暮るる、春の日に 1983 |
足の裏の感触が妙な具合だ。通い慣れた舗道がそれだけで、まるで別のもののように思える。春とはいえ、夕方ともなれば寒さがまだ身の底に染み渡る。つい先頃までなら、残業を終えて退社する時間だ。その道を逆に辿っている。普段、駅へと向かう流れに在って気付かぬものが、こうしてみると奇妙なくらいに目に入る。身に感じる。 薄いカ−ディガンにサンダルだけをつっかけ、ふらりと家を出てとうとうここまで来てしまった。「夕食にはもどる」とだけ言い置いた。冷め掛けた食事を前に、女房は今何を思っているのだろう。 いつもは革靴で歩く道を、こうサンダルに履き替えて行くと、舗道の些細な凹凸から勾配、継ぎ目までが面白いくらいに良く判る。無くしたものも大きかったが、まんざら残ったものも少なくはないと、そんなささやかな事実に感心する。 信号待ちで歩道の角に立ち停まる。空が僅かに赤い。東京では、そうやってかなり頚を上に向けて初めて、空が見える。その空が赤い。暮れていく。 突然、背を押されて車道に出た。無言のままで、人は動き出す。勿論、空を見上げる暇など有りはしない。 暮れていく− 、その事に恐れを感じないのは、皆朝を信じているからだろう。一日の終わりに、翌日の朝は信じられる。一ヶ月めの朝も信じられるかも知れない。しかし、人はいつの日か、朝の来ない夕暮れを迎えるのだ。その時でさえ、まだ朝を信じられるなら幸いだ。仮に、人の生を一日に置き換えたとして、その夕暮れに立ってなおそれが出来るのは、幸いだ。 道を脇に逸れる。逸れてしばらく歩いて右手ののれんに立ち停まる。今更、照れる歳でもあるまい。少し迷ってのれんを分けた。 「ほい、お邪魔!」 「あら」 と、女将が銚子を両手にふり向いた。 「お久しぶり− 西木さんたちと、会いまして?」 「いいや、来てたのかね」 わたしはカウンタ−の隅に腰を降ろし、板前に向かってじかに季節の魚と燗を頼んだ。「ええ、今しがた帰られて− 。ちょうど、吉岡さんの話をなさってたんですよ」 言葉では足りない分をその目元で補い、女将は空の銚子をカウンタ−に置いた。 「吉岡さぁん」 と、その向こうからアルバイトのしげちゃんが、いつもの甘い声で、 「辞めたんだって、会社? 何も言わないんだもん。西ちゃんに聞いて驚いちゃった。どうしたの、何かあったの?」 「まあ、ね。別に大したことじゃない」 めんどうな話題だ。が、それが本当に嫌だったら、わざわざここまで飲みには来なかったろう。 「一言くらい言ってくれてもいいのにさ。ねえ、ママだって聞いてなかったんでしょ」 女将はしげちゃんから受け取った熱い手拭いをほぐして冷ましながら、しげしげとわたしを見た。 「しかし、見違えましたよ、一瞬。いつもはネクタイに背広でしょ。吉岡さんも、そんな恰好をするんですねえ。− はい、おしぼり。今日はお宅からわざわざ、ですか」 「ああ、お宅からわざわざ、だ。わたしだって家にもどれば背広くらい脱ぐさ」 「あれ、あたし吉岡さんは寝る時も背広かと思ってた」 二合銚子を女将に手渡しながら、しげちゃんが笑った。大学生の彼女は娘と同い歳と言う。思えばバイトだコンパだと家に居ついたことの無い娘と、ここしばらく話したことが無い。長男の高校生ともそうだが、仕事を辞めて少しはゆっくり向かい合えるかと思ったが、退職からこの半月、殆ど顔すら合わせていない。今日は久し振りに一家四人が揃うからと、女房が忙しげに夕食の支度をしていた。おそらくは、わたしに気付かって二人を口説き落としたのだろうが、それが判るだけに家で息子らの帰宅を待つ身に、やり場が無かった。 「そりゃないわよ、しげちゃん。こうやって見ると、普段着の吉岡さんもまんざら捨てたもんじゃないわよ、ねえ」 女将が口許をほころばせながら、わたしに猪口を持たせて酒を注した。それを一息に干して更にもう一口、灰皿に振ってから女将に渡した。 「あらら、ママには当てられるんだから。でも無理ですよ。会社を辞めたら吉岡さん、これまでみたいには寄ってくれないから」 カウンタ−の向こうで、しげちゃんがもう一度笑ってみせた。女将は着物の裾を整え、わたしの隣に座り直し酒を受けながら、 「そうかしら、今日だって、こうしてお宅からわざわざ出向いて下さったっじゃない。ねえ、そうですよね」 「そりゃ、そうだ」 と、女将がいつもの癖で軽く顔をしかめるようにして酒を空けた。 「足腰が立たなくなるまで、ここには通うつもりでいるんだ。あと十年は大丈夫」 「ちょっと、待って下さいな、吉岡さん」 猪口を返しながら眉根を寄せて、 「十年もたつ前に、私の方が先に足腰立たなくなってしまいますよ」 「いいじゃないか。爺さんと婆さんで注しつ注されつ。ねえ、しげちゃん」 しげちゃんが遠くで、他の客の相手をしながらにこりと頷いてみせた。 「私は嫌ですからね。来年から先の事は考えないことにしてるんですよ。今日、来て下すったから、次は来週にでも寄って下さればいいんです。再来週の約束は、その時にさせて頂きますから」 「考えてみれば、」 わたしは再び女将の杯を受けながら、 「そうやって繰り返しながら、いつの間にか歳を取っていくんだねえ。昨日と今日、今日と明日は少しも変わらないけれど、それが重なっていくうち、知らず白髪と皺が増えていってる」 「ほら、また。もう、止して下さいな」 「大丈夫だ。仕事を辞めた日から、わたしは歳を取らないことに決めたんだ」 「へい、お待ち」 板前の源ちゃんが、ぽんとわたしの前に塩焼きの魚を置いて、 「羨ましいですねえ。あっしなんてふつうの二倍くらいのスピ−ドで老けていくんですよ。ママとしげちゃんとに、こき使われてね」 「そいつと、ママの色香に当てられて、だな」 「おっと、吉岡さん、よく御承知で」 「ちょっと、源ちゃん、人のせいにしないでよ」 「お−い、源公。あたしの色香はどうなるのよお」 「十年早いってんだ。この小娘が」 「あっ、言ったな。大学じゃあ、こう見えてもあたし、ちょっとしたアイドルなんだぞ」 「二十歳やそこらの若造に、大人の色香が判るもんけぇ」 「ふ−んだ」 軽口を飛ばし合う二人を見ながら、女将はしかし、真顔で訊いた。 「でも、本当はどうしたんです。まだ定年には間が有るし、吉岡さんはやり手だから部長にだって狙えた筈だって」 「西木君たちが、そう言ってのかね」 「ええ、残念がってました。何を考えているのか、誰にも教えてくれないって」 「そうだね。わたしの方で教えてもらいたいくらいだ」 「また、これだから。そりゃあ、そうですよ。私たちは皆さんの夜の顔しか見れない身ですから、立ち入った事までは判りようがありません。でもね、いい加減な気持ちでお付き合いさせて頂いてる訳じゃないんです」 「とことん付き合ってたら、身が持たないだろうに」 「いいんですよ。それで身が持たなくなって本望なんです。私がそうやって老け込む分だけ、皆さんにはお元気でいて頂きたいんです」 「あんたのそういうところに、惚れ込んじまったんだな、わたしたちは」 「嫌ですよ。止して下さいな。所詮、私たちは、夜しか生きられないんです。昼と夜とを使い分けられる皆さんには、分が悪すぎますよ」 「わたしたちが、ずる過ぎるのだろうね。そいつが嫌で、仕事を辞めたと言ったら」 「信じませんよ。それがまた、ずるいって言うんですよ」 「そう、かもな」 焼き魚の香ばしさと程よい塩加減は、これまで無意味に反復して来た昼の時間の虚しさと疲れとを思い出させた。条件反射みたいなものだ。この古い習慣を拭い去るのに、あと何ヵ月掛かるのだろう。 新しい客が入って来て、女将が立ち上がった。 「ちょっと待っててくださいな。今日は私の退職祝いですからね。黙って帰ったら承知しませんよ」 そう言い置いてわたしの肩に手を掛けた。放す刹那の、指先に込めた力が、わたしを黙って頷かせた。今頃家では女房と娘たちとが、いい加減、痺れを切らしていることだろう。待ちくたびれた子供たちは、冷めたわたしの分の食事を残して、自分たちの部屋へともどって行く。連中はこんな父親に、とうの昔に愛想を尽かしている筈だ。女房には悪いが、芝居じみた一家団欒は、皆の心を悪戯に疲れさせるだけだ。 わたしは、一人で銚子を三四本ほど空け、板前や見知りの客と当たり障りの無い世間話をして時間を潰した。そして、いつの間にか眠り込んでいた。 暮れていく時間をやり過ごすのは辛いことだ。自分の朽ち果てていく様子が、手に取るようにして判るのだ。いつもの場所で、いつものように− 。一年先の、或いは五年も先のことが手に取るように判るというのは、何と苦々しいことだろう。何かを変えて、どこかを入れ換えて、自分を数年後の老いへと導く要因の一つ一つを取り除けば、また別の人生を歩めるかも知れぬ。見当外れの強迫観念に捕らわれたこの数ヵ月をようやく終わりにして、それでもわたしは暮れていく春の日への恐れを除けずにいる。 「吉岡さん」 女将の声に、わたしは目を覚ました。頭が少し痛く、遠くで有線の、流行の演歌が鳴っていた。女将の声を忘れて暫く聴き入った。男と女の色恋や、他愛の無い出会いと別れを歌ったどこにでも有る艶唄だ。それがしみじみ、胸に染みた。おそらくは、酔いのせいだろう。それでも、それが人生の全てのように思えるから、不思議だ。 「吉岡さん」 頭を起こすと、隣に女将が居た。 「どうなすったんですか。吉岡さんらしくもない」 わたしは女将のくれた熱い手拭いを目元に当てながら、少し恥じた。 「すっかり弱くなったらしい。前はこんなこと、無かったんだが。源ちゃん、冷やを一杯」 店には、他に客は居なかった。アルバイトの女の子も帰ったらしい。時計は十二時をまわっていた。 「へい」 と、板前のくれた水を飲み干し、 「もうこんな時間じゃないか。もっと早く起こしてくれればいいのに。もう、看板だろ」 「気の済むまで、居て欲しかったんですよ。私には何ひとつして差し上げられませんからねえ。せめてこの店を、吉岡さんの好きなように使って頂けたらと、思いまして」 「有り難う」 わたしは、もう一度手拭いで顔を拭いた。 「源さん、もう上がってちょうだい。のれんも下げてね。わたしは吉岡さんを送ってから帰りますから」 「へい」 と源ちゃんは、何か噛み殺したような表情で店を片づけ始めた。 わたしが煙草に手を伸ばすと、女将はそれを取り上げ、抜き取った一本に自分の口許で火を付け、わたしの口へと運んだ。 「私も、頂きますからね」 もう一本に火を付け、マッチ箱を荒っぽく放り投げて静かに煙を吐き出した。女将が店で煙草を吸うのを見るのは、初めてだった。 「さっき、奥さんから電話が有りました」 「女房から」 「そう」 女房には、この店の電話番号を教えていなかった。 「気の済むまで、飲ませてあげて下さいって。あとは私に任せるから、頃合を見計らって帰して下さいって− 。いい奥さんね。吉岡さん、あなた、幸せだわ」 「じゃあ、女将さん、お先に」 片付けを終えた源ちゃんは玄関口で、心無しか淋しげだった。 「お疲れさま」 「お疲れさん」 二人一緒に声を掛け、遠ざかる足音を確かめながら、顔を見合わせて笑った。 「さてと、わたしも帰るとするかな」 「あら、いいんですよ。もう少しいらして下さいな」 「いや、止めておこう。明日から、また生きなきゃならない」 「結局、」 女将が、わたしの残した酒を猪口に移しながら、 「話して下さいませんでしたね、本当のところ」 「ああ、それでも、判ってくれていると思っていた」 一息に空けた猪口を静かにカウンタ−にもどして、女将は口許をややほころばせた。 「男の方たちは、ほんと、身勝手なんですから− はいはい、ええ、判ってますとも。良く出来た奥さんほどではないにしろ、ね」 わたしは立ち上がった。足元が、やや頼り無い。 「有り難う」 「いいえ、どういたしまして、それが仕事ですから」 女将も立ち上がった。ほんのりと上気した頬が、そしてわたしの方に触れた。 「頑張って、下さいな」 「ああ」 わたしは腕を伸ばし、女将の肩にやり掛けて、止めた。 それは細く頼り無げな肩ではあったが、わたしの疲れた腕で支え切れるものではないのだ、すでに。 「おやすみ」 逃げるようにして身体を離し、わたしは戸を滑らせた。 「おやすみなさい。お気を付けて」 外に出た。空がまだ、ほんのりと赤かった。大きく溜め息をつき、不細工に自分がまだ生きていることを確かめると、懐から取り出した美味くもない煙草に火を付け、そして駅に向かって歩き出した。いつものように、だ。街は、まるで変わっていなかった。カラオケを歌う声が愚かしく聞こえ、肩を寄せて歩く男女が愚かしく見え、何より、この時間にここに居る自分が一番愚かしく思えた。朝は、まだずい分と先に在る。 少なくとも、明日の朝は来るだろう。ようやく、それだけは信じられた。今日より幾分かはましな明日だ。しかし、明後日の朝はどうだろう。それを信じる為に、明日は何をすれば良いのだろう。 取り越し苦労だ。わたしの知らぬ遠方で、へんに他人じみたわたしが笑った。 判ってるさ。愚かなわたしが応えて、流行の演歌をくちづさんだ。歌はさっきと違い、妙に空々しく聞こえた。サンダルの音だけが、 奇妙にわざとらしい存在感を伴って、わたしの胸底にこだましていた。 |