら
     すでに僕は苦い失墜を予感している
     それでも僕は君を振り切り振り切り
     この闘いに勝利しようとするだろう
     友よ
     
     僕たちの旅は今に始まった訳ではない
     
     僕に必要なのは潤いではなく
     悠久を激しく遡る濁流への降下だ
     流れは鋭い刃物となって僕の肉体を斬り裂くだろう
     自らの断片を拾い上げてようやく僕は
     生命の所在を知るかもしれない
     時はすでに遅い
     友よ それが定めだ
     
     放浪の末に得るものと失うものとを
     おそらく僕は知っている
     安息から遠ざかる旅の果てに僕が得る唯一のものは
     安らぎだろう
     生命を求める旅の終わりに僕の失うものは
     何より僕の古い生命だろう
     友よ 君はその時そこに居ていれるだろうか
                                
1981.5.11.


       遅  滞 
          ─ゴラクプール・ジャンクションにて─ 
     
     全く
     いつ来るか今日来るかさえ判らぬ列車を待ちながら
     プラットホームに膝を抱えていると
     目の前に並んだサンダルが妙に愛おしくなる
     一ヵ月以上も履き込んだそれは
     中央で割れ所々に釘が突き出し
     つぎ当ての数だけ土地土地の思い出が染み付いている
     明日バラバラになってもおかしくないお前は
     この先どこまで付き合ってくれるのやら
     人に関わる大抵の品物がそうであるように
     いつ終わるかも判らぬ小さな生命たちが暮らしを支えてきた
     
     全く
     やっと来てもいつ動くかまるで判らぬまま
     もう二時間もホームに腰据えた列車の窓にもたれたながら
     見事にうすら汚れた着物の埃を叩いてみる
     いったい今度お前を洗えるのはいつになるやら
     どこでゆっくり休めるのやら
     この分じゃ今夜も汽車の床
     思えばすぐに汚れる着物をそれでも洗っては乾すのが人の暮らし
     馬鹿らしいと思いながらも繰り返す ずっと終わりのない旅
     
     壊れた扇風機 出ない水道 外れたドア 開かない窓
     そして とにかく動かぬ列車
     それでも 人は旅を終えるし
     それでも 人は生き続けるし
     
     全く
     よりによって今夜は満月
                               
 1981.5.18.


     
      苦  役 (習作)
          ─ラジギール、ジャパニ・マンデルにて─ 
     
     解放に向かう旅はなく
     常に束縛に向かう旅があるばかりだ
     旅人は多く荷を負い
     厭いつつ呪いつつ
     さらに重荷を増していく
     
     人は生を得 まず自らの自らたるを知り
     家を知り 家族を知り 人の定めを知り
     その重さを知る
     
     友を得 学びを得 愛を得 伴侶を得る
     子を持ち 新たな家を持ち
     時に世に響く名を持ち
     そして それら全ての重さを知る
     
     解放に向かう旅はなく
     そして喪失に向かう旅があるばかりだ
     旅人は苦い思いで すでに
     我が身となった荷のひとつひとつを
     さながら肉片を切り取るようにして
     捨て置いていかねばならない
     
     人は生を過ごすと共に
     自らの自らたるを失い
     家を無くし 家族を亡くす
     人の定めを知り その重さを思う
     
     友を失い 学びを終え 愛を忘れ 伴侶をやがて失う
     やがて軽減したした自らの生を知り
     かつての重さを 愛おしむ
                           
1981.5.31.


     
      祈  り 
          ─ワルダ、ポウナル・アシュラムにて─ 
     
     どんな風でもよい
     ひとつの祈りの型の中に
     自分の身をすっぽり沈め
     自分の心を深く納めてしまう
     そんな時間を結んで
     延ばした線の上に
     朝を定め夜を定め
     生業を置き糧を置く
     両端を結べば 淡い時の連続
     
     彼方に延ばした営みの終わりに
     いかな在り様を願うにしても
     確かに祈りの形に始まった
     その源がどこまでも支えていく
     貴方の生命の豊かさが− 
     − 母よ
     


                           
1981.8.4.
     
      回 教 寺 院 の 午 後 
          ─ニューデリー、ジャーママスジッドにて─ 
     
     モスクの石畳に群れる鳩を子供が散らす
     父親が叫び 子は振り向き
     振り向きながら小走りに逃げて行く
     時間の停止した一瞬
     人々が立ち止まり
     ひとつの風景が出来上がる
     そして 崩れていく
     しかし鳩は戻らない
     
     子供の時分は高い所が好きだった
     そこでは必要以上に哀しみが目に入る
     やがて
     たった一度の落下が
     少年時代に終止符を打つ
     ミナレットの上に激しいときめきはない
     
     僕の中を滴りながら
     ゆっくり満ちていくものは何だろう
     記憶は糧にならない
     今は人生に遊離した時間
     歌が聞こえる
     僕は祈りを忘れる
     蝿は群がり
     人々はざわめく
     いつもそうだ
     祈りの場は 眠りながら呻いている
     訳の判らぬ所に向かい叫びながら
     動けずにいる
     
     だから僕がここにいる
     
     再びミナレットから降下すれば
     瞬時でも
     ここは蘇るだろうか
     
     しかし いつか鳩は戻り
     空しく少年たちの悪戯の
     繰り返されることを僕は知っている
          
1981.8.12.


     
      獣  都 
          ─カルカッタにて─ 
     
     幾度かお前に吐き気を覚えた
     ああカルカッタよ
     何度かお前に目眩を感じた
     
     お前の呻きは獣に似ている
     傷つき臓腑を引きずりながら それでも
     決して生きることを止めぬ 老いた獣に
     お前の生の源は 何故にかくも限りが無いのだ
     カルカッタよ
     お前の臭気が俺の生命を絞っている
     
     赤く染められた山羊の群れが
     大通りを渡っていく
     力車夫の背に集まった汗が
     乾いたアスファルトに吸い込まれていく
     通りの隅に残った水で身体を清め
     子らは公園のゴミを漁りに出掛けて行く
     
     泥沼のある都市
     排泄物に固められた都会
     生命の生命たる所以をその全てを以て証している小宇宙
     
     その存在の激しさに比して
     お前の生の歩みの何とゆたりとしていることよ
     お前の向こうにゆるやかな起伏が続く
     手負いの獣に嘔吐し目眩した俺も
     いつか その道を辿っているのだろう
     
     無傷の身には険しい道を
          
 1981.8.21.