春、立つ日

 凍てつくような寒さの朝に、連日のように霜が立ち車のフロントガラスが白く凍る日々が続いた。そんなある日、いつもなら最低気温が零下5度をさらに下回っていたものが、おそらく零度程度で済んだのだろう。風の冷たさは常のことながら、ふっと柔らかな空気を感じた。水温むと呼ぶにはまだ早いまでも、厳寒の中にささやかな春の気配を感じたその日、玄関脇のレンテンローズの茂みの中から白い小さな光が放たれていた。そういえばそれは昨年の秋、他のスイセンやチューリップ、スノーフレークなどと一緒に植えたスノードロップだった。丈にしてわずか数センチ。小さなカップ状の花がうつむきながらも、しっかりと春の到来を主張していた。
 何が不思議と言って、終わることが二度と無いと思えるような長くて厳しい冬が、それでもある日を境に終わりを告げ、その時から一斉に生命の活動が開始される、まさにこの季節に目の当たりにする自然の行いほど不思議なものはない。
 地上部が枯れた宿根草の足元から、新しい芽が覗いている。
 落ち葉の厚く積もったカーペットの下には球根が頭を出している。
 見ればいつの間にかカキドオシは新しく色づいているし、フウロソウも今年の装いに変わっている。
 落葉樹の新芽も知らぬ間にふくらんでいる。なるほど、そう言えば遠くの山の肌がうっすらと赤い。
 ふらりと歩けば峠の湧き水の堀に蛙の卵がぎっしりと並び、先走った数匹のオタマジャクシさえ泳いでいる。久しぶりに聞く鳥の声もする。
 人間の生み出したあらゆるシステムは時に難解であっても、道筋を間違えなければいつも一定の答えを生み、成果を出す。そこに厳密な意味での不思議はない。
 自然の営みは季節ごとに安定した反復を繰り返していながら、これが常に不思議だ。不思議だから心を躍らされるし、感動もする。勿論そのシステムを解明すべく研究に取り組む学者達は、ただ不思議がってばかりはいないだろうが、しかしたぶん心を躍らせることには変わりないだろう。自分もそうだ。まだまだ未熟だが植物の生理を識り、それを設計に活かすことを生業としているのだから、いちいち春の到来ごとに驚いてばかりではいけないだろう。一定の気温に達して芽吹き、一定の日照時間で花芽を付けるなど、知れば何も不思議は無い。不思議はないが、それをしたり顔で解説したところで、感心するのは専門に学ぶ学生だけだ。人間が自然に求めるものも、自然が人に求めるものも、そんなものではないだろう。
 季節を楽しむゆとりを持てずにしばらく生きてきたから、今は愚かでも遠回りでも時間の浪費でも何でもいい。
 目覚めた朝にぼおっと、今朝花を付けたばかりのスノードロップに感動しながら過ごす時間が、あと10分くらい余計にあってもいい。

 
2005.2.23. 春一番の日に