2004年の憂鬱
 

たいていのことには慣れもしたし、諦めもつくようになったものの、
例えば、
海外に軍隊を派兵しておき、効率的な「災害復旧活動」とやらも起動させることが出来ず、
おまけに「災害」を引き起こした張本人にこびへつらい、
論理的に批判されればほとんど観念をもってしか開き直ることの出来ない、
そういう政府高官や、もっとはっきり言うなら総理大臣に自国の将来を委ねるしかないことが
けっして悲しいのでなく、(いや、本当はそれも大いに悲しいが)
その政府高官やもっとはっきり言うなら総理大臣の言葉を、どちらかというと好意的に報じるメディアがあって、好意的に受け止める国民の声が多く聞こえることが
憂鬱なのだ。
拉致被害者が出れば、それだけで北朝鮮の人々を憎み、
「自己責任」の名のもとに今度はほんらいの被害者にまで怒りの矛先を向けてしまう、
大切なことをあっさりと忘れ、忘れることをあっさりと許し、ただ流されて
何者かの思惑通りに容易に動いてしまう世間の意志が
憂鬱なのだ。
日の丸を祭壇の正面に飾り(もとよりそれに背を向けてはならず)、
君が代を起立して斉唱することが、
国を愛することだと信じる国民が居ることが悲しいのでなく、
そう声高に叫ぶ
どこぞの愚かな地域の首長を、
それでも支持する市民が一向に減らないことが
憂鬱なのだ。
あまりにも簡単な、例えば
人を殺してはいけないとか、
他国を正当な理由もなく蹂躙してはいけないとか、
たとえ戦争でも戦闘に加わってもいない老人や婦人や子供には罪がなく、
当然ながらそんな人々を無差別に殺戮することは正しくないのだ、とか
そんなことさえも理解できないでいる国の、
国民と呼ばれる立場にいながら
「それは違う」
と、正確に伝えることの出来ない自分の無能さが、
憂鬱なのだ。
仕事をし、
案外とそれにやりがいを感じ、
家庭を顧みないほどにそのために時間を費やし、
休暇のすべてを、これもそこそこ好んで取り組んでいる
(或いは自己実現などという過去の亡霊に魅了されている)
地区活動や、PTA活動や、サークル活動(カオスのことだ)に
捧げ切って、
健康を害したり、家庭内で紛糾したりすれば、
もうそれだけで
たったそれだけのことで
遠い他国のことなど
遠い他国に駐留する軍隊のことなど
遠い他国に駐留する軍隊のために身を危険にさらされる善意の人々のことなど
遠い他国に駐留する軍隊のために身を危険にさらされる善意の人々の人生を興味本位に暴き出す誇りを失ったジャーナリズムのことなど
いとも簡単に失念してしまう
自分がなにより
憂鬱なのだ。
たいていのことには慣れもしたし、諦めもつくようになったものの、
許せないことは
今も有る。

2004.4.25