啓蟄の頃  1996
 わたしの町ではいつもこの時節、春が突然にやってくる。
 朝目覚めて寝室の雨戸を繰り、冷え冷えとした空気を部屋に流し込む。さすがにその頃にもなれば霜ももう、降りることは少なかったけれど、それでも3月の始めはまだ時折大気の凍る寒さだ。ところがある朝から、部屋に入ってくる空気の比重が違っている。まったく或る朝を境に、突然空気の重さが変わってしまう。
 鈍重な風がゆっくりと部屋を満たす。ねっとりと湿りけを帯びた空気がわたしの体を包んで、そしてたぶん血液の濃度を上げていく。息苦しくなって開いた鼻孔に、なつかしい生き物の臭いが流れ込む。それは植物が今年最初に吐き出した息なのだろう。そのように、生々しく、けだるく、妙に懐かしい感触がこの町で一番最初に感じる「春の気配」なのだ。もしかすると、これはわたしだけなのかもしれない。こんな風に感じるわたしの最初の春を、どう伝えればいいかよく分からないまま、わたしはまだだれにも話せずにいる。
 3月5日朝、わたしの町は前夜から降り続いた雪にすっぱりと化粧されて、深い静寂に閉ざされていた。夜中に気になって時折外に出てみると、その度に庭に積もった雪は厚みを増し、冷えきった空気はキンと音をたてるほどに鋭いものだった。ところがその朝、ようやく止んだ雪の中でわたしは、一年ぶりの先触れを感じたのだ。訝って屋外の温度計に目をやると零下2度。雪は50センチ近くも積もっている。そんな筈はないと思うが、確かに昨夜までの空気とはまるで違う。
 出社を断念したわたしは、玄関前から道路までの雪掻きに、まず専念することにした。踏み荒らされていない雪にスコップを突き立てる感触が快い。あまりに記録的な大雪に、今朝はまだ新聞配達さえ訪れてはいなかった。―どころではない。町にまったく物音がしなかった。首都近郊で森や畑も残しているとはいえ、ちょっとしたベッドタウンのこの町には数万人からの人間が暮らしている筈なのに、その気配がまるでない。そういえば春の気配の感触を味わい続けたくて、今朝はテレビも見ていない。独り住まいの気楽さがわたしに豊かな時間を与えてくれた。
 わたしは夢中で雪を掻いた。必要に迫られてというより、それ自体が楽しかった。雪をどけ、掘り出した土の中にこそ、突然感じた春の到来の秘密が隠されているような気さえして、思えば朝食さえ忘れてスコップを使いつづけた。
 どのくらいたったろうか。
 けっして大きくはない一戸建ての借家ではあるが、それでもわたしの家にはちょっとした庭があった。その庭をぐるりと一周、家の周囲の雪を大方壁側にはね除けてしまった。ようやくひと息をついて、さてもう昼に近いだろうと辺りを見回して、わたしはようやくその異常に気づいた。わたしが雪を掻いたあとの土がもうすっかり黒くなって、そこから淡い緑色の植物の芽が土を持ち上げているのだ。ついさっき雪を掻いた時には、もちろんそんな予兆はなかった。とりわけ気温が高いわけでもなく、現に周囲はうずたかく積まれた雪なのだ。
 なんの植物かと思った。前に図鑑で見たそれは蕗の薹に似ている。しかし、もう結構ながく住み慣れたわが家の庭に、蕗が生えていたことなど、ついぞ無かった。しかも、植物の若い芽は、ひとつやふたつではなかった。よく見なければまだ、持ち上げた土の粒子に隠れて分からないのだが、どうやら一面にといってもいいくらい、そこここに姿を表していた。これだったんだと、わたしは春の正体に合点した。雪の下から、彼らの若々しい息吹がわたしの部屋に届いたのだ。わたしは嬉しかった。この発見とささやかな感動を誰かに伝えたくて、わたしは雪を払って部屋にもどり、電話の受話器を取り上げた。
 電話は不通だった。テレビを付けてみた。
 電気もとまっていた。確か、電池式のラジオがあった筈だ。私は押入れの襖を開けた。
 そこにあざやかな白をした、太さが一定ではないロープのようなものが延びていた。あまりに白が鮮やかだったので、すぐにそれとは分からなかったけれど、それは床を突き破って延びた、植物の根だった。
 ラジオは雑音がするだけで、いっさい人間の声を発しなかった。
 そう、そして気づいたのだ。わたしは今朝から人間の声を聞いていない。
 いや、人間の気配さえ感じていない。素朴で他愛がなく、それでいて衝撃的な疑問が突然に沸き上がって、わたしの鼓動を速くした。この雪に覆われた町の中に、わたし以外の、人間が、いる、のだろうか? わたしは玄関まで駆け戻った。
 扉はもう開かなかった。
 リビングのまだ閉じたままの雨戸も動かなかった。
 寝室に戻った。
 いや、戻った筈だった。そこがかつてのわたしの寝室だったとしたら―。
 扉のむこうには、あわい緑の固まりが蠢いていた。わたしの概念からすればそれは植物に違いないのだけれども、最初の印象は動物―というよりも巨大な虫、だった。触手のように若い茎(?)を揺らしていた。根(?)が複雑に絡まりあって、いまもそれが伸びつづけていた。どこからどこまでが一個体かは分からなかったが、わたしにはそれが複数であると直観できた。
 不思議と恐怖は沸いてこなかった。
 彼─かれらは、わたしの春なのだ。わたしがかれらを起こしたのだろうか。そのように感じるのは、わたし一人が、選ばれてこの地上に現存する唯一の人類のように感じたからだろう。唐突な観念だ。わたしは狂ったのかもしれない。
 扉を閉め、リビングに戻って椅子に腰掛けた。
 ふと見上げたカレンダーによれば、3月5日の今日は啓蟄だった。虫たちが固い地表を破って地上に出てくる春の訪れ。そうだ―

 今日、地上に何千年か何万年かぶりの、春が訪れたのだ。