捨てること、守ること
 当初の予定で3ヶ月、出来得れば半年にも延ばしたいと考えた独りの旅行ともなれば、それなりの装備も必要だ。と、22歳の私は思ったらしい。
 初めての海外旅行であり、行き先がまして憧れ続けたインドともなれば、気合の入れ具合も違ったのだろう。大はシュラフに始まって、水筒、食器、ハンモックと、さながらキャンプへ出立するかのようないでたちは、木賃宿での宿泊はもとより、野宿も辞さずといった貧乏旅行への覚悟のほどであったか。加えてラジオにテープレコーダー、カメラに大量の使い捨てライター、そこそこの着替え、常備薬、小型のナップザック、ガイドブックと地図、ノートと、ここまでくれば背負ったザックの中はパンパン。よくぞ詰め込んだとばかりに優に20キロは超えていたことだろう。
 そのようにして乗り込んだインド、それにタイとネパール半年間の旅行は、実際、この膨大な荷物との格闘に終始することになる。
 まずは荷物の受け取りですったもんだ。腰の現金、TC、パスポートを除いたすべての財産の入ったザックは、空港の手荷物受け取りカウンターで何度か迷子になりかけた。むなしく回るベルトコンベアの上に、何十分待ってもその姿を現さず、持ち主を幾度かやきもきさせた。税関での検査も騒動で、パンパンに入っているから出したが最後、手順を誤れば二度ともう納まらない。ここでカメラとラジオ、テープレコーダーはしっかり製造番号まで記録されたから、この先これを売却しても勿論、盗難にあっても出国時にしっかり関税を徴収されることになる。それが嫌なら丸一日を潰すつもりで警察に盗難届を出すよりなく、ちゃっかりカメラを売り飛ばした日本の娘が、税金逃れにうその盗難届を出して、何故か買ったグループが検挙される羽目になり、報復にあったその娘がネパールで殺された、などという物騒なニュースが同宿の日本人からもたらされたりもした。
「都会はジャングルである」という表現が、インドのカルカッタあたりでは比喩でも修辞でもなくなってしまう。40度を前後する炎天を差し引いても、アスファルトを破って繁茂する雑草や低木、道路脇の泥の川、大通りを群れて移動する牛や羊たちがそこにある。その中を歩くのに、確かにスーツケースよりは似合うにしても、20キロ超級のザックは重い。宿にようやく辿り着けば、中身の詰まった荷物はホテルのボーイや貧乏旅行者たちの羨望の的で、安い宿では鍵などは有って無きがごとく、すぐさま近くの金物やで自前の錠前を用意させられる。それでもそれは部屋があればこそ。旅費の節約に木賃宿などに泊まろうものなら、それはつまりずらりと並んだベッドのひとつだけを借りる訳だから、文字通り貴重品は抱いて寝、大きな荷物はベッドに縛り付け、ロープの端部を自分の腕に縛り付けるという措置が必要となる。
 船のデッキにごろ寝させられたときも、駅のホームや廃屋で野宿した時も、いつも荷物を抱いて寝た。ロッカーは容易に破られるし、信頼に足る手荷物預かり所を見分ける術は知らない。そこまで現地の人間を信じることが出来ないのか、と問われれば、胸を張って「そうだ」と応えるしかない。窃盗は取り締まりの対象ではあるが、さして人々の倫理に触れる大それたことではなく、多くを所有する者は、貧しいものに施すことが善とも義務とも認識されいてる世界では、盗難にあってもその功徳を称えられるのが関の山なのだ。現に取り締まるべき警官に賄賂を請求したり、治安を維持すべき軍隊にホールドアップされたこともある。
 ただ、これでは友人も作れない、心の休まる間も無い。移動は苛酷なものとなり、安全を求めれば出費もかさむ。
 土産を買い求め、衣類や生活用品を増やして荷物はさらに増えつづける。このままでいいのか、という数日の自問を経て、ついに決断する。荷物の大半を現地の友人に託し、小型ナップザックひとつに身を軽くして旅の後半に挑んだ。もとより場合によってはその友人宅に戻れなくなるかも知れない、つまり、それらを全て失う覚悟だけはして。
 残りの旅は快適で、手荷物のうち最後まで守ろうと思ったのは、パスポートと現金類、カメラくらいのものだから、小回りは利くし何ら憂いも無い。盗難にあっても(事実、あった)被害がそれ以外だったら、どうということもない。どうして、これまで所持品にああまで執着し、守ることに汲々としなれればならなかったかと、自分がおかしかった。
 そんな旅の中、ふた月ばかり世話になった日本寺で「時計さん」にあった。日本人旅行者だった彼は、旅の途中で荷物の全てを失った。その中には現金やパスポートまでが含まれていて、しかし、彼は大使館に緊急避難を求めることを拒み、現地に同化することを選択した。
「ブッダが生きたこの土地にいられるだけで幸福ではないか」
 そう話した彼は周囲からの非難に関わらず、自由だった。
 寺は日蓮宗系の一派が興したもので、布施、供養ということがよく語られていた。自らの所有物を仏に捧げれば、それが功徳となるという。布施は財産だけでない。捧げるべき財産すら無い者は我が身を捧げて供養とする。現に寺に集う僧らの腕には等しく大きな火傷の痕があった。焼身供養。我が身を焼いて仏に差し出す。その覚悟の程をそれらの火傷は示していた。命さえ惜しむことは無いというデモンストレーションだが、彼らの有り様は「時計さん」の対極にありながら、旅する22歳の私にとっては、共に同じ対岸にいる超越した存在に思えたものだ。
 その後、寺と交流のあったガンディーの足跡をたどって旅を再開して、荷物はますます少なくなった。ガンディーもまた、無所有を説く。
「無所有は不盗と同類です。たとえ、もとは盗んだ物でなくとも、必要でない物を所有しているなら、それは盗品とみなされなければなりません。所有とは将来のための備えを意味します。真理の探求者、すなわち愛の法に従う者は、なにひとつ蓄えてはなりません。神は明日のために蓄えはしない―神は、そのときどきに必要なものの他は、けっして創造することはありませんでした。したがって、もしわたしたちが神の摂理を信じるならば、神はわたしたちに日々日常の糧を、すなわち、わたしたちが必要とする一切のものを与えてくださることを信じていなければなりません」
 ガンディーの思想と日本で発展した仏教の接点を、僅かながら理解した気がした。所有が自由を圧迫し、捨てることで自分が解放されていくと実感しつつあった当時のわたしに、これらの思想は深く浸透した。少なくともその時はそう思ったものだ。
 旅の最後に荷物を託した友人宅を訪ね、わたしは出国時に着てきた僅かな衣類と登録されてしまったラジオなどを除き、あとを譲り渡した。このまま、帰国後もこのように所有にこだわらない生き方が出来れば、いかに幸福であろう。その時は確かにそう信じていた。
 信じるという点について、今もそのことは変わりがない。何も持たぬことが自由への近道に違いない。いや、持っていてもそのことへの執着さえ断ち切れていれば、人は自由だろう。
 妻と子を持ち、土地と家を購入し、私財を増やし、この中には自らの死と共に用をなさなくなるものも多い。それらを維持するためだけに汲々とし、死さえ恐れる我が身は、あの旅の当初、重い荷物を抱えて炎天下をさまよい、夜毎荷物の紛失を恐れて悶々としたあの時と、なんら変わりがない。
 たしかにあの時、何かを悟った気がし、真理に触れた思いを抱いた自分がいた。だとすれば、捨てることから始まったあの旅の後半は、これから先の人生に重なるものかもしれない。

2001.8.5-18.