続・再生する森 |
携帯電話のメールボックスの中で、私のタネは日に日に大きくなっていた。受信してから数ヵ月を経て、ようやく気がついた時にはまだ小さな点でしかなかったのが、メールを開いてみるたび、文字通り、日を追うようにして成長した。敏彦の時そう思ったように、季節との関連かとも考えたが、気がついたのは6月だ。同じ頃に受信した敏彦のタネはすっかり大きくなって、5月には発芽を迎えた。だから、私は思った。タネを成長させるのは、メールの開閉ではないか、と。メールを開いて外界(?)と触れるたびに、タネは爆発的に成長するのではないのか、と―。 あれほど他の人間には、一刻の有余も与えず、携帯電話ごとメールを処分するよう、脅しをかけた私だったが、いざ自分のタネとなると、即座には対処できないでいた。それどころか、他の敏彦のメールと共に保護設定を行い、大事に育てさえもしていた。いざとなれば、すぐに対応する自信があったせいもあるが、同時に敏彦のメールを失うことを恐れたということもある。他のメールは転写も転送もできるが、K山から送られたタネ付きのそれだけは、タネと切り離して残すことが出来なかったのだ。 それに、敏彦が(結果的には)死を賭してまで見たいと執着した、花だ。敏彦は、それを見たのだろうか。3つの事件で出現した蔓性植物は、花を持っていなかった。その植物が育ったメールは、携帯電話やファイル保存されたフロッピィと共に失われてしまった。それでも敏彦があそこまでこだわったのには、開花の予兆がすでにそこに顕れていたからだろう。 私はその花を、見たいと思った。 7月になってさらに急速に成長を続けていたタネが、ようやく落ち着きを見せたのは8月の初旬のことだった。タネはディスプレイ一杯の楕円になり、発芽を前にして、表向き、その成長を止めた。その前の行には、これまで敏彦のこんなメールがあったのだ。 『実は今、お前の家の近くに居る。K山に登る。山小屋で一泊する。時間があったら、下山してから会いたい』 5月13日に送信されたメールだ。そしてその最後に、一文が加えられた。『お願いだ。雨を降らせてやってくれ』 アメヲフラセテクダサイ―かつてのカタカナのメッセージとは、明らかに違っていた。私には敏彦の肉声が、そう自分に訴えかけているように聞こえてならなかった。 長く、眠れない数夜が続いた。 私は会社の夏休みに数日の有給休暇を付けて、2週間ばかりの自由な時間を得た。都内の実家にも、今年は盆に戻らないからと、電話を入れておいた。 「もし、電話して何日も俺が出ないようだったら―」 何度、そう切り出そうと思ったかしれない。が、言えなかった。ダイジョウブダ、タイシタコトハナイ―自分に言い聞かせた。 長期休暇の初日、私はN署の北沢刑事を訪ねた。 敏彦の事件の担当者の中で、彼が一番脈がありそうだったのだ。誰一人として私の意見を受け付けなかった中、彼だけが興味深そうに私の話に耳を傾けてくれた。しかし、捜査方針は大多数の意見の方に決していた。凶悪な猟奇殺人―まず、容疑者の検挙を優先すること。 「久しぶりです」 簡単な挨拶の後、私は彼を近くの喫茶店に連れ出した。 「何か、ありましたか?」 40歳を出たばかりの北沢刑事は、ばりばりの中堅どころでありながら、他の刑事のような強烈なアクが無かった。物腰も非常に柔らかい。が、時折見せる鋭い眼光には、幾度か驚かされたことがある。 「ありました。―でも、その前に捜査の状況を教えてください」 「交換条件ですか―。では、お断りしましょう。捜査のことは、どなたにもお話しできません。残念ですが―」 「あの植物の正体はつかめたんですか? ―それくらいなら、いいでしょう?」 「おやおや、新聞を読んでないんですか。ちゃんと発表してありますよ」 「クズ、でしたね。本当に、ただのクズだったんですか?」 「やれやれ、最近、警察の言うことを信じない人が増えて、みんな困ってるんですよ。勿論、捜査上の秘密は隠します。でも、嘘はつきません。あれは間違いなくクズでした。そして、捜査上の秘密とは、こういうことです。ただし、同じクズでも一般のそれよりはるかに環境への適応力が高く、成長の速度も速い―新種ではないか、と」 「どうもありがとうございます」 「いえ、私は何も申してませんよ。だいたい、クズそれ自体が非常に生命力の強い植物です。携帯電話の中からディスプレイを破ってまで成長するくらいですからね」 「そのようにして育てられたクズの蔦を使って、敏彦を殺害した人間を、警察は探しているんでしたよね」 「ええ。それなりに進展してます」 「犯人は、開いていた二階の窓から逃走した、と」 「はい」 「犯人は、しかし指紋も何も、一切の遺留品を残していなかった、と」 「まだ捜査中です」 「携帯電話から生えたの根が手に食い込むまで、いったい敏彦は何十日間、携帯を握りしめていたんでしょうか?」 北沢刑事は、これまで私が何度か突いてきた捜査のウィークポイントに、またしても黙り込んだ。非常に困った顔をするこの正直な男性に、本当に刑事が勤まるのだろうかと、私はその度いつも訝っている。そして、これもいつも最後には―。 「ノーコメント、です」 彼の一言で終わるのだ。確かに、他に言いようがないではないか。もとより、ここらの話は「捜査上の秘密」のひとつで、一般には明らかにされていない。警察も、私にこれを知られたことについて、とても「遺憾」に感じていると聞いている。箝口令が敷かれる以前、私は第一発見者である、敏彦の親父さんから直にこの話を聞いていたのだ。 「いいものを、お見せします」 私は自分の携帯のメールボックスを開き、例のタネを取り出した。 いや、植物の正体が本当にクズであるなら、マメと呼ぶべきかもしれない。北沢刑事の眼が鋭く光った。驚きの表情も隠せない。 「これは―」 「そう、私が最後に見た敏彦のタネと、ついに同じレベルまで成長しました。これに水を掛けてやれば、数日であのクズが出現します。と言っても、みなさんはまだ信じてくれないのでしょうが」 私はしかし、この北沢刑事が私の話を真面目に受け止めていることを知っている。 「でも、これはあなたの―」 「私の携帯の中に保存してある、敏彦から以前送られてきたメールです。開いて再編集することは出来ます。こんなタネの絵くらい、書けないことはありません。私が、イタズラにこんなものを作って刑事さんを驚かせているのだと、思ってもらっても一向に構いません。でも、そんなことしても―」 私は、年上の刑事を睨み付けた。 「意味ないじゃないですか」 そして、メールを閉じた。 「どうする、つもりですか」 北沢刑事は静かにそう訪ねた。 「敏彦に頼まれた気がします。雨を降らせてやろうと思うんです」 「そうですか。それでも敏彦君の二の舞にはならないと、思ってるんですね」「思ってます。十分に注意するつもりです」 「それとなく、あなたの周辺を警護させましょう」 私は笑った。 「私を何から守ってくれるんでしょうか? 相手は、たぶん外からは来ないと思います。もっとも、その中で私がクズに殺されたら、今度はみなさんも本気になってくれますかね」 「嫌な皮肉は言わないでください。私が心配して言ってることくらい、貴方も知ってる筈です」 「ごめんなさい、つい。―刑事さんは信頼しています。だから話してます。話しさえしておけば、何が起こっても後のことはちゃんとやってくれると、そう思いました。ウヤムヤにはしないでください」 「ウヤムヤにはしません。今も、そうしないよう、みんな頑張っています。少しばかり、遠回りをしているのかも知れませんが」 「ありがとう」 私は席を立ちかけた。 「ひとつ、頼みがあるんですが―」 北沢刑事が一枚のメモを私に渡しながら、 「これは私の携帯のメールアドレスです。先日メール契約をしたばかりで、まだ勝手がつかめないんですが、」 私はそのメモを受け取った。 「ここに、あなたのタネを転送しておいてください。雨を降らせた後のやつ、です」 私は愕然とした。考えてもみないことだった。それは、犯罪行為ですら、ある。 「北沢さん、あなた」 「貴方の携帯の中で、何が進んでいるか、私は内側からそれを監視したいと思います」 「でも、おそらく成長の速度は違いますよ」 「無いよりはましでしょう」 「北沢さんにも危険が及ぶかもしれない」 「一般市民の貴方より、私の方が身を守る術を心得ているつもりですが」 「いえ、私には敏彦がついてますから。彼が守ってくれると思ってます」 「はい」 「わかりました。転送します」 我々は別れた。 北沢刑事と別れ、自分の家に戻った。山間の村に一軒の農家を借りて、私は住んでいる。手作りの木工と陶芸は趣味の域を出ず、生活費の大半は近くの土建屋に勤めて賄っている。合間に環境保護の活動にも係わっていたりもするが勿論これは金にならない。そんな私の住まいの周囲には、休耕田や休耕畑がいくらもあって、そのうちの僅かばかりを借りて耕し、食費の一部を浮かしているのだが、手つかずの畑には、それこそ本物のクズが、ササやセイタカアワダチソウに絡みつくようにして繁茂している。蔓を断ち切れば青臭い、あの力強い生命力の匂いがした。 あれから、K山にも登ってみた。整備された登山道の両側から、低木の茂みを越えて、確かにそこにはクズが生えていた。登山道を脅かすように、左右からその蔦を延ばしてした。これほど生命力の強い植物が、いったい何に怯えているのだろう。何が、彼らを絶滅させようとしているのだろう。 クズであれば、花期は晩夏だ。秋の七草にも数えられるムラサキがかったマメ科独特の、あのかわいらしい花が思い出される。だとすれば、敏彦が見たのはその蕾ではない。クズにはディスプレイ上ではっきりそれと分かるほどの、明確な蕾が付かないからだ。それでは、すでに花がほころんでいたのか。それとも、更に―。 私は敏彦のメールを開いた。ディスプレイ全体を塞ぐようなタネの中央にカーソルを移動し、入力モードに切り換える。記号のウインドウを呼び出し、傘の図柄の雨マークを選択、決定ボタンを押す。画面がメールに戻り、タネが大きく映し出されてしばらく―、時間がかかった。 ぴくりと、タネが微かに震えた気がした。 それを合図にして、始まった。 最初、タネの下端から、根と思われる細い複数の線が、するりと伸びた。 それにやや遅れ、今度は上端から、やや太い一本の線が今度は上方に向かって延びはじめ、特に上端の蔓と思われる方の線は、見る間に枝分かれし、葉をつけ、先端に巻き毛を付けた。 やがて、蔓は狭いディスプレイの中に納まりきれなくなり、はち切れんばとかりとなる。ひしめき合う葉、それに蔓―。特に弾性度の高いしなやかな蔓は、ディスプレイの内側から、今にもそれを破らんばかりの力強さだ。 私は実際、今にも携帯電話のディスプレイが破られて、本物の蔓が伸びてくるのではないかと思った。おそらく、その恐怖心がさせたのだ。指は、知らず画面をスクロールさせていた。画面の上半分に出来たスペースに向かい、行き場を無くしていた蔓が、一気に拡がりはじめた。そして、次からは私の操作無しに、勝手に画面をスクロールしはじめた。蔓の成長に合わせて、画面が上へ上へと切り替わっていく。 このままでは、容量を越えてしまう! 私は慌てて停止ボタンを押した。画面は、待受モードに戻った。 そして、私は携帯を手から引き剥がしにかかった。 別に根が生えた訳ではない。 私の左手が硬直して、握りしめた携帯を放さなかったのだ。 剥がしたその携帯を、机の上に置いた。 そして、私は家の、普通の電話を取り上げた。相手は直ぐに出た。 「タネに水をやりました。しかし、成長が急激すぎました。とても、転送できる状態じゃありません。メールを閉じたんで、成長は止まっているかもしれませんが、転送にはもう一度開かなきゃなりません。何らかの事故が起こりそうですね。もう、携帯には手を出したくないってのが、正直なとこです」 北沢刑事が応じた。 「そうして下さい! 今、行きます。近くまで来てるんです。携帯はそのままにしておいて下さい」 「あっ」 その時、低い着信音が聞こえた。 「どうしました?」 「メールが届きました。誰からだろう、いったい?」 私はメールの受信を案内するディスプレイを覗き込んだ。 そのメールアドレスに、覚えがあった。覚えどころではない、自分のを除けば、私が唯一暗記している、それはアドレスだった。 「誰からなんですか?」 最初の私の返事は、しかし、声がかすれ、北沢刑事に届かなかった。 ひどく喉が渇いていた。 「えっ? 誰ですって」 だから― 「―敏彦から、です」 北沢刑事が、短い絶句の後、平静を取り戻すのに、さして時間は要しなかった。彼は、電話口で叫んでいた。 「携帯電話には触らないでください! 私が着くまで、メールを開かないと約束してください。それに、電話はそのままで! 切らないでください。すぐに行きます!」 ふたつの命令は、しかしふたつながら、守られなかった。 私は受話器を戻して電話を切り、机の上の携帯電話に歩み寄った。たいした操作ではない。電話を手にする必要すらなかった。指先だけで幾つかのボタンを押し、私は敏彦のメールを呼び出した。 『ありがとう』 敏彦はそう言った。 『おかげで今度こそ巧くいきそうだ』 長いメールが続いていた。 『あれは事故だったんだ。まさか、あんなことになるとは誰も予想できなかった』 それは紛れもなく、敏彦の死について語られていた。 『あんなことになって、よほど断念しようかと思った。が、お前がもう一度、チャンスをくれた。大事にしようと思った』 そうか、それは良かった。 『俺の指示に従ってくれればいい。危険はない。誰にも迷惑は書けない』 文字は、私のスクロールに追われるようにして、次々と書き足されていた。まるで―、そう、今そこで敏彦自身が語っているかのように。 『いや、迷惑を掛ける人はいると思う。それについては申し訳ないと思う。が、これだけは言える。今度は誰一人、悲しませない、と』 そう、それならば、いい。もう誰一人悲しませたくはないし、悲しみたくなかったから。 『それだけは、約束する。だから、俺の指示に従ってくれ』 「ああ、いいよ」 私の声がなにものかに届く筈はなかったが、私には返信メールの必要性は感じられなかった。 『あのメールを開いてくれ。繰り返して言うが、危険はない。そして、それを俺のメールに転送してくれればいいんだ。それだけだ。アドレスだけは間違えないでくれ。別の所に届くと厄介なことになる』 「分かったよ。気をつける」 『それでは、くれぐれもよろしく頼む。―感謝してる』 「おい、待てよ!」 『―よき友へ』 私の声が、届くはずないのだ。 私は涙を拭いながら、敏彦の指示どおりの転送を行った。 迷いは全く無かった。何者かによる偽装であるなどという疑いすら、抱かなかった。何故なら、あのメールは間違いなく敏彦によるものだったから。過去において、彼が死んでいるのだという事実を全ての前提にしたとしても、この真実にいささかの揺るぎは無かった。 転送の手続きが終了して、完了の合図が表示され、画面はもとのメールに戻っていた。そこには、K山から敏彦が送ってきたあの文だけが残っていて、クズの蔦も葉も、もとのタネの片鱗さえも、残っていなかった。 すべては、敏彦のもとに届けられたのだ。そして、彼の言葉によれば、これで今度こそ、巧くいくのだ。 脱力感でぼうっとしている所へ、北沢刑事がようやく到着した。 玄関を走り抜け、私の部屋の入口で気の抜けた私を発見し、どうやら彼も虚脱感に襲われたらしい。 「クズで一杯になってると、思ってました?」 私は最大限の感謝をこめて、笑顔で彼を迎えたつもりだった。 「鎌を買ってあったんです。助手席に、忘れてきました」 北沢刑事も力なく笑った。 それでも、しばらく間をおいて、北沢刑事は精力的に調査を開始した。まず、敏彦のアドレスは、現在、使用中止の筈だった。が、不思議なことにこれが生きているという。原因はまだ確認されていない。 「で、それは、今、どこに?」 「発信記録が残っているそうです。現在、場所を特定してもらってます」 どうしてそんな手違いが発生したのか、とか、誰が今、その携帯電話を持っているか、等という興味はなかった。―場所だ。 問題は、私が、あの生命力たくましい植物を届けた、その先だ。 北沢刑事の携帯に、その返事が届いた。 「えっ、羽田ですか? 羽田空港だっていうんですか?」 その時、羽田空港で何が起こっていたか、翌日になってようやく、我々は知らされることになる。 私がメールを転送したその日の夜のうちに、クズは羽田空港の出発ロビーを占拠していた。 出発ロビーの中央に「ガレリアの噴水」と呼ばれるシンボルスポットがあり、ささやかな緑化がなされているのだが、クズはこの植え込みに発生した。見る間に噴水を覆い、20mほどある吹き抜けをよじ登り、翌朝にはその先端を出発ゲートにまで延ばし、搭乗口を使用不能にしている。夜とは言っても夜間の発着もあったから、これらは多くの目撃者が目の当たりにしたことになる。すでに見境など無いということか。 異変が発見されて間もなく、空港は閉鎖され、その機能を成田に移転する準備が開始された。とは言え、時期は夏休みの真っ只中、それも盆休みが数日後に控えていたからたまったものではない。たちまち首都圏の長距離交通機関はパニックに陥り、その多くが麻痺してしまった。 クズの侵攻は、しかし、容易に収まらなかった。 ターミナルビルを、そのたくましい蔓で覆い尽くすのに要した時間は、僅かに2日。3日目には滑走路にまで拡がり、根はそのアスファルト舗装にまで食い込んでいった。たちまちのうちに舗装面は劣化し、4日目の夕立後には、このアスファルトを破った若い木々が、その割れ目から力強い姿を現し始めていた。シイ、ナラ、クヌギ、マツ、ヒノキにスギ、ケヤキにヤナギ、それら大木の緑が瞬く間に空港を席巻し、その合間を、名も知らぬ低木たちが覆い尽くした。私が育ててたのは、単にクズだけではなかったことになる。森ひとつ丸ごと、私は私の携帯電話の中で育てていたのだ。 森の生育に要した時間は、1週間だった。 私は、確保しておいた長期休暇の前半の多くを、この森の観察に当てた。森の成長が止まっても、そこは森閑としていた。野鳥が訪れるわけでも、小動物が駆け回る訳でもなかった。ただ我々を始めとした、人間たちが踏み分ける雑然とした気配だけが、森の静けさを破るばかりだった。 この最大級のミステリーの解明に充てられた時間は、僅か数日に過ぎなかった。様々な研究者が羽田の森を訪れ、様々な説がマスコミを賑わした。もとより、私も北沢刑事も、森同様に沈黙を守りつづけた。 そして、私の長期休暇の後半は、この森の伐採を見届けることに終始することとなる。 一刻も速い首都機能の回復が各方面から望まれ、研究者たちの懇願は、そして私のささやかな希望は、一蹴された。 私には森の―そして敏彦の意図が理解できなかった。何のためのこれは企てだったのだろう? 「今度こそ巧くいきそうだ」と、敏彦はそう言った。その確信の結果がこれなのか? それにしてはあまりに破滅的ではないか。単にそうした、束の間の、人類に対する場当たり的な報復が目的だったのか? それではあまりに稚拙すぎる。破壊は憎しみだけを生み、やがて再生の後に忘れ去られるだけだ。鳥も動物も訪れない、すぐに死んでしまう森―『森の再生』が聞いて呆れる。そうだ。このことは、何ら人類に教訓を与えるものではない。 私にはついに理解できなかった。理解できないまま私の目の前で、森は―敏彦の生命は、蹂躪されていった。 羽田空港に突然出現した森について、面白可笑しく取り上げる報道に、マスコミや視聴者がそろそろ飽き始めた9月の下旬、ようやく空港はリニューアルオープンの式典を開催することとなった。改めて様々な報道が繰り返されるなか、ひとつ、興味深いスクープがあった。 空港が閉鎖されている間、航空各社は待機させていた航空機の多くを細部に渡って点検していたのだが、その中で一機、燃料タンクに重大な欠陥が発見され、問題になっているというのだ。実害があった訳ではなく、速やかに交換がなされたというので、取り上げた週刊誌も僅かに数誌だったが、そのうちの一誌に興味深い解説が添えられていた。 欠陥というのはどうも燃料タンクに発生していた亀裂らしいのだが、これが非常に確認しにくいものであったようで、そのまま、もし計画どおりに離着陸を繰り返していたら、早晩、大事故につながっていただろう、というのだ。この航空会社は結局、あの「羽田の森」に救われたことになる―、記者は皮肉を交えて記事を結んでいたのだが、その記事の中に、一枚の航空地図が添えられていた。勿論、欠陥の発見された航空機が飛行を予定していたコースだった。この線上に、ひょっとしたら航空機は、墜落していたのかもしれない。 くだんの航空機は、主に北陸と東京都の往復に利用されていたらしい。 その線は、私の住む地方の上空を、横切ってもいた。 後日、私は航空会社に問い合わせ、正確な航空路を知ることができた。 その航空路が、K山のまさに真上を、正確に横切っていることに、私は興味を覚えた。そう、そんなことに興味を持ったのは、おそらく私ただ一人だったに違いない。もう一人、教えてやりさえすれば、とてもこのことに関心を示してくれるだろう男を、私は知っていた。 私は携帯電話を取り上げた。 しかし、すぐには通話モードにはせず、知らず指は、ひとつのメールを呼び出していた。それは『ありがとう』で始まる、とても長いメールだ。 「ありがとう」 私は声に出して、そう言った。 そして同じ言葉を入力して、発信した。 届きもしない、けれど、戻ってもこない、タイトルすら無いこの五文字だけのメールは、初秋の抜けるような青空の下を、いったいどこまで飛んでいくのだろう。 K山に今クズの花が、例年よりやや遅い最盛期を迎えていると言う。 |