風に吹かれて 1998
 最初の事件は郊外の田園地帯で発生した。
 急報を受けた所轄警察から数台のパトカーが現状に到着したときには、既に被害者は即死状態だった。周辺はひと頃、近郊農業が盛んであったが、今は一部で宅地化が進み、かなりの農地が区画割りされて、都市生活者向きの家庭農園として貸し出されていた。現場もそのひとつである。ガーデニングブームの影響だろうか、野菜畑の他にかなりの面積が美しく手入れされた草花で覆われている。事件のあった区画も、十数坪の面積のうちのほとんどがそれだった。「ここで爆発が起こったって?」
 40代半ばと思われる刑事が、先に到着していた若い刑事に低い声で尋ねた。その目は、大きく抉られた地面に据えられたままである。
「ええ、吉岡さん。平日だったので目撃者は少なかったのですが、近くの区画を借りていた主婦が爆発音と振動に驚いて振り返ると、ご覧の通りの有り様だったそうです。土が背丈ほど吹き上げられたと言っています。その主婦に聴力の一時的な障害が出たくらいで、その他の被害者はありません。死んだのは、望月富雄、67歳、無職です。近くの住宅地に2年前息子夫婦と越してきました。趣味で園芸をやっていて、ここの農園は転居当時から借りています」
「爆発物は?」
「火薬であることは間違いありません。ただ、周辺を隈なく捜索したのですが容器や時限発火装置の類は一切、発見されておりません。もっとも、事件の直前、被害者は枯れ草を集めて燃やしていたといいますから、その火が爆発物に引火したのだと思われます」
「うん」
 吉岡はすでに収容されていた遺体を検分した。身体の前面に裂傷と火傷を負っていたが、直接の死因は爆風に吹き飛ばされた際の全身打撲によるショック死だった。発見当時、被害者の右手には火掻きに使っていたと思われる1メートル強の木の棒が固く握られていたという。

 捜査は難航した。
 誰が、何の目的で家庭菜園の、枯れ草の山の中に火薬を忍ばせたのか。それはどのような種類の火薬であったのか。単純な事件のようでいて、田園風景と火薬の爆発というおよそ不似合いな2つ要素のミスマッチが、事件の解明を遅らせていた。工事現場からのダイナマイトの盗難は、届けられていなかった。無差別テロの舞台にしてはお粗末すぎる。不審人物は一人として目撃されていない。被害者に怨恨の線は出てこなかった。
 実際、第二の事件が発生していなければ、というより次に起きた事件とこの事件とを結び付けて考える者がいなかったら、先の事件は解明されることのないまま、さらなる被害者が続出していたかもしれない。
 事件は当初、殺人と事故との両面で捜査が進められていたのだが、吉岡は事故の線をぬぐい去れずにいた。ささやかな疑問があった。
 被害者は、なぜ枯れ草を燃やしたのか? 季節はすでに秋が深まりつつあった。望月が、夏のうちに除草した雑草の類や、盛りを過ぎた一年草を整理し、乾燥させていたことはすでに聞き込みで分かっている。しかし、なぜ、それを堆肥にはせず燃やしたのか? 自身も小さな家庭菜園を持ち、妻もそれこそガーデニングブームに乗ってか乗らずか、草花を育てている吉岡の経験からして、抜いた草は燃やしてしまうより、生ゴミなどと混ぜて堆肥にした方がよほど有効である。燃やせば、土中の微生物を殺してしまう。市販の堆肥や化学肥料も馬鹿にならない。
 もっとも、その疑問そのものは、これも刑事たちの聞き込みですでに明らかになっている。望月は極端ともいえる化学肥料の信奉者だった。殺虫剤も多用する。園芸の愛好家には少なくなかった。もともと口にする野菜と違い、鑑賞用の花卉栽培ではそれほど有機質へのこだわりは必要なかったし、雑草や異種交配した花の種を始末するのに、一番手っとり早いのは燃やすことだったのだろう。ただ、彼の化学肥料や農薬の多用は、周辺の利用者のひんしゅくを買っていた様子ではあった。
 そこに、次の事件が発生した。
 いや、ガーデニングのブームさえなければ、それはその小さな三面記事にすらならなかったかもしれない。ささやかな事故だった。都内の某マンションのベランダで、ある日、主人が帰宅すると、花鉢が割れ、飛んだ鉢の破片でガラスにひびが入っていたというものだった。原因が分からず、ちょっとしたミステリーということで興味を呼んだ。識者がいろいろな可能性について考察を述べている。その一人のさりげなく使った「花鉢爆弾」という言葉に、吉岡は目を開かれたような気がした。
 吉岡は新聞社に連絡をとって、担当記者に状況を尋ねてみた。ベランダは南向きで、件の花鉢は一日中陽を浴びている。水の管理は決して良好とはいえない。そして、やはり化成肥料を多用していた。
「サンライズという新種の花だったそうです。最近、商社が品種改良に乗り出しているじゃないですか。花だけじゃない。専用の土、専用の肥料まで開発して、セットで売り出すんです。今ではどこの園芸店やホームセンターでも置いてますよ」
 最後に記者はそう付け加えた。残念なことに、散乱した花鉢の破片や土は、その家の者がすでに始末してしまっていた。
 吉岡は望月が育てていて、事件の際に枯れた雑草と一緒に燃やしたのが、やはりサンライズであることを突き止めた。吉岡宅からの帰路、駅前の園芸店でサンライズを求めかけ、ふと思って家に電話を入れた。購入の必要はなかった。自宅の庭先に並んだプランターのいくつかが、それだった。
 20日後、吉岡は分析を依頼していた科学研究所に足を運んだ。
「いやあ、驚きましたね。この中に何が入っていると思います?」
 科研の中西は吉岡の持ち込んだプランターを指さして頭を掻いた。
 月見草に似た黄色い花はすでに萎れ、茎や葉は早くも茶色く乾燥している。「硝酸カリウム、硫黄、木炭―これをよく乾燥させて土を分離すれば、何が出来ると思います?」
「そりゃ、もしかすると―」
「そう、立派な火薬ですよ」
「うん。もっとくわしく説明してくれないか? 化学肥料と火薬とはもともと同じ成分で出来ているってことは、前に本で読んだことがある」
 化学肥料、それに農薬は世界大戦の副産物である。毒ガス兵器の開発が農薬を産み、そして火薬工場で戦後、化学肥料が生産された。
 植物の生育に必要な三大元素といえば、これはもう誰でも知っている窒素、リン酸、カリウムである。自然界に存在するそれらをバランスよく取り込んで植物は育つ。しかし、生産性の向上を求めた戦後の農業は、それらを人工的に製造することを始めた。新しい研究は必要なかった。礎はすでに出来ている。 製鉄業の発展が副産物としてリン酸を生み出し、窒素肥料、カリ肥料となる硝酸ナトリウム、硝酸カリウムといった鉱物に至っては、そのまま火薬の材料となった。また、鉱物資源に乏しかったドイツはアンモニアから硝酸を合成することに成功する。アンモニアは水と空気(水素と窒素)から生み出されるのだ。戦争がそうした鉱工業を発達させ、火薬の需要が減った戦後、それらはそのまま肥料の原料を産出していくことになる。
「鎖国時代の日本で、独自に火薬の製法を開発し、加賀藩が幕府に納めていたという記録があるんですが、その製法というのがこうなんです。雑草を天日干しして人の尿で湿らせ、蚤の糞をまぶし、床下にそれと土とを交互に重ねて寝かせる―」
「おいおい、そりゃ、まさに堆肥づくりと一緒じゃないか」
「ええ。そのあと水で溶かして煮詰め、それに木炭と硫黄をまぜこんで刻み、天日乾燥させる、と。ここは決定的に違います。そんなことをしたら、土中のミミズやバクテリアが死滅して、堆肥としての用をなさなくなってしまいます。もっとも、残った窒素分やカリ分が短期間なら植物の生育を助けるかもしれません。そのへんは、現在使用されている、化成肥料とほとんど、変わりありませんがね」
 中西は改めてプランターに目をやった。
「このサンライズ、ですか? 苗と土と肥料がセットで販売されてるって、言ってましたよね。これは大した発明品ですよ。肥料には硝酸カリウムが多量混入されていました。土の硫黄成分が異常に高く、おまけにこの苗。都会の住民は花の終わった苗の始末に困るということで、これは栄養の補給が絶えると急速に枯れて乾燥し、炭化が進むよう、品種改良をしたそうです。簡単に処分出来るように、ね。取り寄せたパンフレットにそう書いてありました。つまり、カラカラに乾燥させ、出来れば土を分離しますと、ちょっとした爆弾になってしまうんです」
 吉岡はしばし絶句した。
「偶然とは言え、恐ろしいもんだ」
「冗談じゃないですよ。植物を育成する為に開発した土に、これだけ硫黄分が含まれている筈ないじゃないですか。硫黄なんて植物にとって百害あって一利無しですよ」
「すると何かい? これは意図的に製造されたんだっていうのか?」
「よほど無知で無能な研究開発員でなければ、ね」
 すぐにサンライズを生産し、販売した商社が捜索された。勿論、会社ぐるみの犯罪という訳ではなかった。一部研究グループの愉快犯的な犯行であったようだ。が、もとより、商社の社会的責任は重かった。数人が検挙され、市場に出回っていたサンライズは回収されることになった。勿論、家庭で栽培されていた苗も自治体ごとに注意深く集められ、処分された。
「でも、早く気がついて良かったですね。遅ければ、日本中の庭先やベランダで爆発騒ぎが同時に起こっていたところですよ」
 ようやく事件がひと段落して、部下の若い刑事がため息をついた。
「本当に、そう思うか?」
「と、言いますと?」
 吉岡は近頃ずっと考え続けていた危惧を、初めて口にした。
「サンライズが発売されてひとシーズン。もう花は終わってるよ。花が終わったということは―」
 サンライズは、風媒花の一年草である。花の終わりには種を結ぶ。今もその種は、おだやかな秋風に吹かれて、日本中を漂っているに違いない。