トンネルの闇の中で
 トンネルの仕事をしている。と、いうことは確か一年前の作品でも触れた。そう、あれから一年が過ぎた今も、まだわたしはトンネルを掘っている。
 正確には、トンネルを実際に掘っているのは坑夫と呼ばれる面々であり、わたしたちは彼らの安全を管理し、工程を調整し、材料や機械を整え、測量し、計測によってトンネルの変形をチェックし、発注者に提出する出来形やら品質管理の書類をせっせと作っているに、過ぎない。それでも、掘削中のトンネル内で過ごす時間は一日に4、5時間くらい、ある。僅か1km足らずのトンネルを、それでももう2年以上も掘っていると、そろそろそこいらの仮設備にガタが出てくるもので、作業中、何かの拍子に全線が停電になることも、ごく稀にはある。

 トンネル内の、しかもまだ掘削中で入口が当然ひとつしかないそれの中で、突然発生する停電というものを、想像していただきたい。美の山トンネルはその坑口部で大きくカーブを描いている為、切羽(トンネル掘削の最前線)にはまったく光が届かない。だから、突如身の回りに出現する闇は、極めて深く、そして重い。自分の目の前にかざしている筈の指先さえも、見ることは出来ない。高い湿度を含んだ濃密な空気がのしかかり、平衡感覚さえ失ってしまうのだろうか、僅かに進める足取りさえもおぼつかなくなる。
 しかし、本来そこに存在しえない照明を持ち込んだのは我々だった。トンネルは、その時、ようやく本来の姿を取り戻したに過ぎないのだ。(正確に本来ということを言うならば、本来、そこは存在しなかった空間であったし、我々もその、地下百数十mの位置に存在する筈のなかったものなのだけれど) 太陽の光を失い月の出現を待つまで―そのような夜の間、かつて地上にも確実に存在した、それは闇の世界なのだろう。
 光が存在することで、闇が生まれるという言い方がされる。確かに眩い光は闇の存在を明らかにし、一層深くする。しかし、光が有ろうと無かろうと、常に闇が存在するのだ。特に人間などはその生存さえ危うくされるような、救いようのない闇が。
 闇に光をもたらして、我々は安心する。そのようにして開発を進めたり、探索を試みたり、研究を行ったりもする。しかし、光がもたらす安心は、錯覚ではないだろうか。そこに新しく出現する世界に代わってひっそりと姿を消す、本来の闇の世界を、我々は見失っているだけではないか。例えば、24時間照明の絶える間のないこのトンネルも、休日や、長期休業中にはその照明が全て落とされる訳で、そのように現出し、人間が引き上げてしまった後の闇の坑内には、我々のまったく知らない別のモノたちが群れ集い、乱舞しているのかもしれない。いや、こうして身動きをとれずに立ち往生して、照明の回復を待ちつづけているわたしの傍らを、静かに空気を動かしてかすめ飛ぶものがあるではないか。鈍く低い周波の振動を発しつづけるものすら、ここには存在するではないか。
 ただでさえ暗い闇のなか、わたしの前にはさらに深い影がある。
 それは、わたし自身が顔の前に持ち上げた掌だった。いくぶんか暗さに慣れた目に、それはくっきりと浮かび上がる。驚いたことに、そこには闇よりさらに深い闇が存在した。―人間は、ある一定の人間にとっては確かに光明だろう。足元を照らし、心の暗がりを遠ざけ、進むべき道を示す光となることもある。しかし、同時に、独立して存在する人間は、闇なのだ。身の内―強い日差しの中を歩いてさえ光の届かない身体の中の闇が、その存在が持つ闇をさらに色濃くする。
 真の闇は、わざわざ地中深くもぐり込まなくとも、存在するのだ。
 だから、人間は火と親しみ、電気エネルギーを光に変え、自分の身の回りはおろか世界中をそれらで満たしてきた。
 自分自身の闇の濃さを忘れる為に―。

 ひどく長く感じられた停電は、その実、時間にして5分あまり。その間、わたしはその場に立ちすくんで、そんなことを思い続けた。生き返った照明の眩しさといったら、それこそ数分前の闇を払拭して余りあるほどだ。
 しかし、わたしはしばらく動けずにいる。
 わたしは、眩しさに目を慣らす振りをしながら、周囲の安全を確認している振りをしながら、実はそこに展開するわたしの「錯覚」を見渡している。そして、その「錯覚」に満足して、十分に安心して、ようやく普段の作業に戻るのだ。

 掘削機械の後ろ、小さな淡い影が逃げるようにもぐり込んでいくのを、実は目端でとらえながら。
   
1999.1.10.