病気の時に食べたいもの | ||
かつてインドで暮らした半年の間、周期的に体力が落ちたりして寝込んだことが、月に一度くらいの割りであったものだった。どれも最低3日からそれ以上は寝込んだから、インドに居た間の10日に1日は体調不良に襲われたということになる。破傷風や脱水症、風邪、大麻による覚醒(3日眠れなかった)、列車旅行疲れ(丸2日立ちっぱなしだった)などもあったが、最も辛かったのは最初の強烈な下痢で1週間も寝込んだ時だった。インドで暮らしはじめて数週間。心細くもあり、何せ真夏の猛暑でもあり、3日が4日、4日が5日にもなるともう二度と直らず、自分はこの異国の地で死んでしまうのではないか、などと病床ゆえの気の弱さも手伝って、トイレに立つ足取りに震えさえ出るほどになった。それでも、そのベナレスの木賃宿のボーイは気さくな男で、私の持っていたラジオを狙っていたこともあり、こまめに世話をしてくれた。 寝込んで6日目だったか、ようやく体調も拡幅に向かい始め、それまで無理して飲み下していたパンやバナナだけでは栄養が足らないからと、何か食べたいものはないかと、そのボーイが聞いてきた。材料を調達し、自分の実家に招待してそこで食わせてやろう、というのだ。と言われても食欲は十分に戻ってはいなかったし、通常の、香辛料が多用されたインドの食事に私の腸は耐えられそうになかった。もともとの原因が、そのインド料理だったのだ。インド北東部ではちょうど日本人の味噌汁と同じ感覚で、必ずダルという大豆のスープがついた。大豆を発酵させて作るスープなのだが、その発酵が不十分だったのか、私の腸がとにかく弱っていたのか、その大豆が食した後も胃から腸の中で発酵を続けたのだ。 とまれ私は、インド料理は要らない、と彼に伝えた。 それならば、日本の料理で食べたいものを言え。作り方を聞いて挑戦してみるから―。 彼の好意は、目的がラジオだけとは思えないほどのもので、さすがに恐縮して、私も真剣に考えたものだった。 ナベモノが食べたい。Nabe-mono だ。 私はそう応えた。鍋物に相当する英語を知らなかったし、辞書を引く気力は無かった。なにせ、その時私はすでに室内のトイレまで往復するのさえやっとのほど、体力を消耗させていたのだ。とにかく、私は持ってる大したことのない英語のボキャブラリィを駆使して、そのナベモノの製作方法を伝授した。要は寄せ鍋である。ベナレスならシーフードも比較的簡単に手に入るだろう。中華料理店もあるから、出汁や醤油(ソイビーンソース)もなんとかなるだろうという、甘い考えだった。 さあ、行こう、と彼が行った。 えっ? だから買い物に行こう。 おいおい― 結局、翌日私は1週間ぶりに真っ黄色の太陽の下に引きずり出され、リキシャに押し込められ、炎天下のベナレスの町を息も絶え絶えに、市場を目指すことになった。 市場は、吐き気を催すような強烈なエネルギーに満ちていた。人々の体臭と香辛料や香料、甘い匂いが生々しいフルーツ類―。実際、何度吐きかけたことか。もっとも、吐瀉物で地面を汚すことが無かったのは、胃のなかに何一つ残って無かったせいだったが。 白菜は無かったので柔らかいキャベツの仲間を代用した。大根も見当たらないのでカブを使うことにした。キノコ類は怪しげなのでやめた。豆腐もシラタキもこんにゃくも見つからなかった。でも、私は困らなかった。要はあの出汁の効いたスープさえ飲めれば良かったのだし、それ以外は食えそうもなかったのだから。だから、とにかく中華の食材屋に連れていけと、私はボーイに要求した。ダシとソイビーンソースが決め手なのだから、と。 しかし、これに偉く苦労した。まず、ソイビーンソースが見つからない。ようやく見つけたのは4軒目の食材店だった。出汁もそうだ。粉末のインスタント出汁がある訳ではない。乾燥したコンブらしきものの切れ端を、それでもようやくその日のうちに手に入れることができた。 翌朝早く、ボーイはどこで仕入れたか、豆腐を一丁片手に私の部屋を訪れた。彼はすでにこの日を休暇として確保していた。前日の買い物で私もようやく察しがつき始めていた。彼は自分の家族に、何とも立派なラジオを持った日本人青年を紹介するだけでは飽き足らず、そのちょっと変わった食文化も合わせて紹介してしまおうという目論見なのだ。彼はそれだけで村中のヒーローになれる筈だった。 長いバスの旅が約2時間。ベナレス郊外ののどかな農村が、彼の実家だった。私はまず彼に腰巻きを借り、共に村の沐浴場に向かった。そこに集う村の名士たちへの紹介がひとしきり続き(もとより英語の話せる彼は、村の数少ないエリートの一人だ)、やがて、私の指導によるナベモノ作りが始まった。 コンブ(らしきもの)で出汁をとり、ソイビーンソースと砂糖と塩で味を整える。私は舌がバカになっているので、味見のしようがなかった。はらわたを抜き頭だけを落とした小魚や貝類、刻んだキャベツにカブ、村で取れたジャガイモ、そして豆腐と、次々に鍋の中に放り込んでいく。蓋をして待つこと数十分。 幾ばくかの期待を持ちはじめていた私は、そのナベモノを吐き出さず、飲み下すのが精一杯だった。 それでもボーイもその家族も、よくまあ何一つ文句を言わず、あの得体の知れない料理を食べたものだ。恐らく、始めから日本料理に何程の期待も抱かず、ただ怖いもの見たさ、珍しいもの知りたさに不味いの覚悟で挑戦したのだろう。あの村の人々が、これが日本の著名な料理、ナベモノだよと、そう紹介するのを想像する度、私は罪の意識に襲われる。まあ、もっとも、あのナベモノが失敗した原因はあとで分かったのだが、ソイビーンソースにあったのだ。どうやらこれが中身を詰め替えた偽物であったようで、私の舌があの時異常だったのでなく、あのソイビーンソースが醤油とはまったく別物だったのだ。(どうも腐った魚の油のような気がしてならない) とまれ、私の身体の回復には、その後さらに3日ばかりを要すこととなり、彼はそれなりに村で面目を保ち、ラジオは依然として私のバッグの中に納まっていた。 その後も、私は病気をしたり体力を落としたりすると、その都度妙なものを食べたり飲んだりしたくなったものだ。アグラで大風邪をひいた時にはダイコンが手に入ったので、大根おろしを作ろうと「オロシガネ」を求めて町を丸1日彷徨った。それが甘い砂糖菓子であったり、特別なマンゴーであったり、ヨーグルト飲料であったり、砂糖抜きミルク抜きのブラックティー(ブラチャイと名付けられた。何せ皆、そんなものは飲まないらしいので)であったりしたが、やはりもっとも効果があって美味しかったのは、プロの作った日本寺、断食明けの「ミルク粥」だったと思う。釈迦が激しい苦行の後、これを食して心を休め、やがて悟りに至ったというスジャータという娘の作った、あの甘くて柔らかくて香ばしいミルク粥―。そう、3日飲まず食わずの末の、しかも皆に祝福された達成感の中で食べたのだ、不味かろう筈はない。 食が文化と言われれば、確かにその通りのように思う。 あの、決して裕福と言えないベナレス郊外の農家の家族は、何とも得体の知れない、しかも、本当に不味いあの日本のナベモノを、それでも臆さず口に運んだのだ。なんとも見事な、文化的な姿勢ではないか。 |
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2000.1.3. |