憑きもの石 1995
 軽い振動を感じて、目を覚ました。
 午後9時の下り電車はいつもと同じで、満員とまでは言わないまでもかなりの乗客がひしめき合って、とても息苦しい。郊外方面の急行を2本ばかりやり過ごしてようやく手に入れた座席に、私は深々と腰を沈め、いつかまどろんでいた。何度も繰り返してきた、週末だ。
 目を覚ました私は、周囲の視線を感じて狼狽した。
 短いうたた寝の最中に、私は何かしでかしたのか。
 鼾も寝言も歯ぎしりも、私はこれまで人ごととして見もし、不快に思い、自分がそんな恥を人前でさらすまいと戒めてもきた。―私が何をしでかしたのか!?
 ちらりちらりとさまよう乗客の視線の先は私の足元の周辺で交差していた。バッグでも落としたかと上体をそっと起こし、拡げた両足の間を覗き込むと―、
 そこに一個の、ソフトボール大の石が、落ちていた。
 表面が黒い光沢を帯びた、川原にでも落ちていそうな石だ。重量感がある。大きさといい、漬物石にちょうどいい。ただ、座りが悪い。電車の振動に合わせてゆらゆらと揺れている。勿論、私の物ではなかった。
 とは言うものの、いったん上体を起こして覗き込んだ以上、知らないからと言って無視してのけられるほどに、私は豪胆ではない。私はその石を拾い上げた。右の掌に乗せると、それは意外なほどに軽かった。ほとんど軽石に近い。表面の木目の細かさからして、それはとても意外な感じがした。
 先程から周囲の強烈な視線を感じ続けている。
 私は彼らの期待に応えるだけの材料も機知も持ち合わせてはいないのだ。
 私は石からはずした目線を周辺に向けた。斜め前に立つOL風の若い女性と、まず目が合った。「あなたのですか?」その目で聞いてみたが、彼女は慌てて視線を逸らした。確かに裸の石を持ち歩く若い女性は多くないに違いない。
 向かいの座席で腕を組んだ初老の男性は、むっつりと黙ったまま私を睨んでいる。軽く右手を差し出して、やはり黙ったまま石の出所を尋ねたつもりが、さらに眉をしかめられた。右隣の青年は私が顔を向けると慌てて手を振った。別に貰ってくれと頼んでる訳ではないのだ。左隣の中年は軽い寝息をたてている。今や私はあらゆる乗客から無視されていた。そのくせ誰しもが、これから私の取る行動に興味津々だったに違いない。
 いや、ただ一人、向かい座席の親父だけは私を睨みつづけていた。ひょっとするとこの顔が彼の地顔なのかもしれない。が、どうでもいい。彼が私の唯一の救いだった。今度は、はっきりと声を出して彼に質問した。
「これ、どうしてここにあるのか、ご存じですか?」
 親父の目線が僅かに上にあがった。その先には、私の頭上の網棚が、空の網棚がいつものように存在していた。そこから落ちてきたというのか? 危ねーじゃないか? 私は今度こそ憤りを満面に表して乗客を見渡した。しかし、あらゆる乗客の視線は、今や私の存在すら忘れて親父の示した網棚に集中していた。まるで、今にも落ちそうな石がもう一つ、そこでゆらゆらと揺れているかのように。

 私と私の回りの乗客たちは、それぞれに気まずくやり切れない思いで五つばかりの駅をやり過ごした。
             *     *     *        

「つかぬことをお尋ねしますが、あなたに関係の深い人で、うっかり石になった人とかは―」
「はあ?」
「―いませんよね」
 たちの悪い冗談かと思ったが、そのよく当たるという霊能力者は真顔で石と私とを見比べていた。

 あれから私は、成り行き上、例の石を持ったまま下車した。乗客が皆、一様にほっとした表情を浮かべているのを、私は勿論見逃さなかった。
 ただし、改札を抜けるとすぐに、私はその石を駅前の植え込みの中に置いてきた。捨てるというような、ぞんざいな扱いはしなかったつもりだ。そして、住まいに向かう途中のコンビニに立ち寄り、その日の夕食の材料を置いたカウンターの上で、同じ石を発見したのだ。店員は丁寧にもビニール袋の中にその石を入れてくれた。誰しもそうであるように、私はそういうことにはあまり慣れていなかった。案の定、釣り銭を受け取るのを忘れるところだった。
 そして、今度こそ石を捨てた。つまり、橋の上から、私の住む町を流れる小さな川に投げ込んだのだ。こんなことで済む筈がないだろうという予感は、少なからずあった。その予感はすぐに的中した。狭いアパートの扉を開けると、まだ明かりをつける前に、目の前ではっきりと「ゴトッ」と鈍い音がした。3畳ほどのダイニングの床に、石が転がっていた。しっぽりと水に濡れて、しかも、どこか恨めしげに。
 そのようにして私と石との壮絶な毎日は始まった。捨てることは断念して、家に置いて仕事に出ても、必ず石は私の行く先々に付いてきた。ただ、登場の仕方がいつも斬新だった為に、周囲の人間をいつも驚かせ、私は常に弁解に苦労した。どうやら、四六時中石は私に持ち歩いて欲しいということのようだった。それでも、いつもポケットに入れて、という訳にはいかない。社内の野球大会で、うっかりベンチに置き忘れて守備に付いた時は悲惨だった。平凡なライトフライを補球しようとして差し出した私のグローブの中に、ボールより先に石が収まっていた。球は後逸。この2点タイムリーエラーで私の課は一回戦で敗退した。
 軽いと言っても丸い石を持ち歩くのは並大抵のことではない。第一、目立つ。お守りだの、新しい健康法だのと言い訳して持って歩いていたのだが、それも一ヵ月が限度だった。
 石は、どうやら、日に日に大きくなっていくようだった。
 それがハンドボールほどの大きさになったある日、私はついに会社に長期休暇願いを出した。そして、この手の話を非常に興味深く聞いてくれる同じ課の女の子の紹介で、その、よく当たるという霊能力者の青年を訪れたのだった。
 もっと胡散臭いおっさんを予想していたのだが、彼はじつに平凡な青年だった。礼儀も正しく、居丈高でもなく、芝居がかった物言いも演出もいっさいしなかった。

「これは、とてもやっかいなケースです」
 十分に承知しているつもりだった。
「いえ、あなたの考えている以上にです」
 見透かされて、返事に窮した。
 しかし、大抵のことには驚かない覚悟は出来ていた。
「この石には、或る女性の『思い』が閉じ込められています。『思い』というのは霊魂とかエネルギーとか、別の言葉と置き換えてもらってもいいのですが、私は『思い』という表現で通させてもらいます」
 なかなか好感の持てる発言だった。
「しかし、これはそれほどまれなケースではありません。このケースの異常なところはその女性の思いを石に閉じ込める、別の『意志』が存在することです。さらに、あなたを選び、あなたにそのやっかいな素性を持った石を『憑かせた』のが、また別の存在だということです」
「なるほど、つまりこの石には都合3人の人間が関わっている訳だ」
「いいえ、思いを閉じ込められた女性は確かに人間ですが、あとの二つは訳の分からないものです」
「はあ?」
「人間かもしれません。人間であったものであるかもしれません。でも、もっと別の、たとえば―」
「動物霊とか?」
 そういう話もよく聞く。
「うーん。よく分からないのです。ただ、ヒントとして言えることは、女性があなたに関係のある人であるということだけなんです」
「で、どうしましょ?」
「ねえ。どうしましょうか?」
 困ったことに、青年は本当にどうすればいいか、分からないようだった。彼はしばらく黙り込んで考えに耽った。
 私と、私の石には時間がたくさんあった。
「ともかく、」
 ようやく青年が目を上げたのは、それから小一時間を経過した頃だった。
「ともかく、あなたに関係の深いその女性が手掛かりです。あとは、はっきり言って関係ないのですから。その女性を石から解放してあげることができれば、その先のことも見えてくるかもしれません」
「見えなければ?」
「今の状態がさらに続きます」
「徐々に程度を増しながら、ね」

             *     *     *
 
 私はその女性の素性を探すことに、それから没頭した。私に関係があり、石に『思い』を閉じ込められた女性だ。彼によれば若く死に、今から200年以内に生まれた人で、僅かながら血のつながりもあるらしい。それだけの条件を備えた人間は、そう多くは居ないだろう。勿論、だからと言って探すのが簡単な訳もない。
 その素性さえ分かれば、彼の力で彼女を石から解放することは出来るだろうと言う。すると、彼女を石に閉じ込めた『意志』とやらの正体が露顕し、残りのもうひとつの存在はその時にはもう無害になる。なるほど。―よく分からない。
 実家に戻り、親戚筋を尋ね、わが家の菩提寺の住職と話し、家系を紐といて、ようやく江戸末期、天保年間に死去したイトという女性の消息が知れた。天保と言えば長く飢饉が続き、各地で一揆や打ち壊しが頻発した時代だ。実家のある仙台近辺でも、大規模な打ち壊しが行われたらしい。商家に奉公に出ていたイトは、隣家が打ち壊しにあったのに驚き、慌てて逃げようとして何を思ったか漬物樽をかつぎあげ(たいそう怪力であったらしい)、うっかりその上に乗っていた漬物石を足に落としたはずみに、仰向きざまに倒れ、樽に押しつぶされて絶命した。どさくさにまぎれて漬物を持ち出し、貧しい家族に食べさせてやりたかったのだろうか。さぞや、くやしい『思い』が残ったに違いない。私は彼を呼び出した。
 石は今やバスケットボールのサイズまでになっていた。これを東京まで下げて帰る気にはなれなかった。それに、ことは仙台で済ませた方が効果的だという彼の意見もあった。
「要は、どうして今になって、おイトさんが石に閉じ込められた形であなたの前に出現したかなんです。電話で聞いて、僕にはどうしてもそのことが理解できませんでした」
「確かに」
「あなた、今年のお盆か正月、この仙台に戻ってきましたよね」
「ああ、確かに。盆に3日ほど」
「その時、なんか、したでしょ」
 盆の供養の他は、同級生と仙台市内で飲み歩いた。近くの山にも出掛けた。した、と言われるような心当たりは、しかし無かった。
「大切なことです。何かあるなら、思い出してください。おイトさんは僕が責任を持って解放します。でも、あなたの側になんか因縁があれば、ことはそれだけで済まなくなります」
「そう言われても、覚えがないな」
「あれから、僕も電話であれこれ調べてみました。市内のお寺に「おイト石」というのが祀られていました。境内のはずれの小さな祠です。これが、おイトさんの生命を奪う原因になった漬物石だという伝説があります。よくあることです。死者を悼むつもりの民間の信仰が、逆に死者の『思い』をそこに閉じ込めてしまう―」
「ほう」
「その石がこの夏頃、突然、消えたというのです」
 ちょっとだけ、背筋が冷たくなった。
 彼の対応は早かった。
 石を祠に戻し(祠は大きく作りなおした)、山のような沢庵漬を盛ってイトの霊を慰めた。
 以来、石は私の元には戻ってこなかった。勿論、彼には手厚く礼をした。ただし彼は、最後まで何やら不安げだったが。

             *     *     *         
 
 東京に戻って仕事に復帰してから数日がたち、ある夜、夢を見た。
 仙台の町を旧友と飲み歩いていた私は、ひどく酔っぱらい、道端に落ちていた丸い石を何気なく広瀬川にに投げ込んだのだ。ちょうどそれはこの夏に帰省した際の光景だった。
 そうだ。あの石が「おイト石」だったのだ。
 怒った川が私に石を送りつけた。
 彼が言っていたのはこのことだったのだ。が、すべては済んだ筈だ。私も、あの石をそんな石とは知らずにしたことだったのだから。

 しかし、世の中はなかなかうまくいかないものだ。

 翌朝、目覚めた私は、ベッドの中で直径1メートルほどの丸い石になった自分自身を発見することになる。