開運商会 1992
 妙な看板だった。都市部に向かう通勤列車が地下から地上に出るそのほんの一瞬、それはビルとビルの狭い隙間にちらりと垣間見える小さな看板だった。何度も目を凝らして注意深く読み取ってみたが、それは「開運商会」としか読めなかった。馬鹿にした名だ。私はもともと神や仏に対する信心などとは縁の無い人間で、初詣にすら行ったことがなかった。結婚式にしたところで周囲の反対を押し切って人前式で行ったくらいだ。その会社が、私の想像したように人の運を開くことを仕事としているとすれば、ずいぶん人間を小馬鹿にしている話だし、単なる名称に開運の二文字を使っているだけだとしたら、これもナンセンス以外の何物でもない。確かに潜在意識を掘り下げれば、当時私は大きな商談をまとめそこねて減俸処分を受けていたし、自棄を起こして社内の女の子とおかしな関係になったのが発覚して危うく左遷させられるところでもあったし、そのショックで運転を誤って軽い人身事故を起こし、それらすべてが原因で女房に逃げられていたから、藁にもすがりたいという気分がどこかにあったかも知れない。けれど、それはあくまで印象に留まった程度のことだった。
 或る日曜、いつものことで定期を使って会社近くのパチンコ屋に出掛け、これもいつものことながら大負けに負けて外に出た時、何気なく見た電柱のビラで例の「開運商会」に再会した。地味な二色刷りに赤の手書き文字で社名があって、その下に「自分が今不幸であると考えている方、生まれつき運が無いと思っている方、厄年の方、天中殺の方、当社を御来訪あれ」と、ただそれだけのビラだった。パチンコに負けた後だっただけにカチンとくるものがあった。やはり人間を馬鹿にしている。来いと言いながらどうするとも無かったし、おまけに住所も電話番号すら記されていないのだ。文句のひとつ、正当な商業広告の方法論のひとつでも言ってやりたくなって電話帳を繰ってみたが載っていない。番号案内でも登録されていないの返事。途端に好奇心にかられてしまった。どうせ暇な日曜で金も無ければやることも無い。家に帰ったところで女房も子供もいないのだからと、自分の足で探してみることにした。電車の窓から看板は見ているのでおおよその見当はついている。
 よく考えれば日曜では見つけたところで誰も居ないに違いなかったのだが、それでも一度探し始めれば後は意地が勝って、かれこれ一時間ばかり、私は休日の繁華街をうろうろと彷徨した。
 それは狭い路地の奥の、薄汚れた雑居ビルの三階にあった。周囲の環境といい外観といい、おまけに社名といい私のような暇で物好きな人間でなければ、まず訪ねようとは思いそうもない情け無い会社だった。薄汚いドアを前にして一瞬躊躇した後、私は試しにとノックをしてみた。驚くべきことに返事が返ってきた。
「どうぞ、開いています」
 私はおそるおそるノブに手を掛け、重いドアを押し開けた。
 狭いオフィスの中には電話と帳簿のみが乗ったデスクとふたつの椅子とそのひとつに腰掛けた中年の男だけが在った。男はにっこりと微笑んでもうひとつの椅子を差し示した。
「どうぞ、お掛けください」
「……」
 私は黙って、男の言うままに腰をおろした。
「当社は登録された会員の皆さんの迷いに対し、二十四時間態勢で適切なアドバイスをすることによって、会員の皆さんの運を開き、より快適な人生を送っていただくよう心掛けています。日常において、人は諸々の選択肢を示され常に即刻その結論を求められて暮らしています。大は就職先の選択、結婚の選択から身近なところで衣類を買い求める際の色やデザインの選択、数多くあるキャベツの中からひとつを選ぶといったような選択まで、きりがありません。しかし、運の無い方、流れに乗っていない方はそうした細かな選択すらすべて悪い方向に行ってしまうもののようです。当社はそうした細々としたことに対してさえ、その方の運を向上させるよう正しい選択を示し、その結果幸運を勝ち取って頂くことをモットーとしております。ちなみに入会金は五万円、一回のアドバイスに対して電話なら千円、出張の際にはプラス必要経費に二千円を頂いておりますが、―なにか御質問がありましたら」
 男はゆったりとした口調で、どこか機械的に淡々とそう語り終えた。私は腰を浮かした。冗談じゃない。これは新手のマルチ商法や霊感商法の類ではないか。五万円ばかりで運が開けてたまるものか。何だかんだ口車に乗せて、ついには高価な買い物―そう、印鑑とか壷とかいった―をさせるのが目的なのに違いない。私は深入りした自分を恥じた。
「お待ちください。どう感じられたかはおおよその見当がつきます。なにか悪徳商法を御想像でしょうが、それは違います。そうした商売ならもう少し体裁を繕います。派手な広告も打ちます。当社の広告は御覧になられたビラ数枚だけでして、あくまで誠実さひとつで今日まで営業して参りました。これは必ずお約束しますが、当社で頂く経費は先程申し上げた金額だけです。何なら私の運転免許証をお見せした上で契約書にそう明記しても構いません。いざと言う時はそれを証拠に訴えて頂けばいいのです。―どうか、私の話を聞いて頂けませんか」
 私はしばらく迷って、やがて座り直した。どうせ金は持っていない。印鑑も無い。思えば失う物や失って惜しいと思うものなど何ひとつ無いのだ。退屈しのぎの冷やかしのつもりでもう少し付き合ってやればいい。どうせ時間だけはたっぷり有るのだから―。
「どうも、ありがとう。もし質問があれば伺いますが」
 私は何も無い机の上を見つめた。
「あなたの会社のアドバイスが不適切で、その結果逆に不幸になったとしたらどう責任を取ってもらえるのかな」
「いい質問ですね。―そう、こう言うとまた詐欺めいて聞こえるかも知れませんが、人の幸不幸というものは元来相対的で流動的なものなのです。例えばあなたが宝くじで大金を手に入れたとしましょう。これは幸運ですね。誰もがそう思いますし、あなた自身もそう思います。しかし、そのことであなたが地道に働いてお金を貯めることを馬鹿らしく思い、怠惰な性格に変わったとしたらどうでしょう。金使いが荒くなり、散財した挙句にそのお金を使い果たした後も一獲千金の夢を捨てられず、場当たり的な人生しか送れなくなったとしたら―。また、周囲の人間があなたの得たお金を目当てに群がり、あなたの生活に次々と入り込んでくるとしたら―。物事には常に両面があります。私共のアドバイスが適切であるか否かは、長い時間を置いて頂かなければ御理解いただけないと思います。要はあなたがそれを信じられるかどうかなのです。あなたが信じられる選択を行うことが、私共の仕事なのです」
「そいつはどうも……」
 どうも、しっくりこないものが有った。
「虫がいいと言うか、私には詭弁めいて聞こえるんだが―。つまり、それなら何もあなたの力を借りずとも、こちらが気の持ちようを変えればそれで済むことじゃないかな」
「ええ、その通りです。前向きに生きること―それが開運の秘訣です。ただ、惜しむらくは自力でそれを行うことが極めて困難なのです。客観的な立場の、それも絶対的に信頼の置ける第三者に与えられた啓示だからこそ、信じるに足るのです。失礼ですが、これまでの経験から押し測ってあなたはあなた自身の判断に絶対の信頼を持てずにいる筈です。その不安が結果において悪い方向に自らを導いてしまうことになります。神仏は具体的なアドバイスを与えてくれる訳ではありません。また、信頼のおける先達や友人にしても毎度ささいなことまで助言を送ってはくれないでしょう。金銭に基づいた契約であればこそ、あなたは何の遠慮も見栄もなく、私共のアドバイスを求めることができます。それがあなたの権利となるのですから」
 五万円くらいなら―と、正直その時心が動き掛けた。確かに男の言うことは大筋において的を得ている。しかし―、それほど世の中は甘くない。これもこれまでの経験が私にそう教えた。何か大きな落とし穴が有る筈だ。それにこのまま入会に応じるのは、私の自尊心がどうも許しそうになかった。
「いいでしょう。電話番号をお教えします。二十四時間、いつでも応じられるよう、これは私の携帯電話の番号です。気が向いたらいつでもお掛けください。ただし、この番号は誰にも教えないでください。私共は勝手ながら会員となる方をこちらで選ばせていただいておりまして、あなたはすでにその審査にパスされました。これはあなたに限られた特典なのです」
「……?」
「あなたは、すでに私共のサービスを受けて前向きな生き方を始めてらっしるのですよ。お気付きではありませんでしたか。当社は表の極めて見にくい看板と、街のごく一部に貼りだしたビラだけの広告活動しか行っていません。この看板に気付かれる方はごく稀で、それも二度三度気をつけて見ないことには社名が読み取れません。勿論、ぼんやりと車外を見ている人にはその存在すら分からないでしょう。ビラの数も少なく、しかも連絡先に関する一切の記載が有りません。つまり電車から看板の文字を読み取り、ビラを見た上でなおかつ当社を自分の力で探そうという決意無しに、ここを訪れることは出来ないのです。あなたはそれをされた。自らの意志で大きな選択をされた。これはすでに私共のサービスのひとつなのです」
 言われてみればなるほどと思う。やる気をなくして投げ遺りになっていた頃の私なら、この会社を訪問することはなかったろう。
「もうひとつ。出来ればあなたは入会されない方がよろしいです。入会する気持ちのどこかには、私共への依存がどうしても伴います。入会しない、自分でやっていけるという決意にこそ、あなたの運が開ける要因が存在するのです。それでもどうしても私共の助言が必要となった時は御連絡ください。勿論、その時は契約していただくことになりますが」
「どうも。何やら気が晴れたような気分です」
 私は立ち上がりながら男に握手を求めた。
「よく考えた上で電話します。契約には、確かに五万円だけでいいんですな」
「ええ、お金は五万円で充分です」
 男も腰を上げて握手に応じた。妙に冷たい手だった。
「あと、あなたから少しばかり頂きたいものがありますが―、いえいえ、これは金品ではありません。お気持ちだけでいいのです。ほんのちょっと、あなたの開けた運のほんのひと握りでも分けていただければ充分です。なに、大したことじゃありませんよ」
 そう言ってにやりと笑った男の腰の後ろに、何やら黒くて細い―、 そう、尻尾が垂れ下がっていた。